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2009年10月15日

第十八回 モンパルナス その2



パリのモンパルナスにやってきました。
池袋モンパルナスの芸術家たちが憧れた、
その街を歩いてみたくなったからです。
セーヌ川左岸地区にあるモンパルナスは、
20世紀初期に、多くの芸術家たちが集まった街です。


カフェで、軽い朝食をと思いホテルを出ました。
ドゥランブル通りから、
ヴィヴァン交差点に向かいます。
通りには、宝石店、映画館、小間物屋、スーパー、
中国料理の総菜屋、日本食レストラン、魚屋などが並んでいます。

交差点近くで、
ロダン作・文豪バルザック像に出会いました。
爽やかな朝の陽光を受けて立っていました。

バルザックは、
パリはまことに大海原のようなものだ。
そこに測鉛(そくえん)を投じたとて、
その深さを測ることはできまい。略
いかに熱心であろうと、
そこにはかならず未踏の地が残り、
見知らぬ洞穴(ほらあな)や、
花や、真珠や、怪物や、文学の潜水夫からは
忘れられた前代未聞のなにかが残ることだろう。

と『ゴリオ爺さん』(高山鉄男訳)の中で書いています。

大海原のよう深いパリ!
そのモンパルナスのヴィヴァン交差点に、
芸術家たちが集った4つのカフェがあります。
「ル・ドーム」、「ル・セレクト」、
「ラ・ロトンド」「ラ・クーポール」。




「ラ・ロトンド」には、既に日本人が数人ほど
テラスでコーヒーを飲み歓談中。
ここは画家モディリアニがよく通ったカフェなのです。
今は観光名所になっているのですね。

画家ベラマンクは、
「ぼくには《ロトンド》で、
テーブルを前にして坐っているモディリアニが思い浮かぶ。
人を圧する目、繊細な手、神経質な指をした手、知性的な手。
その手はためらいもせずただ一気にデッサンを仕上げ、それを報酬として自分を取り囲んでいる仲間たちにやる」

といっています。
          (「モディリアニの生涯」アンドレ・サルモン著)

モディリアニは、
「ル・ドーム」と「ラ・ロトンド」の間を
ひんぱんに行き来していたそうです。
酒を飲むというより、
人物のデッサンをするためだったようです。


世界中からやってきた芸術家たちが、
それまで住んでいたモンマルトルの丘から
このモンパルナスへと移ったのは、
安い家賃や物価のせいでした。

丘が過去の重荷を引きずっているのにくらべて、
モンパルナスはやがて一種新しいアレキサンドリアの様相を呈しはじめようとしていた。
そこは世界中のほかの、
あらゆる芸術と文学のミニ共和国より
色彩華やかになるところであった。略・・・
コスモポリタン的な人種の坩堝(るつぼ)と化した
モンパルナスの有様は前代未聞であった。

          (「モディリアニの生涯」アンドレ・サルモン著)

1913年、モンパルナスにやってきた日本人藤田嗣治も
すぐにモディリアニと知り合っています。

すぐ近くに、カフェ「ル・セレクト」


テラスには数人の客、
店の奥のテーブルに坐って、
コーヒーとクロワッサンを注文。
目の前には、バー・カウンター。
あの、文豪アーネスト・ヘミングウエイが、
このカウンターに、身を傾け酒を飲んでいたのです。
第一次世界大戦中にパリの街に魅せられ、
戦後1921年、再びパリにやってきました。
彼の作品の中に、
カフェがでてきます。

戦争で傷ついた主人公ジェイクが
女友だちのブレットをタクシーに乗せ、
「“カフェ・セレクト”にいってくれ」ぼくは運転手に言った。
「モンパルナス大通りだ」

         『日はまた昇る』(1926年)

この長編小説は20世紀アメリカ文学に、
決定的な影響を与えたとされます。
第一次世界大戦後、
ロスト・ジェネレーションと呼ばれた人たちの
時代状況を描いた傑作です。

後年、ヘミングウェイは、

もしきみが幸運にも
青年時代にパリに住んだとすれば
きみが残りの人生をどこで過ごそうとも
パリはきみについてまわる
なぜならパリは
移動祝祭日だからだ
  
         『移動祝祭日』(1950年)
と書いています。

狂乱の時代といわれた当時、
パリの知識人、芸術家の中心となったモンパルナス。
詩人・アポリネール、マックス・ジャコブ、
画家・シャガール、ピカソ、スーティン、キスリング、デュシャン
彫刻家・ジャコメッティ、
小説家・ヘンリーミラー、ジャン=ポール・サルトル、
詩人で小説家のジェイムス・ジョイス、
音楽家・ストラヴィンスキー、サティ。
また、亡命中のレーニンやトロッキーなど。
才能あふれんばかりの人々が
この街で語り合っていたのです。
彼らの語り合いは、終わりなき会話といわれました。

その熱気も1929年の大恐慌をきっかけに幕を閉じます。
その後は、芸術家のコミュニティは、
サンジェルマン・デ・プレに移っていきました。




ストリートで生まれて、グラフィティ

モンパルナスの一角、
ラスパイユ大通りを、20分程歩いた先に、
カルチエ財団現代美術館があります。
「1984年から、時代を生きる芸術家の言葉を伝え、
最も新しい芸術活動の促進、その普及に努めてきました。
現代芸術の出会いと発見の生きた場です」
とうたっています。

ガラス張りの美術館に着くと、
スプレーで外壁に絵を描いています。
落書き? 驚きです。アーチストでしょうか。
少年たちもいます。
壁全面が絵で埋め尽くされていきます。


美術館の企画展示は、「Né dans la rue − Graffiti」
“ストリートで生まれて、グラフィティ”です。

館内に、大きな作品が展示されています。
とても大胆で美しいと感じました。
他の部屋では、壁一面にスプレーで描かれた文字グラフィティ。
それが廊下にまでつながっています。
たどっていくと、
トイレの中の壁まで、すきまなく文字であふれています。

制作現場の記録映画を観ました。
多くの車が走る道路の大きな暗いトンネル、
いま男がそのトンネルに入っていくところです。
何をするのかと思ったら、壁に向かって絵を描き出しました。
不気味な髑髏(どくろ)の絵です。いくつもいくつも・・・・・。
スプレーを使うのか、いや違う・・・・・
彼が持っているのは、白い布。
何枚も何枚も。
その布で壁をこすると、黒く汚れた壁が白くなる。
汚れを落として、
きれいになったところが、白い線や面になり、
ドクロの絵に。
黒く汚れた壁一面に出現する白いドクロ。
監視カメラが写り、パトカーがやってきます。
警官ともめています。
清掃車もやってきました。
高圧の水噴射機を持ち出し、勢いよく水を噴射。
みるみる壁は白くなっていきます。
今まで放置され、汚れに汚れた黒い壁は、
美しくよみがえりました。
気味の悪いドクロを消すということが、
汚れた壁を美しくしたのです。
絵を描くという行為がもたらした結果です。
当局がほったらかしにしていた汚れが、
一人のアーティストの芸術活動!で、
すばやく取り除かれたのです。
う〜む、こういうアート行為もあるのか・・・・・。

60年代、ニューヨークのある地区の子どもたちが、
学校の壁などに名前や番地、ニックネームなどの落書きを
書いたことからはじまったとされるストリート・グラフィティ。
それが、現代社会の変化とともに、
“自分たちが生きた証としての痕跡を残す”行為が、
美術史上の一つのアートムーブメントとなり
注目を浴びているのです。

あのトンネルのアーチスト?は、その後どうなったでしょうか。 


出発だ、新しい情と響きとへ。
         『飾画』ランボオ作 小林秀雄訳

詩人アルチュール・ランボオの詩の一行です。
時代は常に“新しい情と響き”を欲します。

ホテルに戻り、
先ほど、カフェ「ラ・ロトンド」前のスタンドで購入した
文芸雑誌「Le Magazine Littéraire」を取り出し、
天窓を開き、雑誌をパリの空にむかって掲げ、写真を撮りました。


表紙のランボオも、パリを放浪したひとりです。
それは、19世紀後半、詩人ヴェルレーヌと・・・・・。
パリは多くの芸術家の生涯を見つめてきたのですね。





パリの空の下で、前回さんぽした池袋モンパルナス
懐かしく思い出しました。
その折に立ち寄った自由学園・明日館で、
財団主催の「四世 今藤長十郎 長唄三味線公演」が12月に催されます。

明日館は、1921年(大正10)から1927年(昭和2)にかけて
建設された自由学園校舎で、重要文化財。
設計はアメリカの巨匠フランク・ロイドライトと遠藤新。
アメリカの大平原に建つ草原住宅という発想だそうです。

公演は12月15日火曜日です。
出演は、四世 今藤長十郎ほか。
http://www.imafuji-nagauta.com/
どうぞご参加ください。




資料:
『日はまた昇る』 ヘミングウェイ著 高見浩訳 新潮文庫

『移動祝祭日』 ヘミングウェイ著 福田陸太郎訳 岩波文

『ゴリオ爺さん』 バルザック著 高山鉄男訳 岩波文庫

『地獄の季節』 ランボオ作 小林秀雄訳

ホテル・ドゥランブル−パリモンパルナス−公式サイト

『地球の歩き方 パリ&近郊の町』 ダイヤモンド社 
                     ダイヤモンド・ビッグ社

サイト「パリ発フランス情報ハヤク」

posted by 事務局 at 13:04| Comment(0) | パリ