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2009年12月15日

第二十二回  永遠の森


今回は、明治神宮の森さんぽしましょう。

JR原宿駅、
プラットホームに降り立つと、
黄色く色づいた銀杏の葉が
風に舞って飛んでいくのが見えます。

改札口を出ると、多くの若者たち。
左に交差点、その向こうにファッションビル。
右にはJR山手線をまたぐ神宮橋
この橋は昭和末期に新しく架け替えられたもので、
もとは1925年(大正9)、明治神宮造営の時、架けられました。
親柱は当時の石材を補修し、
形はそのまま復元して残してあるそうです。




明治という時代は、
1868年1月3日、
「王政復古の大号令」のもとに始まりました。
3月14日には、京都の御所で、
親王、公卿、大名らが威儀を正して集まっている中、
17歳の若き明治天皇が玉座につかれ、
神前で誓われたのが、

“広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ”

からはじまる五箇条の御誓文でした。

明治天皇のもとに組織された政府は、
東京遷都のあと
国内の体制作りをしながら、
激しく流動する国際社会に乗り出していったのです。
当時の日本には、世界の列強と立ち向かう産業もありません。
徳川幕府がかわした外国との不平等な条約のもと、
不屈の精神を持って
立ち向かっていこうとしていたのです。
1871年(明治4)には、
国内がまだ落ち着いてはいないにもかかわらず、
不平等な条約を改めたいという目的で
アメリカ、ヨーロッパにむけて
政府中枢の多くの人を使節団としておくりました。
当時として画期的なことで、
訪れた国の政治・産業・文化をじかに見たことは、
新しい日本の進むべき道を学ぶために役立ち、
その後の日本を方向付けていったのです。



森づくり

1912年(明治45)に明治天皇が崩御され、
翌年には、明治神宮創建が決定。
1914年(大正3)に昭憲皇太后が崩御されると、
併せてお祀りすることになりました。
お祀りする森は、
厳かで自然に限りなく近い森になるようにと願い、
「永遠の森」づくりが計画されたのです。

造営工事は、1915年(大正4)から始まりました。
選ばれたこの地は、
江戸時代は、井伊家の下屋敷で、
明治時代に、皇室の御料地になったところ。
当時、現在の御苑あたりをのぞいて、
樹木はほとんどなく、
敷地の大半は畑や荒地だったそうです。
全国からの奉納による樹木が約10万本。
勤労奉仕に集まった11万人の人々が
その木を1本1本植えていったのです。
5年後の1920年(大正9)に植栽がほぼ終わり、
11月1日に鎮座祭が行われました。

現在まで、自然の森そのままに順調に成長し、
カシ、シイ、クス類が多く繁っています。
さんぽの道すがら、それらの木々を見分けられるでしょうか。



いのりの杜(もり)

入り口には、樹木につつまれて明治天皇御製の歌。

  かたしとて思ひたゆまばなにごとも
    なることあらじ人の世の中


目標に向かって心をしっかりと持ちましょう
とあります。
そうですね、何事も自分を信じて、
実現は難しいなんて弱音をはかないでやりぬきましょう。

南参道から御社殿に向かい、お参りです。
参道は砂利道。
ざくざくと新鮮な感覚。
足の裏のすべてが刺激され、
身体全体が気持ちがよいです
見上げると、
森には木々の枝が高く伸び、
木の葉が風にそよいで、
爽やかです。

枯葉の舞う石橋にきました。
小川のせせらぎが、
木々と大きな石の間をゆるやかに流れ、
あたり一面に枯葉が積もっています。

参道に散った落ち葉は、
毎日かき集められ森に戻されているそうです。
落ち葉は、自然に分解されて
森を育む柔らかく栄養豊かな土に戻ります。


石橋の向こうに、ワインの樽が沢山並んでいますね。
フランス・ブルゴーニュ地方の醸造元各社より献納されたもの。
参道をはさんで、「奉献 清酒菰樽(こもたる)」の案内。

   よきをとりあしきをすてて外國に
     おとらぬくにとなすよしもがな

                       明治天皇御製

文明開化の心意気は、
日本を外国に劣らぬ国とすること。
西欧のお酒、ワインも世界との親交に欠かせないものだったのです。
また、外国から学ぶと同時に、
国内産業を奨励し、技術の振興も大切なことでした。
日本の近代化に心血をそそいだ明治天皇は、
伝統文化を担う産業も共に栄えることを願われたのです。


御苑の入り口には、

   うつせみの代々木の里はしづかにて
     都のほかのここちこそすれ

                       明治天皇御製

御苑内にある、隔雲亭では、今年11月に、
日本文化藝術財団主催の
茶論「四季おりおり・香の会」が催され、
「源氏物語」に詠われた冬の空澄む月に想いをはせ、
香りに心を託しました。

御社殿の門をくぐると、左右に大きな楠。

創建当時に献木され、大樹に育ったのです。
左に2本の楠が寄り添うように立っています。
「夫婦楠(めおとくす)」として親しまれ、
縁結び、夫婦円満、家内安全の象徴です。

おや、ドーン、ドーンと太鼓の響きが・・・・・。
御社殿の中から聞こえてきます。
誘われるように中に入り、
参拝です。

社殿前に、沢山の絵馬が。
その一つには、
たどたどしい子どもの文字で、
「むりだとおもうけどきょうだいがほしい」
なんてあります。
つづきに、
「ながいきしてけんこうでそだちたい
子どもがほしい」

そして、
「お金もちになりたい あたまよくなる
いじめられない せんそうなし」
と。

北池には、黄葉が水面に映え、
オシドリが泳いでいます。
美しく色鮮やかな羽で着飾った雄鳥が、
雌鳥に寄り添うように・・・・・。

森は、水があり、土があり、
木があり、光があり、虫や鳥が生き、
生命そのものです。

私たち日本人は、古代から
山や森、川や滝、石など、
身の回りの小さなものにも
神が宿っていると
感じとる心を大切にしてきました。

古くから「かむつ杜(もり)」、神の森という言い方があるそうです。
古代の日本人は、
「神聖なが神の鎮まる場所としてあることを考え」、
「杜」を「もり」と読んだのです。
そのことによって、
森は「神様が鎮まる場所である」ことを示しました。

神宮の森を歩き、
「森」が「杜」であることに気づくとき、
森は神聖な場所として
古くから信仰されてきたことが実感できました。

都会の中に、こうした森がつくられているということは、
とてもすばらしく、世界に誇れることでしょう。





今年も、おつき合いくださり
誠にありがとうございました。
来年は、また新しいテーマで継続いたします。
どうぞよろしくお願い申し上げます。






資料:

各案内プレート

『スーパー日本史』講談社

『神々と森と人のいとなみを考えるT 森の巻』

代々木の杜80フォーラム運営委員会 編集/発行

『日本精神の道標』明治神宮崇敬会 編集/発行
posted by 事務局 at 10:14| Comment(0) | 東京

2009年12月01日

第二十一回 銀ブラ


銀座をぶらりと散歩する「銀ブラ」という言葉は、
座にブラジルコーヒーを飲みに行く」
ということから始まったそうです。
そのゆかりのカフェの名は、
明治末に創業した「カフェーパウリスタ」
現在は銀座八丁目にありますが、以前は六丁目にあり、
芥川龍之介や菊池寛など多くの文化人も常連でした。

まずは、銀座一丁目並木通りからさんぽ。
銀杏の木の前に幸稲荷があります。
横の路地で、
小料理屋「卯波」を開いていた鈴木真砂女は、

 路地住みの 終生木枯らし きくもよし

生涯はこの路地で終わるだろう。
永年馴染んできた路地である。
角の幸稲荷にも、二十年余り毎日お詣している。
鳥居の脇の銀杏も随分育った。


と書いています。

昭和32年から店を開き、女流俳人としても名をはせ、
瀬戸内寂聴の小説『いよよ華やぐ』のモデルとしても知られています。
83歳の時、自らの半生を綴った『銀座に生きる』を刊行。
96歳で亡くなられています。
残念なことに「卯波」は、再開発で昨年閉店。


江戸の名残り

銀座一丁目、銀座通り口の交差点に出ると、向こうは京橋。
京橋は、京都に向かう道にかかっていた橋があったところ。
京橋川は昭和34年(1959)に埋め立てられました。
その上は首都高速道路になっています。
交差点の角に、「京橋の親柱」の一本と、
それについての案内プレートがあり、詳しく説明されています。
この親柱は、明治8年(1875)当時のもの。
江戸時代の伝統を引き継ぐ擬宝珠(ぎぼし)の形。
通りの向こうに、
大正11年(1922)にかけられた橋の親柱が見えます。
石・コンクリート造りで、照明器具を備え
デザインが、近代的。

首都高速道路の向こうに「江戸歌舞伎発祥之地」の碑があります。
寛永元年(1624)2月15日、猿若中村勘三郎が、
この場所に中村座の芝居櫓(やぐら)を建てたと書かれています。
江戸の人びとにとっては、歌舞伎は最高の娯楽。
ここは庶民の情報や流行の発信源になりました。
今の歌舞伎座は、ご存知のように東銀座にあります。

ぶらりと銀座通二丁目に向かって歩いていくと、
「銀座発祥の地・銀座役所趾」の碑。


慶長17年(1612)
徳川幕府此の地に銀貨幣鋳造の
銀座役所を設置す
当時町名を新両替町と称せしも
通称を銀座町と呼称せられ
明治二年遂に銀座を町名とする事に公示さる


今までに随分ここを歩いていたのですが、
この碑は、まったく気づきませんでした。
さんぽとはいいものですね。


銀座といえば、おなじみ、
時計塔の和光ビルと銀座三越。
三越の正面の柱に、「銀座出世地蔵尊」が屋上に
安置されていますとの案内があります。
屋上にあがると、
にこやかな大きなお顔で、
こけしを大きくしたような形の立派な地蔵尊が
まつられています。
文久酉年に地中から掘り出されたそうで、
中央区民有形民族文化財です。


明治・大正・昭和の初期にかけて
この地蔵尊の縁日は、大変賑わい、
夜店とともに銀座を代表する風俗だったそうです。

また、並んで三囲(みめぐり)神社
弘法大師の建立と伝えられ、
三井家(三越の前身)の守護神です。


街角に

街角には、店ごとに工夫をこらしたクリスマスツリー。
楽しいツリーの前では、人が立ち止まり携帯でパチリパチリ。
二丁目交差点の四つ角に、
世界のブランドが軒並み店をそろえています。
不景気が続いているというのに、
今、話題の店があちこちに!
買い物する人もしない人も、
楽しくブラつくことができますね〜。

西銀座の方に向かって、すこしブラブラ。
するとどうでしょう。
すごい人だかり!

西銀座チャンスセンターの前に
年末のジャンボ宝くじを買い求める人々。
その列は有楽町マリオンを越えて
有楽町駅の方まで、ずっと伸びています。
そいえば、今日は大安吉日

そばには、「関東大震災の記念塔」
銅像彫刻「燈臺(とうだい)」(北村声望作)が設置されています。
台座に彫られているのは「不意の地震に 不断の用意」
そうですね、その心構えが大切です!

そこから、銀座五丁目に歩いていくと、
「泰明小学校」
明治11年にできた小学校です。

島崎藤村
北村透谷
幼き日ここに学ぶ


と刻まれた記念碑があります。
明治時代の文学者が
この小学校で学んだのですね。

銀座六丁目には、石川啄木の歌碑もあります。
そこは、以前滝山町といって、
朝日新聞社があったところです。
現在は朝日ビルディングになっていて、
その前に石川啄木の肖像のレリーフと
新聞社を詠んだ碑が建っています。


  京橋の滝山町の
  新聞社
  灯ともる頃のいそがしさかな


上記は、歌集『一握の砂』に収められた一首。
啄木は24歳のとき、
朝日新聞社で校正係の仕事をしていました。
歌集の序文を書いているのは、
当時、新聞社会面の主任、藪野椋十(やぶのむくじゅう)。
啄木の歌の斬新さが見事に語られています。

世の中には途方も無い仁もあるものぢや、
歌集の序を書けとある、
人もあろうに此の俺に新派の歌集の序を書けとぢや。
ああでも無い、かうでも無い、とひねつた末が
此んなことに立至るのぢやろう。
此の途方も無い処が即ち新の新たなる極意かも知れん。
定めしひねくれた歌を詠んであるぢやろうと
思ひながら
手当たり次第に繰り展(ひろ)げた処が、

  高きより飛びおりるごとき心もて
  この一生を
  終わるすべなきか

此ア面白い、
ふン此の刹那の心を常住に持することが出来たら、至極ぢや。
面白い処に気が着いたものぢや、
面白く言ひまはしたものぢや。



新橋へ

もう冬です。
日も短くなりました。
街には早々と灯りが点き、ネオンも瞬きはじめました。
新橋方面に歩いていくと
子どもたちのおもちゃの店・博品館の前には、
イルミネーションの光で輝くサンタクロース。

汐留の高層ビルも無数の光を放っています。
もうすぐJR新橋駅前。
ニュース番組で街頭インタビューといえば、
この蒸気機関車のあるSL広場。
今日も沢山のビジネスマン。
案の定、TVカメラも・・・・・。

♪汽笛一声新橋を〜 
と鉄道唱歌に歌われる日本の鉄道発祥の地。
それは、明治5年(1872)のこと、
新橋〜横浜の間29kmを蒸気機関車が走りました。

現在、広場にあるSLは、
昭和20年製造の機種C11292号、重量66.05トン。
汽笛が、12:00、15:00、18:00に、数秒鳴されるとのこと。

ビルの灯りとネオンの中で
この蒸気機関車をじっと見つめていると、
夜の街にフア〜と浮き上がり、
銀河鉄道のように、空を走っていきそうです。
雑踏の中で、
機関車の周りだけは、別の気配が漂っているよう。

寄り添うように、《愛の像》があります。
それは、
「平和をモチーフとする母子のブロンズ像」(彫刻家・瀬戸団治作)。

この街で、
人々の心に温かい愛が育まれるようにと願っているのです。






資料:
各案内プレート

中央区観光協会オフィシャルブログ

『人悲します恋をして』鈴木真砂女著 角川文庫クラシックス

『一握の砂・悲しき玩具』石川啄木著 新潮文庫
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2009年11月15日

第二十回 赤坂見附から青山通りへ



メトロ銀座線赤坂見附駅。
地下から街にでると、
どこまでも高く広い秋の青空。
昼下がりの街は、人々が行きかい賑やかです。

交差点の向こうに弁慶橋
今は、昭和60年(1985)に架けられたコンクリートの橋ですが、
もともと、江戸城を普請した大工の棟梁・弁慶小左衛門が作った橋。
それで弁慶橋の名前がつけられたといわれます。

橋の上からお濠の水面を見ると、
水の汚れが気になります。
泥にまみれた、たくさんの藻。

それでも黄色いボートに乗って魚を釣っている人がいます。
あッ、亀が浮かんできました。
鯉もゆっくり泳いでいます。

水面のむこうに城門の石垣。
見附とは、江戸城の壕に備えられた
警備のための城門のことで、
外濠と内濠を合わせて、36の見附があったそうです。

濠に沿ったグランドプリンスホテル赤坂の前に、
紀伊和歌山藩・徳川家屋敷跡の碑があります。
このあたりは、明治時代になってから、
紀伊徳川家、尾張徳川家、井伊家の頭文字をとって
「紀尾井町」という町名になったようです。



紀尾井坂の変

その紀尾井町通りを歩いてみましょう。
2つのホテルにはさまれたに道は桜並木。
春には、美しい八重桜が咲き誇ります。
秋には、落ち葉を踏みしめ、秋の風情を楽しみましょう。
道の中ほどに清水谷公園


この地に、清水がわき出ていたようで、
都会の中の小さなオアシスといった感じの公園です。

ここに公園ができたのは、
ある暗い事件と関係があります。
明治11年(1878)5月14日の朝、
赤坂御所に出仕する途中、
参議兼内務卿大久保利通が、
この清水谷周辺で暗殺されたのです。
参議兼内務卿というのは、
現在の内閣総理大臣のような立場で、
大久保利通暗殺は世間の人々に衝撃を与えました。

明治維新の後、近代化にむけて、
官制、法制、地方行政、金融、教育、外交などの
さまざまな施策を中心になって推し進めた人物の暗殺。

大久保利通といえば、
必ず思い出すのは、西郷隆盛のことです。
西郷隆盛も、紀尾井坂の変の前年に
西南戦争で亡くなっているのです。
薩摩出身で、幕末から苦労をともにし、
明治維新を成し遂げた二人。

西郷によると

「もし一軒の家にたとえるならば、
私が大久保よりもはるかにすぐれている点は、
建築を進め、家の骨組みをつくりあげることにある。
けれども家の内部を仕上げ、装飾をし、
家らしい家にしていく才能の面では、
私は大久保にとうてい及ばない」


この言葉のように、
政治の方針を定め、政治の仕組みを整え、
それを着実に進めたのが大久保利通でした。
二人は、最後には鹿児島と明治政府側とに分かれ、
あいついで、その生涯を閉じました。

公園に入ってみましょう。
小さな公園です。
すぐに碑が見つかりました。
贈右大臣大久保公哀悼碑


高さは台座を含めて6.27メートル。
大きくて立派な哀悼碑です。
とてもいい香りがしてきました。
なぜか、季節外れの白いクチナシ花が、
清楚に一輪咲いています。

公園の向かいのホテルニューオータニには素敵なカフェ。
青い大きな傘に覆われたテーブルが並び、
多くの人が歓談しています。
このあたりは官公庁も近く、ビジネス街でもありますが、
この紀尾井町通りは、
都会の中の緑あふれた憩いの場のようです。



プラタナスの街路樹・青山通りへ

赤坂見附に戻り、
青山通りを外苑前の方に向かいました。

九朗九坂(くろぐざか)と書かれた坂があります。
江戸時代、一ツ木町名主・秋元八郎左衛門の先祖
九朗九が住んでいたので、
この坂名がついたそうです。
近くに鉄砲練習所があり、鉄砲坂ともいいます。
鉄砲坂というのは四谷にもありましたね。

坂沿いに、赤い提灯が並んでいる豊川稲荷
あの名奉行大岡越前守忠相が
生涯の守護神として信仰したそうです。


参拝してみましょう。
境内はこんもりと緑の木々が繁り、
森のようになっています。
ベンチには、ビジネスマンや女性たちが一休み中。



虎づくし

交差点の角に虎屋ビル。
2階に虎屋ギャラリーがあります。
来年の寅年にちなみ、
「虎屋・寅年・虎づくし」展が催されていました。

会場には、虎にまつわる文献や古文書、美術品、
菓子作りの資料などが展示されています。

虎は、インド、インドシナ半島、
ロシア沿海州などのアジア大陸に住み、
ネコ科で最大の動物です。
20世紀初頭には、10万頭いたそうですが、
現在は、4千頭前後まで減少、
絶滅の危機に瀕しているそうです。

思想や宗教とともに、海外から伝わった虎は、
日本人の想像力をかきたててやみません。
高松塚古墳壁画(7世紀末)に、白虎が描かれ、
万葉集のなかにも登場します。
虎の毛皮には、魔よけの願いがこめられているともいわれ、
ふるくから異国の霊獣として珍重されていたのです。
「勇猛で力強い虎」、「黄と黒の縞模様」の虎のイメージは、
絵画、文芸、芸能や行事、郷土玩具、お菓子、スポーツなどにも、
大活躍です。

来年の干支は寅。
もうすぐ年末。



時の流れの中に

青山一丁目に向かって、しばらく青山通りを歩くと
左に森があり公園になっています。
高橋是清翁記念公園
高橋是清は、大正から昭和にかけて、
首相や蔵相をつとめた政治家です。
昭和11年(1936)の2・26事件のとき、
青年将校に暗殺されています。
享年83歳でした。
公園はその邸宅跡です。

今日、2つの公園に立ち寄って、
しみじみ実感したのは
時代というものは、
悲しい出来事をも抱きかかえながら
流れていくものだということでした。


楽しい日も悲しい日も、
すべては、記憶の世界へ入っていきます。
思い出は、すばらしい出来事で満たしたいもの。
そのためには、今日という日がいかに大切か。
そう思うと、頬をなでる風もいとおしくなります。

プラタナスの葉が風にそよいでいます。





資料:

各案内プレート

『スーパー日本史』古川清行著 講談社

『お菓子も楽しい! 虎屋・寅年・虎づくし展』虎屋文庫




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2009年11月01日

第十九回 自然と文化の森・上野恩賜公園



日本最初の公園

秋晴れの中、上野の森にやって来ました。
ここで、どうしても逢いたい人、
ボードワン博士。
銅像になっているのですが。

ボードワン博士像は、
大噴水の横、林の中に建っています。
この上野の森が公園として残っているのは、博士のお陰です。

銅像に記された案内に、

オランダ一等軍医ボードワンは医学講師として
1862から1871年まで滞日した。
かってこの地は東叡山寛永寺(とうえいざんかんえいじ)の境内であり、
上野の戦争で荒廃したのを機会に
大学附属病院の建設計画が進められたが
博士はすぐれた自然が失われるのを惜しんで
政府に公園づくりを提言し
ここに1873年日本初めての公園が誕生するに至った。

とあります。
偉大なる博士の功績といえます。

東叡山寛永寺は、
江戸幕府が江戸城の守りとして
寛永2年(1625)に創建したものです。
多くの伽藍が造営され、その規模は壮大なものでした。
自然を満喫しながら、その名残をたどって、
ゆっくり散歩してみましょう。



不忍池の柳


弁天堂の前にやってきました。
蓮の葉で覆われた池と、柳に燈篭。
江戸情緒たっぷりの不忍池です。

寛永寺を開創した天海僧正は、
比叡山延暦寺にならい、東叡山寛永寺をつくり、
この地を京都に見立てたそうです。
清水観音堂の舞台は京都の清水寺に、
不忍池は琵琶湖に、
弁天堂は竹生島(ちくぶじま)に。
桜の木も植えました。
江戸庶民は、季節に合わせこの景観を楽しんだことでしょう。

池の端で、絵を描いている人がいます。
絵には、柳が風になびき、弁天堂が遠くに見え、
小さな石橋もあります。
描かれた橋はすぐ目の前。
その橋を渡り弁天堂に参拝。

「めがねの碑」があります。
めがねが日本に渡来して400年以上経ちます。
以来、多くの人々の役に立ち、
文化・政治・経済に貢献しました。
碑はその功績を感謝するものです。
「ふぐ供養碑」なども並んでいます。
お堂の前に、大きな銅の琵琶
弁天さまが使ったのでしょうか。



上野東照宮・日本唯一の金箔唐門


弁天堂から左にすこし歩くと、上野東照宮があります。
上野東照宮は、徳川家康を祭神として
寛永4年(1627)に創建されたもの。
鳥居をくぐると、
門の向こうに社殿が見えます。
改修中でしょうか、
神社の大きなカラー写真の幕がはってあります。
正面にある唐門は、日本に一つしかない金箔の門で、
細やかな細工が施されています。
扉は、梅に亀甲(きっこう)の 透かし彫り、
門柱は、左甚五郎作の昇り竜と降竜の高彫り。
側面は左右上部に松竹梅、錦鶏鳥の浮き彫り。
精巧な造りです。
江戸時代の凄い技を見ることができました。

境内には、多くの絵馬が。
願い事が英語で書かれたものが多いですね。
外国人がたくさん訪れるのでしょう。
梢の中に旧寛永寺五重塔が見えます。




森が見える舞台造り・清水観音堂

清水観音堂に立ち寄ってみます。
寛永8年(1631)に創建。
小さな清水坂の石段を上がると清水観音堂
坂には、江戸名所図をあしらった「浮世絵行燈」が並んでいます。
「深川萬年橋」「四ッ木通用水引ふね」「吾妻橋金龍山遠望」などの今ではもう見られない、珍しい江戸の風景。
いろいろな種類があり、一見に値します。
夜になると足元が燈されて、さぞきれいでしょうね。

手と口を清め参拝。
本尊は京都の清水寺から奉安された千手観音坐像の秘仏。
京都の清水寺に比べると小ぶりの舞台があり、
そこからは森が見渡せます。
浮世絵では、華やかな花見の様子が豪華に描かれています。

堂内には大きな絵馬。
寺にたてこもる彰義隊と新政府軍の戦の絵馬もあり、
そのときの大砲弾の実物が横に飾られています。
この慶応4年(1868)の戦で、寺の大部分が
灰になってしまったのです。
幸運にも焼けずに残った観音堂。



悲劇の上野大仏

一巡りして大噴水の方に戻ろうと歩いていると、
上野大仏と書かれた看板。
高台にあがると、
大仏の大きなお顔が祀られています。



「上野大仏略記」によると、

「寛永8年(1631)、越後の国、
村上城主堀丹後守直寄公旧自邸内のこの高台に、
戦乱に倒れた敵味方の将兵の冥福を祈るために
釈迦如来像を安置した」
ということです。

はじめは土で造られていましたが、
明暦・万治の頃(1655〜60)に青銅大仏となりました。
大正12年の関東大震災で、
仏頭が落ちてしまい、寛永寺に保管されていたそうです。
仏の胴体は、第二次世界大戦のとき献納され、
今は尊顔だけが残っているのです。
大仏再建を願う仏塔(パゴダ)があります。

背丈が7メートルもあった大仏。
9月〜10月にかけて、その大仏の服を作ろうというプロジェクトが
行なわれていました。
現代美術家・西尾美也(よしなり)の
“上野大仏の服をつくります。”
「Overall」(オーバーオール)プロジェクト。

「世界各地の巨大な喪失物を、
古着を縫い合わせたパッチワークの
オーバーオールで再現する試み」

「形見としての服が
故人の存在感を強く示すことがあるのとは
逆の順序でモチーフの記憶を
新たな装いで与えてくれます」


とてもすばらしい発想ですね。

近くで、若者たちがミシンを使って制作中です。
「あれは光輪ですか」
木立の中に、出来上がった丸い大きな布の“仏の光輪”が
浮いていました。
若者たちに声をかけると「そうです」。
元気に返事をしてくれました。
オーバーオールでよみがえる上野大仏が見えてきます。



文化と芸術の森

上野公園には、博物館、美術館などもあり、
人類の歴史を考えることも、
世界の美術を観ることもできます。
そちらに向かいましょう。

美術館の方に歩いていくと野球場があり、試合中。
「正岡子規記念球場」と案内プレートがあります。



あの俳人が、野球が大好きで、
この公園内で、野球をやっていたとは!
俳句の碑には、

春風や まりを投げたき 草の原
                       子規


国立西洋美術館の前は、多くの人々が行きかっています。
庭にロダンの彫刻。
今展示されているのは、「古代ローマ帝国の遺産」です。
東京国立博物館では、「皇室の名宝」展。
上野の森美術館では、「聖地チベット ポタラ宮と天空の至宝」展。
日本にいて、「古代ローマ帝国の遺産」や「聖地チベットの至宝」に
接することが出来るのは幸せですね。

国立科学博物館では、恐竜などを見学して、
自然科学の学習もできます。

また、東京国立博物館には、庭園があり、
香道の香席や茶会が催される由緒ある建物が移築されています。
転合庵や六窓庵、そして九条館、応挙館などです。

近くには、旧奏樂堂と国際子ども図書館
図書館は、明治39年に帝国図書館として建てられたもの。
その後、増築されています。
堂々として立派な建物です。
コンサートやオペラを楽しむのは、東京文化会館

上野の森は、文化・芸術の万華鏡のようです。



ところで、上野の森といえば西郷隆盛の銅像です。
皆さんよくご存知の、犬を連れた西郷さん。
台座には、信条である「敬天愛人」の文字。
天を敬い人を愛する精神です。

最初に訪ねた銅像「ボードワン博士」の心を思い出します。
自然を敬い、人を愛する心が、
この上野公園を私たちに残してくれたのですね。



資料:公園内各案内プレート
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2009年09月30日

第十七回 モンパルナス そのT



池袋モンパルナスに夜が来た
学生 無頼漢 芸術家が
街に出る
彼女のために
神経をつかえ
あまり 太くもなく
細くもなく
在り合わせの神経を


昭和13年7月31日号の「サンデー毎日」に掲載された
小熊秀雄(おぐまひでお)の池袋風景という詩です。

モンパルナスは、パリのセーヌ左岸地区にある街。
20世紀初期、シャガール、藤田嗣治、モディリアニなど、
才能あふれた芸術家たちが集まった場所でした。
夜ごと、彼等はモンパルナス大通りにあるカフェで、
時を忘れて語り合っていたそうです。

そのパリ・モンパルナスと池袋・モンパルナスは、
どういうめぐり合わせがあるのでしょうか。

池袋モンパルナスと呼ばれる場所をたどりながら、さんぽしてみましょう。



〜文化の風薫るまち としま〜

豊島区は、平成20年度文化庁長官表彰を受賞した
文化芸術創造都市なのです。

JR池袋駅、西口公園に行くと、提灯がいっぱい。
お祭りの準備でしょうか・・・・・。
掲示板には、第42回「ふくろ祭り」のポスター、
ステージには池袋区民まつりの看板。
「平和の像」と豊島区「非核都市宣言」の記念プレートが。
そのむこうに、ガラス張りの東京芸術劇場の建物が見えます。
通称・劇場通りを左に行くと豊島区立郷土資料館です。
池袋モンパルナスの資料があるかもしれません。


館内に入ってみると
池袋モンパルナスといわれるゆえんの展示があります。

昭和の始めごろ、長崎・千早町・要町あたりに
アトリエ付の借家が数多くありました。
その借家は、12畳から15畳の広いアトリエが優先した家なのです。

池袋になぜこのようにアトリエ村ができたのでしょう。

明治から大正にかけて、
多くの芸術家や文士は、上野・谷中・田端あたりに住んでいました。
昭和になって、都市が大きくなるにつれ
東京の外側にあたる豊島区内にも、美術家たちが住みはじめたのです。
景気の変動に左右されながらも、大東京は複雑に発展していきました。
西洋風の生活様式も浸透して、モダニズムがはやり、
庶民の家の中にも洋間が増えてきました。
そうすると、そこに飾る洋画も欲しくなります。
こうして、洋画家や彫刻家を志す人たちが増え、
美術学校も数多く創立されました。
そのような時代環境の中で、アトリエ村が誕生したのです。

アトリエ村は、
1931年、児童画家・奈良次雄の祖母が、要町に
孫と同じように画家を志す若者のために
アトリエ付の借家を10軒ほど建てたことに始まります。
その後、1940年ごろにかけて長崎1丁目あたりに
新しいアトリエ付借家が、次々に建てられ、
5つのアトリエ村ができました。
名付けて「さくらが丘パルテノン村」、「みどりが丘」、「ひかりが丘」、
「すずめが丘」、「つつじが丘」。
周辺にも多くの芸術家が住むようになりました。

郷土資料館常設展図録の長崎アトリエ村(林英夫著)に、
「こうした芸術家たちは、
立教大学の構内や前あたりを通って
池袋(西口駅周辺)に出て酒を飲み、
ビリヤードを楽しみ
純喫茶店でコーヒーをすすり
古典音楽に耳をかたむけ、
精神の自由を謳歌していました。
そのころの池袋は自由で、モダニズムの溢れた
新開の町でした」
とあります。

アトリエがこれほど集まったのは、世界中でも珍しいといわれます。
ここに住む芸術家たちは、池袋モンパルナスと称して、
パリにあこがれ、創作にいそしんでいました。

池袋モンパルナスの名付け親である詩人・小熊秀雄

池袋から長崎町にかけては、芸術家と称される種族が住んでゐる。
それと並行的にダンサー、キネマ俳優など消費的な生活者に、無頼漢、カトリック僧侶など異色的人物を配し、サラリーマン、学生などが氾濫してゐる。
地方人の寄り集まりであるこの植民地東京の中でも
最も人種別においてバラヱテーに富む池袋付近は、
従って東京人の精神的機構を語る材料がタップリある。
なかでも神経質をもって売物とする芸術家の生活において、脳の働きと心臓のチックタックの状態が醸し出す不思議な雰囲気は恰(あたか)も巴里の芸術街モンパルナスを彷彿とさせるものがある。

と書いています。

昭和10年代には、
池袋界隈はこのような不思議な雰囲気があったのですね。
そして、

遠く池袋の空が夜の光を反映して美しく見える頃、
画家たちはパチリパチリとアトリエの電灯を消して長崎町から、池袋へ出かけて行く。
特別の用事があるわけではなく、ただ遠くの手が
さし招くままに、
足がふらふらとその方向に向いていくのである。

わかるような気がしますね。

新聞社の撮影による当時の写真が展示されています。
アトリエ村の景観(第2パルテノン北側)。
窓から絵を運び出している人。
アトリエ室内の画家の制作風景。
美術家の奥さんがアトリエでバレー教室をしている様子。
女画伯と猫がいます、迷い猫が多かったようです。
モデルを前にした彫刻家。
画家たちがモデルを描く勉強会をひらいているようです。
パルテノン・クロッキー研究会の風景との説明。
すこし昔の芸術家たちの日常は、
今まで見たこともなく、とても興味深いものです。

1940年(昭和15)当時の池袋・立教大学周辺が絵図になって
展示されています。
立教大学の卒業生たちの回想から制作されたものです。
つい読んでしまいます。

“ここが本当の鈴懸けの路”

“立教前郵便局、
ここに入る奴の後についていくといいことがある”

“コティ洋菓子珈琲の店、
当時の新興キネマの女優があらわれるということだったが一人も来ないのでガッカリ”

などのふきだし付きで、とても楽しい!

喫茶店が多く描き込まれています。
喫茶イレ・シャルマン、喫茶ザザ、喫茶スミレ、ロジヌ、キノ、
それにカフェとだけの店が3軒。
このような喫茶店で、アトリエ村に住む若き芸術家たちも
夢を語り、芸術論をたたかわしたといわれます。

大学の側に教練場。近くに料理学校があり、

“教練中も気になって仕方がない”というふきだしもあります。

だんだん戦争にむかう不幸な状況になっていきます。
教練場のところには次のように書かれています。

“ここで鍛えられて、
戦野に送られて
若い命をむなしくした校友の数”
 悲しい歴史です。


郷土資料館を出て、少し歩くと、立教大学のキャンパス。
有名な、蔦の絡まるノスタルジックなモリス館礼拝堂
大正時代の建物で、東京都選定歴史的建造物
一般公開されていますから、
美しいステンドグラスを見ることが出来ます。



熊谷守一美術館


アトリエ村のできた長崎・千早町・要町周辺には、
大正末年ごろから昭和初年にはすでに、
前田寛治、牧野虎雄、熊谷守一(くまがいもりかず)などの
画家が住んでいました。

「画壇の仙人」といわれる熊谷守一は、、
当時の若い貧乏画家たちの守護神的存在でした。
彼が45年間住み続けた千早の旧宅跡に、
昭和60年、次女の榧(かや)さんによって
熊谷守一美術館が開設されました。
今では豊島区立美術館となっています。

山手通りを横切り椎名町サンロードに出て、
右方向に向かいます。
住宅街の中に美術館はありました。

コンクリートの壁に大きなアリが描かれています。

静かなたたずまい、ガラスの横長の大きな窓、
窓の上の壁に、Café Kayaとあります。
中に入ると受付の横がカフェ。
こんな静かなところにあるカフェ、いいですね。
コーヒーを注文すると、カップは榧さんの陶芸作品、
かたちも色も魅力的なものばかり!


1880年生まれの熊谷守一、享年97歳。
その作品は、油彩に墨絵、書。
絶筆「アゲ羽蝶」(1976年)や「自画像」、「白猫」、
墨絵「蟻」や「がま蛙」、書「寂」、「五風十雨」など
自由人の心があふれでる作品を鑑賞。
 
3階のギャラリーでは、熊谷榧個展が開催されていました。
“アラスカ”がテーマの絵が展示(10月4日まで)されています。
独特の造形と美しく鮮やかな色彩が印象的。

1階に戻ると、カフェでは数人の人々が歓談中。
芸術のお話でしょうか。

美術館を後にすると、すぐのところで、
実をいっぱいにつけた柿の木に出会いました。

現在では、アトリエ村のほとんどの建物は、
姿をけしていますが、
その心は受け継がれているようです。




資料:
『豊島区立郷土資料館常設展図録』 豊島区立郷土資料館

『池袋モンパルナス』 宇佐美承 著 集英社

『小熊秀雄と池袋モンパルナス』 玉井五一編 (株)オクターブ

『豊島区立熊谷守一美術館パンフ』 豊島区立熊谷守一美術館

『地球の歩き方 パリ&近郊の町』 ダイヤモンド社 
                      ダイヤモンド・ビッグ社

パンフレット『文化芸術創造都市 〜文化の風薫るまち としま〜』
         発行:豊島区文化商工部文化デザイン課
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2009年09月15日

第十六回 遊び心



「人間は遊ぶ動物」と言った人がいます。
“遊び心”は大切!
エネルギーの源泉になります。

遊びといえば、“おもちゃ”
今回は「東京おもちや美術館」に行くことにしました。
四谷三丁目交差点から歩いて7分、
新宿方面に向かい、
3つ目の角を右に曲り、少し歩くと美術館。



「東京おもちや美術館」


その建物は、もとは四谷第四小学校の校舎。
昭和10年に建てられ、歴史的建築遺産。
入り口のところに、モクレンの木があり、
夏の名残でしょうか、蝉の抜け殻が枝にいっぱい。
あまりに多いので、気味が悪くなるくらいです。
モクレンの花言葉は“自然の愛・荘厳・恩恵”。
セミは“自然の愛”に育まれ、
命の荘厳さ、恩恵を体現するために脱皮し、
夏中、おもいっきり鳴けるだけ鳴いたでしょう。

懐かしい小学校の校舎。
靴箱、階段、廊下、教室など、そっくりそのまま。
プレイルームには
卒業生の描いたステンドグラスが、
真昼の陽の光を通して、輝いています。
絵のなかでは、小鳥が飛び、馬が跳ね、
電車も走っています。

階段を上ると、サポーターズボードがあり
「一口館長」の名前を刻んだ積み木になっています。
多くのサポーターによって
支えられている美術館なのですね。



招福猫児〈まねきねこ〉のお話

季節展示は、小泉正直コレクション3「ねこの猫ノネコ」
いろいろな招き猫が展示され、
なかには両手で招いているのもあります。


解説に、世田谷豪徳寺の猫縁起由来が書かれています。
要約すると、
江戸の西の郊外に、小さく貧しいお寺があり、
和尚は猫好きで、わが子のように猫を育てていました。
そして、猫に言い聞かせます。
「恩を知れば何か果報を招来せよ」と。
ある夏の日、鷹狩りの武士5・6騎が通りかかりました。
「門前の猫1匹、うずくまりて我等を見て手をあげて、
しきりに招くので訪ねた」
和尚は、武士たちを寺の奥に招き入れます。
するとどうでしょう、
空がたちまち曇り、
一気に雨が激しく降りだし、
雷がとどろき渡りました。
武士たちは、
門前の猫のお陰で、
あやうく雨の難から逃れることができたのです。
難を逃れたのは江州彦根の伊井直孝。
このことがあって、直孝は帰依(きえ)の念を起します。
菩提寺となったその寺には、寄進が多くなり、
貧しかった寺が一大伽藍になったということで、
「猫が恩に報いて福を招く」
という次第です。

猫は湿気を嫌います。
湿度が高くなると、しきりに手をあげて、
顔を撫でるしぐさをします。
この猫の習性は、
私たちに、雨の降るのが近い、と知らせることになります。
農家の人にとっては、雨が降るのは天の恵み、
それを知らせる猫のしぐさは、吉兆のあかし。
また、猫は、米などの穀物を食い荒らすネズミを退治します。
昔から、家の守りとして大切にされてきたのがわかりますね。

顔を撫でる猫のしぐさは、
あたかも人を招いているようにも見えます。
それは、福を招いているのと同じです。
このことから、商売繁盛の縁起物として、
関東を中心にたくさんの招き猫がつくられてきました。



遊ぶ力

次は「グッド・トイてんじしつ」

おもちゃ文化の向上活動をめざす
NPO法人「グッド・トイ委員会」が選んだ
「遊び力」を育む、新しい発想のおもちゃが展示されています。

わっかを編むという意味の「ワミー」は、
小さなピースをつなげて、地球のような丸い球体をつくりだせます。
「クリップ」は、クリップの形をしたブロックの遊び。
ブロックをはさんでつなげ、
動物や乗り物の形を、想像力によって作ることができます。
丸いドーナツ型のテーブルに集まって、
子どもたちはグッド・トイをいっぱいひろげ、
楽しそうに遊んでいます。
どんどん遊んで、遊び力アップです。



ロシアのおもちゃ

となりの「きかくてんじしつ」では、「ロシアのおもちゃ展」

あっ、こけし人形にそっくり。
新しいロシアの民芸・人形マトリョーシカ

その誕生は、1980年代半ばから。
日本のこけしや箱根細工の七福神
入れ子ダルマなどのアイデアが大いに役立っているそうです。
マトリョーシカは女性の名前マトリョーナの愛称形。
庶民の娘をかたどった可愛いものが多いですね。
頭にはプラトークと呼ばれるスカーフ、
身体にはサラファンと前掛け、
色鮮やかに描かれています。

立体紙人形「七匹の子ヤギ」
幼心のあふれたものです。
ロシア木彫り玩具も並んでいます。
素朴な木彫りで、無垢の木肌がとてもいい感じです。
熊やウサギ、シーソーの木馬。
彩色されたものもあります。
手に持って振ったり、指で操作するとカタカタと動きます。
小鳥がえさをコツコツとついばむ姿は、とても可愛い!
仕掛けによって動くのが、
ロシアの木彫り人形の特色だそうです。



サマルカンドの土人形の、“親子でロバに乗る”や“龍”。
フェリモーノボの土笛人形もあります。
土笛人形は、白土を乾燥させ彩色したもので、
“愛し合う2羽のニワトリ”や“ニワトリを抱く犬”、
“山羊”、“馬に乗る人”、“ヒヨコをかかえるニワトリ”など
愛情あふれたものです。
吹くと、どんな音色なのでしょうか。
素朴な形と色彩に、母なる大地ロシアの心が宿っているようです。



「おもちゃのもり」は、木の香り

床は総ひのき張り。
うわ〜ア、気持ちよさそう。
7,8人の子どもたちが
大きな丸い木の枠で囲まれたものの中に寝転んでいます。
その中は、
ツルツルの丸い木のボール20,000個で埋め尽くされ、
「木の砂場」と名付けられています。
仰向けになったり腹ばいになったり、気持ちよさそう。
枠のところに凹みがあり、ボールはそこを転がります。
よ〜くできていますね。

森の合唱団という木琴があります。
板の長さが全部同じです。
なぜドレミファソラシドと、音楽が奏でられるのでしょうか。
音は、木の重さと硬さによって違います。
この木琴は、重さ、硬さの違う木を使うことによって、
音階を引き出しているのです。
くるみ、けやき、かえで、なら、ひのき、せんだん、きはだ、ほお、
かば、おおだも、えんじゅ、いちい
 等と一本一本に書かれています。
演奏してみましょう。
ドレミファソラシド〜 いい調べ!



おもちゃから未来を!

3階の「おもちゃこうぼう」に入ってみましょう。
満員です。
みんなおもちゃを作っています。
楽しそうに、何を作っているのでしょう。
《ストローのグライダー》ですね。
黒板に作り方が書いてあり、子どもたちは真剣そのもの。

新しい発想と工夫は、子どもの得意とするところ。
地球の未来は、
子どもたちのたくましい想像力=創造力にかかっています。
それを見守り、育てるのは社会や、親たち!
さあ遊びましょう。
感性を磨きましょう。
やわらかい思考を育てましょう。
指導の方が席をまわって、ニコニコ。

階段の踊り場からは、窓ガラスを通して校庭が見えます。
一気に子ども時代を思い出しました。





資料:
『東京お持ちや美術館リーフレット』

会場解説ボード 他



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2009年09月01日

第十五回 音楽の楽しみ



音楽のあるかぎり・・・われわれがその音楽なのだ。

といったのは、詩人・T. S. エリオットです。
          
東京メトロの四谷三丁目駅から、
外苑東通りを信濃町の方に向かうと、
「子どものための楽器展」というポスターが眼にはいりました。
なんだか楽しそう!
そこは民音音楽博物館。

中は高い天井、
2階まで吹き抜けの広いロビー。
目の前に階段があり、展示室は2階。
階段を上がると、「古典ピアノ室」があります。
楽器の解説と生演奏があるようです。
入ってみましょう。




ピアノの魅力


たくさんのチェンバロと古典ピアノがあります。
豪華な装飾のものや、素朴な感じのものといろいろです。

楽器が一台ずつ紹介され、つづいて演奏です。
チェンバロでは、バッハの曲、「メヌエット」
軽やかな指先が鍵盤の上を踊り、
チェンバロの音が響き始めます、
なんと素晴らしい、美しい音!

ベートーヴェンモーツアルトの愛したピアノもあります。
1705年にウイーンで造られた「アントン・ワルター」
名品です。
世界で最も貴重な文化遺産。
足ペダルではなく、
膝で動かす、ニー・レバーといわれるものがついています。

ベートーヴェンのピアノ曲といえば、
ピアノ・ソナタ第14番“月光”を思い浮かべます。
この「月光のソナタ」といわれる曲は、
ベートーヴェンの「不滅の恋人」のひとりとして有力視されている
ジュリエッタ・グィッチャルディに捧げられたものと
いわれています。
(「不滅の恋人」として、最も有力視されているのは、
テレーズ・フォン・ブルンスヴィーク伯爵令嬢という説もあります)

情熱と苦悩に生きたベートーヴェン、
次のような言葉をのこしています。

「音楽は人々の精神から炎を打ち出さなければならない」
「無限の霊を持っている私たち有限の人間どもは
ひたすら悩んだり喜んだりするために生まれていますが、
ほとんどこういえるでしょう ― 最も秀ぐれた人々は
苦悩をつき抜けて歓喜を獲得するのだと・・・・・」


「コンラート・グラーフ」というピアノがあります。
1834年ウイーンで製作されたもの。
ショパンシューマンなどの作曲家に好まれ、
特に晩年のベートーヴェンに愛用されたピアノです。
特長は5本のペダル。
どのように演奏するのでしょう。

モーツアルトの「トルコ行進曲」が演奏されました。
指は鍵盤をたたき、足でペダルを踏むと
ベルやドラムの音までが響きます。
にぎやかで、心がうきたつ行進曲です。

モーツアルトの曲を弾くことは、
ピアニストにとっては試金石といわれます。
単純で純粋な音の連続なので、
演奏者の不正確な音はすぐわかってしまうそうです。
あいまいなタッチは許されない、
それだけにモーツアルトの曲は、特別美しく魅力的なのです。
動物実験でわかったことがあります。
ネズミは、モーツアルトの交響曲四〇番を好み、
深く感動する様子を見せたそうです。

愛称「ピアノの貴婦人」、
「エラール・グランド・フォルテピアノ」は、
優雅なホワイトクリーム色に塗られ、
側板や脚には、見事な彫刻がほどこされています。
ヴェルサイユ宮殿を建てたルイ14世の時代様式です。
ショパンの曲が流れはじめました。

音が流れ始める瞬間、
その一瞬、空気まで変わるように感じます。
指先は軽やかに鍵盤に触れているように思えるのに、
音が輝きあふれ出る。
気品あふれる音。
温かな音。
色彩感のある音色。
言葉に表現できない音楽の不思議さを感じます。


ベートーヴェン(1770-1827)  モーツアルト(1756-1791)




オルゴール

次は、オルゴール展示室です。

オルゴールはどのようにして誕生したのでしょう。
西洋で教会や時計塔の鐘を鳴らすため、
木製シリンダーにピンを打ち、
自動的にハンマーで鐘を叩くという仕組みが考え出されました。
そして、16世紀に発明されたゼンマイが、音楽時計に応用され、
オルゴールの原型となります。

ここでは、約200年前からのものがあるそうです。

コインを入れると鳴りだすオルゴールが紹介されました。
「ロッホマン“オリジナル”モデル172MW 
チューブラー・チャイム」

高さ240cm、幅83cm、奥行き45cmもあります。
1904年頃のもので、
大きな円盤のディスクが
華やいだ音を響かせます。


















民音音楽博物館ホームページより


以前、ベルギーを行った時、
お世話になった人の家で聴いた懐かしい音色を
再び聴くことができました。
一抱えもある大きなディスクを何度も変えて
新しい曲を聴かせてくれたものです。
その時と同じような大きなディスクがオルゴールの中で
ゆっくりと回っています。

日本で製作された手回しパイプ・オルガンもあります
“オルガネッタ1型”です。
ブック型ロールに、無数の穴があけられ、
ハンドルを回すと、38本のパイプとドラムの付属楽器が
演奏するのです。

お母さんと子どもが前に進み出て、
ハンドルをグルグルまわすと、メロディが流れまじめました。
まわす速さによって音色は変化、
一定のスピードでまわし続けて、良い演奏となります。
はい、みなさん拍手喝さい!

オートマタ(自動人形)「道化師と椅子」が紹介されました。
オルゴール内蔵の“からくり人形”で、名前はジュリアン君。
音楽に合わせて
椅子を持ち上げたり、逆立ちを見せてくれたり。
すごいです。
ねえ、ジュリアン君、
椅子を持ってアクロバットもできるなんて!

案内の人によると、今日はとてもよくできたそうです。



見て、さわって、学べる楽器展

ふだんは見られないアジア、アフリカ、ラテン・アメリカなどの
珍しい楽器が展示されています。
打楽器をたたくと、音色の中に楽器の作られた国の風情が
自然とにじみ出て、その国らしい音を奏でます。
とても楽しいです。

楽器は、さまざまな素材から作られていますね。
太鼓は、多くは木と皮で。
笛は、竹や葦(あし)に穴をあけて。
インドのシタールは、かぼちゃに弦をはって。
シタールの音色は大好きですが、
かぼちゃでできているとは知りませんでした。
そうですよ、かぼちゃの共鳴胴に金属の弦を張ったものなのです。
その他、貝や木の実、動物の骨で作られたものもあります。



音楽を奏でる喜び

カシュガル・ルボーブという楽器があります。
シルクロードの音楽には欠かせないもの。
カシュガル民謡「アトシュ」を聴いたことがありますか。

アトシュ地方の民謡をもとにした叙情的な踊り曲で、
恋人を訪ねるウイグルの美少女の旅を歌ったものです。

   私は一路アトシュをめざす
  長い裾を天幕がわりにして眠り
  今夜もまた砂漠の仮寝の床で
  心はもうあなたの元にいる

  恋人よ 私の恋人
  あなたは私の首にかけたお守り
  どんなに真っ暗な闇夜でも
  行く手を明るく照らしてくれる
  
  恋しいあなたに再会し
  私の想いがかなえられるように
  どんなことがあろうと
  二人を引き裂くことはできない

        歌詞は、『ETHNIC SOUND SELECTION』より

恋心は世界共通、音楽も同じ。

4500年前、古代文明発祥地のエジプトやメソポタミヤで
演奏されていた笛や太鼓が、
現在でも世界の国々で用いられているそうです。
音楽は時代を超え、国境を越えた人類共通の文化ですね。





















エジプトの国花:熱帯睡蓮
(神代植物公園にて撮影) 




資料:
『民音音楽博物館所蔵カタログ』財団法人民主音楽法人 民音音楽博物館

『子どものための楽器展パンフレット』民音音楽博物館

『ネオフィリア』ライアル・ワトソン著 内田美恵訳 筑摩書房

『ベートーヴェンの生涯』ロマン・ロラン著 片山敏彦翻訳 岩波文庫

『モオツァルト・無常という事』小林秀雄著 新潮文庫

『ETHNIC SOUND SELECTION』音曲解説 日本音楽教育センター
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2009年08月15日

第十四回 夏は怪談話



日本の夏における文化の一つと申しましょうか、
怪談話は、昔はとても人気があったのです。

江戸時代、文政8年(1825)、夏のこと、
歌舞伎『東海道四谷怪談』が大当たり。
その時、71歳、四世鶴屋南北の戯作です。

人はさまざまなことを想像し、考え、作り出します。
この芝居が大当たりしたのは、
「怖いもの見たさ」でしょうか。
いやいやそれだけではなさそうです。

『東海道四谷怪談』のあらすじを知っておきましょう。
(当時、歌舞伎などでは、実在の人物や事件をそのまま上演することは禁止されていました。
赤穂浪士の討ち入り事件は、南北朝に時代を移し変え、
浅野内匠頭は塩冶判官(えんやはんがん)に、
吉良上野介は高師直(こうのもろなお)に、置き換えられています)

浪人・民谷伊右衛門は、もとは塩冶藩の侍でした。
同僚だった四谷左門の娘お岩と夫婦になっていましたが、
藩の御用金を横領したことを義父に知られ、
お岩が連れ戻されます。
悪事がばれたことを知った伊右衛門は、
義父・左門を殺害し、
お岩には、義父の仇は自分が討つとあざむいて復縁。
一方、隣の家の伊藤喜兵衛の孫娘お梅が伊右衛門に一目ぼれ。
孫可愛さに喜兵衛は、とんでもないことをしでかします。
伊右衛門は塩冶浪人であっても主人の仇討ちなど考えていないと判断、婿にしようと考え、お岩に薬といつわって毒薬をおくり、
伊右衛門を、自分の仕える高師直へ推挙しょうとします。
哀しいかなお岩!
夫に疎まれるようになり、
姦通の罪までかぶせられそうになってしまいます。
毒を盛られたお岩は、顔が醜く腫れ上がり、
梳(と)かす髪も抜け落ち、みるも無残な姿に成り果てて、
「うらめしいぞへ、伊右衛門どの」と、恨み死ぬ。
お岩の怨念は夫に祟(たた)っていきます。
舞台では怪異な出来事が次々とおこり、
日本一怖〜い怪談が展開されてゆく。
最後は、半狂乱のうちに、
お岩の義理の弟に討たれる伊右衛門の姿が、
観客の目にしっかりと焼きつけられるのです。

南北は、当時の大作家。
話のなかに、虚実とりまぜ、複雑にからみ合わせ、
時代世相を反映させているのです。
役者も一人で七役も十役も変身し、
でなければ役者とはいえぬ歌舞伎の乱世。
南北の奇才はそれに応えてあまりあります。

初演その日から今日まで、
この怪談が夏の人気の演目として上演され、
新劇、映画、小説にもなっています。

そのお岩さんを祀る神社が四谷左門町にあるというので、
お参りに行くことにしました。
地下鉄丸の内線四谷三丁目駅の3番出口を上がると、
新宿通りと外苑東通りの交差点。
向かいに大きな消防署の建物が見えます。
外苑東通りを南へ。
四谷警察署をすぎ、左に折れると閑静な住宅街。
そこに、神社の赤いのぼりがはためいています。
道を挟んで、「於岩稲荷田宮神社」と「於岩稲荷・陽運寺」があります。

 








 陽運寺




於岩稲荷田宮神社(おいわいなり たみやじんじゃ)



鳥居の近くに、「伝説 四谷怪談お岩ゆかりの地」とあります。
柵は石つくりで、一本一本に名前が彫られています。
岩田専太郎、村上元三、歌舞伎座、明治座、演舞場、菊五郎劇団、
吉右エ門劇團、市川寿海、中村歌右エ門、中村時蔵、中村勘三郎
花柳章太郎など、演劇関係や料亭関係の名前がずらり。
芸能関係の人々の参拝が多いようですね。

手を清めて、本殿でお参り。
神社にまつわる資料が沢山置かれています。
よく読むと、いろいろわかってきました。

さんのモデル田宮 岩は、
鶴屋南北が生きていた時代より200年も前の人なのです。
1636年 (寛永13) に、没しています。
どうして祀られるようになったのでしょう。

神社の資料によると、
お岩は徳川家の御家人、田宮又左衛門の娘で
夫の伊右衛門とは、人もうらやむ仲のよい夫婦でした。
しかし、収入が少なかったのです。
30俵3人扶持(年収、今の金で3万5千円ほど)。
これでは暮らしが成り立ちません。
そこで、2人は家を復興するため奉公に出ました。
田宮家では、代々、信心深く、
邸内に稲荷さまを祀っていました。
稲荷さまを信仰し、奉公に精を出します。
おかげで、しだいに夫婦の蓄えも増え、
無事に家を再興することができました。
それが評判になったのです。
稲荷信仰のおかげで、田宮家は復活したと。

その後、ますます評判が高くなるにつれ、
田宮家では屋敷社のかたわらに、小さな祠(ほこら)を設け、
お岩さまを祀るようになりました。
近所の人の参拝も断りきれず、
たくさんの人がお参りにくるようになり、
「於岩稲荷」「大厳稲荷」「四谷稲荷」「左門町稲荷」などとも呼ばれ、
家内安全、無病息災、商売繁盛、芸道上達、開運悪事災難除けの神
として、江戸の人気を集めるようになったのです。

それから200年後のこと、歌舞伎の世界にお岩さんが登場するのです。
ときは文政の世、江戸は文化爛熟の時代、
寛政時代からはじまった幽霊物の読み本の最盛期!
南北は、どのように思って、この怪談話を書いたのでしょう?



お岩さんと鶴屋南北

神社に置かれた『東京の「お寺神社」謎とき散歩』(岸乃青柳著)の
抜粋では、

「時は、江戸後期。所は、歌舞伎の作者、鶴屋南北の部屋。
鶴屋南北はかねてから『於岩稲荷』のことを聞いていた。
お岩という女性が死んでからもう二百年がたっている。
それなのに今でも江戸で根強い人気があることに注目した。
人気のある「お岩」という名前を使って歌舞伎にすれば
大当たり間違いない。と見当つけた南北は台本書きに入った。
お岩があんな善人では面白くない。
刺激の強い江戸の人間を呼ぶにはどぎついまでの脚色が必要だ。
南北は「お岩稲荷」から「お岩」の名前だけを拝借して、
江戸で評判になったいろいろな事件を組み込んだ。
密通のため戸板に釘付けされた男女の死体が
神田川に浮かんだことがある。
よし、これを使おう。主人殺しの罪で処刑された事件もあった。
あれも使える。姦通の相手にはめられて殺された俳優がいた。
それも入れよう。
四谷左門町の田宮家には怨霊がいたことにしよう。
江戸の人間なら、だれでも記憶にある事件を作家の空想力で操り、脚本はできた。
しかし、四谷が舞台では露骨すぎる。
「お岩」の名前だけ借りれば十分だ。
南北が付けた題名は『東海道四谷怪談』。
四谷の於岩稲荷の事実とは無関係な創作であることを
示すことにした。
天才的な劇作家が虚実取り混ぜて創作したのが、
お岩の怨霊劇だった」


お岩稲荷神社の人からも「たいしたものだ」と言われた南北。
先祖や道徳を大切にしないと「バチや祟(たた)りがおきる」。
そのことをよくわかって欲しかったのでしょう。
そのような南北の思いが込められている怪談話なのです。

当時の観客は、お岩の哀しみ、恨みに涙を流し、
伊右衛門が怨霊に追い詰められ、
半狂乱のうちに討たれ、死んでいく姿に
身を震わせたことでしょう。

忘れてはならないのは、
伊右衛門は、元赤穂浪士という設定です。
見事に本懐を成し遂げた義士に対して、
南北は、その裏に義士になりきれない侍たちがいたことを、
哀しく陰惨なドラマとして描きたかったのでしょう。
南北の「東海道四谷怪談」は、文政の「忠臣蔵」ともいえます。



寺と坂の町


この界隈には、多くの坂と寺があります。

お岩稲荷から最も近いのは、「暗闇坂(くらやみざか)」
松厳寺と永心寺が左右にある小さな坂道。
このあたりには樹木が繁っていたのでしょう。
寺の樹木が道を被って暗くしていたに違いありません。

永心寺からすこし行くと戒行寺(かいぎょうじ)
この寺の南脇を東に下る坂は「戒行寺坂」
別名「油揚坂」です。
昔、坂の途中に豆腐屋があり、
質のよい油揚げをつくっていたそうです。
この戒行寺には、罪人の処刑や刀の試し切りをなりわいとしていた
「首切り山田浅右衛門」の墓があります。

坂を下り左に折れてすぐのところに、「観音坂(かんのんざか)」
横にある真成院の潮踏(塩踏)観音に因んで名づけられたそうです。
また江戸時代には西念寺(さいねんじ)の表門がこの坂に面していたため、「西念寺坂」とも呼ばれます。
この西念寺には、
みなさまよくご存知の“忍者ハットリくん”で有名な服部半蔵
永眠しています。
徳川家康の旧臣で、伊賀者の指導者。
江戸の警備にあたっていた折、江戸城西門辺りに住んでいました。
今の半蔵門は彼の名に由来しています。
槍の名手でもあり、寺には家康から拝領したと伝えられる
残っています。
全長2m58p、槍先と柄の部分がすこし欠けているそうですが、
戦国時代を偲ぶ貴重なものです。


静かな寺の町を歩きながら思いました。
人の恨みの怖ろしさを知るため
怪談話を、心から耳を傾け、聴いてみようかと。
そのようなことをしみじみと考えさせてくれる
今回のさんぽでした。






資料:
新潮日本古典集成『東海道四谷怪談』 新潮社

『忠臣蔵と四谷怪談』 朝日選書

『お岩と伊右衛門』 高田衛 洋泉社

神社資料『東京の「お寺神社」謎とき散歩』 岸乃青柳著 広済堂出版

その他、展示資料(産経新聞記事「東京ストーリー」)他

「名作解体新書 東海道四谷怪談」株式会社インフォルムのホームページ



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2009年08月01日

第十三回 人と植物


朝から小雨のぱらつく曇り空、
晴れ間を見つけて、さんぽに出かけました。
JR中央線三鷹駅からバスで20分、神代植物公園に到着。

園内には約4,800種類、10万株の植物。
まさに花と緑のオアシス。
四季折々の花と緑を楽しめます。

入口近くにある大きな水鉢に、
オニバス(スイレン科)が浮かんでいます。
熱帯のオオオニバスとは違い小ぶりで、
池沼中に生育する1年草の水草です。
緑の葉が水面にひろがり、ワニの皮に似た模様。
絶滅危惧種で、この地球上からなくなってしまうかもしれない種です。
大切にしたいですね。



植物との愛

今回は、植物と私たちの間に生まれる「道徳と愛」がテーマです。
“植物との道徳、植物との愛”って、いったいなんでしょう。

『萩原朔太郎詩集』の序文に書かれています。

原始以来、
神は幾億万人といふ人間を造った。
けれども全く同じ顔の人間を、
決して二人とは造りはしなかった。
人は誰でも単位で生れて、
永久に単位で死ななければならない。


私たちは、誰一人として同じ顔の人はいません。
よく似た人はいるが、どこか違う。
生まれるときも死ぬときもひとり。

とはいへ、
我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。
我々の顔は、我々の皮膚は、
一人一人にみんな異なって居る。
けれども、
実際は一人一人にみんな同一のところをもって居るのである。


わたしたちの顔は、あたりまえのことですが、
目はよこに2つ並び、その真ん中には鼻。
外見だけではなく、喜怒哀楽に心が動かされるところも似ている。

この“共通”を人間同志の間に発見するとき、
人類間の『道徳』と『愛』とが生まれるのである。

この“共通”を人類と植物の間に発見するとき、
自然間の『道徳』と『愛』とが生まれるのである。
そして我々はもはや永久に孤独ではない。

私たち人間は、他の生物と共通したところがたくさんあります。
宇宙の星たちを動かす、らせん運動さえも、
私たちの身体の中に取り入れられています。
ええっ、宇宙と似ている、らせん運動! 
頭のつむじ、指の指紋の渦は、
銀河の渦巻き
にそっくりじゃありませんか。



花に想う

目の前に広がる緑の木々を見ながら、少し歩くと、
花がいっぱいのだりあ園です。

花には想い入れのある珍しい名前がつけられています。
君待坂なんて粋な名前もあります。
白い花びらの先がうす紫に染まり、
恋しい人を待つようにやさしく咲いている花を見ると、
キク科テンジクボタン科と言うより、
君待坂と呼ぶ方がいいですね。

人間の思い入れなのか、花を愛するゆえか・・・・・
さまざまな想いが花に名前をつけさせるのでしょう。
花に名前をつけるとき、
人と花の間に、
特別な感情が生まれているようです。
花の美しさと名前が見事に一致するときは、
一編の詩が生まれるとき。

俳人・三橋鷹女(みつはしたかじょ)は詠います。

   千万年後の恋人にダリア剪(き)る

千万年後の恋人とダリア、凄い想いですね。
ダリアとはそういう想いを抱かせる花なのでしょう。


広大なバラ園が見えます。
中央に大きな噴水。ヨーロッパの庭園のようです。
バラの栽培は、西洋では紀元前2000年代から
おこなわれていたといわれます。
日本では、野茨(のいばら)と呼ばれる野生のものがありました。
西洋原産の薔薇を観賞するようになったのは、
明治以後のことなのです。

   童(わらべ)は見たり、野なかの薔薇

この懐かしい『女声唱歌』(明治42年)は、
ゲーテの詩に曲がつけられたものです。

薔薇は、夏の季語
明治から昭和に生きた水原秋桜子は、雨夜の薔薇の美しさを詠います。

   咲き満ちて 雨夜も薔薇の ひかりあり

江戸時代の蕪村は、愁いの心と野茨の美しさを詠いました。

   愁ひつつ 丘に登れば 花いばら


小雨が降ってきてバラの花にも透明な水滴がつきました。
涙のようです、それもまた自然の詩なのでしょう。

雨脚がすこし強くなったので、大温室に向かいました。
途中に多くのトンボが舞っています。



大温室は、「センス オブ ワンダー」

「センス オブ ワンダー」とは、レイチェル・カーソンの言葉で、
「神秘や不思議に目を見はる感性」のことです。

熱帯植物は、珍しい姿とあざやかな色をしていて、
見ればみるほど不思議で神秘です。

球根ベゴニアがたくさん咲いている部屋があります。
おどろいたのは、種!
球根ベゴニアの種はとっても小さいのです。
粉のようです。
置かれているゴマの種に比較すると、
問題にならないくらい小さいのです。

この小さい種が、球根になるのですか!
この小さい種が、美しい花を咲かせるのですか!

それこそ、感動する心「センス オブ ワンダー」の全開。
広大な宇宙を見るときと同じ感動が、
この小さい種を見るときにもわきおこってきます。

花の世話している方に教えてもらいました。
「この花は、1つの株に雄花と雌花が咲き、
雌花の花びらは一重、雄花は八重なんです」
えっ、雄花の方が、豪華で美しい!
動物のライオンと同じですか・・・・・。
いや、雌花はつつましく咲いて美しい!
雄花のすぐ下に雌花が咲いています。
花粉が下に飛んで受粉しやすいのでしょう。
うまくできていますね、自然の神秘というのは!
このように、1つの株の中に雄花と雌花があるのを
「雌雄異花同株」といいます。





清純な心・熱帯スイレン

外に出ると雨が上がり、青空が見えはじめています。
大温室の庭の大きな水槽に、
白や黄、ピンクのスイレンの花が美しく咲いています。
水に浮かんでいるその姿は、清純な心・信仰という花言葉のとおりです。

スイレンとの関わりは、5000年の歴史をさかのぼります。
紀元前3100年頃、すでにエジプトの第1王朝のシンボルとして
用いられ、現在も、エジプトの国花です。
第5王朝のベニ・ハサンの墓には、水鉢に生けられたスイレンの花が
浮彫りされています。
記録に残っている世界最初の生け花といえるでしょう。
ナイルの水をひいた池には美しいスイレンの花が咲き、
その花は、花束や花輪や首飾りに編まれたそうです。

係りの方にスイレンについて訊ねました。
「スイレンは寒さに耐えることができる温帯性と、
寒さに弱い熱帯性に大別されます。
今咲いている熱帯スイレンは、夏は外に出しているけれども、
冬には温室の中に入れて見守る」のだそうです。
遠路はるばる日本にもってこられた熱帯スイレン。
それにはそれなりの礼儀が必要です。

いたわりと愛が、人とスイレンの間に生まれます。
これこそが、自然に対する道徳と愛だと思います。
世話をする人の愛があればこそ、私たちはいつも美しい花を、
愛することができるのです。

あの「星の王子さま」(サン=テグジュペリ作)も、
残してきた1本のバラの世話をするため、
命をかけて、星に帰っていったのです。

いつのまにか青空が広がり、明るい陽光がさしています。
水槽で、オタマジャクシが水面に顔をのぞかせます。






資料:
『萩原朔太郎詩集』川上徹太郎編 新潮文庫

『入門歳時記』大野林火監修 角川書店

『植物ことわざ事典』足田輝一編 東京堂出版

『植物ごよみ』湯浅浩史著 朝日出版社

「都立神代植物園内・案内説明」

その他、都立神代植物園パンフレット
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2009年07月15日

第十二回 世界天文年


1609年にイタリアの科学者・ガリレオ・ガリレイ
星空に望遠鏡をむけ、宇宙を見つめてから400年目。
今年2009年は、国連、ユネスコ、国際天文学連合が、
「世界天文年」と定めました。

その目的は、

「世界中の人々が夜空を見上げ、宇宙の中の地球や
人間の存在に思いを馳せ、自分なりの発見をしてもらうこと」


もうすぐ梅雨が明けると、
夜空に輝く星を、思う存分見ることができますね。

星への思いを、東京近辺で味わうことできるところが
三鷹にあります。



森の中の天文台

JRの武蔵境駅からバスで15分。
「天文台前」で降りると、緑の木々の中にありました。
国立天文台 三鷹です。

その前身の東京天文台が、
大正3年(1914)〜13年(1924)にかけて、
麻布飯倉からここに移転されました。
日本の天文学研究の共同利用センターとなり、
世界各国の天文学者と連携して、
日々宇宙の謎を解き明かすことに挑戦しています。

森一つほどの広い構内には、さまざまな研究施設が点在しています。
見学できるのは移転当時の面影を残す大正期の建物
国登録有形文化財の第一赤道儀室、天文台歴史館(大赤道儀室)、アインシュタイン塔などです。
早速入って見学することにしました。

入門受付で、住所氏名を書いて・・・・・。

最初に見学するのは、第一赤道儀室の建物。
1921年に建てられ、この森での現存最古の建物です。


深い緑の中に、
大きなドームの兜を被ったような円筒形の建物。
蔦の絡みつく大きな古木に囲まれ、
まさに天文少年の夢世界!
冒険好きの少年・少女が大喜びしそうです。
どんな秘密の宝物がつまっているのでしょうか?

木の葉が舞う階段をのぼり、
観測室の中に入ると、ありました、宝物が!

カール・ツァイス社(ドイツ)製の口径20cm屈折望遠鏡
望遠鏡には太陽写真儀(カメラ望遠鏡)が取り付けられ、
宇宙に向けると、天体を追尾できます。
観測されていたのは太陽。
撮影された写真が展示され、黒点のスケッチ台もあります。

ここで1939年から60年間、観測が行われていました。
その記録は毎月整理され、国際機関に報告され、
太陽活動の監視や研究に大きく貢献したのです。



太陽系を歩く

天文台歴史館(大赤道儀室)に向かう道沿いに、
「太陽系ウォーキング」という、太陽系の惑星を
歩きながら見ることができる模型パネルが並んでいます。
太陽系の距離を140億分の1に縮めたものです。

太陽から土星までの実際の距離は14億kmもありますが、
この道では、たった100mでたどり着けます。


このパネルを見ると、一目瞭然で太陽系のことが分かります。
太陽はみずから輝く星で、直径139万2,000 km、表面温度6,000度などなど。
地球は、太陽から1億5,000万kmの距離で、直径1万2,756 km

水星、金星、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星の各惑星も。
子どもたちにも、わかりやすく、楽しく書いてあります。
森の中で、宇宙を見ながら・・・・・。
このようなさんぽも、あるんですね!

道沿いに、白いユリの花が満開に咲いていました。
大きく開いた花びらのなかに、
まるで宇宙が息づいているように感じます。



天文台歴史館(大赤道儀室)

道の奥には、1926年に建設された大赤道儀室
今は、天文台歴史館となっています。
いかにも天文台と言う風貌の建物は、
森の木々の中で、威風堂々の威厳にあふれています。

地上19.5m、ドーム直径15m。
ドームは大きな帽子のような緑青色。
建設当時、この半球ドームを作る技術が建築業者になく、
船底を作る技術を持った造船技師に力を借りたそうです。

観測室には、
巨大な屈折望遠鏡がドンと据えられていました。
レンズ口径65cm
屈折望遠鏡としては、日本最大の口径だそうです。
この望遠鏡は、1998年3月に引退しましたが、
今でも星の位置関係を測定し、観測が可能な状態なのです。


手回し計算機も展示されていました。

10桁と10桁の数の掛け算、割り算は、
ソロバンより早くできたそうです。
1970年ごろまで使用され、今見ると芸術品のようです

天文学では数の計算はとても大切。
1階では、その手回し計算機を使って暦の計算を体験できます。

壁には、すばる望遠鏡で撮影した天体の画像。
とても美しく、とても危険をはらんだ宇宙。
でも、いつ見ても飽きない宇宙の姿です。



アインシュタイン塔

愛称アインシュタイン塔は、太陽分光写真儀室です。

あの理論物理学者アインシュタインにちなんだ塔です。
太陽光の観測によって、アインシュタインの一般相対性理論を、
検証しようとして建てられたものです。

うっそうとした森の中の道を歩くと
建物が見えてきます。
少し離れたところから、外観を見ることしかできません。
これまた、不思議な感じのする建物です。
それこそ宮崎駿のジブリ映画に出てきそう。

建物が塔になっていて
その全体が望遠鏡の筒になっているのです!
塔望遠鏡とも呼ばれています。

高さは18.6m。
地上5階。地下1階。
外壁は鉄柱のはしごがかかり、
高いところに窓が一つ。
遠くからでも、美しい曲線を持つバルコニーが見えます。
塔の上には観測用ドーム。

資料によると、
内部は吹き抜けで、
屋上のドームから入った太陽光は、
望遠鏡から半地下の大暗室に導かれます。
そこで、プリズムや回折格子(かいせつこうし)で
虹色の光の帯(スペクトル)に分けて観測したのです。

この施設では、
アインシュタインの理論は証明できなかったようです。
観測されていたのは黒点の磁場や、
太陽表面での爆発現象です。
また太陽の自転の測定や太陽光の研究などにも使われ、
成果をあげました。


人はなぜ宇宙を知ろうとするのでしょう。
昔から宇宙のことを知ろうとする人間の情熱は
衰えることはありませんでした。
古代文明の遺跡の中にも、
天文観測の痕跡がいくつも残っています。

「人類が宇宙に乗り出すのは、
“私たちは何者なのか”という問いへの
答えを探すため」

       (『たぐいまれな地球』松本敏博著)


ひたすら望遠鏡をのぞき、
星の観測を続けたガリレオ。
今では、コンピュータでコントロールされたハッブル宇宙望遠鏡や
大型望遠鏡「すばる」が活躍しています。
そのリアルタイムで映し出されるはるか彼方の銀河の鮮やかな姿は、
宇宙の過去・現在・未来をひとつの枠の中で考えさせてくれます。

天文学は、私たちを果てしない世界に誘ってくれますね。

天文台に来たからこそ、
知りえることもあるのだと思いながら、
やわらかな光につつまれ、
静かな森を、散策しました。






資料:
『国立天文台三鷹・見学ガイド』 国立天文台 三鷹

『世界天文年2009』パンフレット 世界天文年2009日本委員会

『たぐいまれな地球』 松本俊博著NHK出版

『天文学がわかる。』 アエラムック 朝日新聞社

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