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2008年05月15日

“四季おりおり”第十回 緑の季節


        みどりのそよ風 いい日だね
        ちょうちょもひらひら 豆の花
        七色畑(なないろばたけ)に 妹の
        つまみ菜摘む手が かわいいな


                  童謡『緑のそよ風』より 
                  作詞:清水かつら


花いっぱい

庭の土に芽吹いた小さな野草が、可憐な薄紫の花を咲かせています。
その間を小走りに動きまわる蟻たち。

可愛い花をつけたブルーデイジー、清楚なスズラン、枝を広げた赤いチェリーセイジ、紫色の鉄線、白い小手鞠、シャクナゲもその美しい姿をあらわしています。
窓際の薔薇も次々とピンクや黄色の花びらを開いています。
五月は多くの植物が命を謳歌する季節です。


花は香りで伝えます、
みごとに花が開いたことを。

やさしい緑のそよ風が、
花の香りを運びます。

香りの道に導かれ、
ひらひらひらと舞いながら、
やってきますよ、蝶々が。

見上げる木々も爽やかに、
木の葉ゆらしてご挨拶。

飛び交う小鳥もさえずって、
梢でちょっとひとやすみ。

花を見ていると楽しくなって、なんだか詩のようになってしまいました。





こんな時、口ずさみたくなるのが、クリスティナ・ジョージナ・ロセティの『風』です。

      誰が風を見たでせう?
      僕もあなたも見やしない、
      けれど木の葉を顫(ふる)はせて、
      風は通りぬけてゆく。

      誰が風を見たでせう?
      僕もあなたも見やしない、
      けれど樹立(こだち)が頭をさげて
      風は通りすぎてゆく。

                     西条八十訳


見えない風に出逢うのは心の目でしょうか。


風が大好きという人は多いですね。
“あなたは風だよ”と言った人がいます。

アラン・タネール監督・脚本の映画『光年のかなた』の科白(せりふ)です。

     木の中に入れ。
     肉体の世界を広げよ。
     自分の名の響きに溶けこめ。
     眼と眼の間の感覚を感じとれ。
     心を通して体を宇宙へ昇らせよ。
     光を呑みこめ。
     お前は風だ。
     果てしない広がりの中に住め。
     震えと震えとの間に不動の光を見よ。
     森の中にお前の樹がある。
     発見せよ。
     本当は、一人一人が宇宙そのものなのだ。


      「風(しなど)はどこへふいているか」五木寛之より

風は空気の流れ、大気そのもの。
自転しながら太陽をめぐる地球。その地球上に生きる生物たち。植物の呼吸。人間たちの呼吸。さまざまな活動が風と関係しています。

まさに、風は地球の呼吸。
優しく呼吸することもあれば、激しく呼吸することもあるのです。



緑の光


五月に欠かせないもの、それは爽やかな陽光です。
光の滴(しずく)をまきちらすさざ波のような木の葉。

その緑色の光は私たち人間を元気にします。

生命のあるところには緑があるからでしょうか。

植物の緑は光合成と関係します。

太陽のエネルギーは光合成によって植物に取り入れられます。

光合成を行うのは、主に葉の葉緑体にあるクロロフィルaという有機分子。

この分子は、太陽光の波長の中で、短い青色と波長の長い赤色の電磁波を吸収し、これをエネルギーとして蓄えます。

太陽光の中央あたりの波長は吸収されず、葉の外に飛び出してきます。これが緑色



さあ、緑の風に誘われて森に出かけてみましょう。

森林浴は身体にいいです。

もう少し森の中へ分け入って散歩しましょう。

美しい木漏れ日が降りそそいでいますね。

木漏れ日は森にとって、とても大切なものなのです。

樹木は、太陽の光をなるべく多く浴びようとして、地上高く育っていきます。

空に伸びた枝には葉が繁りますが、すき間なく空をおおい尽くすことはないようです。

光が地上に届かなくなると、低い木や下草にいる昆虫や小動物は育つことができません。
そうなると樹木は大変困ってしまうのです。

昆虫などによる樹木の受粉が出来ないからです。

やがて、果実が実ると、小鳥たちがやってきて楽しい食事が始まります。

小鳥たちはご馳走のお返しに、果実の種を樹の周辺に蒔くのです。

樹木は光を葉の間から地上に通さなければ、蒔かれた自分の子どもたちを育てることはできません。

葉と葉の間にすき間があってよかったですね。

光は全てのものにとってかけがえのないもの。

葉の間をぬって射す陽光によって、多くの生命が育つのです。

この大切な光は、木漏れ日


公園にこだまする子どもたちの遊び声。
木陰のベンチで見守るお母さんの肩には、
木漏れ日が降りそそいでいます。




資料:
『漂泊者のノート』五木寛之、斎藤愼爾著 
                株式会社法研

『森羅万象の旅』実重重実著 地湧社

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2008年05月01日

“四季おりおり” 第九回 端午の節句


       柱のきずは、をととしの、
       五月五日の、背くらべ。
       粽(ちまき)たべたべ、兄さんが、
       計ってくれた、背のたけ。
       きのふ くらべりゃ 何のこと、
       やっと、羽織の紐(ひも)のたけ。

            童謡『背くらべ』作詞:海野厚

子どもの頃、家の柱に、背くらべの線がついていたのを覚えています。
最初は父が計ってくれたその線は、いつしか兄弟でつけるようになりました。
皆さまもそんな思い出はありますか。



端午の節句

五月五日は子どもの日。

この節句は中国の邪気払いの行事が日本に伝わったもの。
病除けや毒除けの薬効があるとされる菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)。
それを、家の門につるしたり、菖蒲酒にして飲んだりしたそうです。

日本ではもともと女の子のお祭りだったと言われます。

田植えが始まる前、厄払いをする日だったのです。
早乙女(さおとめ)とよばれる若い娘たちが仮小屋や神社にこもり、田の神様のためにケガレを祓い清めました。

このお祭りが男の子の祝い事になっていったのは次のようなことからです。

平安時代、宮中で馬上から矢を射る勇壮な行事が行われていました。
その武術を大切にする心端午の節句が結びついたのです。

武術を大切にする意味の「尚武(しょうぶ)」と「勝負」。
そして端午の節句で用いられる「菖蒲」。

まるで語呂合わせのようですが、尚武=勝負=菖蒲と。
そのようなことから、女の子のお祭りが、男の子の勇壮な前途を祝う行事になっていったということです。

江戸時代には、武者人形を飾るようになり、また中国の故事「龍門を登って鯉が龍になった」にあやかり鯉のぼりを立てるようになりました。
子どもの出世を願う気持ちからです。

菖蒲で作った兜(かぶと)や刀で遊んだ男の子たちは楽しかったでしょうね。



武者人形

幼い頃、五月になると、床の間には凛々しい武者人形が飾られていました。

目を輝かせ興味津々、親の目を盗んで華麗な兜や鎧(よろい)をはずし、手にとってしばし見とれ、はては黄金の太刀までぬいて遊んだものです。

遊びの合間には、邪気を払うとされる粽(ちまき)や柏餅をほおばって大満足。

武者人形の後ろには、勇壮な騎馬武者の掛軸がかかっていました。

「この人は誰」と無邪気に訊いたものです。
「この人はね、八幡太郎義家」





源義家の話

後年、武士道の本を読んでいたとき、この騎馬武者・八幡太郎義家こと源義家と再会しました。

それは、十一世紀の前九年の役、衣川(ころもがわ)のほとりで戦われた合戦でのこと。

東国の軍は敗走。
追っ手の大将は源義家。

逃げる軍の将は、安部貞任(あべ さだとう)。

源義家はその背後に迫り、声高く呼ばわりました。

   きたなくも うしろをば見するものかな。
   しばし引返せ、物いはん


   (敵にうしろを見せるとは、
    武士にとっては恥辱なるぞ)

すると、貞任は馬首を返します。

それを見て義家は、大音声を張り上げ作ったばかりの歌を貞任に向かって詠みました。

   衣のたては ほころびにけり

   (衣のたて糸が切れたように
    衣の館は陥落してしまった)

声が聞こえるやいなや、すかさず敗軍の将・貞任は落ち着きはらって、上の句を付けるのです。

   年を経し 糸のみだれの 苦しさに

   (年を経た糸が乱れるように、
    私の長年の指揮が乱れた苦しさの中で)

義家の投げかけた下の句が、貞任によって上の句が付けられ、歌として完成しました。

   年を経し 糸のみだれの 苦しさに
      衣のたては ほころびにけり


なんと、義家はそれまで貞任を射ようとして引き絞っていた弓をさっとゆるめ、敵を逃げるにまかせてその場を立ち去りました。

周りのものたちはさぞ驚いたことでしょう。討ち取ることもできたものをと。

そのことを問われた義家は、答えて「敵に激しく追われつつも、なお心の平静を失うことのない人物を、どうして辱めることができようか」と。

戦場における勇気ある知的な勝負。
そして、それを可能とする平静沈着な心。

仁愛(じんあい)といういつくしみの心を生む真の勇気

それは、修羅の戦場において、生きていくことの悲しみを分かつ心情なのです。

幼き日に見たあの騎馬武者は、こんなことを語りかけていたのでしょうか。



鯉のぼり

友だちの声で外に出ると、鯉のぼりが大空に泳いでいます。

「鯉のぼりは明るく澄んだ青空よりは、水のような空気の中で泳いでいるほうがふさわしい」とも言われます。

端午の節句というのは、もとは陰暦の五月五日でした。

陰暦の五月は、太陽暦の梅雨の季節。
雨も多く、空気は水蒸気で満たされています。
その「水のような空」で泳ぐ鯉のぼり。

今、鯉のぼりは青空の広がる五月の晴れた空に泳いでいます。

五月晴(さつきばれ)というのは、もともとは梅雨の晴れ間のことだったのです。

現在は五月のころの快晴を意味して使うことが多くなっていますね。



暦(こよみ)

日本の暦が、旧暦から新しい暦(太陽暦)に改まったのは明治初頭。
それから1世紀以上が過ぎています。

明治政府は旧暦の明治5年12月3日を太陽暦の明治6年(1873年)1月1日としました。

それ以来、季節ごとの言葉の意味が、少々わかりにくくなっているように思われます。
 
鯉のぼりは、旧暦の「水のような空気」で泳ぐほうがふさわしいのか、太陽暦の「明るく澄んだ青空」で泳ぐほうがふさわしいのか。

皆さまはどう思われますか。


さあ、ゴールデンウイークです。
鯉のぼりを見上げ、菖蒲湯に入り、のんびりと過しましょう。
旅に出るのもいいですね。





資料:
『日本人のしきたり』飯倉晴武編著 青春出版社

『日本の「行事」と「食」のしきたり』
     新谷尚紀監修 青春出版社

『武士道』新渡戸稲造著
     飯島正久訳・解説 築地書館

『俳句の宇宙』長谷川櫂著 花神社
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2008年04月15日

“四季おりおり” 第八回 行く春


行く春を近江の人とおしみける

                                 芭蕉


四季の変化を織り込んだ季語は、日本人の心を映し出すものです。

芭蕉は、心を託している人と行く春を惜しみました。
過ぎ去ろうとする春、私たちも季語の≪行く春≫に心を託してあそびませんか。

季語は、明治時代には季題、江戸時代の俳諧(はいかい)では四季の詞(ことば)、季の詞季詞季の題などと呼ばれていました。

歳時記によれば、風光る、朧月、山笑う、春の海、花祭り、花筏、花吹雪、菜の花、土筆、木蓮、春眠、春愁、若草、蝶、そして蛙など、数多くの季節の風物が春の季語として載せられていますね。



蛙(かはづ)





古池や蛙飛こむ水の音







貞享三年(1686)の春、蛙の句合わせに出された芭蕉の句です。

芭蕉の弟子・各務支考(かがみしこう)によると、芭蕉は「カエルが水に飛びこむ音をききながら、まず“蛙飛こむ水の音”と作ります。 
すると、其角(きかく)が、上の句は“山吹や”がいいのでは、とすすめるのです」

なぜ“山吹や”をすすめたのでしょう。

其角は、形ばかりになった古い発想への痛烈な批判を考えていたようです。



当時、“蛙といえば山吹、山吹といえば蛙の声”という発想に、歌人も、連歌師も、俳諧師もがんじがらめにしばられていたのです。

かはづなくゐでの山吹ちりにけり
花のさかりにあはまし物を

                      古今集

(蛙と山吹の名所で名高い井出に来て見ると、かじかは澄んだ声で鳴いているのに、もう山吹は散ってしまっているよ。そうとわかっていたらもっと早く来て花盛りを見たであろうに残念なことだ)

この歌が其角の頭に浮かんでいたに違いありません。

其角は、蛙飛こむ水の音山吹やをぶつけ、ほら蛙は鳴かないで水に飛こんだよと、歌の発想をくつがえして大笑いしようとしたのでしょう。

しかし、芭蕉は古池やとしました。

芭蕉は、季語を観念でもてあそび、笑いを得ようとする当時の俳諧の手法から脱しようと思って、新しい方向性を模索していたのです。

自らの目と耳による感動を大切にすることを。
そこには、新しい境地が広がっていました。

静寂な古池に、水の音。
再び戻る静寂は、以前にもました深い静寂。

は、人々の心をより深い静寂の境地にみちびくために水音を立てたのかもしれません。

和歌のかはづは、飛込んだ水音の余韻によって、芭蕉の目指す新しい俳諧のとなったのです。

土芳(どほう)の『三冊子(さんぞうし)』には、
「水に住む蛙も、古池に飛込む音といひはなして、草にあれたる中より蛙のはいる響きに俳諧をきゝ付けたり。見るに有り、聞くに有り。作者感(かんず)るや句と成る所は、即(すなわち)俳諧の誠(まこと)也」とあります。

よく見、よく聞くところに感動が生まれ、句ができるのですね。

人生の真実も、よく見、よく聞いて生きるところに現われてくるのかもしれません。

そういえば、最近は身近に蛙を見ることはまれになりました。街も近郊の土地もどんどん整備されて水たまりがなくなったせいでしょうか。めだかもめったに見ることも出来ません。

子どもたちは芭蕉の頃の季語を肌で感じ取ることが出来るでしょうか。



芭蕉と行く春


千住といふところにて舟をあがれば、
前途三千里の思ひ胸にふさがりて、
幻のちまたに離別の泪をそそぐ。

行く春や鳥啼き魚の目は泪



『奥の細道』 旅立つ日の別れの句です。

過ぎ去る春はとどめがたい。
新しい句を求めて旅立つ芭蕉の心もまた同じです。

啼く鳥にも行く春を惜しむ声を聞き、魚の目にも泪を見る心。
鳥獣虫魚、山川草木、すべてのものに身心をゆだねた芭蕉。
見送りに来たやさしいこの人たちに生きてふたたび会えるだろうか。
別れを惜しみつつ俳諧という一筋の道に旅立つ芭蕉なのです。



近くの公園の落葉樹も、鮮やかな緑の葉をつけ始めています。
太い幹の真中に木の芽がぐっと力強く吹き出してくるのを見ると不思議な感じがして楽しくなります。
黄色い菜の花が咲いているのに出会うのも幸せなこと。

草木を毎日見つめていると、すごい速さで成長しているのが感じられます。
まるで大地がうごめいているかのように。

何か強い力が季節の移り変わりをおしすすめているようです。

これが芭蕉の言う「造化(ざうくわ)にしたがひて四時(しいじ)を友とす」の“造化”(天地宇宙をつくり動かす根源の力)なのでしょうか。

季語 それは日本人の心を映し出すもの。

現代日本の精神風土は、子どもたちにどのような季語を伝えていくことができるでしょうか。





資料:
『芭蕉歳時記』復本一郎著 講談社選書メチエ

『俳句の宇宙』長谷川櫂著 花神社

『松尾芭蕉集・与謝蕪村集』竹西寛子著 
集英社文庫

『芭蕉文集』富山奏校注 新潮日本古典集成

『古今和歌集』全訳注 久曾神昇 講談社学術文庫

『入門歳時記』大野林火監修
俳句文学館編 角川書店
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2008年04月01日

“四季おりおり” 第七回 さくら


         さくら さくら
         野山も里も 見わたす限り
         かすみか雲か 朝日ににおう
         さくら さくら 花ざかり

                童謡「さくら」:作詞者不詳




幼い頃、風に舞う桜の花びらを追っかけたことはありませんか。

想像してみて下さい。
私たちの遠い遠い祖先が、手のひらに花びらをのせ、サクラと発音したときのことを。

桜の花びらの先はM字形。
先には小さくサカれたような切れ込みがあります。

サクラのサクの音は裂、割など、ラは状態の意をあらわし、サクラの意味はサクにあると言われます。

また、「咲く」はサキという言葉から生まれたそうです。
サキは「先」「崎」「柵」「裂く」「割く」「坂」「酒」、そして、「咲く」などの言葉をつくっているとのこと。

「サキ」というのは、もう前がない状態。
そこには、もっと前に進もうとするエネルギーがあふれてきます。

そのエネルギーが、枝の先の蕾となり、花となって開く。

それが「咲く」ということでしょうか。

このようにエネルギーがいっぱいに溢れ出るるとき、花が咲き春が感じられるのですね。




桜の宴

満開の桜が咲いて、桜の宴のはじまりです。

今年は『源氏物語』が書かれて千年です。
京都は、“源氏物語千年祭”で賑わっているそうです。

『源氏物語』の「花宴(はなのえん)」では、
南殿(なんでん)の桜の宴させ給ふ」とあり、
光源氏は「春という文字を賜はれり」と、漢詩をつくり、「春の鶯さへづるという舞:春鶯囀(しゅんのうてん)」をひとさし舞い、人々をその美しさで酔わせました。

宴では、夜になるまで酒を飲み、歌をかわし、歌舞音曲でたのしんだのです。
いつの時代もこうなのですね。



鎌倉時代には源頼朝が三浦三崎に「桜の御所」をつくり、お花見をしています。

貞治五年(1366)、婆娑羅(ばさら)大名佐々木道誉の催した花の宴はあまりにも有名です。
通称「花の寺」・勝持寺(しょうじじ)での花会です。

それは、前代未聞の花見でした。

大きな四本の桜の木そのものを活け花にしてしまったのです。

『太平記』には、「本堂の庭に十囲(とかかえ)の花木四本あり。此下に一丈余の鍮石(ちゅうじゃく)の花瓶を鋳掛けて一隻の華に作り成し、其交(あわい)に両囲の香炉を両机に並べて、一斤(きん:600グラム)の名香を一度に炷上(たきあ)げたれば、香風四方に散じて、人皆浮香(ふこう)世界の中に在るが如し」と。

庭に咲いた四本の大きな桜。
この桜の木を活けてみせようと、巨木の根本に、これまた大きな花瓶をとりつけ、活け花に見せてたのしんだのです。

伐っては生けることの出来ない桜に、逆に花瓶をとりつけるとは。

その上に、またまた大きな香炉を二つ置き、一斤ほどの香木を投げ入れ炷(た)いたのです。

京の人々は、その剛毅さと香りの風に酔いしれたとか。

“ばさら”とは、もともとは、サンスクリット語の金剛石(ダイヤモンド)のこと。
平安時代以来の日本では、「度を超えた華美」という意味で使われ、南北朝の動乱期の美意識と価値観をあらわす流行語となりました。

道誉は、乱世にあって、“いま”を生き切るため、おのれを衝き動かす美を生み出そうとしたのかもしれません。


桜絶唱

この勝持寺には、出家した西行がしばらく滞在していたと言われます。

   しづかならんと思ける頃、
   花見に人々まうできたりければ


 花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ
    あたら桜の 科(とが)にはありける


静かに過そうとしているのに、大勢の花見の客が来て大変騒々しい、それを桜のせいにして苛立っている若い日の西行の姿が見えてきます。

西行も無類の桜ぐるいの人。

    空にいでて 何処ともな く尋ぬれば
    雲とは花の 見ゆるなりけり


あてどなく出かけると、今まで雲と見えていたのは花であったと、桜の花との出会いを喜ぶ西行。
また、夢に見る桜ふぶきにも、胸の動悸はおさまらなかった人なのです。


  春風の 花を散らすと 見る夢は
      
     さめても胸の さわぐなりけり



太閤秀吉の桃山時代には、王朝文化の復活とされる豪華絢爛な醍醐の花見がありました。

江戸時代もお花見は盛んに行われたことでしょう。歌舞伎の舞台では桜が溢れかえります。
『助六由縁(ゆかりの)江戸桜』、『義経千本桜』などですね。

明治時代のお花見はどうだったのでしょう。
オーストラリアの美術史家アドルフ・フィッシャーは次のように書いています。

「たんに若者ばかりではなく、老人も花見に出掛け、傍らに即席の蒿葦小屋ができている桜樹の下にたむろする。小さな可愛らしい容器に注がれた茶や酒を飲みつつ、花見客は優雅に箸を使い、キラキラ光る漆器の皿にのっている握り飯や菓子をつまむ。清潔、整頓、上品さがいたるところで見受けられる」と。
(『明治日本印象記』1897年ベルリンで出版。2001年、講談社学術文庫に収められました)

明治のお花見は、清潔、整頓、上品だったのですね。

さあ、今年のお花見はどうでしょうか。



受け継がれる心

春になると、桜の開花予報が毎日のように報じられる日本。
国民的に桜が大好きになった背景は何か。
それは、桜を美しいものとしてとらえる先人たちの感性が蓄積され、文化として日本人の美的体系の中に受け入れられたからです。

“桜は美しい”と感じる心は、いつまでも受け継がれていけばいいですね。


さまざまのこと思ひ出す桜かな

               芭蕉



皆さまは、お花見で何を思い出されることでしょうか。





資料:
『日本の心を旅する』栗田勇著 春秋社

『西行』白洲正子著 新潮文庫

『香料』山田憲太郎著 法政大学出版局

『源氏物語』玉上琢彌著 角川文庫

『芭蕉文集』富山奏校注 新潮日本古典集成

『季語の底力』櫂未知子著 生活人新書

『千利休』赤瀬川原平著 岩波新書

『花鳥風月の科学』松岡正剛著 淡交社

『日本美 縄文の系譜』宗左近著 新潮選書
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2008年03月15日

“四季おりおり” 第六回 春分の日


昼夜の長さが同じ日。
太陽が真東から昇り、真西に沈む日。



お彼岸(ひがん)

日本古来の祖先信仰と仏教思想が合わさってお彼岸行事が生まれました。

仏教では西方に極楽浄土があると言われます。
春分の日は、浄土があるとされる真西に日が沈みます。このことにちなんで仏事が行われるようになったのです。

前後の一週間は「春のお彼岸」。

この期間、お寺では彼岸会(ひがんえ)という法要が営まれます。お墓参りをする方も多いですね。団子やぼた餅を作り仏前にお供えします。

「彼岸」とは、一切の悩みを捨て去った向こう岸です。それは穏やかな悟りの境地。

「此岸(しがん)」は、生死(しょうじ)の苦しみに迷う現世。

生死のなかの雪ふりしきる
どこでも死ねるからだで春風


生涯を旅で終えた俳人山頭火、その旅での心境を吟じた句です。

生死のことは、いつの時代でも問題ですね。

生死を超えた心に達するのは難しいですが、ある仏教書に書かれた次の言葉が忘れられません。

「生死を超えるとは、自らの生と死を一望のもとに見通し、生きていることも尊い意味をもっているが、死ぬこともまた尊い意味をもっていると言いきれるような、生死を超えた領域に心の視野を開くことです」と。

心に浄土をもちたいもの。

「お彼岸」はこんなことも考えさせてくれる日なのですね。
時々は、「彼岸」から「此岸」を眺めることも必要なのでしょう。いま生きている現実の苦悩を乗り超えるためにも。




山あれば山を観る
雨の日は雨を聴く
春夏秋冬
あしたもよろし
ゆうべもよろし


山頭火 句集『草木塔:山行水行』


漂泊の旅から生まれた境地。

人生も旅そのもの、春夏秋冬、あしたもよろし、ゆうべもよろし、と言えるように生きたいものです。

そして、

笠にとんぼとまらせてあるく
            山頭火


のです。


さあ、お彼岸の頃は桜の季節でもあります。



桜の季節に想う


明治23年(1890)の4月、日本を訪れたラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、『東洋における私の第一日』を書き残しています。

「日本の国では、どうしてこんなに樹木が美しいのだろう。
西洋では梅や桜が咲いても、格別に驚くほどのことではないが、日本においてはそれが全く驚くほどの美の奇跡になる。

その美しさは、以前にそのことについていかほど書物を読んだ人でも、実際に目のあたりにそれを見たら口がきけないくらい、妖しく美しいのである。

葉は一枚も見えず、ただ一枚の大きな薄い膜をかけたような花の霞なのだ。

ひょっとしたら、この神ながらの国では、樹木は遠い昔から、この国土に培われ、人にいたわられ愛されてきたので、ついには樹木にも魂が入って、あたかも男に愛された女が、男のために一層みずからを美しくするように、樹木もまた心を入れて、お礼心をあらわすものなのだろうか」(唐木順三著『日本人の心の歴史』より)


ハーンの目に映った日本の樹木の美しさ。その美しさは、樹木と人との間に交わされる親密な愛情にあるというのです。

そういえば『伊勢物語』にこのような歌があります。

世の中にたえて桜のなかりせば
  春の心はのどけからまし
        
             在原業平



(世の中に、桜というものがまったくなかったなら、春はのどかな気分でいられるだろうに)

春になると、桜の花のことを想い落ち着かなくなるのです。
いつ咲きはじめるのだろうか。
咲けば咲いたで、雨や風に散ってしまわないだろうか心配だ。
ああ、こうしていると、のどかな春の気分にもなれないよ、と嘆いているのです。

それにしても、いっそ桜などないほうがいいとは。
桜への想い、せつないですね。

桜を愛する心にも悩みはつきないもの。

「彼岸」から見た桜はいかがなものでしょうか。


桜の開花予想が気になりますね。

次回は、お花見に行きましょう。




資料
『日本の心を旅する』栗田勇著 春秋社

『花鳥風月のこころ』西田正好著 新潮社

『日本人のしきたり』飯倉晴武著 新潮選書

『日本人の心の歴史』唐木順三 筑摩叢書

『親鸞』梯實圓著 大法輪閣

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2008年03月01日

“四季おりおり” 第五回 心は春



  あかりをつけましょぼんぼりに
  お花をあげましょ桃の花 
  五人ばやしの笛太鼓
  今日はたのしいひな祭り


          「うれしいひな祭り」
          サトウハチロウー作詞


ひな祭り

3月3日はひな祭り。

女の子の成長と幸せを願う日です。

平安時代には「雛(ひな)遊び」、室町時代には「ひない祭り」と言われる女の子の人形遊びがありました。

今の“ままごと遊び”のようなものだそうです。

ひな祭りは、このような人形遊びと、中国から伝えられた季節の変わり目に邪気を払う行事とが結びついたといわれています。

春の季節の花であり、魔ものを打ち払う力があるとされる桃の木が飾られ、「桃の節句」として広まってゆきます。



時の流れは速いもの。
季節の節目に行事がなければ、あっという間に時は過ぎ去り、思い出もなく消え去りそう。

ひな祭りになるとよく幼馴染の女の子の家に遊びに行きました。

赤いひな段に内裏雛(だいりびな)が飾られ、横には桃の花。

人形はすべて小さく繊細でした。それなのになんと華やかなこと。

きまって、紙のひな人形をつくって遊んだものです。

画用紙にハサミとクレヨン。
上手く出来たためしはありません。
でも、とっても楽しかった。


いつの世も家族の幸せを願う心は、変りはないものです。






草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家        
                    芭蕉




「草庵にも、主(あるじ)の替わる時節がやってきた。私が家を出た後は、ひな人形を飾るような娘のいる家となることだろうよ」

旅に出る芭蕉も、ひな人形を飾る家族を想像し、
心を和らげたことでしょう。


青い目の人形

昭和2年、日米関係改善を願うアメリカの人々から「平和の使者」として1万体ほどの「青い目の人形」が送られてきました。
人形にはメッセージが添えられていたのです。

「ひな祭りに仲間入りさせてくださいな」と。

全国の学校に配られた「青い目の人形」は一挙にひな祭りの行事を広めたと言われています。

しかし、その14年後にはじまった戦争が、辛い運命を「青い目の人形」に与えてしまいました。
敵国の人形だと言うことで、ほとんどが壊されてしまったのです。

悲しいことですね。


春の木



河の上(へ)の つらつら椿 つらつらに
見れどもあかず 巨勢(こせ)の春野は

                『万葉集』巻一

春の野に繁ってつらなりあう椿。
美しく咲き誇る花。
いくら見ても飽きない花の美しさに心ひかれる万葉人。

春一番、すこしばかり暖かくなった春風に誘われるように、次々に真赤な花をひらく山椿。

生命力にあふれた濃緑の葉に包まれ咲く輪郭鮮やかな花。
その姿は、古代に霊力が宿る神木とされたのにふさわしい。

その霊性のせいなのでしょうか。平安時代にはあまり歌にも詠われることのなかった椿。

しかし、鎌倉時代の末から、椿の美しい姿が美術や工芸品に見られるようになります。

江戸時代には園芸が盛んになり、宮廷から幕府、庶民層まで椿の人気は広がります。

徳川家康は江戸城内に「御花畠」をつくりました。「江戸屏風絵」には約10本もの椿の古木が、白壁に囲まれて描かれています。
二代将軍秀忠も椿好み。もっぱら諸国から椿を収集したとか。

花の首が落ちるように散るのを嫌って、武士は椿嫌いと思われていました。

そう思われていたのは明治以降のことらしく、実際は武士にも人気がある花でした。

当時、人々はみなこぞって品種改良に熱中していたそうです。

江戸の植物図鑑・安楽庵策伝の『百椿集』には珍しい椿の数々が紹介され、宮内庁蔵『椿花図譜』にも700余種の椿が紹介されているとのこと。

元禄の頃には長崎から西欧に椿も含め、いろいろな花の苗や種が輸出されてゆくようになりました。

19世紀後半には、なんと欧州に椿ブームが起こりました。

そして、あの愛と情熱の小説『椿姫』(デュマ・フィス作)が生まれたのです。

与謝野晶子も恋心を椿に託して詠いました。


     椿ただくづれて落ちん一瞬を
        よろこびとして枝に動かず

                  『草の夢』




散り落ちるその一瞬を歓びとして咲く椿。
一瞬に永遠を見る思いです。

花の命は最期の最期まで燃え尽きるもの。

女性の恋の熱情も。

いとおしい いとおしい せつない ものなのです。





資料:

『日本人のしきたり』飯倉晴武編著 青春出版社

『花を旅する』栗田勇著 岩波新書

『万葉秀歌』久松潜一著 講談社学術文庫

『風物ことば十二ヶ月』萩谷朴著 新潮選書

『入門歳時記』大野林火監修 俳句文学館編 角川書店

『芭蕉文集』富山奏校注 新潮日本古典集成

『季語の底力』櫂未知子著 生活人新書
         
『与謝野晶子』松平盟子著 世界思想社



posted by 事務局 at 11:15| Comment(0) |