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2016年03月01日

第12回 ひな祭り

 3月3日はひな祭りですね。桃の節供とも、上巳の節供ともいいます。女の子のいる家では、二月のうちからひな人形を飾り、なんとなく華やいだ感じがして春が来たことを実感させます。このひな祭りの由来については、意外と複雑です。

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その沿革としては、第1に奈良時代から平安時代にかけての貴族たちが行なっていた「曲水の宴」、第2に平安時代の貴族の少女たちの人形遊びの「ひいな遊び」、第3に祓え清めのための呪具、祓具としての「ひとがた」、という3つの流れがあります。そして、それに加えて、第4に一般の庶民のあいだで伝えられてきた「山遊び」や「磯遊び」の習俗があります。
 第1の、「曲水の宴」というのは、曲がりくねった流水のほとりに座って水に盃を浮かべ、流れてくる盃が自分の前を通り過ぎぬうちに和歌を詠むという遊びです。『万葉集』にも、「漢人(からひと)も 筏(ふね)を浮かべて 遊ぶといふ 今日ぞわが背子 花蘰(はなかずら)せよ」という歌があります。これは、天平勝宝2年(750)の3月3日に大伴家持が詠んだ歌です。花蘰(はなかずら)の花は桃の花であった可能性もあります。
 第2の、「ひいな遊び」とは、平安時代の貴族の少女たちの人形遊びです。紫式部の『源氏物語』や清少納言の「枕草子」などにも描かれています。
 第3の、祓具としての「ひとがた」の記事は、『源氏物語』(須磨)にみられます。光源氏が須磨の海岸で3月の上巳の日に陰陽師を召して浜辺で祓えをさせ、人形を舟に乗せて流したという記事です。この3月の上巳の祓えは、人形を身体にこすりつけ息を吹きかけて自分の穢れを人形に託し、水辺に流し捨てるという行事でした。上巳というのはその月の最初の巳の日という意味です。
 3月3日の上巳の節供に人形を贈呈する習俗がみられるようになるのは、室町時代の京都の公家たちのあいだでのことでした。万里小路時房の日記『建内記』の永享12年(1440)の記事には、3月3日に上巳の祓えのための撫(な)で物(形代(かたしろ))として人形(にんぎょう)が贈られたということが書かれています。一方、ひな遊びが3月3日に行なわれるようになったことを示しているのは江戸時代初期の西洞院時慶の日記『時慶卿記』の寛永6年(1629)の記事です。
 こののち、江戸幕府によって公式の年中行事として五節供(人日・上巳・端午・七夕・重陽)が定められます。武家の公式行事となったことで、上巳の節供も盛んに祝われるようになり、寛永雛や享保雛、古今雛などと呼ばれるひな人形の美術工芸品も作られるようになりました。
 一般庶民のあいだで、ひな人形を飾るようになったことを示す記事は、江戸時代後期のもので、文政13年(1830)成立の随筆集『嬉遊笑覧』にみられます。

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 さて、冒頭であげた第4の、「山遊び」や「磯遊び」ですが、旧暦3月3日頃といえば、現在の新暦では4月初旬頃です。寒い冬が終わり暖かい春が訪れて、これから田植えの準備など農作業が忙しくなるこの時期、蓬を摘んで草餅を作り、ご馳走を弁当に詰めて、山野に咲き始める花々を眺めたり、水もぬるむ磯辺で魚介をとったりして一日遊ぶという行事でした。その行事には娯楽の意味もありましたが、山の神など自然の神々を招いてその年の五穀豊穣を祈るという意味も含まれていました。中部・東海地方などでは、女の子たちが河原に竈(かまど)を築いて煮炊きをし、ひな人形と遊び、最後に人形は川に流すという行事を近年まで伝えていた地域がたくさんありました。しかし、高度経済成長期を境として、それらの屋外の行事は急速にすたれていきました。現在では観光化された鳥取県下の流し雛などがよく知られるようになってきています。
 飾り雛は3月3日を過ぎないうちに早くしまわないといけない、とよくいいます。その言い伝えの背景には、女の子の災厄を人形に託して祓え清め、健康と成育を願うという伝統が生き続けているのです。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年02月01日

第11回 節分と豆まき

2月3日は節分、節分といえば豆まきですね。「鬼はぁ外、福はぁ内」の掛け声とともに、邪気や災厄を祓う行事です。

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 そもそも節分とは何か。立春、立夏、立秋、立冬の前日、季節の変わる節目の日のことです。4回の節分のうち、立春の前日の節分だけがなぜいまも残っているのか。それは、旧年から新年へという変わり目の正月と同じ季節だからです。旧暦では、月と太陽のリズムを併せ用いる太陰太陽暦でした。月の満ち欠けの一巡りでやってくる新年が正月で、太陽の一巡りでやってくる新年が立春です。一年の区切り目に正月と立春の二つがあったのです(新谷尚紀『日本人の春夏秋冬』小学館)。そして、それはほぼ同じ時季、新暦の2月初旬でした。
『古今和歌集』の冒頭につぎのようなおもしろい歌があります。
「年のうちに 春は来にけり ひととせを 去年(こぞ)とやいはむ 今年とやいはむ」
立春はふつう新年にやってくるものなのに、今年は正月よりも先に立春がきてしまった。いまは去年というべきか今年というべきか迷ってしまいますね、という意味の歌です。
 正月と立春の行事には一年の初めという意味で、共通する特徴が三つあります。一つは旧年に蓄積した災厄や汚れの祓え清め、二つめは清新な生命力を得る年取り、三つめは新年をよい年にという祈願と招福です。節分の豆まきは一つめの祓え清めです。玄関先に焼いた鰯の頭を柊(ひいらぎ)に刺しておくのも魔除けの意味です。それに対して、年齢の数より一つ多く豆を食べるのは二つめの年取りの意味です。恵方巻きは風習としては新しいものですが、その背景には三つめの招福の意味があります。だからそれなりに流行っているのです。

 では、節分の鬼と豆まきとは、いつの時代に始まったものなのでしょうか。比較的古い記録としては、室町時代の『看聞日記』が知られています。応永32年(1425)の節分の日の記事に「鬼大豆打」とあります。そこでは豆まき役の若い公家が、その役を決めつけられるのをとてもいやがっています。祓え清めの役はいやだというのです。室町時代後期の武家の作法書である『今川大双紙』では、「節分の夜の鬼の大豆をも、御年男きん(勤)ずる也」とあります。そのころから豆まきの役は厄年に当たる年男がつとめるものだとされていたことがわかります。豆まきが鬼を追い払う役であると同時に、自分の厄を祓うという考え方があったのです。江戸時代になると、庶民の間でも豆まきがさかんに行なわれるようになります。
 節分に鬼を追い払うという行事のルーツをたどっていくと、古代中国に起源をもち、奈良時代以来のこと、平安時代にも引き継がれた宮中での大晦日の晩の追儺(ついな)の行事があります。角の生えた熊皮をかぶり、黄金の四ツ目の仮面、黒い衣服に赤い裳を着し、戈(ほこ)と楯(たて)をもった方相氏(ほうそうし)と呼ばれる異様な扮装の役の者が中心となり、侲子(しんし)と呼ばれる者20人を率いて内裏の四門をめぐります。その方相氏が大声を発して戈で楯を撃つと、親王以下群臣が桃弓(もものゆみ)に葦矢(あしのや)そして桃杖(もものつえ)をもって、悪鬼、疫鬼を追い払うという行事でした。

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その追儺の行事が、平安時代の宮廷や大寺院で行なわれ伝えられていくうちに変化が起こりました。一つめの変化は、異様な風体の方相氏が逆に鬼と見なされるようになったことです。二つめは大寺院での修正会や修二会の鬼追いの祈禱行事へとなったことでした。さらに三つめは、大晦日と節分の時季の近さから、大晦日の追儺ではなく節分の行事として定着していったことです。
 節分の行事はこのように歴史の中でいろいろと大きな変化を重ねてきています。しかし、祓え清め、年取り、祈願と招福、という三つの意味があることには変わりありません。今年もぜひ、2月3日の節分の晩は、豆まきを楽しんでみてはいかがでしょうか。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2016年01月01日

第10回 今年はサル年

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 今年の干支は丙(ひのえ)申(さる)、申年です。陰陽五行では丙(ひのえ)は火の兄(え)、申は金の陽で、熱く硬いイメージの年でもあり、草木が伸び果実が成熟しあらゆる物事が形を成していくような機運の年でもあります。
 さて、正月といえば初詣。サル年にちなむ神社といえば、やはり栃木県の日光東照宮でしょう。「見ざる、言わざる、聞かざる」の三匹のサルが有名です。でもなぜ東照宮にサルの彫刻があるのでしょうか。
 第一に注目されるのは、その彫刻が神社の本殿ではなく、神馬の厩舎(きゅうしゃ)にあるということです。サルには馬の守り神としての信仰がふるくからありました。中世の『一遍聖絵』や『石山寺縁起絵巻』には厩舎につながれた猿が描かれています。

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農耕馬が川で泥を洗い落としたり水辺で草を食(は)んでいると、河童が馬の尻子玉を狙って尻尾にしがみつき水中に引き込もうとする「河童駒引き」という話があります。その河童から馬を守ると信じられたのがサルでした。河童ならぬサルの駒引きの絵馬を厩舎に掛けてお守りとしたり、厩舎の柱にサルの頭蓋骨やミイラ化した腕などを掛けていた例も多くありました。また正月にかつて多くみられたサルまわし芸は、中世の『吾妻鏡』などにも登場し、近世末期まで朝廷や将軍家でも年賀の行事に組み込まれていました。サルまわし芸の人たちは、頼めば厩舎で馬の安全を拝んでくれたりもしました。柳田國男はそのような猿まわし芸の人たちの情報を集め、彼らは単に見世物芸というだけでなく馬の医者をも兼ねていたと述べています。
 第二に注目されるのは、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿です。それはもともと中国の道教の三尸(さんし)の説から出た「庚申信仰」に由来します。61日ごとにめぐってくる庚申(かのえさる)の日の夜、人間が眠ると体内にいる三尸の虫が体から抜け出て天帝にその人間の罪過を告げて早死にさせるので、その夜は徹夜をするという信仰と行事でした。古代中国で成立し、日本では平安時代の宮廷貴族の間に広まりました。その徹夜の行事は「守庚申(しゅこうしん)」や「庚申の御遊(ぎょゆう)」と呼ばれ、酒宴を催し詩歌、管弦、碁、双六などに興じる娯楽中心のものでした。それが青面金剛(しょうめんこんごう)を庚申様として信仰するものへと変換したのは室町時代のことで、推進したのは天台宗系の修験者たちでした(拙著『死と人生の民俗学』1995)。江戸時代にはその庚申信仰が庶民の間にも広く普及し、各地で石造の庚申塔が建てられました。初期の庚申塔に刻まれたのが、青面金剛と三匹のサルです。そのころには、天帝に罪過を告げる三尸の虫が、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿へと変換されてきていたのです。
 そして第三に注目されるのが、日光東照宮の創建に大きくかかわり、家康の知恵袋ともいわれた南光坊天海です。天海が学んだのは比叡山延暦寺の天台教学でした。比叡山の地主神は日吉山王権現です。豊臣秀吉=日吉丸がサルと呼ばれたように、日吉山王権現のお使いはサルでした。徹夜の遊宴だった庚申の信仰と行事を、青面金剛の信仰へと大きく変換させたのも天台宗系の修験者たちでした。
こうしてみてくると江戸の初期、日光東照宮の創建に信仰面で深くかかわった天海と、政治経済・技術で貢献した人たちの信仰世界と、その間には、@神馬を守る厩舎のサル、A庚申信仰の三尸から三猿へと変換したサル、B日吉山王権現の使いとしてのサル、という三つのサルのイメージが、無意識的に共有されていたのであろうと考えられるのです。

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この新春、初詣に出かける人もそうでない人も、サル年にちなみ機会をみて栃木県の日光東照宮や滋賀県の日吉神社を訪れてみてはいかがでしょうか。これらに限らず由緒の古い神社には、まだまだ多くの歴史と民俗のミステリーが隠されているにちがいありません。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2015年12月01日

第9回 冬至

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 12月といえば1年の締めくくりの月、慌ただしく師が走るくらい忙しい月だから「師走」という俗説は、平安時代末期の『色葉字類抄』にもあります。その12月といえば、やはり冬至です。今年は12月22日(火)です。1年でいちばん日照時間が短くなる日です。この日は太陽の力がもっとも弱くなり、人間をはじめ動植物も生命力が衰弱してある種の危機と感じられるような日ですが、しかし、同時にこの日をさかいに陽気が回復してきます。つまり、冬至には、これから生命力が再生復活していくという「一陽来復」の信仰が伝えられています。
 この冬至に食べるとよいといわれているのがカボチャです。カボチャを食べると病気にならず、元気に冬を越せる、幸運に恵まれる、などといわれています。カボチャはカンボジアに通じる名前で、16世紀にポルトガル船によって伝えられた食物です。南瓜(なんきん)とか唐茄子(とうなす)などとも呼ばれており、比較的新しい食材であるためか、江戸時代の記録類にはまだカボチャが冬至の縁起物の食物だという記事はみられません。

また、冬至には柚子湯に入るとその冬は風邪をひかないとか、ひびやあかぎれが治るなどといいます。江戸後期の『東都歳事記』には「今日銭湯風呂屋にて柚子を焚く」とあります。冬至に柚子やみかんや柑子などの柑橘類をもって祝うという風習は長い歴史をもっています。それを教えてくれるのが日本各地の鍛冶屋や鉄工所で冬至の日に行なわれている「ふいご祭り」の伝承です。
「ふいご」というのは鍛冶の炉の火力を強くするための送風器具です。金屋子神とか金山神とか稲荷神とか、鍛冶屋や鉄工所で祭られている神さまは各地でさまざまですが、共通しているお供えがみかんです。

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(写真提供:國學院大學)

最近の研究(黒田迪子「ふいご祭りの伝承とその重層性について」『國學院雑誌』第116巻第8号)によると、鉄に焼きを入れるもっとも大切な瞬間の熱せられた鉄の色がちょうどみかんの色に通じるもので、それは太陽の光の色にも通じます。「ふいご祭り」には太陽のもっとも弱くなる冬至に、陰陽五行の信仰を背景として「一陽来復」の信仰とともに、新たな一年の始まりを祝うという意味が込められているのです。

柑橘類の歴史をみれば、日本書紀には常世国に遣わされたタジマモリ(田道間守)という人が、不老長寿のトキジクノカグノコノミ(非時の香菓)を求め得てきたという記事があります。古事記は「これ今の橘なり」と記しています。
万葉集にも
橘は 実さへ花さへその葉さへ 枝に霜降れど 弥常葉の樹
と詠われています。柑橘類には古くから不老長寿の果実として、常緑葉の生命力のある果樹としての意味が与えられていたのです。
現在、京都の平安神宮の紫宸殿の前庭には「左近の桜 右近の橘」がありますが、もともと平安時代前期は、「左近の梅 右近の橘」でした(古事談)。それは、「天子南面」といわれる都城制の中で、冬から春への年越しの永続性を象徴的に示すものでした。「冬至の橘」から「新春の梅」へという、歴代天皇の御代(みよ)御代(みよ)の永遠更新への願いが込められていたのです。
 カボチャや柚子の黄色や小豆粥の赤色は、いずれも冬至が太陽と火の祭りであったという古い伝統をいまに伝えているものなのです。

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12月22日の冬至の日には、身体によいというカボチャや小豆粥を食べ、柚子湯でゆっくり温まり、この日から始まる太陽のめぐりの新しい1年を清々しい心身で迎えてみてはいかがでしょうか。


2015年11月01日

第8回 七五三のお祝い

11月15日は七五三のお祝いです。
深まり行くさわやかな秋の一日、日本各地の神社は晴れ着の親子連れの参拝客で賑わうことでしょう。しかし、現在のように七五三が三歳と七歳の女児と五歳の男児のお祝いとしておこない、日取りも11月15日となったのは実はあまり古いことではありません。 
 七五三というのは、1・3・5・7・9という奇数の中の3つの吉数をとったもので、縁起のよいことを願い喜ぶ上での、祝儀の数字として選ばれたものです。もともとは「七五三の膳」などといい、本膳に七菜、二の膳に五菜、三の膳に三菜を出す、豪華な食膳の料理のことを意味するものでした。江戸時代半ばに流行った雑俳にも、「どきどきと 何から喰ふぞ 七五三」というのがあります。それより少し後になると「七五三とは めづらしひ 十五日」というのがあり、そのころから七五三が子どもの祝いになってきたことが知られます。
 現在にまでつながるような七五三のお祝いが一般化するのは、明治時代の都市部からでした。森鴎外や徳田秋声などの作品にはその様子が描かれています。それでも昭和の戦前期までは大都市に限られており、広く日本各地に広まるのは戦後の高度経済成長期のことでした。

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 さて、七五三という言い方は比較的新しいのですが、そのもととなった子どもの祝いの習俗は非常に古い歴史をもっています。早い例では平安時代中期に着袴(ちゃっこ)を三歳で行なった守平親王(後の円融天皇)の例が知られています。また『栄花物語』や『源氏物語』にも東宮(とうぐう)たちの三歳の祝いがさかんに行なわれたことが記されています。この袴着の祝いは平安末期〜鎌倉時代になると五歳の男児の祝いとなり、江戸時代には武家の子どもの五歳の祝いとして一般化していきました。
 髪置きは三歳の祝いで、鎌倉、室町の公家や武家の記録にさかんにみられます。江戸時代の雑俳にも「髪置きや 加茂へときめく 肩車」というのがあります。幼児を肩車して京都の賀茂社へとお参りする庶民の親子の幸せな姿が目に浮かびます。
 記録にはあまり残っていませんが、明治〜昭和まで日本各地の農村地帯でもっとも広く伝えられていたのは、三歳や五歳ではなく、七歳の男女児の帯解きの祝いでした。七つの祝いともいい、それまでの付け紐のついた着物から帯で締める着物に替える祝いです。
埼玉県の和光市域の例ですが、毎年11月15日になると男女とも七歳になったオビトキッ子が、晴れ着や羽織袴で正装し、親類縁者の若者に肩車をしてもらい、みんなで氏神様の神社へと参ります。神社へ着くと境内に生えている柴を手折り、神社のまわりを三回まわって、その柴を拝殿の後ろの板壁に挿します。その後で集まってきてくれた人たちに餅まきをしたり、お菓子やミカンなどを配ります。そうしてオビトキっ子は帰りはもう自分の足で歩いて帰ります。この七つの祝いには、その子があらためて氏神様の氏子になるという意味もありました。

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七つの祝いといえば、「とうりゃんせ」の歌が知られていますが、
「この子の七つのお祝いに、天神さまへ参ります」
「行きはよいよい帰りはこわい、こわいながらもとうりゃんせ、とうりゃんせ」
という不思議な詞が歌われています。そこには、子どもから大人へ、新しい世界へ旅立つという意味が含まれています。膝の上でもう甘えてはいられない、子どもなりに社会の一員へとなっていくのだという意味のお祝いでした。
 七五三には、その日だけは主人公になり、自分が大切にされていることを体験し、そこからまた新たな自分を作っていく、という自覚をもたせ、応援するという大切な意味があったのです。今年、七五三のお祝いのあるご家庭、また自分の家の子どもでなくても、神社にお参りしているかわいい七五三の親子連れを見かけたら、そんなお祝いと応援の気持をこめ、あたたかく見守ってあげたらいかがでしょうか。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)


2015年10月01日

第7回 米と日本人:新米の季節

10月は稲の収穫の季節です。美味しい新米が流通し始めます。

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お米のご飯は日本の食事には欠かせません。米の消費量が最近では減っていると言われますが、もともと日本では米の消費量はそれほど多いものではありませんでした。昔からお米は貴重品で、真っ白いご飯は一般の人たちには冠婚葬祭の時くらいしか食べられないものでした。その貴重なお米を節約するために、麦飯や芋雑炊、またカテ飯(わずかな白米にイモ類や大根などを加えて焚き込んだもの)を食べるのが一般的な農村の食事でした。
1950年、国会答弁で当時の大蔵大臣・池田勇人が「貧乏人は麦を食え」と言ったという新聞報道が話題となりました。池田の発言は、所得に応じた経済の原則を語ったものでしたが、新聞報道のわかりやすい言葉の方が広まります。つまり、貧乏人は米は食べられないので麦を食べる、という実感がそのころの日本社会にはまだまだあったのです。

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 日本の米の歴史、稲作の歴史は非常に古く、九州北部では紀元前10世紀後半には水田稲作が始まっていたことが明らかとなっています。しかし、その後の日本列島各地への稲作の普及は遅々として進みませんでした。九州北部で稲作が始まってから南関東にまで広まるのに、650〜700年という途方もない時間がかかったのです。そして、結局、現在の山形市と仙台市を結ぶ線から北方の東北地方には稲作は定着しませんでした。なぜ、稲作が定着しなかったのでしょうか。それは稲作労働の過酷さと、労働力を統率する権力システムの構築が容易ではなかったからでしょう。しかし、いったん水田稲作の定着に成功した地域の首長たちは、その手にした労働統率力と収穫物の独占により、持続可能なシステムを構築します。そして余剰労働力を古墳築造へと展開させました。ですから、西暦240年頃から600年頃まで、稲作が定着しなかった東北地方の一部を除き、日本各地で古墳時代が展開します。古墳時代とはまさに地方ごとの首長王権が稲作を徹底的に定着させ、稲を租税として徴収するシステムを完成させていった時代だったのです。
 やがて飛鳥時代には中国王朝の権力システムを導入し、律令国家の構築へと至ります。その天武・持統天皇の時代こそ、稲の王である「天皇」(大王)と、「日本」(倭)が誕生した時代でした。
(新谷尚紀『伊勢神宮と出雲大社−「日本」と「天皇」の誕生−』2009、同『伊勢神宮と三種の神器−古代日本の祭祀と天皇−』2013いずれも講談社選書メチエ)

そうして成立した古代王権では「聖なる米」と「俗なる米」とがありました。聖なる米が11月の天皇による大嘗祭(新嘗祭)の新米であり、俗なる米が租税としての租庸調の田租でした。
稲と米とは権力に密着したもの、政治の結晶だったのです。
古代の田租から中世近世の年貢米へと、稲と米は独特の歴史を刻んでいきます。ですから、日本の政治・経済・文化にとって、稲と米とはただの農産物ではないのです。

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 毎年1年をかけて収穫される米には、それを食することで人間の生命(魂)、年齢を1つずつ加えていくという意味があります。11月の新嘗祭のご飯で天皇はその霊威力を更新強化します。そして正月の鏡餅を年玉として年齢と年齢力を1つ加えていくのです。
天皇だけではありません。長い歴史と古い由緒を伝える新嘗祭は、広く一般の人たちの収穫祝いの祭りとして伝承されていたことが風土記や万葉集には書かれています。
現在では勤労感謝の日となっていますが、先祖たちが苦労をして伝えてきた稲作と新米の収穫祭。今年は皆さんも新米で温かいご飯を炊いて味わってみてはいかがでしょうか。新たな生命力が得られるにちがいありません。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)



2015年09月01日

第6回 お月見

 9月といえば、お月見です。もともとは中秋の名月といって旧暦8月の十五夜の月を拝み観賞する行事でした。旧暦では月の満ち欠けによって1か月を数えていたので、毎月の晦日から朔日は新月で闇夜、15日は十五夜で望月、つまり明るい満月の夜でした。それが明治政府が西洋暦を採用することに決め、季節ごとの行事と季節感とが約1か月ずれることとなりました。お月見も旧暦では8月でした。しかし季節感が大切、何より満月を観賞する行事ですから、新暦の9月中にやってくる十五夜の日を計算し、その日に行なわれているのです。

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 お月見の歴史は実はあまりよくわかっていません。平安時代中期の寛平・延喜のころ、宮中で観月の宴が催されたことは知られています。奈良時代の万葉集にはまだみられませんが、美しい月を愛でる風流は古くからありました。万葉集巻7には月を詠む歌18首が収められており、巻8の秋の雑歌の中には大伴家持の次のような歌があります。

雨晴れて 清く照りたるこの月夜
    またさらにして 雲な棚引き
                    
(雨が上がって清く照っているこの夜の美しい月よ、ふたたびこの月に雲よたなびくな)

また平安時代末期の歌人、西行は次のような歌を詠んでいます。

数へねど 今宵の月のけしきにて
    秋の半ばを空に知るかな
    
(旅の日々、とくに日にちを数えていなかったが、夜空に輝く中秋の名月に季節のめぐりを知ることよ) 

 お月見には、むかしから風流と収穫祭という二つの面がありました。
民間のお月見には十五夜と十三夜とがあり、旧暦8月の十五夜を「芋名月」、旧暦9月の十三夜を「豆名月」などと呼んでいます。そこからお月見には秋の芋や豆の収穫感謝の意味があったことが考えられます。家ごとに縁側に供える物には、ススキの穂、月見団子、里芋が定番でそれにサツマイモや豆類、そして柿や栗などの果物も供えます。ただ、月見団子は里芋に似せて作るという例もあるところから、米を材料にする団子は新しいもので、古くは里芋が供え物の中心だったとも考えられます。

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 そして、お月見にはちょっと変わった不思議な習慣が伝えられています。
 一つは、片月見のタブー。お月見をするなら十五夜と十三夜の片方だけではだめ、必ず両方の月見をしなければならないというタブーです。
 二つめは、縁側に供えられた月見団子や里芋などは、近所の子どもたちがこっそり盗んで食べてもいい、という習慣です。盗みはしてはいけない行為ですが、月見団子はむしろ盗まれるのが縁起がよいとされているのです。
 三つめは、月見団子は逆にその家の嫁入り前の娘は決して食べてはいけない、というタブーです。
 澄みきった夜空の満月は人びとを物思いに誘います。それは精神と身体との両方を揺さぶります。古今和歌集(905−914)にも次のような歌があります。

月みれば ちぢにものこそ悲しけれ
    わが身ひとつの秋にはあらねど

(月をみると、もの悲しくてちぢに心が乱れてしまう、自分の身一つだけの秋でもないのに) 

 そこで注目されるのが、折口信夫の月の解釈です。古事記のヤマトタケルと尾張のミヤズヒメとの結婚の神話から、月のはじめの「ついたち」という語の語源は「月立ち」、つまり、女性の月経の始まりを意味しており生理と排卵の周期から、満月には女性の生殖力が連想されたのだと読み込んでいます。
(折口信夫「月および槻の文学」『折口信夫全集ノート編』第2巻 中央公論社、新谷尚紀『柳田民俗学の継承と発展』吉川弘文館)

 お月見の伝承やタブーの不思議の中には、月と女性の神秘と豊穣力とが潜んでいるようなのです。

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中秋の名月は、現代人が忘れかけた月と人間の不思議を思い出させてくれる絶好のチャンスです。今年の十五夜、中秋の名月はぜひゆっくりと夜空を眺めてみてはいかがでしょうか。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2015年08月01日

第5回 盆踊り

8月といえば夏休みの真っ盛り。海水浴に行ったり、山間の行楽地に出かけたり、楽しい思い出作りの月です。そして、お盆の行事の月でもあります。お盆といえばお墓参り、14日と15日には実家に帰ってお墓参りをする人も多いようです。それは親戚どうしが集まり先祖と自分たちとの関係を懐かしむ機会でもあります。

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しかし、何といってもお盆といえば、盆踊りです。団地や町内会で催される盆踊り大会では、中央のやぐらを囲んで輪になって浴衣姿の男女がおおぜいで楽しく踊ります。東京音頭やアンパンマン音頭など、それぞれ地方ごと時代ごとの誰でも親しめる歌が大音響で流れて、見ていても楽しいのですが、思い切って踊りの輪の中に入って自分も踊ってみると、けっこう楽しい興奮を体験できます。

ところで盆踊りとはいったい何なのでしょうか。鎌倉時代の時宗の開祖の一遍上人が始めた踊り念仏に由来するという説もありますが、歴史の記録だけからの追跡ではよくわからない部分が多いようです。そこで参考になるのは、民間伝承として日本の各地に伝えられている盆踊りのいろいろです。
たとえば静岡県の遠州大念仏の類は新盆の家を廻って踊り、その年に新しく亡くなった死者の供養をするのですが、よく似た盆踊りが奥三河から南信州の山間地域にかけて広く伝えられています。それらはそもそも盆踊りとは、その年に亡くなった新しい死者の霊魂の鎮送と供養のための踊りだったということを伝えています。
また、秋田県雄勝郡羽後町の西馬音内(にしもない)の盆踊りは観光的にもよく知られていますが、踊り手が顔を黒い覆面で隠した不思議な魅力が印象的な盆踊りです。同じ秋田県鹿角市毛馬内の盆踊りも留め袖姿で着飾った美しい踊り手たちで知られていますが、みんな布の頬かむりで顔を隠して踊ります。覆面で顔を隠して踊る盆踊りの例は、他にも島根県津和野町などに伝えられています。それらの例が伝えている覆面というのは亡者の扮装であり、亡者(踊り手)たちがお盆の夜中のひととき、この世を訪れて舞い踊るという見立てです。そして、それこそが盆踊りのもともとの意味だったと考えられるのです。

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 熊本県の山鹿燈籠まつりの盆踊りは踊り手たちの綺麗な着物姿とともに頭上の灯籠が美しい盆踊りです。お盆の先祖供養や死者供養の行事に欠かせないのが燈籠です。お盆の行事では燈籠の明りとともに精霊を迎え、送ります。墓地にもたくさんの灯籠があげられます。その燈籠を頭上にしておおぜいの踊り手たちが舞い踊る光景は、精霊たちの訪れとその喜びとをみごとに表わしています。

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 観光行事として有名な徳島県の阿波踊りも盆踊りの一種です。それをよく表わしているのは両手をあげて踊る独特の所作でもありますが、何よりも菅笠です。遠州大念仏でも、秋田県の西馬音内や毛馬内の盆踊りでも、踊り手はその多くが菅笠をかぶって踊ります。菅笠は異郷からの来訪者を表わす意味を込められた衣装です。日本各地の盆踊りの観光化の程度はさまざまですが、古い伝統をよく伝える盆踊りの中には、もともと先祖や死者の供養のための踊りであったということを伝える要素がよく残っています。

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現在の団地や町内会で催される盆踊りではそのような要素はなくなっていますが、夏の夜の娯楽という意味はしっかりと残っています。若い男女の出会いの場というのも古くからの盆踊りの要素です。恥ずかしがらずに実際に参加して踊ってみてはいかがでしょうか。
「踊るあほうに見るあほう、同じあほなら踊らにゃ、そんそん」
踊っているうちに、ひとときでもあの世の先祖の霊と自分とがつながっているかのような、妙な興奮と感動を体験できるかも知れません。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2015年07月01日

第4回 お中元

七月といえば、お中元の季節です。デパートではさまざまなアイデアを生かした商品を揃えて夏の商戦がヒートアップします。消費税アップの影響と、円安による輸入原料高から値上げが相次ぎ、売り上げに伸び悩むデパート業界にとっては、夏のお中元商戦は冬のお歳暮商戦とともに、その一年の業績を決定するほどの大切な機会となっています。消費者にとってもデパートにとっても、現代社会の一つの年中行事です。

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さて、誰に何をいつ贈るか、もう毎年のことなのでほとんど決まっている人も多いかと思いますが、結婚して新しい所帯をもった若い夫婦の場合など、いろいろと考え迷ってしまう人も多いことでしょう。そこでまず、誰に送るかですが、若い夫婦の両親やとくに親しい親戚同士というのがもっとも多く、会社など仕事場の上司や仕事上の付き合い先というのもかつてほどではないまでもやはり多いのが現状です。次に何を送るかですが、やはり飲食品が圧倒的に多いといってよいでしょう。そして、いつ送るかですが、これは関東と関西など、地方によって少しちがいがあります。7月上旬から発送して遅くても7月15日までには相手に届くようにするのが関東地方、7月中旬から発送して8月上旬に、遅くても8月15日までには相手に届くようにするのが関西地方というちがいです。お盆を月遅れで行なう関西地方ではその8月15日をめどにしているのです。
 このような、誰に何をいつ贈るのかというお中元の行事の傾向や特徴は、何に由来するのでしょうか。それは日本のお中元の歴史に由来します。お中元とはもともとは中国の道教の三元の信仰によるものです。1月・7月・10月のそれぞれ15日を、天官の上元・地官の中元・水官の下元として、その日には天官・地官・水官の三官がそれぞれ人間の行為を天神に報告しそれによって各人の運命が決定されるという信仰です。中国ではこの日に三官に罪を懺悔し供物を捧げて幸運を祈ったのです。日本にも伝えられたこの三元の信仰のうち、お盆の行事と同じ旧暦7月15日に当たっていたのが中元だったのです。
 日本のお盆の行事の中心は、もちろんお墓参りと先祖のみたまを各家へ迎えて供物でもてなすことです。しかし、もう一つ大切なのが盆(ぼん)供(く)と呼ばれる両親への贈り物でした。盆棚と呼ばれる新設の棚に、もしくはきれいに掃除した仏壇に、素麺(そうめん)やぼたもちやお茶などを朝晩供えて先祖のみたまと亡くなった両親のみたまをもてなすのです。ただしまだ両親が健在な場合には、いきみたま(生見玉)といって子どもたちが素麺(そうめん)や刺(さし)鯖(さば)を贈る風習が日本各地に伝えられていました。この風習の歴史は古く、たとえば鎌倉時代の藤原定家の日記『明月記』の天福元年(1233)7月14日条にも「俗習有父母者今日魚食云々」とあります。お盆に健在な父母には魚を食べてもらうというのです。
 この盆供といきみたま(生見玉)の習慣が、同じ7月15日ということで、江戸時代になると中元の供物と重なってきました。貝原益軒と甥の好古の編になる貞享期の『日本歳時記』(1687)には「十五日、今日を中元と云。国俗蓮(はすの)葉(は)飯(めし)を製して、来客に饗し、親戚にをくる」とあります。お盆の定番の料理である蓮(はすの)葉(は)飯(めし)を中元の日だから親戚に贈るというのです。天保期の『東都歳事記』(1838)には「中元御祝儀荷(はすのは)飯(めし)・刺鯖を時食とす」とあります。もともと盆供つまり盆の食べ物である荷(はすのは)飯(めし)・刺鯖を、中元の食べ物だと書いています。盆供の贈答が江戸時代に中元の贈答へと重なってきていたのです。お中元の贈答品に飲食物が多いのもこのような盆供といきみたま(生見玉)の伝統が生きているのです。

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 現在では古くからの盆供の習俗は影が薄くなってきています。しかし、お中元の行事はますます健在です。自分を産み育ててくれた両親への感謝の思い、日ごろお世話になっている仕事関係の人たちへの感謝の思いを伝えるお中元の習俗は、表面上のデパート商戦のヒートアップとは別に、その底流ではお盆とお中元の贈答習俗という人びとの感謝の伝統に支えられているのです。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)

2015年06月01日

第3回 花田植え

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広島県や岡山県など中国地方の中山間地農村には、はなやかな伝統行事「花田植(はなだうえ)」が伝えられています。
古くから「囃し田(はやしだ)」と呼ばれて、その起源は鎌倉、室町の中世にさかのぼると考えられています。
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その代表的なものが、平成23年(2011)11月にユネスコの世界無形文化遺産に登録された北広島町の「壬生の花田植」です。その記録が残っているのは江戸時代からで、近所の5戸から7戸くらいの農家で組をつくって、「ささら竹」を手にした「サンバイ」と呼ばれる男性の掛け声と歌謡に合わせて、大太鼓や小太鼓、手打ち鉦や笛でにぎやかに囃し、早乙女たちが美しい声で田植え唄を歌いながら田植えをしたことが旧家に所蔵される記録には書かれています。
 それらの中のとくに大規模なものが、田植えの季節の総仕上げとして行なわれていた大地主の家の田んぼで行なわれた「大田植え」でした。数十人の着飾った早乙女や大小の太鼓をはじめとする囃し方、綺麗に飾り立てた「飾り牛」も数十頭が出て、「サンバイ」の指揮のもと、いわば豪華な一大田園絵巻が繰り広げられていたのです。そして、田植えの後のごちそうやお酒の振る舞いで、その年のきびしかった田植えの労働の終了を祝い、楽しく一日を過ごしたのでした。

 この「壬生の花田植」は、壬生という町場の「囃し田」と川東という近くの農村部の「囃し田」とそれまで別々であった二つの団体が、昭和51年(1976)に国の重要無形民俗文化財に指定されるに際して合同して伝承するようになったものです。それは日本社会が昭和30年(1955)の神武景気からはじまり昭和48年(1948)の第1次オイルショックでいちおうの終息をみる高度経済成長期を経た直後のことでした。牛馬を使う昔ながらの農業から耕耘機やトラクターを使う農業へと変わっていました。農家が牛や馬を飼わなくなって日本各地の農村から牛も馬もいなくなっていきました。その高度経済成長期というのは、多くの若者たちが農村を離れて都市に集中していく時代でもありました。
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国の重要無形文化財への指定は、地元の人たちにとっては応援でもあり同時に負担でもありました。早乙女になる若い人も減り農耕用の牛がいなくなっても先祖から伝えられていた花田植は絶やすわけにはいかない伝統行事でした。
昭和58年(1983)の高速道路中国縦貫道の全線開通と千代田インターチェンジの利用拡大は地元にとって一つの力となりました。企業誘致でUターンする人たちもふえました。肉牛生産の牧場経営者の理解と協力を得て、十数頭の飾り牛を農業用に訓練してもらって水田に入れ、ふだんは企業に勤務する若い男性や女性が勤めを終えての時間を使って練習を重ね、サンバイ、囃し方、早乙女の役目を果たすように工夫が重ねられてきています。
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 2015年6月7日(日)、そんな関係者のたいへんな苦労をみじんも感じさせることなく、今年も初夏の青空の下、絢爛な花田植がおおぜいの観客の目と耳を楽しませてくれることでしょう。


文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)