
その4 生を活かす
存命の喜びを知り、
生を愛そうとした兼好の目に
再び見えてきたものは、
どのような世界だったのでしょう。
兼好は、その後、独自の眼差しでもって、
さまざまな思いを書き綴っていきます。
それらは、後世の日本人にとって
とても大切なことを含んでいました。
そして、彼の見出したことは、
日本人の意識に少なからず影響を与えつづけているのです。
花と月
花を見たいのに、花見に行けなかったらどうしましょう。
月が見たいのに、月に雲がかかっていたり、
雨だったりしたら、どうしましょう。
兼好はそのようなことにはめげません。
花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。
雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、
なほあはれに情(なさけ)ふかし。
(第百三十七段・部分)
(桜の花は、真盛りに咲いているのだけを、
月は、かげりもなく照り輝いているのだけを、
見て賞美するものであろうか。
降る雨に対しながら、見えぬ月を心に慕い。
簾(すだれ)を垂れて、家の内に身をこもらせて、
知らぬ間に春が移ろっていくのも、
また、しみじみとした思いがして、情趣が深く感ぜられる)
『徒然草』西尾実・安良岡康作より
この「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」は、
兼好の美意識の本質といわれています。
それは、「従来の王朝貴族的な世界の美意識や悲哀・詠嘆などを
克服した美意識」なのです。
渡辺誠一著『侘びの世界』では
そのことについて、次のように述べられています。
月と言えば満月美、
花と言えば満開美を謳(うた)うのが風潮であり
長い伝統であった時代に、
「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」と、
兼好は強調し、
「もうじき咲くであろう桜、散り萎れた花、
欠けた月、雨雲に閉ざされた月」も、
また、それなりに趣の深いものだと言ったのです。
そして、
雨もよいの空に向かって月を恋い慕い、
咲く花の美しさを部屋に引き籠もったままで
精一杯思い描くのは、
極めて味わい深いものである、と伝統美に囚われず、
これまでにない高度で深遠な美的態度を
表明したのである、と。
兼好は、つれづれなる日々、移り行く自然を見つめながら、
その自然の真実の姿を追い求めたのではないでしょうか、
「ありのままの自然とはどのような姿をしているのだろうか」と。
昔から、「月に村雲、花に風」といわれています。
いつも眺めている庭の花も、
強い風や雨を避けることはできません。
昨日降った雨に、今朝は、花も少しうなだれています。
月も、雨雲にさえぎられて昨夜は見ることはできませんでした。
そして、煌々とした満月は、いつかは欠けていきます。
花も一時の香りをのこして萎れていきます。
それは自然の現象、自然の姿そのものです。
だからこそ、同じく命をもって生きる私たちには、
これらの移り行くもの、萎れていくものに、
同じ生命への共感と愛情が生まれてくるのでしょう。
そのかけがえのないものに対して・・・・・。
「一木一草に宇宙の生命を認める禅の精神」。
それを獲得していた兼好。
彼は見出したのです、
「この世に存するすべてのもの、
不完全なものや不満足なものにも
十全(じゅうぜん)なる美的価値がある」と。
(『侘びの世界』渡辺誠一著より)
宇宙の生命が宿る一木一草の中に、
私たちは、自らの存在を含め、
自然の真実の世界を見出したとき、
存在する全てのものがいとほしく見えてきます。
目も鮮やかな緑の草。
白や赤や黄色、紫など、
さまざまな色を輝かして咲き誇る花。
また、萎れゆくその姿、
枯れ落ちる木の葉。
花を愛でるとき、
また、一枚の枯葉を手にとるとき、
そのかけがえのない存在に感動するのです。
美しく神秘的なそれらのもの。
その一つ一つの命がとても美しく感じられてなりません。
私たちの存在もそのようにあるのでしょう。

以前、満月の日に
月を眺めながら音楽を聴く満月コンサートが催されました。
その日はあいにくの雨模様。
会場に着くと、雨が降り出していました。
主催者の友人に出会った時、
その友は、つぶやきました。
「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」と。
ひとしきり雨が降る間、
ステージにはビニール・シートが張られていましたが、
幸いにも雨があがり、
なんと、雲間から月がゆっくりと顔を出してきました。
そして、観客の盛大な拍手の中、
ミュージシャンが登場してきたのです。
その夜、たとえ月を見ることができなくても
観客は満足したことでしょう。
「雨にむかひて月を恋ひ」ということのおかげで・・・・・。
心の眼
先述の渡辺誠一著『侘びの世界』には、
兼好は、禅的精神を悟ることによって、
未開の花、萎れた花、
欠けた月、雨雲に閉ざされた月などに
強く心を引かれ、
そこに限りない美的情趣を
感じるようになっていたのである、とあります。
そして、
欠けたる物、不完全なもの、
未完成なものに見出される美こそ
「いきのぶるわざ」であった、と。
「いきのぶるわざ」!
欠けたもの、不完全なもの、未完成なものに
美しさを発見することは、
どんな苦しい折にも、
人に生きる勇気を与える「いきのぶるわざ」なのです。
そして、前述のように、
「さのみ目にて見るものかは」、と言ったのです。
そこには、
物事を眺めるとき、「目でばかり見るものであろうか」と言い、
「現実に視覚で捉えられる物」ばかりを重要視するのではなく、
「心の中に思うことによって物を味わう」のが面白いのだ、
という彼の考えがあります。
肉眼によって直接事物を眺めるより、
心眼によって事物の美を追求する方が
興趣もつきず面白いのだ、と。
心で見ると何が起こるのでしょうか。
心で見る場合、見る人の心の中にある感情体験や教養が
大いに活躍することになります。
それらの思いが加わって、さらに広く深く物事が見えてきます。
その見えてくるものが、心をしずかに、
そして、ゆさぶるように感動させるものならば、
それはまさに美。
美は想像力と生命力を刺激し、
私たちの存在そのものを全開させるのです。
それが、「目で見る美しさより心で捉える美しさ」なのです。
そのことに重きを置いた兼好の美感は、
内面的に深化し、
精神の美として、
幽玄の美しさに向かっていくことになります。
その思いは、
連歌や、ひいては能楽に引き継がれていくのです。
世阿弥は、「心が芸能の根底で」あると自覚し、
世阿弥元清は、「美的理念として幽玄の美を重要視し」、
心で見る能を主張するようになったのです。

人の素直な在り方
人生に真実を求めた兼好の心は、
どのような生き方を大切にしたのでしょうか。
思ふべし、人の身に止むことを得ずして営(いとな)む所、
第一に食ふ物、第二に着る物、第三に居る所なり。
人間の大事、この三つには過ぎず。
飢えず、寒からず、風雨に侵(おか)されずして
閑(しづ)かに過すを楽しびとす。
たゞし、人皆病(ひとみなやまひ)あり。
病に冒されぬれば、その愁(うれえ)忍び難し。
医療を忘るべからず。
薬を加えて、四つの事、求め得ざるを貧しとす。
この四つ欠けざるを富めりとす。
この四つを外を求め営むを奢りとす。
四つの事倹約ならば、誰の人か足(た)らずとせん。
(第百二十三段・部分)
人が生きるのに大切なのは、
つつましい衣・食・住、
そして、健やかに暮らすための医療を忘れないこと。
それだけあれば十分なのです。
飢えず、寒からず、風雨に侵(おか)されずして、
医療を忘るべからず。
閑かに過すを楽しびとす。
いいではありませんか。
しずかな心でゆったりと過ごす楽しみに満ちた人生!

資料:
『徒然草』西尾実・安良岡康作 校注 岩波文庫
『徒然草を読む』上田一二三著 講談社学術文庫
『侘びの世界』渡辺誠一著 論創社