
その4 武者の世・源平争乱
西行の生きた世は、平安の末期から鎌倉時代への動乱期。
そこに起こっていたのは武士と貴族、武士と武士との争いでした。
西行は、その争いをどのようにみていたのでしょう。
何事の争ひぞや
何事の争ひぞや
それは、源平争乱の時、
西行は人が殺しあう痛ましい戦争を心から嘆いています。
世の中に武者おこりて
西東(にしひんがし)、北、南、
戦ならぬ所なし。
うち続き人の死ぬる数聞く、
おびただし。
まこととも覚えぬほどなり。
こは何事の争ひぞや、
哀れなることのさまかな、と覚えて
死出の山越ゆる絶え間はあらじかし
亡くなる人の数つづきつつ
(戦乱の死者の数はおびただしく、事実とは思えぬほどだ、
どこまで続くのか、死出の山を越える武者たちよ、
いったいこれは何の争いなのだ!)
現代訳『西行の心月輪』高橋庄次著より
深い哀しみと怒り。
かっては武者であった西行、他人事とは思えなかったでしょう。
悲痛な言葉、「こは何事の争ひぞや」が
西行の心をあらわしています。
寿永2年(1183)、木曾義仲が京都に攻め入り、
平家は都を離れ、西海へと落ちていきました。
その義仲も翌年には義経に攻められ敗死。
その時、西行は詠います。
木曾と申す武者、死に侍りにけりな。
木曾人は海の怒りを鎮めかねて
死出の山にも入りにけるかな
地獄絵を見て
連作「地獄絵二十七首」は、木曾義仲が近江で戦死した時から、
平家が壇ノ浦で滅亡するまでの間に生み出されたもの。
地獄絵を見た西行は、乱れきった戦乱の世を背景に、
何かに突き動かされるように歌を詠んだといわれています。
地獄絵を見て
見るも憂し如何にかすべき我が心
かかる報いの罪やありける
見るもつらい地獄絵、
どうすべきなのかと西行は自らの心に問いかけるのです。
このような報いを受けるような罪が私にあったのか、と。
受け難き人の姿に浮み出でて
懲りずや誰もまた沈むべき
考えてみれば、人に生まれるだけでも難しいことです。
私たちが、今ここにこうして生きているということだけでも
奇跡のようなことなのです。
その人としての命をもらってこの世に出てきたのに、
どうして懲りもせず、罪を犯して地獄に沈もうとするのか。
罪業をくりかえす人間にたいする西行の悲痛な声です。
好み見し剣の枝に登れとて
笞の菱を身に立つる
「好み見し剣」とは?
この地獄絵の亡者は、生前には剣を好んだ武者なのでしょう。
その好みの剣が死後の地獄では、責め道具となって、
逆に自分の身体を苦しめるという歌なのです。
戦争で殺し合う武者への西行の痛烈な批判でしょうか。
亡者は鋭利な剣の木の枝に登れといわれますが、
するどい刃のついた剣の木、登れと言われても登れない。
しかし、登れと、「菱」で笞(むち)打たれるのです。
西行は涙を流しつつ詠っていたのかもしれません。
その苦しみの後に、救いへの自覚がやってくるのを望みながら。
心をおこす縁たらば、阿鼻の炎の中にても、
と申すことを思ひ出でて
隙もなき炎の中の苦しみも
心おこせば悟りにぞなる
その苦しみが、求道の念をおこすこととなるならば、
たとえそれが阿鼻地獄の炎の中であっても
救いへの道になると思った西行。

地獄からの救い・暁の菩薩
地獄に堕ちる罪人の歌です。
問うとかや何ゆゑ燃ゆる炎ぞと
君をたき木のつみの火ぞかし
「あの炎は何か」
「お前がこれから堕ちる地獄の炎だ」
それを聞いて罪人が恐れおののき悲しみます。
歌は戯曲のようにつづき、詠われていきます。
かくて地獄にまかりつきて、地獄の門ひらかんとて、
罪人を前に据ゑて、鉄(くろがね)の笞(しもと)に投げやりて、
罪人にむかひて、獄卒、爪弾(つまはじ)きをしかけて曰く、
「この地獄出でしことは昨日今日のことなり。
出でし折に、また帰り来まじき由、かへすがへす教えき。
ほどなく帰り入りぬること、人のするにあらず。
汝の心の、汝をまた帰し入るるなり。人を怨むべからず」
と申して、荒き目より涙をこぼして、地獄の扉を開くる音、
百千の雷(いかずち)の音にすぎたり。
ここぞとて開くる扉の音聞きて
如何ばかりかはをののかるらん
なんとなんと西行という人は!
地獄の鬼をこのように表現する心をもった人なのです。
恐ろしい獄卒、その鬼が、鉄のむちを投げ出し、
その荒々しい目から涙をこぼしつつ、罪人を教え諭して
いるのです。
「お前がこの地獄を出たのはつい最近のことだ。
そのときここにまた戻って来てはならぬと繰り返し教えたのに、間もなくまた戻って来るとは。
他人のせいではない。
お前の心が、お前をまたここに戻し入れたのだ。
他人を怨むことではない」と。
人は同じ過ちを繰り返します。
戦争も何度となく繰りかえされてきました。
源平の争乱の後も、承久の乱、南北朝の対立、応仁の乱、
そして戦国期へと続き、全国を戦乱に巻き込んでいきました。
その戦の根は、現在でも根絶はされていません。
西行の願いはいまだ果たされていないのです。
何千の雷鳴よりも凄まじい地獄の門を開ける音。
しかし、人間には聞こえないのか、
何度も何度も地獄に戻ってしまう人間の営み。
その地獄の中に救いはあるのか。
西行が見いだした救いとは・・・・・、
最終章のドラマが詠われていきます。
すさみすさみ南無と唱へし契りこそ
奈落が底の苦に代りけれ
朝日にや結ぶ氷の苦は解けん
六つの輪(わ)を聞く暁の空
菩薩の姿を見て罪人がおもわず「南無」と唱えたその心。
その菩薩との契り、それこそ地獄の苦しみからの救い。
「朝日にあって氷がとけて行くように、
罪人の苦しみも解けて行くだろう
六道の苦しみを打ちくだく法の輪が、
夜明けの鐘に清浄(しょうじょう)とひびく
暁の壮大な空よ
暁の菩薩の光よ」
現代訳『西行の心月輪』高橋庄次著より
「人間の魂を救う地蔵。
それは、さまざまな姿に化身して人々を救済する菩薩」。
西行は聴きたかったに違いありません。
清浄なる夜明けの鐘の音を!
壮大な夜明け、その暁の空、
その空と一体となることを西行は待ち望んだのでしょう。
たはぶれ歌

西行70歳のころ、嵯峨に草庵を結び暮らすようになりました。
夏の暑い午後のこと。
庵でぐっすりと昼寝。
すると、ピーッと、鋭い麦笛の音。
ハッと目覚めた西行。
なんだろうと思って見ると、
かんかん照りの中で、
髪をうなじのところで留めた童髪の子どもが、
手すさみに麦笛を鳴らしているのです。
なにものにもとらわれない自由な境地の西行。
その無心の心は、子どもの吹く麦笛の音に満たされていきます。
うなゐ子がすさみにならす麦笛の
こゑにおどろく夏のひるぶし
なんと素直な気持ちにさせる歌でしょうか。
昔の幼い子どもたちの遊びを想い、心が澄んでいくようです。
願はくば
西行は亡くなる前年に嵯峨の草庵を捨てて、
河内の弘川寺の草庵に移りました。
そして、1190年(建久元年)2月16日に
亡くなるのです。(現在の暦では3月中旬から4月にかけてです)
その日、桜が満開に咲いていたかもしれません。
仏には桜の花をたてまつれ
我が後の世を人とぶらはば
西行は生前に詠っていました。
満開の桜の下、それも2月15日の満月のころ、
ブッダの涅槃の日に、わたしも死にたいもの、
そして、もし死後に弔ってくれる人いたら、
そのときは桜の花を供えてください、と。
西行が明恵上人に語ったと伝えられる言葉があります。
「一首詠み出でては一体の仏像を造る思ひをなし、
一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ、
我れ此の歌によりて法を得ることあり」と。
西行73年の生涯でした。

資料:
『西行の心月輪』高橋庄次著 春秋社
『いまを生きる知恵』中野孝次著 岩波書店
『国語百科』編集代表内田保男・石塚秀雄 大修館書店
『西行』白州正子著 新潮文庫