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2010年10月01日

第十八回 明恵



その5 阿留辺幾夜宇和(あるべきやうは)

明恵23歳から26歳までの3年間、
白上の峰での厳しい修行は、彼を大いに成長させました。
その成長の意味について、『明恵 夢を生きる』河合隼雄著では
次のように述べられています。

『明恵はこれまで、母なるものの世界にひたりきるような生き方を
していたのだが、ここでその世界を出て、父なるものの世界とも
接触する必要が生じてきた。
彼がきわめて内向的な性格であることは明らかであるが、
いつまでも自分だけの世界に留まらず、社会と接触し、
他人のためにも大きい仕事をする運命をもっていた。
そのためには、母性性のみならず父性性をも合わせもつ人格と
なることが必要であり、そのような強さを獲得するために、
白上の峰での荒行が必要だったのである、』と。

では、その後の人生はどのようなものだったのでしょう。



栂尾・高山寺

明恵は、34歳になった建永元年(1206)11月に、
後鳥羽上皇から高山寺の地を賜りました。
高山寺・石水院の壁にかかっている掛板には、
寺での生活で守るべきことが書かれています。
その規律(清則:しんぎ)の冒頭にあるのが、
「阿留辺幾夜宇和(あるべきやうは)」という言葉です。

この言葉は、明恵にとって自分の生き方を律するためのもの。
それはどのようなことを意味するのでしょうか。
河合隼雄氏は次のように述べられています。

『明恵が「あるべきやうに」とせずに「あるべきやうは」と
していることは、「あるべきやうに」生きるというのではなく、
時により事により、その時その場において
「あるべきやうは何か」という問いかけを行い、
その答えを生きようとする、きわめて実存的な生き方を
提唱しているように思われます、』と。

自分の行動を、つねに「あるべき生き方か」と問うことは、
とても大切なことだといわれているのです。
それはけっして「あるがままに」ではないのです。

掛板では、つづけて、
「聖教の上に数珠、手袋の物、之をおくべからず」
「口を以て筆をねぶるべからず」
など、
守るべき行儀作法を、こと細かに教えています。

高山寺での明恵の修業生活は、大変厳しいものでした。
それでも、共に修行したいという同行の仲間が増え、
5年から10年とたつうちに、いつしか50人を越えたそうです。



北条泰時

承久3年(1221)、戦が起こりました。
後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうとした承久の乱です。

この戦のときのことです。
明恵が京方の公卿や侍を高山寺の山中に隠したという噂が立ち、
探索に来た秋田城介義景は、山を荒らし、
明恵を捕らえて六波羅探題に引きたてました。
六波羅では多くの軍勢がおり、
北条泰時が戦の下地をしている最中です。
泰時は、以前より明恵の徳を聞いていましたので、
明恵を上座に据えて畏まりました。
この時、明恵は49歳。
彼は泰時に向かって、

『高山寺に落人を多く隠しおきたりと云う沙汰の候なる、
其れはさぞ候らん」
と、
「噂は本当のことだ」と述べ、

『わたしについては、多少御聞き及びのことと思うが、
私は若い頃寺を出て、方々さまよった後は、
長年かかって覚えた法文さえ、思い出すのを厭うようになっている。
まして、世間のことなど、長い間考えてみたこともない。
そんな風だから、誰かの味方をするとか、
ひいきにするといった気持は、みじんも持ち合わせてはいない。
そういったことは、すべて、沙門の法に背くからである。(略)
だが、いくら特別扱いはしないといっても、
高山寺、殺生禁断の地である。
鷹に追われた小鳥や、猟師から逃げたけだものは
皆この山に隠れて命をつないでいる。
いわんや人間が、からくも敵の手を逃れ、木の下、
岩のはざまなどに隠れているのを、
自分が罪になるからといって、見捨てることが出来ようか。(略)
出来ることなら、袖の中、衣の下にも、
隠してやろうと思っているし、今後もきっとそうするに違いない。』

『是れ政道の為に難義なる事に候はば、
即時に愚僧が首をはねらるべし』
と。
(『明恵上人』白州正子著より)


「高山寺に逃げてきた人々は見捨てない、それが政道に困るなら
すぐに私の首をはねなさい」といい切った明恵。
死を覚悟した人には、何ごとも恐れることはないのでしょう。

そのような明恵を見て、泰時は恐縮して詫びた後、
あらためて、一身上のことで教えを求めたそうです。
それは、
如何にしてか生死を離れ候べき」
もう一つは、人の上に立つ身として、
いささかも私なく、理のまゝに行ひ候はば、
罪にはなるまじきにて候やらん」と。
明恵は答えます。
『理に背いて、行動する人は、後世を待つまでもなく、
現世で滅びてしまうことが多い。
これはいうまでもないことだが、たとえ道理のままに行なって、
正しい道を歩んでも、人それぞれの罪というものは、
逃れられない場合もある。
道理は、生死の助けにはならないものだ。
「無情」と呼ばれる殺人鬼は、弓矢を恐れず、剣の前にもひるまない。
今この瞬間にも、あなたをひっとらえて、連れて行ったらどうなさる。
ほんとうに、生死を免れようとする気持ちがあるならば、
暫く何事も打捨て、まず仏法というものを信じ、
その法理をわきまえて後に、政治を行なえば、
自然と何事も巧くいくに違いない、』と。(『明恵上人』白州正子著より)

泰時は明恵に心服し、それ以来、山に参詣しては法談をしたのです。
その法談は、いつも「いかに生きるべきか」というものでした。
また、政治の「あるべきよう」についても。
たとえば、
『乱世の原因はどこにあるかといえば、
すべて人間の欲から出ている。
これを癒すには、先ず自分の欲から捨ててかからねばならぬ。
そうすれば、天下は黙っていても治まるであろう。』
そして、
『人は「あるべきやうは」の七文字を保つべきなり。
僧は僧のあるべきやう。俗は俗のあるべきやう。
乃至帝王は帝王のあるべきやう。臣下は臣下のあるべきやうなり。
此のあるべきやうを背く故に一切悪しきなり、』と。(遺訓)

鎌倉に戻り、執権となった泰時は、
高山寺に、丹波の国の一庄を寄進しようとしたのですが、
明恵はそれを断っています。
その理由は、
「方々の寺が、仏の教えに背いて、浅ましくなっていくのは、
みな暮らしが豊かすぎるからである。
僧は、貧しくて、人の恵みによって生きていれば、
放逸に流れる恐れはない」。


当時、泰時は会う人ごとに、
『我不宵蒙昧の身にありながら、辞するに理なく、
政を務りて天下を治めたることは、一筋に明恵上人の御恩なり』
と語っていたそうです。
その後、泰時は、
政治の方針を体系化した「貞永式目」を制定しました。
それを支える精神は、「道理」というもので、
明恵の説く「あるべきやうは」の本質が、
その中に生かされているといわれています。



今日ニ明日ヲツグ

寛喜2年(1229)、明恵58歳の時に、
明恵の身体の具合を心配した泰時との歌のやりとりがあります。

   寛喜二年四月のころ、不食のよしをききて
   とぶらひ申されしついでに

 西へゆく道しる人はいそぐとも
 知らぬわれらはしばしとぞおもふ
   返
 すでにとていでたつ道も進まれず
 とどむる声や堰となるらむ


明恵の身体を気遣う泰時の心が伝わってきますね。
その泰時の心を「とどむる声や堰となるらむ」と詠い返した明恵。
その声が、ほんとうに堰となって、その後2年ほど生きることができ、貞永元年(1232)の正月に、大往生をとげたのです。
明恵はいつもいっていました。
死は人間にとって、「尋常なる定」。だから、それはあたりまえのこと。
「今日が明日につながって行くようなものにすぎません」と。

我ガ死ナムズルコトハ、今日ニ明日ヲツグニコトナラズ。
「行状記」

この詞には、「仏の教えは今日ニ明日ヲツグように永遠につづいて行くに違いない」という含みもあり、「そう信じていた明恵は、死病も
さして苦にならなかった」とのことです。(『明恵上人』白州正子著より)



最後の詞(ことば)

明恵の最後の詞は、『我戒を護る中より来たる』でした。
この詞は、大変重く切ない意味を持っています。
『華厳宗沙門 明恵の生涯』磯部隆著のあとがきには、
次のように述べられています。

『明恵の少年時代は源氏と平家の相克する時代だった。
自分の意思で僧になったわけではない僧に対して、
汝、戒律を厳守して清僧であれ、と、
人は言うことができるだろうか。
それゆえ明恵とおなじ境遇をもつ法然は、
みずからは戒律を厳守する清僧であったにもかかわらず、
そのように言う人に対して、
今は、体裁上のうわべの戒律があるばかりで、
本当の生きた戒律はなく、だから破戒も持戒もないと断言する。
明恵はこの一世代年長の法然に、対立した。
明恵は六十歳で示寂(しじゃく)したが、その最後のときを、
弟子喜海は記録に残した。
「その後、眼を閉じて又しずまる。喜海枕(まくら)に近くして
親(みずか)ら聞くに、ひそかに、『我戒を護る中より来たる』、
これ最後の詞なり」
もし本書の仮説が正しければ、明恵は二十九歳の時、
前世で契りを結んだ美しい女性に出会い、
平均的な人間にはない深い愛情をいだいた。
そうしたことを知らなければ、この最後の言葉の悲劇的な重みを
理解することもできないだろう、』と。

8歳で父母を亡くし、9歳で修行の道を歩みだした明恵は、
戒律を護り、僧として「あるべきやうは何か」と問いかけ、
「やさしき心使いもけだかき」人として、自分を律し生きたのです。



樹上坐禅像

今も明恵上人の姿を見ることができます。
それは、「明恵上人像(樹上坐禅像)」においてです。
明恵は、松の梢に吹く風の音が静かに聞こえそうな林の中で、
樹木の大きな二股の間に端然と坐り、
自然と渾然一体となって坐禅をしています。
明恵の周囲には楽しげに飛ぶ鳥やリスの姿。
かたわらの枝には香炉と数珠がかけられ、根元の方には下駄。
その下駄は、また履かれるのをまっているのです。





資料:
『明恵 夢を生きる』河合隼雄著 講談社
『明恵上人』白州正子著 新潮社
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2010年09月15日

第十七回 明恵



その4 知と心

明恵21歳の頃、華厳哲学の勉学をとおして、
生涯を共にする仲間を得ました。
今回は、その後の明恵の生き方をとおして、
人生にとって大切な「知と心」の問題を考えてみたいと思います。



紀州・白上の峰

建久6年(1195)のこと、
『明恵 夢を生きる』河合隼雄著の略年表によれば、
「その年3月、頼朝入洛、東大寺再建供養。
秋、一両年来の東大寺出仕を止め、
神護寺を出て紀州栖原(すはら)の白上の峰にこもる」
と。

23歳の明恵は、数名の若い仲間と紀州白上の峰に登って
草庵を結びました。
このあたりは、母方の武士団湯浅一族がいるところです。
『行状』の筆者喜海によれば、

「同(建久)6年秋ごろ、高尾を出て、衆中を辞して、
聖教を荷ひ仏像を負って、紀州に下向、
湯浅の栖原村白上の峰に一宇(いちう)の草庵を立て居をしむ」


その庵は、二間(4メートル弱)の草庵。
眺めはすばらしかったようです。

「前は西海に向へり。
遥かに海上に向ひて阿波の島を望めば、
雲はれ浪しずかなりといえども、眼なほきわまり難し」


そして、東には深い谷があり、
谷に吹く風の音が聞こえてくるのです。

「渓嵐(けいらん)響をなして巌洞に声を送る」

草庵の前に一本の松があり、
その下は坐禅をするのに適していたようです。

「草庵の縁の前、西北の角学問所の前に一本の松あり。
その下に縄床一脚を立つ」


そして、
「また西南の角二段ばかりの下に一宇の小草庵を立つ、
これ同行来人のためなり。ここにして行法、坐禅、誦経、
学問等の勤め、寝食を忘れて怠りなし」




心の陶冶(とうや)


明恵は、なぜ東大寺や神護寺をはなれ、
白上の峰にやって来たのでしょうか。

その年、心が激しく動揺する事があったようです。
おそらくそれは頼朝が京にやってきたこと。
頼朝挙兵の時、明恵の父は平家方の武士として戦い、
戦死していたからです。

頼朝上洛に衝撃を受けた明恵は、自覚します。
当時、明恵の華厳研究はすすみ、高い評価を受けていたのですが、
いまだ、自らの身も心も、一切の対立を越える
華厳世界〈大縁起法界〉の中に入りきれてはいない
と。

つまり「心が理論に追いついてはいない」ことを思い知るのです。

「理論というのは世界に入っていく通路。
しかし、その通路をとおって世界に入るのは心」
だといわれます。

明恵が白上の峰で修行しようとしたのは、
華厳の世界像を、峰の上での坐禅・瞑想によって、
体得したかったからなのです。


心の耳で聞く存在の音楽

明恵が修行する白上の峰で聞いたものは、存在の音楽といわれます。
その「あらゆるものの織りなす存在の音楽」とは!
そのことを、『華厳宗沙門 明恵の生涯』の著者磯部隆氏は、
次のように述べられています。

すべての存在は「大縁起法界」「円極法界」のなかにあって
宇宙の音楽に参与している。
けれども人はこの法界の外にいて、
世界の断片をはぎり取り固定化し執着するので、
彼と此との対立が生まれてくる。

十無尽の世界はたとえば音楽のようなものである。
宇宙はシンフォニーであり、すべての存在は音価をもつ。
ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドそれぞれの音は相互に区別され、
自分の音をもっている。
この自分の音は、高低一音階の中にあるゆえに存在し、
一音階もより高くまた低くつづく音階連鎖の中で独自な音階として存在できる。
他方また音階中の一音たとえばドは、
数学の点ではなく、幅と音量をもち、
みずからのなかに一音階のドレミファソラシドをもっていて、
さらにまたその中の一音にも一音階がふくまれ、限りがない。
それゆえに、音の連鎖と和音が成り立ちシンフォニーも生まれる。


そうなのですね。
私たちもそれぞれ宇宙の一音。
対立することなくあらゆるものと響きあって
よい音楽を生み出していなくては・・・・・。

では岩壁の上で明恵とともに存在の音楽を聞いてみましょう。
白上の峰、そこにあるのは風の音。
その風の音を聞きながら、知と溶けあう明恵の心
海、空、光、風の中で瞑想する明恵は、
心の耳を傾けます。
その心の耳に聞こえてくるのは存在の音楽
 
明恵は瞑想の中で心が体験する華厳の教えを
若い僧たちにも語ったことでしょう。

白上の峰の彼らの生活は貧しく厳しいものでした。
しかし、決して不幸ではありませんでした。
秋の月を見て歌を詠う明恵。
すばらしい月が出ているのに眠りこける仲間たち。
そのほほえましい歌と詞書。

 人々もろともに、雲間より出づる月を待つに、
 さよふけぬれども、晴れもやらず。人々寝入り
 がたに、軒の松の梢のほど晴れ上がりて、月の光、
 草の庵(いほり)にさし入るに、もろともに見むとて引き
 起こせども、なさけなきほどに起くることなけ
 れば、いといとうらめしくて、寝入る人の小袖の
 たもとに書きつけて侍(はべ)る

千歳ふる小松ならねど引きかねつ
深く寝入れる君がたもとを

寝入りぬる君をばいかにうらむらむ 
こずえに出づる秋の夜の月



耳を切る

白上の峰で、仲間とともに瞑想し充実していた日々。
そこに突然の出来事が起こります。
明恵は自分で自分の右耳を切り落とすのです。
どうしてでしょうか。

当時、明恵は瞑想の合間に白上の峰から里に下り
修行生活を維持するために乞食(こつじき)をしていました。
その時、明恵の眼に映ったものは・・・・・。
それは、武家政権下での地頭と荘園領主の利害の狭間で
虐げられ収奪される農民の姿。
後年の農民たちの訴状が残っています。
明恵が白上の峰で修行していた時から80年ほども経ていますが、
当時のことが推測できるものです。
その中から訴状第四条の文面には、

「おまえらがこの麦を蒔かないのなら、
(おまえらの)妻子どもを牢に入れ、
耳を切り、鼻を削ぎ、髪を切って尼のようにし、
縄で縛って痛めつけるぞ」
と。

(黒田弘子氏研究の
『ミミヲキリ ハナヲソギ―片仮名書百姓申状論―』「結び」から)


「耳を切り、鼻を削ぎ」という言葉は、
当時の地頭たちが農民を恫喝するときの常套文句だったようです。
それは、身体に苦痛を与えながらも、
農民たちを働かせることができるからです。
おそらく乞食の途中に、
このような現実に出合ったのかもしれない明恵。

彼は農民の苦しみを思い、悩み苦しんだことでしょう。
まして、この白上に来て3年目の建久8年に
事実上の地頭となる豪族湯浅一族に属する者です。
そして、その苦悩の果てに、
「地頭の農民に対する罪責を、自らに背負い、
農民の痛みを自分の身に受け、刻印づけようとして、
耳を切り落とした」
のです。

最初は、眼を抉(えぐ)ろうと考えますが、 
それでは盲目になり経文が読めない。
では鼻を削ぎ落とそうか。
いや鼻水が垂れて経文を汚してはいけない。
手を切ると印を結べない。
耳ならばどうだろう。
耳は穴だけになっても不便はないと。

「血はしりて本尊ならびに仏具などにかかれり、
その血今にも失せず」


『行状』に記されたその時の様子です。
明恵は、
「仏眼仏母像の前で、右の耳を仏壇の脚に結びつけ、
剃刀を取って切り落とした」
のでした。

徹底した生き方を貫こうとする明恵。
「耳を切る行為は、仏眼如来の前での決意表明であり、
契りであり、かつわが身への刻印」
です。
それは、大悲の心を持って生き抜くことへの・・・・・。

その時、明恵の考えを示す独白が『行状』に載せられています。

悲しむべきことに、
我らは春に花と戯ぶれ秋には果物を喜び食し
「ただ世間五欲の味を貪る」ばかりで、
一体いつ「無上甘露(かんろ)の正法を感じて、
あくまで法味を味はう春秋に逢ふべき」。
また、頭を剃り黒い僧衣をまとうのは、
如来の教えに従って、驕慢(きょうまん)な心を捨て
「身心を軽賤(けいせん)」がためであるにもかかわらず、
むしろ僧形を誇り「その頭のきらめけるを心よくし、
法衣を著せるもますますその雑色のてれるに奢(おご)る」。
我ら如来の本意に背く思いを抱くのであれば、
僧刑さえも不十分であり、志を固くして、
身をやつし如来の跡を踏むことのみを思う。


このように考え、思い切った行動をとる24歳の明恵には、
生きる目的が明らかにあり、それを信じて形に現そうとする
心と行動力が育まれていたのでしょう。
今回の神護寺を出て白上の峰における修行と
仏眼仏母像の前で耳を切る行為は、
明恵の人生にとって、もう一つの大きな意味を持っていたのです。
そのことは次回にいたしましょう。

つづく





資料:
『華厳宗沙門 明恵の生涯』磯部隆著 大学教育出版
『明恵 夢を生きる』河合隼雄著 講談社
『名僧列伝』紀野一義著 講談社学術文庫
『明恵上人』白州正子著 新潮社
『明恵上人集』久保田淳 山口秋穂 校注  岩波書店


posted by 事務局 at 14:59| Comment(0) | 明恵

2010年09月01日

第十六回 明恵



その3 心の出会い、人への想い

13歳の時、
捨身(しゃしん)という形で自殺をしょうとした多感な少年明恵。
その後、どのように生きたのでしょうか。
今回は、明恵が出会った人たちとの話から、
その人生を考えてみたいと思います。



文覚

「ただ人のふるまいに非ず、
権者(ごんざ)の所為なり」


少年明恵のことをこう言ったのは文覚です。
「明恵は権化のようだ。神仏が仮に人間の姿をとって
この世に現われたような感じがする」と。

文覚は、叔父上覚の師で、神護寺の復興を使命としていました。
源平争乱のときに、平家の武士として父を亡くした明恵にとっては、
頼朝に挙兵を勧めた文覚は、いわば父の仇ともいえる人。
しかし、その文覚は少年明恵をとても信頼していたようです。

明恵が14歳の時、文覚が病気になってしまいます。
心細くなったのでしょうか、
文覚は明恵を呼び、神護寺のことを頼むと同時に、 
病気平癒の加持祈祷を頼んだのです。
この時、明恵は心をこめて祈願し、
まもなく文覚の病気は治りました。
天が与えた宗教者としての素質をもつ明恵。
文覚もそのことをよく知っていたのでしょう。
明恵には、修学も勉学もやりたいようにさせていたようです。

『古今著聞集』に次のような話があります。
神護寺再建の工事が進むと、
山内は喧騒がうるさくて勉学どころではなくなりました。
たまらなくなった明恵は、
持てるだけの経文を持って山奥に入りこんでしまいます。
そして、2,3日経つと山中から走り出てきて、
なんと、大工の昼飯7,8人分を、またたくまに食べてしまい、
また、あっという間に山に走り戻って行ったといわれます。
まるで天狗!
このことを聞いて文覚が言ったのが、
「ただ人のふるまいに非ず、権者の所為なり」なのです。



西行

  山深くさこそ心のかよふとも
    すまで哀(あはれ)はしらんものかは


この歌を、明恵に詠んでみせたのは西行です。

西行は、文覚を訪ねただけではなく、
そのころ14、5歳だった明恵に会うのが楽しくて
しばしば神護寺を訪ねてきたそうです。
才能あふれる明恵に出会った西行は、
この少年にさまざまなことを教えたいと思ったに違いありません。
明恵は、「歌一首を詠うごとに一体の仏像を造る思いをなし、
一句を唱えるのは真言を唱えるのと同じ」
という西行の考えに
深く感銘したそうです。
その時、西行が詠んでみせたのが先ほどの歌なのです。
「山深くさこそ心のかよふとも すまで哀はしらんものかは」

その歌は、
山深いところまで入りこんで、深く心は通ったとしても、
実際にそこに住んで心の澄むことがなくては、
その哀れを知ることはできないのだよと、
歌の道の奥深さを伝えるとともに、
自分と同じように、「高く澄み入る心」を求めて生きる明恵に
深く共感をよせて詠ったものといわれています。

紀野一義著『名僧列伝』によると、
その意味するところはもうひとつあります。
それは、次のようなことです。

“どんなに山の奥深く心が通っても、というのは、
どんなに人の心の奥深くまで心を通わせたとしても、
「すまで」は「住まで」と「澄まで」の二つのかかっており、
その人と同じ心持にならなくては、ということと、
情に溺れないようにしなくては、の二つの世界にかかっている
ので、この二つの世界がなくては、「哀」つまり、
人の心の深いゆらめきは分からぬのだというのである。
共感とともに一切に執着せぬ世界が大切であることを
明恵上人は学んだのである。
熱い涙をこぼす世界と、
涙など一滴もこぼさぬ世界とが共に大切であることを
西行法師は教えてくれたのである”
と。

西行が詠うのは、「人の心の深いゆらめき」を感じとる想像力と、
「一切に執着しない」ことがともに大切だと。
それは、「熱い涙をこぼす世界」と「涙など一滴もこぼさぬ世界」を、
この身一つのなかに持って生きていくこと。

それができれば、私たちは、人の喜怒哀楽に心配りをし、
愛にあふれ、しかも、しずかで、和やかな人間として
生きていくことが出来るということでしょう。

その後、明恵は「歌は真言なり」という西行の考えを
そのままぶつけたような歌を詠んでいます。



あかあかやあかあかあかやあかあかや 
  あかあかあかやあかあかや月


それは、月を見て感動し、
ゆさぶられる明恵のいのちそのもの。

真言とは「呼びかけ」であるといわれます。
それは「人間から永遠なるものへの切なる呼びかけ」だと。

明恵は、つねに、心に映る永遠なるものに向かって
呼びかけながら生きていたのかもかもしれません。



叔父上覚

みることはみなつねならぬうきよかな
 ゆめかとみゆるほどのはかなさ


この歌は叔父上覚が明恵に宛てた贈答歌です。

上覚は、「和歌色葉集」という著書もあり
教養人で温厚な人物だったそうです。
色葉は、文字どおり歌の“いろは”を教えたもの。
明恵はこの叔父に師事し、学問や詩歌を教わりました。
しかし、仏法の真髄となると、教えを受けた形跡はなさそうで、
むしろ与えたほうではないかといわれています。
2人が同じように夢の世を詠った歌がありますが、
それをみるとそのことがすこしわかる感じがします。
その歌は先述の贈答歌です。

   上覚御房よりをほせつかわさる

みることはみなつねならぬうきよかな
 ゆめかとみゆるほどのはかなさ


   御報(明恵)

ながきよの夢をゆめぞとしる君や
 さめて迷へる人をたすけむ

                   (和歌集)

上覚と明恵、それぞれ夢に対する考えは違いますね。
上覚の歌は「浮世のことは夢のようにはかなく無常である」と、
当時の教養人の常識ともいえる考え方を詠ったもの。
これに対して明恵の返歌は、
「この世が夢と知るなら、そこから覚めて迷える人を助けては」と。
なんと、「覚めて迷える人を助けては」と、
人としてなすべきことを叔父に伝えています。
すごく合理的で現実感にあふれ、
人生に対して積極的な明恵の姿が見えます。

河合隼雄著『明恵 夢を生きる』では、
「この世は夢だ、無常だ、などと詠嘆しているよりも、
そうと知ったのなら、その夢からさめることだという発言は、
当時の仏僧の中では珍しい」と。
では、明恵が生涯にわたり夢を記録するという驚くべきことが
できたのはどうしてでしょう。
それは「この世を夢と見るような態度から、はっきりと覚醒し、
その目覚めた目で、彼は自らの夢を見ていたのである」と。

「目覚めた目」で自分のことを見るというのは難しいことですが、
明恵にはそれができたようです。


生涯の仲間


明恵、19歳から21歳の頃のことです。

 清滝河のほとりに出でて、同輩もろともに遊ぶあひだ、
 にはかに夕立すれば、古き板を取り重ね、木の枝に渡しき。
 その下に集りいたる有様わりなきに、
 雨なさけなくしきりなれば、防ぎあへず、
 人々もみな濡れたるけしきをかしくて、かくなむ


旅の空かりの宿りと思へども あらまほしきはこのすまいかな

 板屋も漏り、衣もとほりて、雨の脚身に当たれば

あないたやただ一重なる夏衣 ふせぎかねつる雨の脚かな


高雄山神護寺のふもとを激しく流れる清滝河。
その河のほとりでのこと。
ある夏の日の夕刻でしょう。
夕立の強い雨脚に「あないたや」と、
若い僧たちと大声をあげながらあかるく騒ぐ明恵。
これまで見られなかった姿です。

この頃、明恵は、華厳哲学と出合います。
「あらゆるものはすべてのものとかかわりあい、
相互依存する開かれた全体」であって、
「一即一切」であるとする華厳の教え。
それは「一つの力が一切に及び、一切の力が一に入り込む」という
「大縁起法界」です。
比喩でいえば、「一本の柱のなかにすでに家はある。
そうでなければ柱は柱ではなくただの丸太」と。
家を支える一本の柱はすでに家そのものなのです。
明恵はその教えに、
「みずからの心の奥底にある彼(かれ)と此(これ)との対立を超える光を
見たのではないか」といわれています。

華厳の教えと出合った明恵は、
華厳経学の研究に没入していきました。
熱心に『華厳十重唯識義』等、華厳関係の書写をした明恵は、
14,5歳の若い僧にも書写を依頼しています。
そのとき、彼自身が学んで得た華厳哲学についての想いを
彼らに語っていたのです。
すると、明恵の考えに共鳴した幾人かの若い僧が出てきました。
そして、彼らは仲間になり共に生涯を過ごすことになったのです。

心の闇にさす光を華厳の教えのなかに見た明恵。
その光を若い僧たちも共有したといわれます。
彼に明るさをもたらし、仲間までもたらした勉学。
このような明恵の姿に接すると嬉しくなります。

よい仲間にめぐり合うことは
人生をよりよく生きるためにとても大切なことですね。

つづく




資料:
『華厳宗沙門 明恵の生涯』磯部隆著 大学教育出版
『明恵 夢を生きる』河合隼雄著 講談社
『名僧列伝』紀野一義著 講談社学術文庫
『明恵上人』白州正子著 新潮社
『新古今和歌集』日本古典文学全集 小学館
『明恵上人集』久保田淳 山口秋穂 校注  岩波書店

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2010年08月15日

第十五回 明恵



その2 少年の心・二つの真実

明恵の父母が亡くなったのは、
源頼朝が挙兵した治承4年(1180)のことでした。
5年後には、壇の浦の合戦があり、平家は滅亡しています。
その年には、明恵は13歳になっていました。
そして、「今は十三になりぬれば、年すでに老ひたり。
死なむとする事も近づきぬ」
と言ったのです。
その意味するところはどういうことだったのでしょう。


悲しみの抗議

政治思想史を専門とする法学者・磯部隆氏の著書
『華厳宗沙門 明恵の生涯』では、
「十三歳の危機」として、次のようなことが述べられています。

「年すでに老ひたり」、この気持ちはどこから生じてきたのか。


12歳の時、行く先の当てもなく、神護寺を出る決意をした明恵。
しかし、夢の中で、八幡大菩薩のお使いの大蛇と大きな蜂が現われ神護寺から出るのを引き留めました。
当時の明恵の気持ちは、この夢に現われた「八幡大菩薩が、
秘密のかぎを握っているように思われる」
とのことです。
では、夢に見た八幡大菩薩のことをどう考えればいいのでしょう。

「八幡神はかっては軍神であり弓矢の神」で、
武士である父の神だったのです。
明恵は、その「父の神に引き留められた」のです。
仁和寺へ習学に行く途中には、平岡八幡宮があり、
立ち寄っては、いつも亡き父重国の冥福を祈っていた明恵。
その明恵がどうしても神護寺を出たいと思ったのは、
父への「異様なほどの想いの深さから」でした。
というのも神護寺は、頼朝の寄進によって文覚が復興した寺院。
その文覚は、父が亡くなるきっかけとなった源平の争いに
深く関係していたのです。

伊豆で、頼朝に挙兵を勧めたのは、文覚でした。
みずからも積極的に動き、千葉常胤(つねたね)等を味方につけ、
その千葉氏は、上総の国において、明恵の父たちを襲撃したのです。
考えれば、文覚はいわば父の仇。
その文覚の寺において父の冥福を祈り、修行に励むことは、
明恵にとって精神的な重圧でした。

父のことを思えば思うほど、神護寺から出ようと決心せずには
おられなかったでしょう。
(源平の争乱の悲劇は、明恵の心にも深い傷を与えていたのです)

明恵13歳の元暦2年3月。
平家一門は、壇の浦の戦いで被れて滅亡していきます。

「早旦(そうたん)、人に告げて云はく、
長門(ながと)国に於て平氏等を誅伐しおわんぬと云々。
未(ひつじ)の刻、大蔵卿泰経、奉行となり、
義経平家を伐ちおわる由、言上す。・・・・・・
相次ぎ頭弁光雅朝臣(とうべんみつまさあそん)来臨す、・・・・・・
光雅仰せて云はく、院宣に云はく、追討の大将軍義経、
去夜飛脚を進(まい)らせ申して云はく、
去る三月二十四日牛(ひる)の刻、
長門国浦に於て合戦(海上に於て合戦すと云々)、
午正より晡(ひぐれ)時に至る。
伐ち取る者と云ひ、生け取る輩と云ひ、その数を知らず」
(『玉葉』四月四日)

右大臣九条兼実(かねざね)の日記から読み取れる
平家滅亡の日のあわただしい情景です。

その時、明恵の心中には何が去来していたことでしょうか。

磯部隆氏は、
「長門の国での平氏滅亡は、上総の国での父の死の、
巨大な、恐るべき再現のように思えたのではないか。
そして、文覚の神護寺に身を置く十三歳の明恵は、
もはや寺を出ることではなくて、
父と平家一門のあとを追う気持ちに陥ったのではなかろうか」
と。

神護寺に入った時には9歳の少年。
それ以後、「戯(たわむ)れ咲(わら)ふ」こともなく、
尊き僧になり、死後の父母を守るためにと、
日夜学び、習学をつづけて5年。
しかし、13歳の今、「年すでに老いたり」という気持ちになり、
「死なむとする事も近づきぬ」と・・・・・。

この時の明恵の心をどのように理解すればよいのでしょう。
磯部隆氏は、
「明恵は、源氏に対して、
あるいは軍事的闘争の世界に対して、
衆生のために命を捨てた仏をあおぎみて、
“人の命にも代はり、
とら狼にも食はれて死ぬべしと思ひて”、
その死によって悲しみの抗議を
かかげようとしていたのではないか」
と。

そして、著書のあとがきには、
「明恵の少年時代をたどってゆくと胸が痛む。
九歳で神護寺に入るが、むろんそれは彼の意思ではない。
それにもかかわらず、
明恵はその運命をみずから選びとったかのごとく
背負ってゆき、時には、その重みで心と体がきしみ、
ほとんど燃え尽きたかのような状態にまで陥る。
けれどもそれは明恵だけの事ではない。
神護寺には同じ境遇の子供たちがいた。
そしてむろんそれは神護寺だけの事でもない」

と述べられています。

読んでいると胸が痛みます。
戦争はいつの時代にも子どもたちを傷つけてきたのですね。




13歳の「完成」

日本におけるユング派心理療法の確立者である
河合隼雄氏の著書『明恵 夢を生きる』では、
明恵の「年すでに老ひたり」は、次のように解釈されています。

観察によれば、子どもというものは、
思春期の一歩手前のところで、
それなりの「完成」に達するそうです。

この年齢の子どもたちは、知識の吸収量も多く、
時には大人顔負けの知恵も発揮します。
そのことは、
「言うなれば、
十二、三歳において人間は子どもなりに老成するのであり、
しかもその完成は性衝動との対決によってたちまち破壊される、という予感をはらんでいる」
と。

子どもは子どもなりに「老成」して「完成」し、
その「完成」はすぐに破壊されるのです。
それは、思春期の混乱がそれに続いてすぐにはじまるからです。
思春期とは人生にとって一番多感な年頃。
その思春期をむかえる頃、子どもたちの身の内には、
ある衝動が動きはじめるのです。
それは「性」の衝動。
この衝動は、人によっては、成長過程の難問題になりかねません。

明恵のように感受性がするどい場合は
どうなるのでしょう。
明恵は、なぜ死に急ごうとしたのでしょうか。

それは、
「明恵のようなきわめて感受性の高い子どもの場合、
そのような完成感をもつと共に、来るべき未知の混乱の深さに対する予感が加わって、そのせっかくの『完成』を維持するために
自殺をする、ということも考えられる」
とのことです。

明恵は、高い感受性とすばらしい聡明さをもった少年でした。
9歳で高雄山に入ったとき、
すぐに仏教の教えである『倶舎頌(くしゃじゅ)』を受けはじめましたが、
10日も経たないうちに、
その一部を暗誦して人を驚かしたことがありました。
またある時、経文に理解し得ないところがあったので、
名高い学僧にたずねたところ、要領を得なかったのですが、
それでも何とか知りたいと思っていたとき、
夢に現われた1人の僧がその疑問を説き明かしてくれたそうです。
当時、夢の中で、疑問を説き明かし理解できるほどに、
明恵の一途な勉学は進んでいたことがわかります。

しかし、明恵は高雄を出ようとして、
「急ぎ正知識を求めて、猶山深き幽閑に閉じこもり修行せん」と。
その言葉には、
「完成を求める強い衝迫性と、
この世のしがらみから逃れようとする態度との両方が読みとれる」

とのこと。
(そういえば、父と文覚との関係は重大なしがらみのひとつでした)

そのとき、夢の中に現われた大蛇と蜂は!
「おそらく明恵の心の中に生じつつある性衝動」
すると、明恵は、何かを夢の中で予感していたといえます。
ということは、自分で明確に意識することなく、
「自分の身体、性との対決」に踏み込んでいたのかもしれません。

そして、『伝記』によると
「かかる五蘊の身の有ればこそ、若干の煩ひ苦しみも有れ」と。
そこには、「身体があるからこそ煩悩が生じるのだから、
その身体を捨ててしまうのだ」と悩む少年明恵がいるのです。

そのような中、
完成した少年が「年すでに老ひたり」という実感をもち、
「死なむとする事も近づきぬ」と意識したとき、
選んだのは、
「死に近い自分の体を、捨身という形で無に帰すること」でした。

“このように明恵の死の決意は、「年すでに老ひたり」と、
仏の教えの「捨身」によって支えられたものなのです”


捨身とは、「求道のため、あるいは人々の苦しみを救うためには、
自分の命を捨てるのを惜しまないという態度」のことですが、
このような「凄まじい捨身の決意」には、貴き僧を志した明恵が、
やはり父と同じ「武士の血をひく者としてのいさぎよさ」
もっていたと考えられます。

            ☆

身を捨てるために墓場で犬や狼に食われるのを待っても
食われることのなかった13歳の明恵は、

「さては何(いか)に身を捨てんと思ふとも、
定業(じょうごう)ならずば死すまじき事にて有りけりと知りて、
その後は思ひ止まりぬ」
と。

明恵は分かったのです。
「死ぬべき業のない者はどんなことをしても死なぬ」ことが・・・・・。

明恵は、再び人生を歩みだします。
その明恵の胸の内にあるものは、
“いいかげんな生き方はすまい、そんな生き方なら、
「生きても何かせん」という心”
なのです。

つづく




資料:
『華厳宗沙門 明恵の生涯』磯部隆著 大学教育出版
『明恵 夢を生きる』河合隼雄著 講談社
『名僧列伝』紀野一義著 講談社学術文庫
『明恵上人』白州正子著 新潮社
『明恵 遍歴と夢』奥田勲著 東京大学出版会

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2010年08月01日

第十四回 明恵



夢はよく見ますか。
子どもの頃はよく見ましたね。
最近は、意識していないせいか、
目覚めた時に夢を記憶していることも少なく、
あまり見なくなったような気がしています。

その夢についてですが、
夢を大切にし、自分の見た夢の記録を19歳より書きとめ、
60歳で亡くなる1年前まで記録し続けた人がいました。
その人の名は明恵上人(みょうえしょうにん)。
その夢の記録は、『夢記(ゆめのき)』として伝来されています。
膨大な夢を記録し、「人生を夢と現実の織りなす絵巻物」のように
生きた人です。

その生涯は、
8歳で、父母を亡くし、
13歳で、「年すでに老いたり、死なむとする事も近づきぬ」といい、
狼に自分を食べさせようと墓場に行き、
16歳で、出家し、
18歳で、釈尊(しゃくそん:ブッダの尊称)の遺子たることを自覚し、
19歳から夢の記憶を書き残し、
24歳で、右耳を自分で切り取り、
30歳で、釈尊の生まれた国天竺〔インド〕行こうとし、
34歳で、後鳥羽院より高山寺の地を賜り、
49歳の時に起った承久の乱では、
北条方に追われた多くの人の命を救い、
後に鎌倉幕府の執権となる北条泰時と対面し、敬われるようになり、
51歳の時、戦乱で家族を亡くした子女のため善妙尼寺を建て、
60歳で、大往生をとげた名僧。

今回は、その明恵上人の生き方を考えてみましょう。
その人生から学ぶことも多いと思います。



その1 幼年時代


明恵は、承安3年(1173)紀州に生まれました。
父は平重国(たいらのしげくに)といい、
高倉院の武者所に仕えていた武士です。
母は紀州有田郡一帯に勢力を持っていた豪族・湯浅宗重の娘。
幼名は薬師丸、生まれる前から男であったら、
将来は神護寺の薬師仏に参らせ仏弟子にしょうと考えていた母が
名付けたといわれ、両親の愛を受けて成長しました。
しかし、明恵が8歳になった時、大きな変化にみまわれます。

治承4年(1180)正月に、母が病気で亡くなってしまうのです。
その8月、源頼朝が伊豆で挙兵し、源平の争乱が始まりました。
9月、父は、京都から上総(かずさ)の国へと向かいます。
そして、『明恵上人行状』には、

「源平の乱の初め、
上総の国にして源氏のために誅(ちゅう)せられ畢(おはん)ぬ」
と。

父・重国は源氏と戦いで戦死してしまったのです。
戦争とは本当に悲しいものですね。
重国は母のいない2人の幼子を残し、
どのような気持ちで死にのぞんだのでしょうか
「誅せられ」という言葉には、戦闘においてではなく、
捕縛されて死んだかもしれません。
このことは、幼い明恵の心に深い傷として残っていくのです。

父母に死別した明恵は、母方の叔母にひきとられます。
叔母は明恵を我が子のようにして愛情をそそぎました。
しかし1年後、その叔母とも別離の時がやってきます。
湯浅一族は明恵を僧籍に入れることを決めたのです。
明恵は、平氏の武士として死んだ重国の子。
源氏の旗をかかげる湯浅党のもとで武士として育てることは
無理なことだったのでしょう。


神護寺へ

京都に近い高雄山神護寺には
明恵の叔父(母の兄)である上覚(じょうかく)がいました。
上覚は、「神護寺の復興を使命とする文覚の一番弟子」だったのです。
その叔父上覚の導きによって、明恵は京都の神護寺に入山します。
運命とは過酷なものです。
この神護寺の文覚こそ、頼朝に挙兵を勧めた人なのですから、
いわば、父の仇なのです。

まだ幼い明恵でしたが、人生の重要な節目がやってきたのです。
9歳の明恵は、叔母の家を出て、高雄山神護寺に向かいます。
その道のりは生涯忘れられないものだったでしょう。

「生年九歳のとき、八月のころ、高尾山にのぼる。
親類にはなるる事かなしく覚えて、泣く泣く馬に乗りて登山す。
鳴滝(なるたき)河をわたるに、その馬あゆみあゆみ水を飲む。
心に思はく、この馬だにも人の心を知りて行けとこそ思ふらめとて
立ち留まらずしてあゆみあゆみ水を飲む」


親類から離れることが悲しくて、泣く泣く馬に乗る幼き明恵。
どうして自分は泣いているのか。
馬でさえ人の心を知って立ち止まらないで歩みながら水を飲むのに、
自分は人の心を知るこの馬よりおとるではないか。
はやく尊い僧になって一切衆生(しゅじょう)を導かねばならないのに・・・・・。

「我れ、親類の後生(ごしょう)たすからむがために
法師になして尊とからむとす。
然(しか)ればその志を知りて尊とかるべきに、
何ぞこの馬におとるべき。
今は法師になりて尊く行ひて親類より始めて
みな一切衆生を導引(みちぎ)かむと思ふ願いをおこす。
その後類親(るいしん)の恋しさもうせぬ。
尊とからむことをのみ思ひき。
かくの如く思ひつづけて高尾にのぼりつきぬ。
すなわち上覚上人に付きて倶舎頌(くしゃじゅ)を受け始む」


わずか9歳の少年が、
「早く出家を遂げて、縁ある人々をはじめ一切衆生を
あまねく導引こうと思う願いをおこす」とは!

それは、まだ幼き明恵が、悲しみに耐え、
親類縁者、そして亡き父母への激しい「恋慕の心」を、
仏道修行への力に転じていく心構えをみせているのです。
これには叔母の影響が大きかったようです。
明恵の心に刻まれた叔母の声、「法師になりて尊く行ひて」など、
幾多の言葉が、明恵の心に鳴り響いていたのでしょう。

こうして明恵は幼き日の最大の試練を乗り越えていくのです。
叔母は、その生涯を通して明恵を見守りつづけ、
夫が亡くなった後には自らも出家し、旧宅を寺にして、
草庵をつくり、明恵に施与したとのことです。
母亡き後、このような叔母がいて本当によかったですね。




父母への想いと学び

少年明恵は、仏教の教えを熱心に学びました。
しかし、亡き父母を思う心はやむことがなく、
「犬や鳥を見ても、もしやわが父母の生まれ変わりでは
ないかと思い大切に敬い」、
またあるとき、
「無意識に犬をまたいだ時、
もしかしたら父母ではなかったかと思って、
引き返してその犬を拝んだ」そうです。
そして、「戯(たわむ)れ咲(わら)ふ」ということまで
意識的に慎んだのです。
それも先に逝った父母の苦しみを思ってのこと。

「父母におくれたること日夜、朝暮に思ひ忘る時なし、・・・・・
戯れ咲ふことあるにも、
もし父母三途に生まれて重苦をもうけむに、
これを助けざらむさきに、
何事を心よくしてか戯れ咲ふべき、(略)」


尊き僧になって父母を助けんとする健気な少年がそこにはいます。
父母への愛は人生にとって本当に大切なものですね。


釈尊という慈父との出会い

この頃、明恵に仏教の開祖釈尊にたいする
激しい「恋慕の心」が生まれます。

「釈尊は我等が慈父なり」

父母を想う悲しみの中、
「慈父としての釈尊との内面的な出会い」をはたす明恵。
明恵の心は、釈尊への想いで満たされていきます。

それは、
「我、親類の後生たすからむがために法師になして尊とからむとす」
「もし父母三途に生まれて重苦をもうけむに、これを助けざらむ」

という強い使命感があったからこそ釈尊と出会えたのでしょう。

明恵は自分の進むべき道を釈尊に見いだしました。
「仏の深い真意をたずねるための勉学」は、
「仏・釈尊との心のきずなを結ぶための通路」でもあったのです。


少年の危機

明恵の勉学は進み、尊き法師の道が見えてきたようでしたが、
12歳の頃、彼の心に影が生じます。

「十二、三歳の時、高尾を出(い)でむと思ふ事ありき」

12、3歳の時、行く当てもなく、神護寺から出ようとしたのです。
そして、ある夜、夢を見るのです。
寺を出て、三日坂まで来ると、
八幡大菩薩の使いの大蛇や蜂が出てきて留めたので、
これは未だその時期ではないと思い直し、
引返した所で目が覚めたということです。
明恵は、なぜ神護寺から去ろうとしたのでしょうか。

そして、きわめて深刻な事態に陥ります。

「十三歳の時、心に思はく、
今は十三になりぬれば、年すでに老ひたり。
死なむとする事も近づきぬ。
何事をせんと思ふとも行く程行きて営むべきにあらず。
同じく死ぬべくは、仏の衆生のために命をすて給ひけむが如く、
人の命にも代はり、とら狼にも食われて死ぬべしと思ひて、
その心を試すがために、倶舎頌(くしゃじゅ)ばかり手に握りて
人にも知られずして、ただ一人五三昧(ござんまい)〔墓場〕へ行きて
とどまれる事ありき。
かたはらに物の音せしかば、すでに狼の来たるかと思ひて、
彼(か)の薩捶(さった)王子の餓虎(がこ)に身を施しが如く、
我もまた今夜、狼に食われて命を捨(す)つべしと思ひき。
釈尊僧祇(そうぎ)〔教団〕の昔の修行を思ひつづけられて
あはれなりしかば、一心に仏を念じて待ちいたりしかども、
別の事なくて夜もあけにしかば、
遺恨なるように覚えて還(かへ)りにき」


明恵はどうしたのでしょう。
何があったのでしょう。
仏の道を捨てるのではなく、どうせ死ぬなら他の命を救わんと、
薩捶(さった)王子の餓虎(がこ)の教えをまねて、
飢えた狼にわが身を食べさせ、命を捨てようとするのです。

それにしても、
13歳にして、「年すでに老ひたり」とは・・・・・。

その意味するところは、次回にいたしましょう。
つづく




資料:
『明恵 夢を生きる』 河合隼雄著 講談社
『華厳宗沙門 明恵の生涯』 磯部隆著 大学教育出版
『明恵上人』 白州正子著 新潮社
『名僧列伝』 紀野一義著 講談社学術文庫
『明恵』 田中久夫著 吉川弘文館
『明恵 遍歴と夢』 奥田勲著 東京大学出版会

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