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2008年11月15日

“四季おりおり” 第二十二回 冬へ


今日、街を歩いていると和菓子屋さんの店頭に「黄金もちあります」と写真入のポスターが張ってありました。酉の市(とりのいち)が開かれる季節になったなと、少し冷たい風を感じながら思いました。

今年の酉の市は三回で、
11月3日(水) 一の酉、17日(月)二の酉、29日(土)三の酉。

毎年11月の酉の日に、鷲神社(おおとりじんじゃ)で行われる祭礼を「おとりさま」と呼んでいます。
神社に市が立つので「酉の市」といわれます。
もともとは武運長久の神として武士の信仰を集めた鷲神社でした。
江戸時代になると、この市で農耕具を売るようになりました。なかでも熊手が「福をかき集める」、「金銀をかき集める」縁起物として人気がでました。
ほかにも縁起物の七福神、お多福面、宝船や黄金餅なども売られるようになります。
そうなると武運長久の神というよりも、商売繁盛、開運の神として広く信仰されるようになったのです。
庶民の力は強い!

縁起物は「安く買うほど縁起が良い」そうで、店頭では売り買いの値段のかけひきが行われます。値段が決まるとにぎやかに、威勢良く三本締めの手拍子が響きます。

寒さはますます深まり、枯葉も地面を覆うようになりました。



すべては大地にかえる

大地はさまざまなものがかえっていくところです。
人も草も大地にかえります。
は、のかえり着くところです。

落地生根(らくちせいこん) 落葉帰根(らくようきこん)
という言葉があります。
生きとし生けるものはすべて生命の根にかえっていく。
人もまた地上から去るのではなく、大地に還っていくのですね。
いのちあるものは、生命の流れの根元へもどるということです。

植物が枯れ、葉を落とすのは、寒さから身を守るための知恵なのです。
落葉はいずれ自分を肥やし、また枝と枝の間をひろげさせて、日光を受け入れます。再生の準備なのです。草も同様、枯れて地中で静かに次の季節を待つのです。
人間の人生だって考えてみれば同じです。いろいろな経験をつんで、成熟し、最期には、次の世代へと生まれ変わる引き継ぎ、自分の出発点・いのちのもと・大地に還ります。

11月22日(土)は暦の上で、小雪(しょうせつ)。雪の降り始める時期です。



冬の月

11世紀初頭の頃、花や紅葉のはなやかな色の世界よりも、雪と月との白一色の世界に心をひかれた人がいました。
光源氏は冬の月が大好きでした。
『源氏物語』「朝顔」の巻。

与謝野晶子現代訳によると、

「春がよくなったり、秋がよくなったり、
始終人の好みの変わる中で、
私は冬の澄んだ月が雪の上にさした無色の風景が
身に沁んで好きに思われる。
そんな時には
この世界のほかの大世界までが想像されて
これが人間の感じる極地の境だという気もするのに、
すさまじいものに冬の月を言ったりする人の浅薄(あさはか)さが思われる」
 源氏はこんなことを言いながら御簾を巻き上げさせた。
月光は明るく地に落ちてすべての世界が白く見える中に・・・略。


源氏はこの世界のほかの事(37歳で亡くなった藤壺のことなど)を思い出しています。月光にはえる雪景色のなか、時間は凍りつき、記憶と夢をのせ流れていきます。子どものとき、永遠の想い人である藤壺の見ている庭で雪まろげして遊んだことも思い出しているのでしょう。

そばにいる紫の上(むらさきのうえ)は

氷とぢ 岩間の水は 行き悩み 
   空澄む月の 影ぞ流るる


と口ずさみます。
2人は庭の池の水も凍って流れない、ただ白い雪の上を月の影だけが音もなく流れてゆく、現実を越えた世界にいるのです。
雪が二条院の庭に美しく降り積もった夜のこと。
日頃の源氏の行いを恨めしいと思っている紫の上を慰めていた源氏。
紫の上は悲しみを抑えることもできず、涙のこぼれることもあったようです。辛い心情が伝わってきますね

この源氏物語の冬の美しさの描写は、
中世・鎌倉や室町時代に見られるようになる冬の美を解する心につながるのです。

紫式部は「あはれ」「はかなし」から、新しい冬の色の世界が開けてくることを予期していたのでしょう。

日本文化のセミナーで、『冬の中に美を見出した日本人』というテーマがありました。

源氏物語の王朝文化の時代から、武士たちの権力争いの時代に移っていきます。後白河天皇と崇徳上皇の権力争い「保元の乱」、後白河上皇、平清盛等と藤原信頼、源義朝たちと戦い「平治の乱」に参加した武士たちが力を強めていく時代となります。

保元元年(1156年)に起こった保元の乱を綴った軍記物語の『保元物語』では、源義朝は「合戦の庭に出て、死(しぬる)は案の内のこと、生(いきる)は存の外のこと也」と言っています。戦場では死ぬのは当たり前、生き延びるのは
思いもよらぬこと。というのです。

平治元年(1159年)に起こった平治の乱を綴った軍記物語の『平治物語』では、藤原光頼が家来に向かって「自然の事あらば、人手にかけず光頼の頸(くび)をばいそぎとれ」と言います。
「自然の事」とは、「もしものこと・死」のことを意味しています。
合戦では死ぬことは覚悟のうえ、「自然の事」です。

死を「はかなし」とか「あはれ」と思う前に、覚悟が大事。
戦場では死と向き合い、認めよと、武士たちはいいます。
時代の意識もそうだったのでしょう。
中世・ 武士たちの時代は戦いの中から始まるのです。
戦いのなかでは「あはれ」より、感動する心情は「あっぱれ」に変わります。

そのような時、人々は世の醜さに追いつめられていくのです。
武士はその経験を通して、人生は生死無常と知ったのです。
無常とは、常ならず、すべてのものは常に変わっていくということです。
今の悩みは明日の喜びに変わるかもしれないし、
また、今の喜びは明日の悲しみに変わるかもしれないのです。

人々は無常の争いごとの中で、明日の新しい世界をみいださざるをえませんでした。
人生の苦しみを抜け出たとき、開けてくるのは別世界。

人生は季節のめぐりと似ています。
秋から冬へ、冬から春へ、夏へと廻っていきます。

春を迎えるには冬を経なくてはなりません。
このことを知れば、冬には冬の美しさがあることに人は目覚めていくのです。

この世の醜い争いごとも冬に降る白い雪の中に埋もれていきます。

大地にかえっていく万物の姿を、冬は一度白い雪で覆いつくし、また萌え出る大地の春を雪の下に準備するのです。
雪漫々の大地の下には春のぬくもりが用意されています。

紅葉のいろどりや鹿の鳴く声にあはれを感じるだけではなく、雪漫々の冬の季節にも生きる歓びを感じるために何が必要だったのでしょう。

戦場における死を「自然の事」と見つめる精神の出現によって、
新しい人生の季節はひらけたのでしょうか。
それは、武士たちのみではなくその時代に生きる多くの人々の心にも
起こったことだったのでしょう。

「あはれ」から「あっぱれ」への転換でした。

次回は、その日本人が見出した冬の美に想いをはせましょう。






資料:
『日本人のしきたり』飯倉晴武編著 青春出版社

『日本人の心の歴史』唐木順三著 筑摩叢書

『漂泊者のノート』五木寛之 齋藤愼爾著 法研

『全訳源氏物語』与謝野晶子訳 角川文庫

『季語の底力』櫂未知子著  生活人新書


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2008年11月01日

“四季おりおり” 第二十一回  行く秋



秋は文化祭の季節です。
11月3日は文化の日。
大学やその他の所でも文化祭やいろいろな芸術の催し物が華やかに開催されています。
日本文化藝術財団主催の創造する伝統「杜の中の文化祭」は10月末に明治神宮で催されました。
明治神宮では御社殿復興50周年記念の「アカリウム」も行われていて、秋の木々や御社殿がライトアップされ、まるで杜全体が幻想光景の中に浮かんでいるようでした。



季節感

最近、季節感が感じられなくなったと思いませんか。

私たちは春も秋も同じような気分ですごし、
「春と秋のどちらが好き?」と聞かれれば、答えに迷いますね。

万葉の時代のことです。
人々が集まって春秋の詩を作って競い合っていた時、
天智天皇が春山の花と秋山の紅葉のどちらが美しいかを問いました。
女流歌人である額田王(ぬかたのおおきみ)は歌で答えます。


冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ
咲かざりし 花も咲けども 山をしみ 入りても取らぬ
草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては
黄葉をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ嘆く
そこし恨めし 秋山そ我は


(春が来ると、鳥も来て鳴き、花も咲くけれども、山が茂るので、入ってとることができない。
秋の山の木の葉を見る時は、紅葉したのを手に取って見て美しいと感じることができる。青い葉はそのまましておいて、まだ黄葉にはならないのね、とちょっと悲しい想いにもなる。
そこがなんとも恨めしい・・・。 秋の山の方が良いわ、私は)

額田王は、春が良いと詠った人、秋が良いと詠った人の両方に心づかいをしています。みんなは彼女がどちらを良いと言うのか気が気ではありません。耳をそばだて彼女の歌を聴いていました。
彼女は思案しながら、多分ゆっくりと詠ったのではないでしようか。
双方の長所・短所をとりあげ、最後に、秋山そ我は(秋山をとります、私は)と詠い終わるのです。

男たちは大きな景色を見て、詩に詠んだにちがいありません。
額田王は、女性らしい細やかな季節の楽しみ方を示しました。

やはり秋が良いと歌を詠った人が平安時代にもいます。


春はただ 花の一重に 咲くばかり
   物のあはれは 秋ぞまされる

            拾遺集 詠み人知らず

(春は、ただただ花が咲くだけのもの。しみじみとしたおもむきは秋の方が良い)

ところが春が良いといっているのが兼好法師です。

もののあはれは秋こそまされ、と人ごとに言ふめけれど、それもさるものにて、今一きは心も浮き立つものは、春のけしきにこそあらめ
                           『徒然草』

(あわれは秋がまさっている、と言うのもわかりますが、さらに一層、もののあわれがまさって季節の移り変わりを感じられ、しかも、心の浮き立つのは春の景色です)

季節の移り変わりさえ、それぞれの美意識をかけて楽しんでいたのでしょう。



秋の限り

7日は立冬。
立冬の前日に、
きょうははや秋の限りになりにけり、

立冬当日には、
きょうはまた冬の初めになりにけり、

と詠んだ人がいました。うまいものですね。



秋の心



塚も動け 我が泣く声は 秋の風
                      芭蕉『奥の細道』

金沢に行った時、この句碑を見たことがあります。
芭蕉は旅の途中、金沢でどうしても会いたいと思っていた人が、すでに前年の暮れに亡くなっていたことがわかります。
芭蕉は悲しみのあまり慟哭します。その泣き声は秋風と重なり、墓石まで動かし、まるで生き返ってくれと祈るようです。

造化(ぞうか:自然のエネルギー)にしたがい四時(しいじ:春夏秋冬)を友とした芭蕉。秋という季節のなかに多くの人生を語りました。

物いへば 唇寒し 秋の風

格言のように思っていた句です。
芭蕉の句だとご存知でしたか。
人のつたなさを言ってはならない、自分の自慢をしてはいけない。
口はつつしまなければなりませんね。

秋深き 隣は何を する人ぞ

元禄七年(1694)、芭蕉は大阪で句会に招かれましたが、体調がすぐれず、出席できないのを見込んで前日に送っておいた句です。

晩秋の深い静寂の中、孤独な旅人・芭蕉の人恋しく隣人を想う心。
先人にも、仲間にも、会ったことのない人にも通じていく心なのです。



秋から冬へ・月光にぬれる


秋から冬にかけては、月が特に美しい。

先日、眠りそびれて起きだし、庭を見ると、
おや、いつもと違うぞ、と思いました。
いやに明るいのです。
庭に下りて、夜空を見上げると月が煌々(こうこう)と照っていました。
月光がシャワーのように庭に降り注いでいるのです。

白雲に 羽うちかはし 飛ぶ雁(かり)の
     かずさへ見ゆる 秋の夜の月

                    古今集 よみ人しらず

(月光に照らされた高く白い雲。そこにくっきりと浮かび上がる雁の群れ。
雁たちが羽をはばたかせ飛ぶ様子もはっきりと見える。その数さえもはっきりわかるほどだ。清く澄む秋の夜の明るい月はすばらしい)

秋は空気が澄んでいて、月が空高く通る。
だから月光が、とても明るいのです。
満月の夜は、光でぬれるといわれるように、地上の木々などは青白くほのかに光って見えます。


晩秋ともなれば、だんだん寒さを感じるようになってきましたね。
冬を迎える心の準備をしなければと思います。







『和歌の解釈と鑑賞事典』井上宗雄 武川忠一編 笠間書院

『季節おもしろ事典』倉嶋厚著 東京堂出版

『日本人の心の歴史』唐木順三著 筑摩叢書

『徒然草』西尾実・安良岡康作校注 岩波文庫

『松尾芭蕉集』竹西寛子著 集英社文庫

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2008年10月15日

“四季おりおり” 第二十回 秋の色


         石山の 石より白し 秋の風
                              芭蕉


(奇岩重なる霊場那谷寺では、長い間風雪にさらされて、石の山はしらじらとしている。古来、漢詩で白いといいあらわされている秋の風。わたしはいま吹いている秋風の霊妙さに心打たれているのだ。その風はこの白い山よりも白く感じられ、秋の淋しさをいっそう強く感じさせる)

秋を白秋(はくしゅう)といって、季節を色でたとえるのは、もともと中国から伝わったものです。冬は玄冬(げんとう)といい黒色、春は青春(せいしゅん)で青色、夏は朱夏(しゅか)で赤色なのです。

この時、芭蕉は『奥の細道』の旅の途中。
それまで一緒だった曽良(そら)が体調をくずして一人旅がはじまる時でした。

心の中にものさびしい秋の風が吹きぬけ、孤独な思いがあったのでしょう。
そのような気持ちを持つ芭蕉が感じたもの、それが白い風だったのではないでしょうか。

近くの公園に散歩に行った時のことです。
空を見ようと上を向いたとき、高い枝にそよぐ葉が視界いっぱいに広がっていました。
時折、吹く風にひるがえる葉の裏が空の光を反射して白く見えました。

風に色があるなんて、あまり考えたことはなかったですね。



空の青

   不来方(こずかた)の お城の草に 寝ころびて
              空に吸はれし 十五の心

                                   石川啄木

不来方のお城は、南部藩の居城だったもので、現在は岩手公園になっています。この歌の碑が公園内にあります。

啄木は草原に寝ころび、空に向かって15歳の想いを問いかけ、夢を育んだのでしょうか。

秋になると空の青さも増してきます。
空が青いのは、7色の太陽光線の中で波長の短い青系統の光を空気の分子がより多く散乱させるからです。

水蒸気や塵(ちり)が多いと、波長の長い他の光も散乱させることになり、空の色は白っぽくなります。
だから春の青空は秋よりも白っぽく感じ、空気の乾いている秋の空はより青く見えるのです。

上空に行くほど空気は薄くなります。
約30キロの高さになると、空気の密度は地上の100万分の1。
空気が薄いと光はほとんど散乱されません。
空は真っ暗闇、暗黒の空間がどこまでも広がるばかりです。
そこから見ると地球は青く輝いています。

地球は青かった


人類最初に宇宙空間に飛び出した宇宙飛行士ガガーリンは言いましたね。

僅か30キロの空気の層なのに私たちを守ってくれている空なのです。



白菊黄菊


      白菊と 黄菊と咲いて 日本かな
                             漱石

身近で気高い菊の花。
おめでたいとき、悲しいとき、そばにあるのは菊の花。

菊合(きくあわせ)という遊びがあり、宇多天皇の寛平年間(889〜98)にその記録があります。菊に歌を添えてその優劣を競うものでした。

江戸時代には歌を添えずに、菊の優劣だけで競うようになりました。

江戸後期の園芸ブームの折には珍品の菊の高値売買が禁止になり、庶民が考え出したのが菊の見世物です。
富士山や獅子に見立てられた大造りの菊の見世物。
明治時代には花見としての菊人形見物が大当たりをとったのです。

室町時代につくられた菊の物語があります。


      にほひほば、君が袂に、のこしおき、
            あだにうつろふ、きくの花哉

                           御伽草子・『かざしの姫』

昔々、京の五条の辺りに、草花が大好きなかざしの姫という名前のお姫さまが住んでいました。
とりわけ籬(まがき)の菊がお気に入りで、日がな一日、菊とともに過ごす日が続くのです。
姫が十四歳の秋、菊の花の季節がすぎていくことを悲しいと思っていた時、二十歳ぐらいの美しい青年と出会い恋におちます。
その青年は「この辺りに住まう少将」と告げるだけで逢瀬は夢のように過ぎていきます。
その頃、宮中で「御花揃え」という祭事があり、帝に所望されて父の中納言が籬の菊を朝廷にさしだすことになります。

その夕暮れ、少将が「今日を限りと成りぬ」と別れを告げにやってきます。少将は髪を切り、薄紙に包んで姫に渡し、「あなたにみどり子を宿しておきました。良い子になるように育ててほしい」と言い残して姿を消してしまいます。
姫が薄紙を開けると前述の歌一首と菊の花びらが入っていました。
髪と思ったのは実はなんと菊の花びらでした。
菊の香りを残して去った少将は菊の精だったのです。

とうとう姫の愛した籬の菊は父に切られてしまいました。
かざしの姫は哀しみを乗り越え、やがて子どもを生みます。
かざしの姫と菊の精との間に生まれた女の子は絶世の美女に成長し、時の帝の寵愛を受けることになったということです。

菊(植物)と人の恋。
室町時代の人は、この季節にひと月ほど美しい花を咲かせる菊をいとおしいと思い、このようなおとぎ話をつくったのでしょう。

花の命は短くはかないもの、はかないからこそ美しいのです。
その美しさは私たちに生き継ぐ喜びを与えてくれます。



野山の錦とお祭り


      目つむれば 今日の錦(にしき)の 野山かな
                              高浜虚子

野山は鮮やかな紅色や黄色に染め上げられつつあります。
その紅葉のさまは、さまざまな色の糸を紡いで織り成した錦(織物)にたとえられます。まるで豪華な花嫁衣裳のように、山の頂きからすそ野まで美しく飾られ、今私たちの目を楽しませ、秋を満喫させてくれますね。

野山が彩られるころ、私たちの暮らしもさまざまなお祭りでにぎわいます。
三重県の伊勢神宮の神嘗祭(かんなめさい)。その年刈り取ったばかりの初穂を神々に捧げ、自然の恵みに感謝するお祭りです。
愛媛県の新居浜太鼓祭り。約150人の男たちが2〜3トンもある豪華絢爛な錦で飾られた太鼓台を担ぐ勇壮なお祭り。もともとは豊作を祝うものでした。
日光東照宮の百物揃千人武者行列。騎馬の神職や色とりどりの鎧武者、槍持など千人以上が、約1キロの参道を神輿とともに練り歩きます。
京都の鞍馬の火祭り時代祭り。豪壮、華麗な祭りです。
岡山県の唐子踊り。横笛や唐音に合わせて踊る可愛い子どもたち。
福岡県の秋の風物詩・博多おくんち。牛車に曳かれた神輿と稚児行列。
佐賀県の荒神輿とだんじりが激突する伊万里トンテントン
三重県の400年の歴史を持つ上野天神秋祭り。鬼行列、七福神踊り、楼車などが神輿とともに巡行するにぎやかで楽しいお祭りです。
栃木県二荒山神社の菊水祭。ここでは流鏑馬(やぶさめ)が行われます。
愛媛県宇和島の宇和津彦神社秋祭り。巨大でユーモラスな牛鬼の張りぼてを若者たちが担ぎまわり、家々を訪れ張りぼての首を突っ込み、悪魔祓いをするお祭りです。
東京の木場の角乗り。材木を巧みに操る川並衆(いかだを操る人々)の技が見ものです。これは東京都無形文化財に指定されています。

本当にお祭りも多彩ですね。
あなたの町でも秋祭りで賑やかなことでしょう。

錦秋はうつろいやすい季節ですが、少し立ち止まって楽しんでみませんか。





資料:
『別冊太陽・秋』平凡社より

「菊の精」西川照子著

『季節の366日』倉嶋篤著 東京堂出版

『松尾芭蕉集』竹西寛子著 集英社文庫

『おくのほそ道』板坂元・白石悌三 校注・現代語訳 講談社文庫

『芭蕉文集』富山奏 校注  新潮社

『日本の心を旅する』栗田勇著  春秋社



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2008年10月01日

“四季おりおり” 第十九回  秋は夕暮れ



千年ほど前、「秋は夕暮れがすてきよ」と言いきった女性がいました。

秋は、夕暮れ。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏(からす)の寝床へゆくとて、三つ四つ二つなど、飛び急ぐさへ、あはれなり。まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。

平安時代、清少納言が書いた『枕草子』の第一段です。
(秋は夕暮れがすばらしい。夕日が空を染めて山の近くに落ちていくときに、鳥がねぐらに帰ろうとして、3羽、4羽、2羽と急いで飛んでいくのさえしみじみとしてしまう。まして、雁の群れが遠くに小さく見えるのはとてもいい感じですね)

清少納言は、一条天皇の后である中宮・定子に仕え、とても明るく機知に富んだ女性でした。17歳の定子のもとに出仕したのは28歳の時。
『枕草子』は『源氏物語』が世に出る少し前に書かれ、清少納言の鋭敏な感性から捉えた自然や人間への観察が切れ味のよい文章で綴られていて評判となりました。
彼女の観察力は後世の歌人にも影響を与え続けていくのです。



秋の夕暮れの歌

秋の夕暮れは、多くの歌に詠まれてきました。



   心なき身にもあはれはしられけり
      鴫立沢(しぎたつさわ)の秋の夕暮れ

                              西行

若き日の俗名は佐藤義清(のりきよ)。鳥羽法皇に仕えた下北面(げほくめん)の武士で武勇すぐれ、歌も詠むことができ、将来を嘱望された若者でした。23歳の時、突如出家。僧名は円位、西行は号(呼び名)。
時は乱世、平安時代末期から源氏と平家の激しい戦乱の後、鎌倉時代へ移り行く時代。
俗世の心を捨て、僧になって人がこの世に在ることの意味を求めて生きようとした西行でした。

陸奥(みちのく)への旅の途中、静かな沢にさしかかった夕暮れ時。
突如静けさを破って鴫が飛び立つ。
その羽振き鳴く声を残して、まだ明るさの残る空に飛び去っていく鴫(しぎ)。
その瞬間、心に湧き起るいいようのない感情。
ありのままの自然の姿に接した感動!
今まで体験したこともない「あはれ」に触れて立ち尽くす西行。
この世の喜びも哀しみも自分の胸に抱きとり、何が起ころうがすべてを受け入れる無為の心との出会いだったかもしれません。
“鴫立つ沢の自然そのものがもつあはれ(超感動)”がひき起こした秋の夕暮れの出来事でした。

当時藤原俊成は、この歌のことを「心幽玄に姿および難し」と評しました。
歌の心は幽玄で、その歌の姿もとりわけ優れた境地となっていると言っているのです。

日本人にとって歌とはどういうものだったのでしょう。

西行にとって歌を詠むことは真言(しんごん:清らかな真実の言葉)を唱えることと同じで、一首の歌を詠んでは一体の仏像を造るようなものでした。
この世の真のすがたを求め、存在することの意味を追い求めた西行ならではの歌心です。

古今集の仮名序(序文)には、歌は人の心を種として生まれ、先祖の霊をも感動させ、天地をも動かすものだと書いてあります。

新古今集には秋の夕暮れの歌が、西行の歌の前後に、寂蓮法師と藤原定家の歌が並んでいます。

   寂しさは そのいろとしも なかりけり
      槇立山の 秋の夕暮れ

                              寂蓮法師

(寂しさは、その色というもののない世界だ。槇の木が霧の中に突如立ちあらわれる山の、秋の夕暮れのように)

   見渡せば 花も紅葉も なかりけり
      浦苫屋(うらのとまや)の 秋の夕暮れ

                               藤原定家

(見渡すと、美しい春の花も色とりどりの秋の紅葉も目を楽しませるものはどこにも見ることができない。だからこそ、より趣きが深いのだ、苫屋だけが見える海辺の秋の夕暮れよ)



夕暮れの香り

この三首の歌を題材にした“三夕香(さんせきこう)”という香りの楽しみ方があります。

   淋しさを昔にかへす歌人の名さへむなしき三の夕ぐれ

という頓阿作の歌がテーマになります。
「槇立山」、「鴫立沢」、「浦苫屋」と名前をつけて三種類の香木を炷(た)き、秋の夕暮れへの想いを、香りによせて味わうものです。

日本の伝統文化のひとつで、最近、よくテレビドラマでも見かけるようになった香道。
香道とはどのようなものでしょうか。



香木が日本にもたらされたのは六世紀、仏教伝来の時でした。
鑑真和上が伝えた練香(ねりこう)は、香木を粉末状にしたものを他の香料と混ぜ、蜜や梅肉で練り合わせたものです。薫物(たきもの)ともいいます。
はじめは仏教儀式で用いられていましたが、平安時代には生活の中で楽しむようになりました。
清少納言は言っています、「心ときめきするもの。(略)よき薫(た)きものたきてひとり臥(ふ)したる」と。
彼女にとって、心がときめくのは、すばらしい上質の香をたいてひとり横になっている時だったのです。
また紫式部の『源氏物語』では「大殿のあたりのいひしらず匂い満ちて、人の御心地いと艶なり」と部屋で香を焚き、衣服には香りをたきしめ移香(うつりが)を楽しんでいたのです。

室町時代には香木そのものを炷(た)くようになりました。
足利義政をはじめとして東山文化を生み出した貴族や武士たちは、香合せ、茶の湯、能、そして連歌(れんが)などを楽しみました。
このとき香と歌を結びつけ、香りとともに歌の心を味わう香道が生まれていくのです。
心をやすらかにして香木を炷(た)き、香味を味わう香道では、「香りを嗅ぐ」とはいわず、「香りに聞く」と表現します。
天地の声を聞くように香りに心をゆだねます。
香木の香気を味わい、香りにつつまれて、心を究めることが香道の喜びなのです。
以来、香道の作法である聞香(もんこう)が親しまれるようになりました。



香りと文学が結びついた遊びは、世界でもあまり例をみない日本独特の発想によるもの。
香りによってひろがる主題のイメージは、自らの人生経験も加味され、限りなく深く楽しいものとなります。というのは香りは記憶の世界と深く結びついているからです。



茶の湯と秋の夕暮れ

藤原定家の秋の夕暮れの歌は、茶道では侘び(わび)の境地をのべたものとして紹介されるようになりました。
千利休の師・武野紹鴎は、「侘び茶の心はこの歌のようにありたい」と述べています。
『南方録』での定家の歌の説明は、「花紅葉ハ、則(すなわち )書院台子の結構にたとへたり、其花もみじをつくづくとながめ来りて見れば、無一物ノ境界浦のトマヤ也。花紅葉ヲシラヌ人ノ、初ヨリトマ屋ニハスマレヌゾ、ナガメナガメテコソ、トマヤノサヒスマシタル所ハ見立タレ」とあります。

花や紅葉の美しさを知り尽くし、それを心の中に秘めているからこそ、寂しい浦の苫屋に侘びの境地が見出せ、その良さがわかるということです。

千利休も「世上の人々そこの山・かしこの森の花が、いついつさくべきかと、あけ暮外にもとめて、かの花紅葉も我心にある事をしらず、只目に見ゆる色バかり楽む也、山里ハ浦ノトマヤモ同然ノサビタ住居也、(略)」と言っています。

私たちは山や森の花・紅葉に心をとらわれ、目に見えるものばかりを眺めようとしているのかもしれません。真の花や紅葉が自分の心の中にあることを知らないでいるのではないか、と問うているのです。

このように秋の夕暮れの歌は香道や茶道のような日本の伝統文化に深く関わっていくのです。



虫の音

夕暮れも終わり、日の入り果てた後、清少納言はどのような時を過ごしたのでしょう。
清少納言は夕暮れの後、秋の夜のことを次のように付け加えています。

日入り果てて、風の音、虫の音など、はた、言ふべきにあらず。

(日がすっかり落ちた頃、風の音や虫の音が聞こえてくるのは言葉で言えないくらい素敵!)

リーン・リリーン、チンチロリン・チンチロリン、
ひそやかにリッリッリッ・・・ビィーッ・・・






資料:
『和歌の解釈と鑑賞事典』井上宗雄 武川忠一編 笠間書院

『古典文学』監修大橋敦夫 西山秀人 ダイヤモンド社

『西行の風景』桑子敏雄著 NHKブックス

『西行』白洲正子著 新潮文庫

『西行』三村晃功著  世界思想社

『古今集・新古今集』大岡信著 学研

『新古今和歌集』校注・訳 峯村文人 小学館

『侘びの世界』渡辺誠一著 論創社

『香道入門』淡交社
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2008年09月15日

“四季おりおり” 第十八回  秋の草花を想う



秋風に誘われ、若者たちが草原を馬に乗って駆けていく。

   秋風は 冷(すず)しくなりぬ 馬並(な)めて 
       いざ野に行かな 萩が花見に

                                『万葉集』

時は万葉の時代。
当時の貴公子たちが楽しんでいたのは萩の花見。

萩は一番人気の花だった。

「いや、萩よりは尾花(すすきの穂)がよい」と詠う人もいました。

   人皆は 萩を秋といふ よし我は
       尾花が末(うれ)を 秋とは言はむ

                                『万葉集』



万葉集・秋の七草


秋の七草の歌を詠ったのは山上億良(やまのうえのおくら)。

      秋の野の花を詠む二首

   秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り
       かき数ふれば 七種(ななくさ)の花


  (秋の野に美しく咲く花々。指折って数えてみれば七草の花)


萩(はぎ)の花 尾花(おばな)葛花(くずばな) 
瞿麦(なでしこ)の花 女郎花(おみなへし)
また藤袴(ふじばかま)朝貌(あさがほ)の花


秋の七草を詠みこんだ旋頭歌(五七七・五七七)です。
(「あさがほ」は「ききょう」のことではないかといわれています)

花の名前だけで歌になるとは素晴らしいですね。

「ふじばかま」(フジバカマ)が詠みこまれた歌はこの一首のみです。

よい香りがするフジバカマ。中国では身につけたり湯船に入れたり珍重されていました。中国に留学したことのある山上億良は特別な思い入れがあったのでしょう。

億良は生・病・老・死・貧といった人間の苦しみをよく歌にした人ですが、このような軽やかな草花の歌も詠んだのです。

ところで彼はどのような時代を生きていたのでしょう。

大化の改新から壬申の乱への激動期を経て、国家の安定期を迎えたものの、貴族文化の繁栄も社会体制の矛盾によって不安が増大していた時代。

人々は草花に目をむけ歌を詠み、心の安らぎを求めたのです。
その心の想いを秋の七草にちなんだ歌から偲(しの)んでみましょう。



萩の花(ハギ)


   見まく欲(ほ)り わが待ち恋ひし 秋萩は
       枝もしみみに 花咲きにけり


見たいと思って待ち焦がれていた秋萩。今は枝いっぱいに咲いています。

ハギは、しなやかな枝に3枚ずつ丸い葉をつけ、初秋には紅紫の蝶の形をした可愛い花を開きます。
奈良の都の春日野辺りに多く生えていたのではないでしょうか。
家畜の飼料になり、垣根や小屋の屋根にも使われました。また筆の軸にもなりました。お茶の代わりに葉を煎じて飲んだという記録もあるとのこと。



尾花(ススキ)

   帰り来て 見むと思ひし わが宿の
       秋萩すすき 散りにけるかも


野原ばかりではなく、庭にまでススキを植えて楽しんでいたのですね。

「おばな」はススキの花穂。花穂のようすが尾に似ているために尾花と呼ばれました。
秋の陽ざしを受け、光りなびいている姿はとても美しい。
中秋の名月の供え花として欠かせません。
カヤという名でも知られ、かやぶき屋根に使われます。炭俵、草履、縄、簾(すだれ)、箒(ほうき)の材料にもなり、若葉は家畜の餌になりました。根茎は乾燥し煎じると解熱剤にもなります。



葛花(クズ)


   真葛原(まくずはら) なびく秋風 吹くごとに
       阿太(あた)の大野の 萩の花散る


秋風に真っ白な葉裏を見せてひるがえるくずの葉。広い野原にたくましく伸びているのが目に浮かびます。

「くず」の花は、紫紅色で香気のある蝶形の小花です。
茎の繊維で織った葛布(くずふ)で、狩衣(かりぎぬ)や袴(はかま)を作りました。
根から葛粉(くずこ)をとることでも知られています。漢方では乾燥させた根を葛根(かつこん)といい、発汗・解熱に効きます。



瞿麦の花(ナデシコ)


   なでしこが 花見るごとに をとめ等が
       笑(ゑ)まひの匂ひ 思ほゆるかも


地方に赴任した大伴家持。なでしこを植え、その花を見ながら都に残してきた愛しい妻を偲んでいたのです。

花はかわいいピンクの五弁で、花弁の先が細く裂けているのが特徴です。

「なでしこ」は、日本女性のやさしさ・たおやかさ・清楚さ・しんの強さにたとえられる花です。大和撫子(やまとなでしこ)という言葉があるくらいですから!!
ついこの間の北京五輪でも「なでしこジャパン」が大活躍しましたね。
颯爽として、強かったですね。



女郎花(オミナエシ)


   わが里に 今咲く花の 女郎花
       堪(た)へぬこころに なほ恋ひにけり


今、わが里に咲いているおみなえしよ、たえがたい思いで恋してしまっているのだ。恋しい女性にたとえられた女郎花です。

「おみなへし」は、初秋に黄色のこまかな五裂花をつけて、たおやかに咲きます。「おみな」は若い女性のこと。昔は、美人を表すのに使われた花です。平安時代、「女郎花合(おみなへしあわせ)」という遊びがあり、互いに持ち寄った花の美しさを競いながら、その花によせて詠った歌の優劣を競うものでした。



朝貌の花:桔梗(キキョウ)

   言い出でて 言へばゆゆしみ 朝顔の
       ほには咲き出ぬ 恋もするかも


言葉に出してしまうと大変なことになってしまう。うわべは何事もないように忍ばねばならない恋をしているのです。

日当たりのよい地に好んで生えるキキョウ。青紫色の美しく品格のある花は万葉人に愛されたことでしょう。今でも東洋的な形・色など並ぶもののないように思えます。やはり根は薬になり正月の屠蘇酒にも加えられます。

このように歌に詠まれた秋の七草は、漢方薬になったり、食料・家畜のえさになったり当時の普段の生活になくてはならないものでした。清楚で可愛く気品がある草花は、時にはたくましく人々の生活の材料にもなったのです。

今、私たちのまわりに秋の七草はみつかるでしょうか?
さあ・・・歩いてみましょう
きっと清楚な花々に出会えるでしょう。
秋風に誘われてさわやかな風のなかで。
心に万葉の人々が愛した七草を思い浮かべれば!!




資料:
『万葉花譜』松田修著 国際情報社

『万葉の花ごよみ』田中澄江著 株式会社ぎょうせい

『入門歳時記』大野林火監修 俳句文学館編 角川書店

『私の万葉集』大岡信著 講談社現代新書

『万葉秀歌』久松潜一著 講談社学術文庫

『国語百科』内田保男・石塚秀雄 編者代表 大修館書店



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2008年09月01日

“四季おりおり” 第十七回  お月見



名月を取ってくれろと泣く子かな

                    小林一茶


月の力

月とともに漆黒の宇宙に浮かぶ地球。

今では、月周回衛星「かぐや」のハイビジョンカメラが撮影した鮮明な映像で見ることができます。

渦巻く雲も見えます。

私たちはその雲の下にいるのです。

じっーと映像を見つめているとなんともいえない感覚におそわれてきます。

まるで奇跡のように・・・
人間の考えること、感じること、すべてのものを越えて、宇宙空間は地球と月をすっぽりと包んでいるのです。

豊かな水と季節の移ろいがある地球。
地球上であれば、ほとんどの場所で人間は生きていくことができます。私たちの地球は幸運です。

生命の進化を可能にした条件の一つに、月の存在があります。

太陽系が誕生した直後のこと。
火星程の大きさの天体が、原始地球に衝突してできたのが月だと考えられています。
もしその時、月が生まれていなかったら、人間の文明は育っていなかったかもしれません。

月は地球の気象を安定させるという重要な役割を果たしているのです。

地球は太陽に対して地軸を23度傾けながら自転しています。傾きが数度変動すると、氷河期を引き起こす可能性があるそうです。

地球の兄弟星といわれる火星はどうでしょうか。

火星の地軸の傾きは約25度。
その地軸は、1億年の間に0度から最高60度まで不規則に変動していたようです。傾きが60度変化すると、極地は赤道あたりになり、大気候変動が起こります。

同じ太陽系の惑星でありながら、地球は海と陸に恵まれ、火星は水が地下永久凍土として凍りついています。
なぜこれほどの大きな違いが生まれたのでしょうか。
月の存在が大きく関わっていたのです。

地球の大きさに対して適切な大きさの月(衛星)。
その月があることによって、自転が安定しているのです。
火星には月と同じような大きさの衛星はありません。

地球の気候変動の研究では、25万年前からの気温の変化が明らかになってきています。

1万年以前には急激な温暖化と寒冷化が繰り返されていました。
その後、1万年前からは気温がかなり安定しました。

この気候の安定によって、人間は農業を発達させ、文明を築き上げることができたのです。



月神信仰



月は私たちの文化の中に深く根ざし、親しまれてきました。

     月読の 光に来ませ あしひきの
       山来隔(やまきへな)りて 遠からなくに


                  湯原王の歌一首 万葉集

(月が出てからその光を頼っておいで下さい。山を隔てて遠いというのではありませんが)『万葉秀歌』久松潜一著より

月は夜道を照らす明かりです。

月読というのは古代神話の月読命(つきよみのみこと)のことで、月神です。

月神信仰は世界各地にあります。
ギリシャ神話の月神アルテミス、ローマ神話のダイアナ、インド神話のルナ・ピトリなど、すべて穀物を司る女神です。
日本の月神「月読命」も『日本書紀』では、穀物と深い関係を持つ話の中に出てきます。

月の満ち欠けを“よむ”ことによって暦(太陰暦)が生れました。
季節のめぐりを“よむ”農耕は月と切り離せないものです。

旧暦では7月から9月までが秋。
8月は「中秋」と呼ばれました。
中秋の名月を観賞する十五夜には団子を供えます。
この風習は、一年の穀物の収穫に感謝する祭りから始まったのでしょう。

今年の暦では9月14日が満月です。



月を想う

月を想う人の心は時代によって変わっていくようです。

月に関するお話といえば、平安時代初期に書かれた『竹取物語』が思い浮かびます。

  「月の顔見るは、忌むこと」(月を見るのは不吉なことですよ)
   といわれたかぐや姫は人目をさけて月をながめ、
  「いみじく泣き給ふ」(激しく泣いた)とあります。

当時伝承されていた月忌みの考え方が、反映されたものなのでしょう。月はあやしく満ち欠けし、その白い光は魔性のように感じられたかもしれません。日本語の「月」の語源は「尽き」という説もあります。「年齢が尽きて老いる」というイメージもあるようです。

『古今和歌集』に次のような歌があります。

     おほかたは 月をも賞(め)でじ これぞこの
       つもれば人の 老いとなるもの


                         業平朝臣


(まあ、たいがいの折には、月を賞でるなどということはしないにかぎる。この月こそは、何度も眺めているうちにだんだん積もって、人間の老いにつながるものだから)『古今和歌集』奥村恆哉校注 新潮日本古典集成より


平安時代後期の『梁塵秘抄』には

「弥陀の御顔は秋の月」といった歌詞が見られます。
月は日本神話の月読命であるとともに、阿弥陀如来と想うようになったのです。
天空を西方に旅する月と浄土信仰の結びつきです。


室町時代、将軍足利義政は

     くやしくぞ 過ぎしうき世を 今日ぞ思ふ
        心くまなき 月をながめて


月を見て「くやしくぞ」と歌う感覚は以前にはありません。京の都が灰になった応仁の乱後、取憑かれたように月を眺めた義政。月の生命力がもたらす生まれ変わりを願ったのでしょうか。
くやしさあふれる“うき世=憂き世”の月かもしれません。


江戸時代、蕪村は

     月天心貧しき町を通りけり

月は天空の真ん中にさしかかり、貧しい町は眠りに静まり返っています。朝になればまた健気に生きる一日が始まることでしょう。何所にあっても分け隔てることなく光を注ぐ月に見守られた貧しい町。月は人間生活を見つめるようになったのです。

明治から昭和初頭を生きた宮沢賢治は、電気の幻想を加えた月に想いを託しました。

     うろこぐも 月光を吸い 露置きて
        ばたと下れる シグナルの青




月に神を感じ、仏の顔を見る信心深さ。
月の満ち欠けに生命力と想像力を見出す人々。

その月を想う心は、私たちにも受け継がれているでしょうか。






資料:
『季節しみじみ事典』倉嶋厚著 東京堂出版

『たぐいまれな地球』松本俊博著 NHK出版

『日本人のしきたり』飯倉晴武編著青春出版社

『花鳥風月のこころ』西田正好著 新潮選書

『月と日本建築』宮元健次著 光文社選書

『竹取物語』角川書店編 角川ソフィア文庫

『古今和歌集』奥村恆哉校注 新潮日本古典集成

『与謝蕪村集』竹西寛子著 集英社文庫

『花鳥風月の科学』松岡正剛著 淡交社

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