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2010年02月01日

第二回 白鳥となった倭建命(ヤマトタケルノミコト)

その2・天翔る魂



ヤマトタケルと東征

妻オトタチバナヒメを走水の海で亡くし、
あづまはや(ああ、わが妻よ)と嘆いたヤマトタケル。

東征は、すこしの安らぎも与えなかったに違いありません。
戦い、説き伏せ、人心を掌握するために心血をそそぐ日々。

父・景行帝が命じたのは、

「東の方十あまり二つの道の荒ぶる神、
またまつろはぬ人等を言向(ことむ)け和平(やは)せ」


東の方とは、
伊勢・尾張・参河(みかわ)・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・
武蔵・総(ふさ)・常陸・陸奥(みちのく)をいいます。
ヤマトタケルは、
「これら12国の荒れすさぶ神、また朝廷に服従しない者どもを
従わせ平定せよ」との命令をやりとげていったのです。

ことごと荒ぶる蝦夷等(えみしども)を言向け、
また山河の荒ぶる神等(かみたち)を平和して、

(荒ぶる蝦夷を服従させ、荒ぶる神を平定して)

蝦夷とは、古代中世において、
東北地方で大いに勢力を振るっていた狩猟の民で、
縄文文化の伝統を残していた人々です。
その蝦夷を服従させ、神たちを平定していくヤマトタケル。

新治(にひばり) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
(新治や筑波を過ぎて、幾夜寝たろうか)

ヤマトタケルの運命は、帰還するころから
悲劇の様相を深めます。



山の神とヤマトタケル

ヤマトタケルは尾張に戻り、
美夜受比売(ミヤズヒメ)と結ばれたあと、
伊吹山の神を討ち取りに向かいました。
その時、

この山の神は、徒手(むなで)に直(ただ)に取りてむ
(こんな山の神は、素手で討ちとってしまおう)

なんと、草なぎの剣を置いていってしまうのです。
剣は、伊勢神宮の斎宮である叔母からもらったもの。
身を守るたいせつな“神の剣”なのです。
それはもう要らないということなのでしょうか。

山の途中で、大きな白い猪に出会います。
「この白い猪に化けているのは山の神の使いだ。
こんなやつは今殺すことはない。
山から帰る時にやっつけよう」
と大声を出して言ったのです。
神に向かって大声を出すのは禁忌(きんき)です、
やってはならないことです。
どうしたのでしょう、ヤマトタケルは・・・・・。
すると、

この、白き猪に化(な)れるは、その神の使者にあらずて、

白い猪は、神の使いではなく、神自身だったのです。
ヤマトタケルの暴言に怒った神は、
大氷雨(ひさめ)を降らし、
大雨に打たれたヤマトタケルは病気になってしまいます。

慢心したのか、自信過剰になっていたのか。
いやいや、違う、という人がいます。
ミヤズヒメと結ばれたが、
思い出すのは、
亡くなった妻・オトタチバナヒメのことばかり、
自暴自棄になって伊吹山に登っていったにちがいないと。
物語を進めてみましょう。

やむなく、山から降りたヤマトタケル。

あが心、
恒に虚(そら)より翔(かけ)り行かむと念ひき。
しかるに、今あが足え歩まず、
たぎたぎしく成りぬ。


いつも心の中では、
“空を飛んでいこう”と思っているヤマトタケル。
それが今では、足が曲がってしまったのです。
杖を衝いてやっと歩くしかありません。
尾津(おつ)の前(さき)の一つ松の許(もと)に来た時、
そこに忘れていった剣がなくならずにありました。
しかし、

あが足は、三重の勾(まがり)のごとくして、いと疲れたり。

足は曲がり餅のようになって、大変疲れてしまっているのです。
やっとの思いで、三重県鈴鹿郡の能煩野(のぼの)にたどり着きます。
そこで、故郷を偲び詠うのです。

倭は 国のまほろば 
たたなづく 青垣 山隠れる 
倭しうるはし
 
(大和は、国の中でも最もすばらしいところ。青く茂った山々が
いく層にも重なり連なっているよ。その山々に囲まれている大和は、なんと美しいのだ!)

死を前にしたヤマトタケルは
息をふりしぼるようにして歌をつづけます。

命の またけむ人は
たたみこも 平群の山の
熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)に挿せ その子


(これから先のある人は、平群の山のくま樫の葉を髪に挿して、
生きることを楽しみ、その命を輝かせるがよい、若者よ)

くま樫とは、葉の広がった神聖な樫の木。
それを髪に挿すというのは、神聖な生命力を身に取り入れ、
長寿と豊穣を願う意味をもちます。



なおも詠います。

はしけやし 我家の方よ 雲居たちくも
この歌は片歌、未完の歌です。
目に浮かぶのは、なつかしい我が家。
その方向に白い雲が湧いてくるよ。

そして息も絶え絶えに、

嬢子(おとめ)の 床のべに
わが置きし 剣の太刀 その太刀はや

(おとめの床のそばに置いてきた太刀よ。
ああ、あの太刀があれば・・・・・)

「その太刀はや」と激しい感情を込めています
何が頭の中をよぎっていたのでしょう。
死の間際にも、まだ戦おうと思っていたのでしょうか。



白鳥伝説



永遠の眠りについたヤマトタケル。
都には早馬の使いが送られます。
后や子どもたちは、大和から駆けつけ、
墓を造り悲しむのです。

なづきの田の 稲がらに
稲がらに 匍匐(は)ひ廻(もとお)ろふ 野老蔓(ところづら)

(墓の近くの田に生えている稲の茎に、まとわりついて、
這いまわり、山芋の蔓のようになって、泣いている私たち)
と嘆くと、

ここに、
八尋白ち鳥に化(な)りて、
天に翔りて浜に向きて
飛び行(いでま)しき。

(ヤマトタケルの魂は、大きな白鳥になって天空高く飛び、
浜に向かって飛んでいったのです)

白鳥は河内の国・志幾にしばし留まりますが、
人々の長く地上にとどまってほしいとの願いも空しく、
白鳥は空高く舞い上って、飛び去っていったのです。

ヤマトタケルは、なぜ白鳥となって飛んでいったのでしょう。
一つの説があります。
ご紹介しましょう。

この白鳥は何なのでしょう。
古代日本人は、
「鳥や蝶など飛ぶものに霊魂のやどりをみた」といわれます。
日本列島を西から東へと移動していった物部氏族は、
「白鳥を始祖とする伝説」をもち、
毎年、白鳥の飛来する東北では、
「白鳥を神とする熱烈な信仰」がつづいていたのです。

すぐれて大きく清らかな白さ。
白い雲のようでもあり、
空から空へと飛び、
魂のやどりとなる白鳥。
それは蝦夷の白鳥信仰。

戦闘に勝つのみでは、その土地を平定できません。
戦いに勝利した後、人心を鎮めるためには、
土地の神も祀ったことでしょう。

オトタチバナの献身の愛を知り、
征服する剣を置き、
伊吹山の神に素手で向かおうとしたヤマトタケル。
あきらかにその心は変わりつつあったのです。
そして、故郷に還ることなく死んでいった勇者の魂は、
自らが戦った東方の神にゆだねられたのではないでしょうか。





悲劇の英雄の願い

ヤマトタケルの悲劇は、
討伐者として生きざるをえなかったことであり、
また、その勝利者であって敗者であることかもしれません。
なぜなら故郷に還れない勇者であったからです。

その悲劇の英雄が死にゆく時に願ったことは、

“くま樫の葉”という自然の力を得て、
“生きることを楽しめ、命を輝かせ、若者よ”

ということでした。
この願いは、大切にしたいものです。

この伝承の背景にあるものは、
4世紀から5世紀にかけてのヤマト政権の地方政略の話と、
さまざまな信仰や伝説が溶けあったものといわれています。
また「ヤマトタケル」という名は、
もともとは、大和地方の勇者というほどの普通名詞です。
当時、多くのヤマトの男たちが戦地に赴き、
その妻や子がこの物語のような悲しみを体験したことでしょう。

5世紀のヤマトタケルの悲劇は、現代にも起こりうることです。
20世紀には、あの太平洋戦争がありました。
多くの現代のヤマトタケルが日本に帰ることなく、
戦地で亡くなっていったのです。





資料:
『古事記』新潮日本古典集成
『古事記講義』三浦佑之著 兜カ芸春秋
『古代英雄七人の謎』豊田有恒著 東京書籍
『創られた英雄ヤマトタケルの正体』関裕一著 PHP
『古事記の世界』川副武胤著 教育社
『日本美 縄文の系譜』宋左近著 新潮選書
『白鳥伝説』谷川健一著 小学館ライブラリー
『和歌の解釈と鑑賞事典』井上宗雄・武川忠一編 笠間書院
『ものがたり 日本の神話』島崎晋 日本神話倶楽部・編著
永岡書店
posted by 事務局 at 14:59| Comment(0) | ヤマトタケル

2010年01月15日

第一回


吉田松陰の言葉があります。

  一死実に難し。
  然れども生を偸(ぬす)むの
  更に難きに如(し)かざる事
  初めて悟れり。

           安政六年四月頃野村和作宛

「死ぬ覚悟はできているが、死は実にむずかしい。
しかし、よりよき生を見出すことは、
さらに難しいと、初めて悟った」というのです。

生きることは、死ぬことよりも難しい!

安政6年4月といえば、
幕府の政策を批判したため死罪になる半年ほど前です。
松蔭30歳。

そのとき死を覚悟していた松陰ですが、
“よりよき生”考え出そうと苦闘しはじめたのです。
それは、自分がやろうと誓ったことを実現するためには、
死ぬことなく、生き抜いていかねばならないと思ったからです。


今回は、よりよく生きることを
日本古来の神話の中から考えてみましょう。



白鳥となった倭建命(ヤマトタケルノミコト) その1


  倭は 国のまほろば
  たたなづく 青垣 山隠れる
  倭しうるはし

                     古事記

(大和は、国の中でも最もすばらしいところだ。
青く茂った山々が、いく層にも重なり連なっているよ。
その山々に囲まれている大和は、なんと美しくすばらしいのだ!)

古くより伝えられてきた古代日本の悲劇の英雄ヤマトタケル。
東征からの還(かえ)り、病に倒れ、死を覚悟したとき、
もう見ることがない故郷を想い詠った歌です。
亡くなった後、
ヤマトタケルの魂は、白鳥となって飛んでいきます。
どうして、白鳥となったのでしょう。
どこへ飛んでいったのでしょう。


ヤマトタケルのことは、
『古事記』や『日本書紀』などに記されていますが、
その内容には違ったところがみられます。
『古事記』に伝わる物語を追体験してみましょう。

ヤマトタケルノミコトは、景行天皇の皇子。
幼名は小碓命(ヲウスノミコト)。

物語は、
兄・大碓命(オホウスノミコト)が父に嘘をついたので、
朝・夕の食事の席に出てこなくなったところから始まります。
そんなある日、父が
「どうしてお前の兄は朝夕の食事に出てこないのか。
お前からねんごろに教え諭(さと)してきなさい」と命じました。
ところが、いつまでたっても兄は出てきません。
父はどうしたのかと尋ねます。

「すでにねぎつ」(十分にねぎらってやりました)
「いかにかねぎつる」(どのようにねんごろにさとしたのか)


父との言葉の行き違いからか、
この弟は、兄の手足をもぎとり、
薦(こも)に包んで投げ捨ててしまったのです。
なぜこのようなことになってしまったのか。
「ねぎ」は「ねぎらう」「いたわる」の意味です。
ところが、弟は暴力的な「ねぎ」の意味にとったのです。
「かわいがる」が、「やさしくする」のではなく、
逆に「痛めつける」という意味で使われることがありますね。
乱暴者が「かわいがってやろうか」などと。
この「ねぎ」という言葉に、父と子の断絶が暗示されています。

また、その背後には
『古事記』に書かれていませんが、
母は、兄を溺愛していたのではないかと、
推理する人もいます。

その後、父である天皇は、
「建(たけ)く荒き情(こころ)」を恐れ、疎み、
この息子を遠ざけるようになりました。

抑えることができない荒々しい力を秘めた、
どこか翳(かげ)りを持つ少年の登場です。
物語は、父から疎まれ、放浪しながら苦悩する少年の
心の成長を語りだします。



熊曽(くまそ)討伐


父は、彼を身辺に近づけないようにするため、
熊曽討伐を命じ、西国に追いやります。
現在の九州南部です。

出発の時、ヲウスは、髪を額のあたりで束ねた少年の髪形。
叔母・倭比売命(ヤマトヒメノミコト)がいつも身につけていた
衣装をもらい、短剣を懐にいれて出かけたのです。
叔母が母親代わりのようです。

長い旅を経て、
クマソタケルの館に着くと、ちょうど宴を準備しています。
ころをみはからって、女装してまぎれこみ、
首領であるクマソタケル兄弟を討ちます。
その時、瀕死のクマソタケルの弟は、
「大倭(おおやまと)の国にこんな強い男がいたのか。
今より後は、倭建の御子と名乗られよ」。
その言葉が終わるやいなや、
熟した瓜を斬るように殺してしまいました。
ヲウスがヤマトタケルと名乗るようになったのは、
この時からといわれています。

還りには、山の神・河の神などを平定。
また、出雲に出向いて、イヅモタケルと友になるふりをし、
水浴びの時、あらかじめ作っておいた木刀と相手の剣を交換。
いざ、太刀合わせをと誘い、
抜けない木刀を持ったイヅモタケルを
斬り殺し、出雲を平定したのです。

「計略による勝利は英雄の条件」といわれますが、
友人を装って、殺すとは!
父から疎まれたヤマトタケルの心の闇が
そうさせたのでしょうか。

彼の心は、度重なる戦で病んでいったのでは・・・・・。



東国征伐


父は休息の間も与えずに、
さらに東国征伐を命じます。
父を恨みながらも、再び苦難の長征へと旅立たされるのです。
伊勢大神宮に参拝した彼は、
斎宮である叔母のヤマトヒメに、
「父は、私なんか、はやく死んでしまえとお思いなのか」
と嘆きます。

親子の断絶に苦悩するヤマトタケルノミコト。
「男の子が父親に背く心理状態」
オイディプス・コンプレックスでしょうか。
疎まれた人間という自覚から
ヤマトタケルの悲劇は始まったといえるのです。

叔母は、草なぎの剣
危険に出合ったときには開けなさいと御袋を授けます。
相模の国(神奈川県)で、
土地を治める国造(くにのみやつこ)にだまされ、
野原の中で火攻めにあってしまいます。
その窮地を、剣で草をなぎ払い、袋の中にあった火打石で火をつけ、
迫ってくる火を退けたヤマトタケルは、
相手を焼き滅ぼしてしまいます。



献身の愛

東に向かい、
走水の海(浦賀水道)を渡ろうとしたときのこと。
渡りの神が荒波をおこし、
船が進まず、今にも沈みそうになった時、
后のひとり弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)は、

あれ御子に易(かは)りて海の中に入らむ。

渡りの神を鎮め、
夫の東征が無事に成し遂げられるように願って
海に身を投じます。

オトタチバナヒメは詠います。

さねさし 相模の小野に 
燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも


(相模の野で、燃えさかる炎の中に、雄雄しく立って、
私の安否を尋ねてくださった、あなたさまよ)

妻が目の前で、
自分の身代わりになって、
死んでゆくなんて、
耐えられますか・・・・・。
ヤマトタケルの慟哭の声が聞こえてきます。

この犠牲によって、
ヤマトタケルは、上総国から東方に入り、
荒ぶる神や従わぬものたちを服従させることができました。
都へ還る途中、
武勇並ぶもののないヤマトタケルも、
足柄の坂で、遠く走水海に思いを馳せ、
亡き妻オトタチバナヒメを偲び、

あづまはや(ああ、わが妻よ)

と嘆いたのです。


ヤマトタケルが生まれて初めて知った“献身の愛”でしょうか。

つづく





資料:
『吉田松蔭』奈良本辰也著 岩波書店
『古事記』新潮日本古典集成
『古事記講義』三浦佑之著 兜カ芸春秋
『古代英雄七人の謎』豊田有恒著 東京書籍
『創られた英雄ヤマトタケルの正体』関裕一著 PHP
『古事記の世界』川副武胤著 教育社
『日本美 縄文の系譜』宋左近著 新潮選書

posted by 事務局 at 03:52| Comment(0) | ヤマトタケル