
その沿革としては、第1に奈良時代から平安時代にかけての貴族たちが行なっていた「曲水の宴」、第2に平安時代の貴族の少女たちの人形遊びの「ひいな遊び」、第3に祓え清めのための呪具、祓具としての「ひとがた」、という3つの流れがあります。そして、それに加えて、第4に一般の庶民のあいだで伝えられてきた「山遊び」や「磯遊び」の習俗があります。
第1の、「曲水の宴」というのは、曲がりくねった流水のほとりに座って水に盃を浮かべ、流れてくる盃が自分の前を通り過ぎぬうちに和歌を詠むという遊びです。『万葉集』にも、「漢人(からひと)も 筏(ふね)を浮かべて 遊ぶといふ 今日ぞわが背子 花蘰(はなかずら)せよ」という歌があります。これは、天平勝宝2年(750)の3月3日に大伴家持が詠んだ歌です。花蘰(はなかずら)の花は桃の花であった可能性もあります。
第2の、「ひいな遊び」とは、平安時代の貴族の少女たちの人形遊びです。紫式部の『源氏物語』や清少納言の「枕草子」などにも描かれています。
第3の、祓具としての「ひとがた」の記事は、『源氏物語』(須磨)にみられます。光源氏が須磨の海岸で3月の上巳の日に陰陽師を召して浜辺で祓えをさせ、人形を舟に乗せて流したという記事です。この3月の上巳の祓えは、人形を身体にこすりつけ息を吹きかけて自分の穢れを人形に託し、水辺に流し捨てるという行事でした。上巳というのはその月の最初の巳の日という意味です。
3月3日の上巳の節供に人形を贈呈する習俗がみられるようになるのは、室町時代の京都の公家たちのあいだでのことでした。万里小路時房の日記『建内記』の永享12年(1440)の記事には、3月3日に上巳の祓えのための撫(な)で物(形代(かたしろ))として人形(にんぎょう)が贈られたということが書かれています。一方、ひな遊びが3月3日に行なわれるようになったことを示しているのは江戸時代初期の西洞院時慶の日記『時慶卿記』の寛永6年(1629)の記事です。
こののち、江戸幕府によって公式の年中行事として五節供(人日・上巳・端午・七夕・重陽)が定められます。武家の公式行事となったことで、上巳の節供も盛んに祝われるようになり、寛永雛や享保雛、古今雛などと呼ばれるひな人形の美術工芸品も作られるようになりました。
一般庶民のあいだで、ひな人形を飾るようになったことを示す記事は、江戸時代後期のもので、文政13年(1830)成立の随筆集『嬉遊笑覧』にみられます。

さて、冒頭であげた第4の、「山遊び」や「磯遊び」ですが、旧暦3月3日頃といえば、現在の新暦では4月初旬頃です。寒い冬が終わり暖かい春が訪れて、これから田植えの準備など農作業が忙しくなるこの時期、蓬を摘んで草餅を作り、ご馳走を弁当に詰めて、山野に咲き始める花々を眺めたり、水もぬるむ磯辺で魚介をとったりして一日遊ぶという行事でした。その行事には娯楽の意味もありましたが、山の神など自然の神々を招いてその年の五穀豊穣を祈るという意味も含まれていました。中部・東海地方などでは、女の子たちが河原に竈(かまど)を築いて煮炊きをし、ひな人形と遊び、最後に人形は川に流すという行事を近年まで伝えていた地域がたくさんありました。しかし、高度経済成長期を境として、それらの屋外の行事は急速にすたれていきました。現在では観光化された鳥取県下の流し雛などがよく知られるようになってきています。
飾り雛は3月3日を過ぎないうちに早くしまわないといけない、とよくいいます。その言い伝えの背景には、女の子の災厄を人形に託して祓え清め、健康と成育を願うという伝統が生き続けているのです。
文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)