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2008年08月15日

“四季おりおり” 第十六回  暦



季節を表す言葉や行事が書かれている暦があります。

23日は処暑(しょしょ)。

長く続いた猛暑もようやくゆるやかになるのがこの頃。

処暑の名称の解釈は、天明7年(1784)の「暦便覧」によると、

    陽気とゞまりて初てしりぞき
    処(やすまん)とすればなり


暑さがやむという意味なのですね。

処暑のような季節を表わす言葉は1年の間に24個あり、二十四節気(二十四気)と呼ばれています。

立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨、立夏、小満、芒種、夏至、小暑、大暑、立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降、立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒の二十四節気。



季節のめぐり

暦はもともと季節の移り変わりを知るためにつくられたもの。

人間は生きていくための食物を得るためには、季節のめぐりを詳しく正確に把握しなければなりませんでした。

季節というものは、自然界の様子の変化です。
その変化をとらえる原始的な方法は、気候や風物などを観察することからはじまります。
けれども年によって、気候の変化は早かったり遅かったりします。

そこで、より正確な季節を決めるために、空に見える星の様子と季節の関係を見極めようとしました。

昔から星と人間との関係は深いのです。
天体の動きによって変化していく時間や季節。

西洋文化の源流の一つである古代エジプトでは、ナイル川の洪水の後、畑に種をまきました。
肥沃な土と水がたっぷりと流れ込む時期を知ろうとして、最も明るく肉眼でよく見える恒星シリウスを観察したといわれます。

1年の間にぐるっと回って同じ所に戻ってくるシリウス。
その回転を計算すると、およそ365日になることに気づきました。



東洋では、中国の帝堯(ぎょう)の時代、書経の堯典に記されているのは、

日は中、星は鳥、以て仲春を殷(ただ)す。
日は永、星は火、以て仲夏を正す。
宵は中、星は虚、以て仲秋を殷す。
日は短、星は昴、以て仲冬を正す。
とあります。

「その意味は日中(春分)、日永(夏至)、宵中(秋分)、日短(冬至)の日の夕暮れには、それぞれ鳥・火・虚・昴(ぼう)の諸星宿(中国式星座)が真南方向に来ているから、この事実によって季節(四時)を正しく知ることができる」というのです。(『暦』広瀬秀雄著より)

中国で生まれた暦の基本は、月と太陽の運行をあわせ持った太陰太陽暦(たいいんたいようれき)でした。
季節の移り変わりだけではなく、月の満ち欠けも知ることができる暦です。



太陰太陽暦

地球が太陽の周りを1回転する期間を1年としたのが太陽暦です。

季節の移り変わりを把握するためには、この太陽年の季節循環の日数を知ればいいわけです。

1年を365・25日と決めることによって、今日は1年のうちの何日目かということがわかります。

でも365日、あるいは366日として記憶しながら数え続けるのは大変ですね。

日を数えるのにもっと短くて、しかも暦に使える星はないものだろうか・・・と考えた。

幸いなことに、月の満ち欠けははっきりと目に見えます。

この月の満ち欠けの周期を1ヶ月として、その12ヶ月を1年とした暦を太陰暦といいます。

月の形と日付の関係はどのようになっているのでしょう。



毎月のはじめの日を朔日(さくじつ)といい、「ついたち」と読んでいます。
第1日目を「ついたち」というのは、「月立ち」の意味であるといわれます。
「ついたち」の時は新月です。実際は、新月は太陽と同じ方向にあるため地上からは見ることはできません。

「月立ち」というのは月の旅立ちの意味でもあり、この日から月の旅がはじまるのです。

第3日目ぐらいには、夕方の西の空に、細い三日月が見えます。それから1日1日と日が経つにつれて、月は満ちてゆき、夕方に見える天上の位置は、東へ東へと移っていくのです。

上弦の月から、15日目ごろは満月になり、その後下弦の月となって、第22、3日目ごろは真南に見えてきます。

第29日目か第30日目は太陽に近すぎるので、月の姿は見えません。
この日が晦日。
晦日を「つごもり」というのは「月ごもり」の意味だといわれています。
晦日の翌日は、新しい月の第1日目となるのです。

月の満ち欠けの周期は、平均すると約29・5日。
それを12倍すると、約354・4日。
11日を加えると、ほぼ太陽年と同じ日数になります。
365日に足りない日数は閏(うるう)月をおいて補っていました。

太陰暦の日付は年によって、実際の季節とはかなりのずれが生じます。そこで暦を正すために組み入れられたのが二十四節気(二十四気)です。
「太陰暦の上に、一太陽年を刻み、それを二十四の期間に分け、それぞれの期間に季節の名前をつけて、季節を判断できるようにしたのが二十四気です。二十四気は太陰暦に刻み込まれた太陽暦なのです。その意味で私たちが旧暦と呼んでいる暦は、太陰太陽暦だったのです」(『季節の366日』倉嶋厚著より)




日本の暦

日本で暦ということばがあらわれるのは6世紀ごろです。百済を通じて中国の暦が伝わりました。
その暦は、太陽と月の運行を同時に取り入れた太陰太陽暦

太陽による季節変化と月の引力は、動物や植物の生命のリズムに大きく関わっています。
暦を作った人々はそのことに気づいていたに違いありません。

「太陽と月の暦」は1200年以上にわたって活用され、日本の歴史と文化を紡いできたのです。

その後、明治5年(1872)に日本の暦は現在の新暦(太陽暦)に変わりました。

新暦と旧暦の良さをうまく使い分けることができれば、四季おりおりより楽しい日々となることでしょう。

私たちは太陽と月に守られて生活をしているのですね。
この大自然の営みを破壊したくないものです。








資料:
『季節の366日』倉嶋厚著 東京堂出版

『暦』広瀬秀雄著 東京堂出版

『こよみ』東京大学公開講座 東京大学出版会

『続々と、旧暦と暮らす』 松村賢治+風力5編著 
                監修・大阪南太平洋協会  ビジネス社



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2008年08月01日

“四季おりおり” 第十五回 暑き日



暑き日を 海に入れたり 最上川

                               芭蕉

(赤い夕日が今まさに海の中に引き入れられようとしている。まるで暑い一日を、最上川の水に浮かべて海に流し込んでしまったかのようだ。もう河口あたりには、涼しい夕風が立ちはじめている)
『おくのほそ道』堀切実著より


この句の前には、

  川舟に乗りて、酒田の港にくだる。   
  淵庵不玉(えんあんふぎょく)といふ医者のもとを宿とす。


    あつみ山や 吹浦かけて 夕涼み

(最上川河口の袖の浦に船を浮かべて夕涼みしていると、南の方には、暑さに縁のある温海山が仰がれ、北の方に頭をめぐらせば、暑気を吹き払うことに縁のある吹浦あたりが見渡される。こうした大きな自然の景観の中で、のびのびとした気持ちで夕涼みをするのは、なんとも快いことである)
『おくのほそ道』堀切実著より


とあります。

暑い一日も夕方には涼しくなったのでしょう。
最上川がもたらす涼しさは、暑く燃える夕日を海に流し込むかのように爽快だったのです。



上々吉の暑き日々



夏の暑さは、農家の人々にとって必要不可欠なことなのです。

小林一茶は詠います。

   米国(こめぐに)の 上々吉の 暑さかな


米作りにとってどうしても必要な暑い夏。
稲穂の実は暑さの中でこそ豊かに結ばれるからです。
太陽の光をいっぱい受けて美味しいお米は育ちます。
暑い夏が秋の実りを約束してくれるのです。


なにはともあれ、夏は暑い方が良いし当たり前。そう想って暑さと元気につきあいましょう。
夏にはさまざまな行事があります。
夏の行事といえばお祭り。お祭りに行って暑さを吹き飛ばすのが一番ですね。



夏祭り


ねぶた祭り


八月には大きな祭りが全国的に行われます。そのほとんどが月遅れ盆の行事。

東北四大祭り(青森ねぶた祭り、秋田竿燈まつり、仙台七夕まつり、山形花笠まつり)や、大文字・五山送り火燈籠祭、火祭りなど、有名な祭りがいっぱいです。

夏祭りは、もともと夏に多い災害や疫病を祓うためのものでした。
それが全国的に広まり、地域ごとの年中行事や信仰などと結びついて、神輿(みこし)や山車(だし)、祭り太鼓といったにぎやかなものが中心となっていったそうです。

   宵に睡(ね)て 又目の醒めし 祭かな

                           中村草田男

祭りと同じく、夏の間は至る所で盆踊り。
夕暮れになると、どこからか盆踊りの太鼓の音や歌声が聞こえてきます。



盆踊り

盆踊りは、盆に招かれてくる精霊を慰め供養する踊りです。

その原型は、鎌倉時代、一遍上人が広めた念仏踊りと、先祖供養が結びついたのが始まりといわれます。

一遍上人は歌います。
念仏をとなえながら踊ることによって、煩悩をはらい、阿弥陀仏の極楽浄土に導かれていくのです。

   はねばはねよ をどらばをどれ はるこまの
     のりのみちをば しる人ぞしる

   ともはねよ かくてもをどれ こゝろこま
     みだの みのりと きくぞうれしき


のりのみちは「法の道」。みだのみのりは「弥陀の教え」)


その後、盆踊りはお囃子(はやし)も加わり、笛や太鼓でにぎやかになっていくのです。
歌や三味線などが加わったのは江戸時代。

やがて、そろいの衣装で踊るなど、変化に富み、楽しく娯楽性の強い行事になっていきました。

盆踊りの原点は、参加する人々がお互いにあたたかな情感につつまれ交流し合う先祖供養の場なのです。

そういえば、亡くなった家族の供養のために花火を打ち掲げる地方があるそうです。
花火もお盆と深くかかわったところがあるのでしょう。
俳諧では花火は秋の季題でした。それは、盂蘭盆(うらぼん)の送り火と同様だったからです。

花火はお盆の行事としての意味が薄らぐにつれ、俳句で夏の季語に入れられるようになりました。



花火

ド・ドーンと身体に響く打揚花火の音。
炸裂する花火は華々しくてはかないものです



   音たかく 夜空に花火 うち開き
      われは隈なく 奪われてゐる


                         中城ふみ子

昭和二十九年、彗星のように歌壇に登場し、それからわずか四ヶ月、乳癌によって命を奪われ、三十一歳の若さで生涯を終えた女流歌人・中城ふみ子の歌です。
この歌から香りでるせつなさは、ふみ子の人生そのものなのでしょうか。

    手花火を 命継ぐ如 燃やすなり

                           石田波郷



兵役中にかかった病と闘いながら「私の俳句は散文の行ひ得ざることをやりたいと念ずるのみである。日々に命の灯を恃(たの)み得ぬものが、何(ど)うして散文の後塵を拝するの十七文字を弄(もてあそ)ぶを得んや」と句集『雨覆』(1948年)に記した波郷。

その“明澄な孤独の詩魂”が、命を継ぐが如く燃やす手花火

見えてくるものは、「素速く、美しい、波郷俳句」


その華やかさゆえに人を魅了し、瞬時に消え去っていくはかなさゆえに、人の心を捉えてはさない花火。

その花火の光跡は、見る人の心を一瞬にして映しだす鏡でもあるのです。


暑き日、自ら花火となって“耳を澄まし、目を澄まして”、自分の周囲を見わたすとき、何が見えてくるでしょうか。




資料:
『日本人のしきたり』飯倉晴武編著 青春出版社

『日本の年中行事』弓削悟編著 金園社

『芭蕉文集』富山奏校注 新潮日本古典集成

『おくのほそ道』堀切実著 NHK出版

『俳句の宇宙』長谷川櫂著 花神社

『季節の366日』倉嶋厚著 東京堂出版

『入門歳時記』大野林火監修 俳句文学館編 角川書店

『季語の底力』櫂美知子著 生活人新書 NHK出版

『名句 歌ごよみ』大岡信著 角川文庫

『一遍上人』栗田勇著 新潮文庫



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2008年07月15日

“四季おりおり” 第十四回 夏の風景


ほおずき


お盆

祖先を供養するお盆の時期です。
地域によって、七月盆・八月盆があります。

古代からの祖先信仰と仏教行事とがとけあってつくられてきたお盆。精霊会(しょうりょうえ)、盂蘭盆会(うらぼんえ)などともいいます。
精霊とは祖先の霊のこと。盂蘭盆会というのは、母親を手厚く供養して地獄から救った釈迦の弟子・目蓮(もくれん)のお話から由来する仏教行事のことです。

十三日は祖先の霊を迎える日。家の門前に迎え火を焚いて、祖先の霊が迷わず帰ってこられるようにお祈りします。
盆棚に果物や野菜などの季節ものを供え、キュウリやナスで作った馬や牛を置きます。それは先祖の霊が馬に乗って帰ってくると考えられていたからです。

十四日・十五日は祖先の霊と一緒に過す精霊祭り。十六日は送り火で帰り道を明るく照らし、精霊をお送りします。
このように四日間お盆は続くのです。

こうして私たちはお盆行事で祖先に感謝し、供養するのです。

季節ごとの行事を体験すると、古くからの信仰や仏教の教えが私たちの暮らしを支えていることがよくわかってきます。



夕焼小焼

俳句の夏の季題とされる美しい夕焼。

実は、童謡「夕焼小焼」は日本人の持つ仏教観がよく表現されているといわれています。

   夕焼小焼で日が暮れて
   山のお寺の鐘が鳴る
   お手々つないで皆帰ろ
   鳥(からす)と一緒に帰りましょう


          「夕焼小焼」作詞:中村雨紅

この歌のどこが日本人の仏教観に関係するのでしょうか。



夕空を赤く染める壮大な落日。
その彼方に、浄土のイメージを重ねて観ていた古来の日本人。
落日信仰といわれるものです。
煩悩や迷いのない清らかな浄土が「夕焼小焼で日が暮れて」のむこうに広がっているのです。

仏教の修行の場は、あの有名な比叡山や高野山などの山のなかにつくられました。
「山のお寺の鐘が鳴る」は、信仰の場である山の鐘が心に鳴り響いてくるのです。

「お手々つないで皆帰ろ」とは、どこへ帰るのでしょうか。
仏教の教えに従えば、生まれながらの自分自身に立ちかえることです。

小鳥や虫たちも一緒です。

「鳥も一緒に帰りましょう」は、“地球に生きるものは、すべて共生している”ということを意味しているのではないでしょうか。

このように考えてくると「夕焼小焼」はいつまでも歌い続けたい童謡です。



夏の記憶 聖なる山の大噴火

夏になるといつも思い出す歌があります。

雪が降るのは冬ばかりではありません。
次の歌は真夏に降る雪を詠っています。



    田子の浦ゆ 打ち出でて見れば ま白にそ
         富士の高嶺に 雪は降りける


(田子の浦を通って前方の開けたところに出てみると、富士の高嶺に真っ白に雪が降り積もっている)

『万葉集』にある山部赤人の歌です。
大和からはるばる旅をしてきた赤人が、夏に雪が降る富士山と出合い感嘆しているのです。

この歌の前に長歌があります。
その長歌には富士山についての古代日本人の記憶が受け継がれています。

   天地(あめつち)の 分かれし時ゆ 神さびて 
   高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を


 と聖なる山をたたえつつ、

   天の原 振り放(さ)け見れば 渡る日の 
   影も隠らひ 照る月の 光も見えず 
   白雲も い行きはばかり


その聖なる山は太陽の光も月の光もさえぎり白い雲の流れもはばんでしまうと詠うのです。

一体どうしたことでしょう。明るい太陽の光が見えなくなるとは!
また、夜には照っている月の光も見えなくなってしまうとは。

このことは、万葉集のもうひとつの歌、高橋連虫麿の「富士山を詠ふ歌」をみればはっきりとしてきます。

その長歌に、

   富士の高嶺は 天雲も い行きはばかり
   飛ぶ鳥も 飛びも上らず 燃ゆる火を 
   雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ 


と描写されているのは、まさに富士山の大噴火の姿です。

燃ゆる火とは山頂で噴火している炎。
その燃えさかる炎を雪が消し、降る雪を炎が消す。炎と雪の闘い。
すさまじい光景です。

そして、虫麿の反歌は、

  富士の嶺に降り置く雪は六月(みなづき)の
    十五日(もち)に消ぬればその夜降りけり


富士の山に降りつむ雪は、六月十五日(太陽暦の七月下旬)に消えたが、なんとその夜また雪が降った。

赤人の長歌は次のように続きます。

   時じくそ 雪は降りける 語りつぎ 
   言ひつぎ行かむ 富士の高嶺は


時じくそ(その時ではない時)、聖なる山の頂上には雪が降っている。語り継いでいこう、この霊妙な富士の山のことを。



燃ゆる火の記憶




フジというのは、アイヌ語の火、という意味だそうです。

富士山は、およそ五十万年前の大噴火で出現しました。
その後、度々の大噴火で高くなり、今から一万年から五千年前の間に現在の富士山になったと思われます。
その後も、噴火活動があり、今から約三千年前(縄文時代晩期)から紀元八百年頃(平安前期)までがもっとも活発でした。

縄文の人々にとって、富士山の姿が変るほどの大噴火は恐怖の体験となったことでしょう。

幾十日も続く大噴火、昼も夜も天空は真っ暗。日食と月食が同時に起っているような日々。
地鳴りがひびき、熱い溶岩の流れは村落を押しつぶし、多くの人々が亡くなってゆく衝撃。それはすさまじい大異変だったと思われます。

その大噴火は富士山への畏怖の心を生み、神の山として縄文人の心の奥底に記憶されたに違いありません。

その記憶は歌になって蝦夷の人々に伝承され、赤人にも伝わり、大和言葉に移り変わって長歌となったのでしょう。


富士山の不思議と霊妙さを感じとった山部赤人の夏の記憶。

私たちも日本人として受け継いでいくのでしょうか。


この世界は、今という時を生きている私たちだけではなく、祖先の人々、そして、これから生まれてくる未来の人々とで、できているのだと。
お盆の季節になるとふと感じます。



資料:
『日本人のしきたり』飯倉晴武編著 青春出版社

『無常の風に吹かれて』山折哲雄著 小学館

『和歌の解釈と鑑賞事典』井上宗雄 武川忠一編 笠間書院

『日本美 縄文の系譜』宗左近著 新潮選書

『日本人の一年と一生』石井研士著 春秋社

『日本の年中行事』弓削悟編著 金園社
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2008年07月01日

“四季おりおり” 第十三回 夏来るらし



        春過ぎて夏来るらし白たへの
              衣干したり天の香具山

                    『万葉集』持統天皇


(春が過ぎて夏が来たらしい。真っ白な衣が干してある。あの香具山に。)

みんなは大丈夫かしら、何ごともなく元気で夏を迎えたかしら。この夏も無病息災で過せるようにお祈りしなくては。
緑まばゆい天の香具山をみると、真っ白な衣が干してある。空も青く澄みわたり、風も気持ちよく吹いていること。
村の娘たちが早乙女になろうとして山に物忌みのお蔭(こも)りしているのでしょう。
干しているのはその斎服。
元気にしているようでよかった。
新しい季節を無事に迎えられて本当に嬉しい。

持統八年(694)に完成した藤原京の東に香具山があります。(現在の奈良県桜井市と橿原市の境)
高さ百メートル余りの低い山。
その山腹に干された白い衣を見ながら無事に新しい季節を迎えたことへの喜びと感謝の気持ちを歌われたのでしょう。

当時は、むし暑い夏に疫病が流行ることがあって大変だったのです。多くの人の命が奪われる季節と恐れられていました。そのことを考えると、持統天皇の人々の無事を願う心がよく理解できます。

持統天皇は天智天皇の娘として生まれ、天武天皇の妻となり、その後、自らも天皇になった人です。
その胸のうちには、父と夫の確執、壬申の乱、若くして亡くなった息子の草壁皇子のことなど、さまざまなことが思い出されていたに違いありません。

天武天皇崩御の後、夫の偉業を継いだ持統天皇。宮廷の儀式も整えられ、柿本人麻呂など宮廷歌人も活躍するようになりました。

その宮廷の夜空にはどのような星が輝いていたのでしょうね。



七夕歌

『万葉集』には、柿本人麻呂の詠んだ「七夕歌」が三十八首あります。

  天の川 梶(かじ)の音聞こゆ 彦星と
    織姫(たなばたつめ)と 今夜逢ふらしも


(天の川で舟をこぐ梶の音がしている。彦星と織姫が、今夜逢うらしい。)

七月七日は、牽牛織女の二つの星が年に一度の出逢いをするという七夕伝説の日。



ご覧になりましたか、天の川をへだてて輝くわし座アルタイル(牽牛星)彦星と、こと座ベガ(織女星)織姫を。

この七夕は、ロマンがあって素敵な日のようにいわれていますが、本当は悲しい物語なのです。

天帝の娘織女は機織(はたおり)がとても上手で働き者でした。天帝は娘を気使い、これまた働き者の牛飼いの青年・牽牛と結婚させたのです。愛しあうようになった二人は、楽しく過すうちに、機織ることも牛を世話することも少なくなってしまいました。
それを見て天帝は機嫌をそこね、二人を引き裂き、一年に一度しか逢えなくしてしまったのです。

柿本人麻呂は、牽牛織女の天上の恋物語を地上の恋のように感じながら歌を詠んだのでしょう。


我が恋ふる 丹(に)のほの面(おも)わ 今夜(こよひ)もか
    天の川原に 石枕まく


(私が恋している妻の紅の美しい顔よ、あなたは今夜も天の川原でひとりさびしく石の枕をして寝ているのでしょうか)

彦星が、妻の織姫を思いやっている切ない心が伝わってきます。


   恋ひしくは 日(け)長きものを 今だにも
        ともしむべしや 逢ふべき夜だに


(あなたへの恋しさはこんなにも長い間だったのですよ、こうして逢うべき夜だけでも、私をじらさないでくださいね、今だけでも)

恋する夫との逢瀬を一年も待った織姫の辛い心がわかります。

耳を澄ませば、ほれ聞こえてきますよ。
彦星の舟をこぐ音が・・・・・。


   我が背子に うら恋ひ居(を)れば 天の川
        夜舟(よふね)漕ぐなる 梶の音聞こゆ


(わが夫を恋慕っていると、天の川の川面で懸命にこいでいるらしい梶の音が聞こえてきます)

良かったですね、織姫さま。





鵲(かささぎ)の橋

中国の七夕伝説では、という鳥が翼を連ねて天の川に橋を渡し、織姫がそれを渡って彦星に逢うと伝えられています。

元禄十六年(1703)五月七日、近松門左衛門の世話物浄瑠璃『曽根崎心中』が大阪の竹本座で上演され、大当たりしました。
多くの人の心をつかんだこの人形浄瑠璃は、一ヶ月前に実際に起った心中事件をもとにして作られたものです。

人々の涙を誘ったお初・徳兵衛の道行きの場面では、鵲の橋が語られます。

空も名残と見あぐれば、雲心(くもこころ)なき水の音、北斗は冴えて影うつる、星の妹背(いもせ)の天の川。
梅田の橋を鵲の、橋と契りていつまでも、われとそなたは夫婦星、必ずさうと縋(すが)りより、二人の中に降る涙、河の水嵩(みかさ)も増さるべし。

(これがこの世の見おさめと、振り仰ぐと、羨ましくも無心な雲は、人間の悩みも知らぬ顔に、悠々と流れており、北斗星は冴え渡って、天の川のほとりに見える牽牛・織姫の夫婦星と共に、眼下の蜆川(しじみがわ)に影を落としている。ああ我々二人も、七夕の夜に鵲の橋を渡って逢うと聞く、あの星にあやかって、この梅田の橋を鵲の橋と見做(みな)し、お互いに何時までも夫婦の契りを結ぼう。そうだ、きっと二世まで添い遂げようと縋り寄る、二人が中に雨と降りそそぐ涙には、蜆川の水量も増すことであろう。
『曽根崎心中・丹波与作通釈』黒羽英男著より)

ここでは、牽牛と織女の二つの星は、日本人の「義理と人情」の涙の中に滲(にじ)んでいくのです。


おしどり


星合いの宇宙

では、宇宙感覚の星合いは、いかがなものでしょうか。
夜空を見上げて見る彦星と織姫星の距離は約16光年です。

遠いですね。
地上から見れば超遠距離恋愛です。

しかも、ともに恒星、たがいの位置関係は何年たってもほとんど変りません。
彦星が光で愛のメッセージを伝えても、織姫がそれを受けとるのは16年後なのです。
そして織姫の返事は、その16年後にやっと彦星に届くのです。

こんなにも忍耐強い宇宙の恋。


もしかすると、二つの星には心を通わす別の回路があるのでしょうか。






資料:
『日本人のしきたり』飯倉晴武編著 青春出版社

『私の万葉集』大岡信著 講談社現代新書

『和歌の解釈と鑑賞事典』井上宗雄 武川忠一編 笠間書院

『季語の底力』櫂美知子著 生活人新書

『季節おもしろ事典』倉嶋厚著 東京堂出版

『日本人の一年と一生』石井研士著 春秋社

『日本の年中行事』弓削悟編著 金園社

『曽根崎心中・丹波与作通釈』黒羽英男著 武蔵野書院


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2008年06月15日

“四季おりおり”第十二回 梅雨の日々

梅雨の日の楽しみのひとつは紫陽花を見ることです。



紫陽花や 藪(やぶ)を小庭の 別座敷

                                芭蕉

しっとりと紫陽花の花が咲く藪は趣きがあり、そこには風流な小庭の座敷があるようです。

ふる雨が染めたかのように紫陽花の花が色づく梅雨の日々。
家々の庭に様々な色の紫陽花が咲いているのはよいものですね。

その紫陽花の花は少しずつ色を変えていくようです。
「咲きはじめの青、それが白みがかったかと思うと、紫碧色(しへきいろ)の深い色に。雨にぬれていくと、その青は紅に、そして、青黄から茶褐色になって枯れていく」
これが紫陽花の七変化
今、庭に咲いている紫陽花は昨日の白い色から紫へと変わりつつあります。

そのせいなのでしょうか、紫陽花の花言葉は「変わりやすい心」。

正岡子規の句には、

           紫陽花や きのふの誠 けふの嘘

粋でちょっとにくい花。

では、紫陽花の咲く小庭を見ながら梅雨にまつわるお話をいたしましょう。



日本の季節は六つある?

日本は春夏秋冬、四季がある国ですが、実際には六つの季節があるともいわれます。
それは梅雨秋雨と呼ばれる雨の季節です。

今は、春から夏に移り変わる間の梅雨。
この時期に東アジアに現われる雨の帯。
これが梅雨前線なのです。

梅雨という言葉は、梅の実が熟するころ雨季に入るため、中国では「梅雨(メイユ)」と呼ばれ、それが日本に伝わりました。
日本では、音読みで「梅雨(ばいう)」。
「つゆ」とよむようになったのは江戸時代からといわれます。それは「露」の連想から。

旧暦では、現在の6月は5月で、そのころはこの長雨を「五月雨・さみだれ」とも呼んでいました。
「さ」は5月のこと、「みだれ」は「水垂れる」の意味だそうです。



さみだれの旅






さみだれの 空吹きおとせ 大井川
                     芭蕉





昔の旅は大変でしたね。

雨は恵みと災害の両刃の剣です。
空梅雨(からつゆ)では水不足、多すぎると豪雨。

豪雨になると川は水かさを増して濁流となり、渡ることができなくなります。
川留(かわどめ)といって旅人は水がひくまで川を渡ることはできません。
足止めをくらって何日も宿場で待たなければなりませんでした。

大井川でもよくあったことなのでしょう。

元禄七年五月十一日のことです。
五十一歳の芭蕉は深川を旅立ちます。
箱根を越し、さみだれの中、十五日に島田宿に着き、門人の如舟(じょしゅう)の家に泊まりました。この人は塚本孫兵衛といい、大井川の庄屋で、川越人足の元締めです。
その夜は大雨で、三日間の川留めとなってしまいます。
さみだれの降り続く大井川は濁流となって流れていたのです。

芭蕉は困り果てた旅人の災難をふりはらうことを願い、この句を詠んだのでしょう。

濁流をもたらした暗い雨雲。
大井川よ、その勢いで吹き飛ばしてしまえ、その雨雲を、と。


四日後の五月十九日、大井川はまだ激しい勢いで流れていました。
そこで、川奉行如舟はよりぬきの人足を動員して、芭蕉を無事に越えさせます。
そのおかげで名古屋を経て、十日後の二十八日にふるさとの伊賀上野に着いています。



梅雨将軍



・・・・・山際まで御人数寄せられ候ところ、俄(にわか)に急雨(むらさめ)、石氷を投げ打つ様に、敵の輔(つら)に打ち付くる。見方(みかた)は後の方に降りかゝる。(中略)
空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取って、大音声を上げて、すは、かゝれかゝれと仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れたり。弓、鎗、鉄砲、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿(ぬりご)も捨て、くづれ逃れけり。
天文廿一年壬子五月十九日(永禄三年庚申)『信長公記』


現在の暦になおすと、6月22日梅雨末期。
織田信長の桶狭間の合戦です。

信長は「梅雨将軍」と呼ばれています。
梅雨のことを知り尽くしていた信長は、激しい雨を隠れ蓑にして敵のスキをつきました。この勝利は信長を天下人へとつき進ませたのです。

遠藤周作の『決戦の時』には、この時のことが次のように綴られています。

「さきほどまで晴れていた空が曇ってきた。黒い大きな雲が西南から流れてきている。
(雨か)と信長は馬にまたがると、(雨よ、降れ)と念じた。雨によってこの隠密な行動をかくせば、それに越したことはない。午後の一時に近かった。まわりの樹々がざわめきはじめた。風が吹きだした。(天佑か)信長は勝つと思った。それはこの時、ほとんど彼の確信になった。(中略)
(雨のなかを突入するか、それとも晴れた瞬間を狙うか)信長は空を仰ぎながら、機を計っていた。
機こそ勝敗の鍵となる、と彼はいつも考えていた。雨があがった瞬間、敵はほっとして気をゆるめるであろう。そこを狙うのだ」
と。

梅雨を味方にした信長の姿がここにあります。

鉄砲が戦いの主役となった長篠の戦い
鉄砲隊に頼る信長軍に、梅雨の晴れ間が味方したといわれています。

本能寺での信長の悲運な最期は、天正二年六月二日未明のことです。やはり梅雨の時期です。
秀吉が梅雨で増水した川をせき止め、備中高松城を水攻めにしていた時のことだったのです。

    ときは今 あめが下知(したし)る 五月哉(さつきかな)
                                    光秀
(本能寺の変の前、京都の愛宕山での連歌会で明智光秀が詠んだ発句)

本能寺取り巻き、勢衆、四方より乱れ入るなり。
(中略)是は謀反か、如何なる者の企てぞと、御諚(ごじょう)のところに、森乱(もりらん)申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。(『信長公記』)

いつも想うのです。
運命とは日々のひとつひとつの行動の積み重ねでしょうか。





梅雨の豪雨と神話

梅雨の末期は要注意、ものすごい量の大雨が降ることがあります。
昭和三十三年の梅雨の時期、山陰地方は大雨に襲われました。このときから集中豪雨という言葉が新聞で使われ始めたそうです。

その山陰地方の伝説にヤマタノオロチの物語があります。
スサノヲノミコト八俣(やまた)の大蛇(おろち)退治です。

このお話の八つの頭と八つの尾をもつ大蛇は豪雨で荒れ狂う川にたとえたものといわれます。

『古事記』には、「汝の哭(な)く由(ゆゑ)は何ぞ」と問ひたまへば、答へ白(まを)さく、「我が女(むすめ)は本(もと)より八稚女(やをとめ)ありしを、この高志(こし)の八俣のをろち年ごとに来て喫(くら)へり。今そが来べき時なるが故に泣く」とまをしき。
(「あなたはどういうわけで泣いているのか」とお尋ねになった。これに答えて、「私の娘はもともと八人おりましたが、あの高志の八俣の大蛇が毎年襲ってきて、娘を食ってしまいました。今年も今、その大蛇がやって来る時期となったので、泣き悲しんでいます」と申した。:『古事記』次田真幸全訳注より)

出雲国に天降った須佐之男命(スサノヲノミコト)は、八俣の大蛇に食われそうになった櫛名田比売(クシナダヒメ)を救います。

ヒメが大蛇に呑まれるというのは、雨期になると肥河(ひのかわ)が氾濫して稲田が壊滅する恐ろしさを神話的に語ったものなのでしょう。
(ヒメは日本書紀に「奇稲田姫(くしいなだひめ)」と記されているように、稲田の女神の意味なのです)

この神話は、須佐之男命に象徴される勇敢な男たちの物語ではないでしょうか。
そこには、大蛇として表わされた川にむかいあい、神に祈り、知略あふれる治水の作業によって、毎年の氾濫を止めた人々がいたのです。
その活躍は、出雲の地に豊かな実りをもたらしたことでしょう。

梅雨の豪雨から命がけで稲田を守り、米作りに励んでいた古代人の姿が見えてきますね。


自然からのメッセージは大切です。
しっかりと受けとめて、生きていきたいものです。

今年の梅雨は、雨が多くしかも気温が高めだそうです。黴の発生が心配ですね。
梅雨の晴れ間には、窓を開けて換気しましょう。







資料:
『天気の100不思議』村松照男著 東京書籍

『季節おもしろ事典』倉嶋厚著 東京堂出版 

『季節の366日』倉嶋厚著 東京堂出版

『気象のしくみ』村松照男監修 オリンポス著 ナツメ社

『古事記』全訳注次田真幸 講談社学術文庫

『信長』秋山駿著 新潮文庫

『決戦の時』遠藤周作著 講談社文庫

『芭蕉の俳諧』輝峻康隆著 中央新書
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2008年06月01日

“四季おりおり”第十一回 着る心



私たちは、四季おりおりの着るものについて、季節に合わせて、さまざまな工夫を重ねてきました。
今は宇宙服まであります。



衣替え

6月1日は衣替え。
学校や職場の制服が夏服に替わります。

それは、日本人のふだん着が和服だったころの風習がいまに残ったものです。
季節の変わり目に、裏地をつけた「袷(あわせ)」から、裏地のない「単衣(ひとえ)」に替えたのです。

私たちの服装が和服から洋服へと移っていった明治時代。6月1日は夏の衣替え、10月1日は冬の衣替えとなりました。それが今に続いています。

江戸時代、幕府は年4回の衣替えを定めていました。春と秋には袷(あわせ)、夏には裏地のない帷子(かたびら)、冬には防寒用の綿入と。庶民もそれに準じておこなっていました。

あの紫式部や清少納言が活躍していた平安時代ではどうだったのでしょう。
宮中では、「衣替え」は更衣(こうい)とも言われ、4月と10月に行われていました。
4月の更衣は、暖かくなるので綿入りの衣服から綿を抜くことから「綿貫(わたぬき)」と言われていました。この宮中の衣替えが民間にも広がっていったのです。



衣のはじまり

人類で初めて衣をまとった人々は?

毛皮の衣をまとっていたと推測されているのはネアンデルタール人。
数十万年前の旧人で、とても優しく、労わりあって生きていたとされる人々です。

では、自然界から1本の繊維を取り出し、紡ぎ、布を織ったのはいつの頃でしょうか。



六千年程前、中国・黄河流域の半坡(はんぱ)という地域の人々は骨を磨いた美しい縫い針を持っていました。
半坡の人々は獣の皮や、植物の繊維でできた織物を着ていたようです。
考古学的推定によると、当時の衣服は、襟や袖のないワンピース型と上下に分かれたツーピース型。
装身具などもたくさん見つかっているので、おしゃれを楽しんでいたのではないでしょうか。



日本では

火焔土器を作り出した縄文時代の人々はどのようなおしゃれをしていたのでしょう。
あの土偶のような装いをしていたのかもしれません。

遮光器土偶

青森県亀ヶ岡遺跡(縄文時代晩期)の資料には「縄文の人々は天災や病気などの不安や恐れを解消し、安心して生活するため、呪術(まじない)をとり入れた願いや祈りのまつりを行っていたようです。
まつりでは、身を飾り、呪文(じゅもん)や踊りを行い、笛・タイコ、また琴などで音楽を奏でていたと思われます。
まつりの人々の装いは、髪は赤い紐で結髪(ゆいがみ)され、その髪は赤色漆塗りの竪櫛(たてぐし)やヘアピンで飾られ、耳には赤色漆を塗った耳飾、顔には赤色か緑色で呪術の文様が描かれていたようです。そして首には青緑色のヒスイの玉やイノシシの牙(きば)の垂飾(たれかざり)がかけられ、手首には貝や赤色漆塗りの腕輪が、また腰には貝やいろいろな腰飾がかけられ、衣服は織物や編物でつくられ、しかも文様まで描かれた装いであったと思われます」と。

以前、青緑色のヒスイの玉を見ましたが、神秘な美しさを漂わせたものでした。その時、赤い漆を塗った器も見たのですが、これもまた不思議な美しさを持っていました。

当時は今から見れば神秘的で不思議なパワーを身につけていなければ生きていけない環境だったのかもしれません。
日が暮れると、満々と星が輝く夜空に吸いこまれそうになったり、深い闇を持つ森にのみ込まれそうになったりしたことでしょう。
縄文の人々は、夜空の星や森と一体化し、自らが宇宙の神秘と、不思議な力をみなぎらせて生きようとしたと思われます。

衣裳はその身を守るとともに、その心を守っていたのではないでしょうか。


長く続いた縄文時代は、わずかな間に急激に変化し、弥生時代に移っていきました。海外から渡来する人々がふえ生活様式も変化していったのです。

3世紀頃の日本について、中国の史書『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には次のように書かれています。
「男子はみな刺青(いれずみ)をしています。
倭人は好んで海にもぐり、魚や貝をとっていますが、刺青は、大きな魚や悪いことをする水鳥を追い払うのに役立っているのでしょう。
服装は、男はみな、髪を角髪(みずら)に結い、布きれを頭に巻きつけています。着物は、大きなきれを体に巻きつけているだけで、ほとんど縫ってありません。
女は、髪を後ろでたばねています。着物は、きれのまん中に穴をあけ、その穴から頭を出して身にまとっています」と。

豊かな山野に恵まれた日本列島。当時から、麻、藤、葛(くず)など、多くの種類の植物から糸を紡ぎ、布が織られていたと思われます。

古墳の時代になると、埴輪によって当時の衣裳をおしはかることができます。
女性は上衣と裳(も)、つまりツーピース。男性は上衣と、ズボン状の袴を着け、膝下を紐で結んでいます。

飛鳥・奈良時代の服装は、高松塚古墳の壁画にある女性たちのようだったのでしょうか。上着の丈は長く、全体にゆったりと、裳は裾が長くてカラフルな縞模様。けっこうおしゃれでしたね。



歌に見られる人と衣

7世紀から8世紀にかけての歌に目を通すと、人々と衣のかかわりが見えてきます。



   太刀の後(しり) (さや)に入野に 葛引く我妹(わぎも)
   ま袖もち 着せてむとかも 夏草刈るも

               万葉時代の民謡、旋頭歌(せどうか)

(入野で葛の蔓を手繰りよせている妻、そのうちに私に着せようと思ってか、夏草を刈っているよ。)

当時の女性は夫のために葛を取り糸を紡ぎ布を織り、そして衣を縫っていたのですね。


防人歌(さきもりのうた)では、

   韓衣(からころむ) 裾に取りつき 泣く子らを
     置きてそき来ぬや 母なしにして

(韓衣の裾にとりすがり、泣き叫ぶ子どもを残して、防人になってやってきたのだ、母親もいないのに。)

母を亡くした子を残して戦いに行く防人は、大陸風の作業衣を着ていたのでしょう。


   足柄の 御坂(みさか)に立(た)して 袖振らば
     (いは)なる妹(いも)は 清(さや)に見もかも

旅立つ夫は一生懸命に袖を振ります。「はっきりと妻に見えるだろうか」と。
袖を振って呼び寄せるのは妻の心。

妻も歌います。

   色深く 夫(せ)なが(ころも)は 染めましを
     御坂たばらば まさやかに見む

(あの人の衣の色をもっと濃く染めておけばよかった。そうすれば、きっと、あれは夫だとはっきり見えたのに)

それほど長い間、夫の姿が小さくなるまで見送っていたのです。

に託して、一つに繋がっている夫婦の愛



和風化へ

6世紀から8世紀にかけて大陸の影響を受けた装いも、平安時代に入り和風化していきます。
衣服を1枚、2枚と重ねて着る「襲(かさ)ね」の風習が生まれます。
そのいろどりによって四季の移り変わりなどを表わす「襲ね」。
それは美しさと同時に寒さを防ぐ実用的な姿でもあったのです。

それが十二単の装束につながっていきます。

中世からは身体を暖かく包む小袖が欠かせない衣服となり、小袖全盛の江戸時代となるのです。


















更衣美人図 喜多川歌麿筆



和服を着る機会も少なくなった日本人。
優雅に袖を振ることも少なくなっていますね。

「日本の着物は着ている自分よりも、周りの人を気づかう衣裳」と言われます。
人と衣類のおりなす文化をもう一度見直して、大事にしていきたいものです。




資料:
『日本人のしきたり』飯倉晴武編著
青春出版社

『ひとはなにを着てきたか』黒川美富子著 
文理閣

『装うこと生きること』羽生清著 勁草書房

『私の万葉集』大岡信著 講談社現代新書

『スーパー日本史』益田宗・中野睦夫監修
古川清行著 講談社

『北の誇り・亀ヶ岡文化』青森県教育委員会


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