
その5 阿留辺幾夜宇和(あるべきやうは)
明恵23歳から26歳までの3年間、
白上の峰での厳しい修行は、彼を大いに成長させました。
その成長の意味について、『明恵 夢を生きる』河合隼雄著では
次のように述べられています。
『明恵はこれまで、母なるものの世界にひたりきるような生き方を
していたのだが、ここでその世界を出て、父なるものの世界とも
接触する必要が生じてきた。
彼がきわめて内向的な性格であることは明らかであるが、
いつまでも自分だけの世界に留まらず、社会と接触し、
他人のためにも大きい仕事をする運命をもっていた。
そのためには、母性性のみならず父性性をも合わせもつ人格と
なることが必要であり、そのような強さを獲得するために、
白上の峰での荒行が必要だったのである、』と。
では、その後の人生はどのようなものだったのでしょう。
栂尾・高山寺
明恵は、34歳になった建永元年(1206)11月に、
後鳥羽上皇から高山寺の地を賜りました。
高山寺・石水院の壁にかかっている掛板には、
寺での生活で守るべきことが書かれています。
その規律(清則:しんぎ)の冒頭にあるのが、
「阿留辺幾夜宇和(あるべきやうは)」という言葉です。
この言葉は、明恵にとって自分の生き方を律するためのもの。
それはどのようなことを意味するのでしょうか。
河合隼雄氏は次のように述べられています。
『明恵が「あるべきやうに」とせずに「あるべきやうは」と
していることは、「あるべきやうに」生きるというのではなく、
時により事により、その時その場において
「あるべきやうは何か」という問いかけを行い、
その答えを生きようとする、きわめて実存的な生き方を
提唱しているように思われます、』と。
自分の行動を、つねに「あるべき生き方か」と問うことは、
とても大切なことだといわれているのです。
それはけっして「あるがままに」ではないのです。
掛板では、つづけて、
「聖教の上に数珠、手袋の物、之をおくべからず」
「口を以て筆をねぶるべからず」など、
守るべき行儀作法を、こと細かに教えています。
高山寺での明恵の修業生活は、大変厳しいものでした。
それでも、共に修行したいという同行の仲間が増え、
5年から10年とたつうちに、いつしか50人を越えたそうです。
北条泰時
承久3年(1221)、戦が起こりました。
後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうとした承久の乱です。
この戦のときのことです。
明恵が京方の公卿や侍を高山寺の山中に隠したという噂が立ち、
探索に来た秋田城介義景は、山を荒らし、
明恵を捕らえて六波羅探題に引きたてました。
六波羅では多くの軍勢がおり、
北条泰時が戦の下地をしている最中です。
泰時は、以前より明恵の徳を聞いていましたので、
明恵を上座に据えて畏まりました。
この時、明恵は49歳。
彼は泰時に向かって、
『高山寺に落人を多く隠しおきたりと云う沙汰の候なる、
其れはさぞ候らん」と、
「噂は本当のことだ」と述べ、
『わたしについては、多少御聞き及びのことと思うが、
私は若い頃寺を出て、方々さまよった後は、
長年かかって覚えた法文さえ、思い出すのを厭うようになっている。
まして、世間のことなど、長い間考えてみたこともない。
そんな風だから、誰かの味方をするとか、
ひいきにするといった気持は、みじんも持ち合わせてはいない。
そういったことは、すべて、沙門の法に背くからである。(略)
だが、いくら特別扱いはしないといっても、
高山寺、殺生禁断の地である。
鷹に追われた小鳥や、猟師から逃げたけだものは
皆この山に隠れて命をつないでいる。
いわんや人間が、からくも敵の手を逃れ、木の下、
岩のはざまなどに隠れているのを、
自分が罪になるからといって、見捨てることが出来ようか。(略)
出来ることなら、袖の中、衣の下にも、
隠してやろうと思っているし、今後もきっとそうするに違いない。』
『是れ政道の為に難義なる事に候はば、
即時に愚僧が首をはねらるべし』と。
(『明恵上人』白州正子著より)
「高山寺に逃げてきた人々は見捨てない、それが政道に困るなら
すぐに私の首をはねなさい」といい切った明恵。
死を覚悟した人には、何ごとも恐れることはないのでしょう。
そのような明恵を見て、泰時は恐縮して詫びた後、
あらためて、一身上のことで教えを求めたそうです。
それは、
如何にしてか生死を離れ候べき」
もう一つは、人の上に立つ身として、
いささかも私なく、理のまゝに行ひ候はば、
罪にはなるまじきにて候やらん」と。
明恵は答えます。
『理に背いて、行動する人は、後世を待つまでもなく、
現世で滅びてしまうことが多い。
これはいうまでもないことだが、たとえ道理のままに行なって、
正しい道を歩んでも、人それぞれの罪というものは、
逃れられない場合もある。
道理は、生死の助けにはならないものだ。
「無情」と呼ばれる殺人鬼は、弓矢を恐れず、剣の前にもひるまない。
今この瞬間にも、あなたをひっとらえて、連れて行ったらどうなさる。
ほんとうに、生死を免れようとする気持ちがあるならば、
暫く何事も打捨て、まず仏法というものを信じ、
その法理をわきまえて後に、政治を行なえば、
自然と何事も巧くいくに違いない、』と。(『明恵上人』白州正子著より)
泰時は明恵に心服し、それ以来、山に参詣しては法談をしたのです。
その法談は、いつも「いかに生きるべきか」というものでした。
また、政治の「あるべきよう」についても。
たとえば、
『乱世の原因はどこにあるかといえば、
すべて人間の欲から出ている。
これを癒すには、先ず自分の欲から捨ててかからねばならぬ。
そうすれば、天下は黙っていても治まるであろう。』
そして、
『人は「あるべきやうは」の七文字を保つべきなり。
僧は僧のあるべきやう。俗は俗のあるべきやう。
乃至帝王は帝王のあるべきやう。臣下は臣下のあるべきやうなり。
此のあるべきやうを背く故に一切悪しきなり、』と。(遺訓)
鎌倉に戻り、執権となった泰時は、
高山寺に、丹波の国の一庄を寄進しようとしたのですが、
明恵はそれを断っています。
その理由は、
「方々の寺が、仏の教えに背いて、浅ましくなっていくのは、
みな暮らしが豊かすぎるからである。
僧は、貧しくて、人の恵みによって生きていれば、
放逸に流れる恐れはない」。
当時、泰時は会う人ごとに、
『我不宵蒙昧の身にありながら、辞するに理なく、
政を務りて天下を治めたることは、一筋に明恵上人の御恩なり』と語っていたそうです。
その後、泰時は、
政治の方針を体系化した「貞永式目」を制定しました。
それを支える精神は、「道理」というもので、
明恵の説く「あるべきやうは」の本質が、
その中に生かされているといわれています。
今日ニ明日ヲツグ
寛喜2年(1229)、明恵58歳の時に、
明恵の身体の具合を心配した泰時との歌のやりとりがあります。
寛喜二年四月のころ、不食のよしをききて
とぶらひ申されしついでに
西へゆく道しる人はいそぐとも
知らぬわれらはしばしとぞおもふ
返
すでにとていでたつ道も進まれず
とどむる声や堰となるらむ
明恵の身体を気遣う泰時の心が伝わってきますね。
その泰時の心を「とどむる声や堰となるらむ」と詠い返した明恵。
その声が、ほんとうに堰となって、その後2年ほど生きることができ、貞永元年(1232)の正月に、大往生をとげたのです。
明恵はいつもいっていました。
死は人間にとって、「尋常なる定」。だから、それはあたりまえのこと。
「今日が明日につながって行くようなものにすぎません」と。
我ガ死ナムズルコトハ、今日ニ明日ヲツグニコトナラズ。
「行状記」
この詞には、「仏の教えは今日ニ明日ヲツグように永遠につづいて行くに違いない」という含みもあり、「そう信じていた明恵は、死病も
さして苦にならなかった」とのことです。(『明恵上人』白州正子著より)
最後の詞(ことば)
明恵の最後の詞は、『我戒を護る中より来たる』でした。
この詞は、大変重く切ない意味を持っています。
『華厳宗沙門 明恵の生涯』磯部隆著のあとがきには、
次のように述べられています。
『明恵の少年時代は源氏と平家の相克する時代だった。
自分の意思で僧になったわけではない僧に対して、
汝、戒律を厳守して清僧であれ、と、
人は言うことができるだろうか。
それゆえ明恵とおなじ境遇をもつ法然は、
みずからは戒律を厳守する清僧であったにもかかわらず、
そのように言う人に対して、
今は、体裁上のうわべの戒律があるばかりで、
本当の生きた戒律はなく、だから破戒も持戒もないと断言する。
明恵はこの一世代年長の法然に、対立した。
明恵は六十歳で示寂(しじゃく)したが、その最後のときを、
弟子喜海は記録に残した。
「その後、眼を閉じて又しずまる。喜海枕(まくら)に近くして
親(みずか)ら聞くに、ひそかに、『我戒を護る中より来たる』、
これ最後の詞なり」
もし本書の仮説が正しければ、明恵は二十九歳の時、
前世で契りを結んだ美しい女性に出会い、
平均的な人間にはない深い愛情をいだいた。
そうしたことを知らなければ、この最後の言葉の悲劇的な重みを
理解することもできないだろう、』と。
8歳で父母を亡くし、9歳で修行の道を歩みだした明恵は、
戒律を護り、僧として「あるべきやうは何か」と問いかけ、
「やさしき心使いもけだかき」人として、自分を律し生きたのです。
樹上坐禅像
今も明恵上人の姿を見ることができます。
それは、「明恵上人像(樹上坐禅像)」においてです。
明恵は、松の梢に吹く風の音が静かに聞こえそうな林の中で、
樹木の大きな二股の間に端然と坐り、
自然と渾然一体となって坐禅をしています。
明恵の周囲には楽しげに飛ぶ鳥やリスの姿。
かたわらの枝には香炉と数珠がかけられ、根元の方には下駄。
その下駄は、また履かれるのをまっているのです。

資料:
『明恵 夢を生きる』河合隼雄著 講談社
『明恵上人』白州正子著 新潮社