
その3 道の人・ブッダの言葉
35歳のとき、ネーランジャラー河の畔、
ブッダガヤーで悟りを開いたゴーダマ・シッダッダ。
それからも、ひたすら修行の道を歩んでいきました。
まさに〈道の人〉といえます。
そして、人々に法=真実の智慧を教え語るなかで、
ブッダとなっていったのです。
今回は、その〈道の人〉、ブッダの言葉にふれながら、
〈よりよく生きる道〉について考えてみたいと思います。
伝道の旅
伝道のため行脚した地域は、
ガンジス河流域を中心にひろがっています。
「歩くことが聖者を鍛える」といいます。
ブッダの「人類の最善最良の知恵」は、
生涯を賭けた行脚の中で生み出されていったのです。
ブッダの生きた紀元前5世紀ごろは、
各地に都市国家が成立し、
経済的にも大きな変動の時代を迎えていました。
人間関係も血族を基盤としたものから、
さまざまな出身地をもつ都市型の人間関係へと変わっていったのです。
その激しく動く時代の中で、
多くのひとびとが迷い悩み暮らしていたことでしょう。
故郷のカピラヴァットウに帰ったのは、
出家から9年後のことでした。
そのとき、わが子ラーフラ、異母弟ナンダを出家させました。
父・シュッドーダナが高齢で亡くなった後には、
育ての母マハープラジャーパティや妻ヤショーダラーも
出家して尼僧になったのです。
ブッダの教え
日が暮れて、暑熱がおさまり、
たむろしているものたちみんなが活気を帯び、
集合したとき、彼らは仏陀が教えを説くのを聞いた。
その声を聞いた。
声も完全であり、完全な安らかさと平和にみちていた。
ゴーダマは、苦悩について、苦悩の由来について、苦悩を除く道について教えを説いた。
その静かな話は安らかに曇りなく流れた。
人生は苦悩であった。
世界は苦悩であった。
しかし苦悩からの救いが見いだされた。
仏陀の道を行くものは救いを見いだした。
穏やかな、しかし確固たる声で、
正等覚者は語り、四諦(したい)を教え、八正道を教えた。
根気よく、教え、実例、反復のいつもの道を歩んだ。
澄んで静かに、彼の声は光のように、星空のように、聴衆の上をただよっていった。
『シッダールタ』ヘッセ/高橋健二訳より
ヘルマン・ヘッセが描き出すブッダです。
悟りの日から以後45年の歳月、
迷い悩む人々に「智慧」を教え、
人々に生きる勇気を与え続けました。
見いだした理法(ダンマ)

それは、縁起の理法と相互依存の関係です。
これがあるときにこれがある。
これが生起するからこれが生起する。
初期仏教経典「ウダーナ」『ブッダの人と思想』中村元・田辺祥二著より
すべてのものは様々な原因と要素が寄り集まり、
かかわり助け合ってつくりあげられ、
変化しているということです。
『発句経』には、
すべての形作られたものは変化し(無常)、
思うようにならず(苦)、
私のものはない(無我)
という現実がこの世間であり、
それはみな衆縁和合して生成し、
変化し、消滅している。
『人間ブッダ』田上太秀著より
ブッダは、この「すべてのものがかかわり合ってある」
ということについての無知が、苦しみの根源であることを
見いだしたのです。
「その無知が自己中心的な行い、奢り、むさぼりなどの
煩悩を起こしている」と。
「苦」とは、「思い通りにならないこと」をいいますが、
この世は、すべてのものがかかわり合っていて、
自分だけのものではないのですから、
思い通りにならないことが多々あるものです。
中道

また、ブッダは生きるための最良の道を見いだしました。
それは、中道です。
修行者らよ、出家者が実践してはならない二つの極端がある。
一つはもろもろの欲望において欲楽に耽ることであって、下劣・野卑で凡愚の行ないであり、高尚ならず、
ためにならぬものである。他の一つはみずから苦しめることであって、苦しみであり、高尚ならず、ためにならぬものである。
真理の体現者はこの両極端に近づかないで、
中道をさとったのである。・・・・・
「サンユッタ・ニカーヤ」ブッダの人と思想』中村元・田辺祥二著より
ブッダが中道を教えた有名な次のエピソードがあります。
仏弟子ソーナが激しい修行でいきづまっていました。
そこでブッダが、琴を例にとって戒めるお話です。
琴は、よい音色を出すためには
弦を張りすぎても、緩めすぎてもいけないのですね。
弦はちょうどよいように張り、
調子をととのえることが必要です。
修行も中をとって、よい加減でやらねばと教えたのです。
「中道」は、中途半端の道ではありません。
それは、ゆったりとした道。
その道を、おおらかに歩くのが中道。
この中道の生き方を実現するために、
四つの真理と八つの正しい道があると説きました。
四諦八正道(したいはつしょうどう)
四諦とは、苦(く)・集(じゆう)・滅(めつ)・道(どう)。
人間の生き方にまつわる四つの真理といわれています。
これを見きわめることもまた大切なことです。
第一の命題は、人生は苦だという「苦諦(くたい)」。
人生が苦であるのは、なぜでしょう。
第二の命題は、苦しみの原因「集諦(じったい)」です。
人の欲望はつきることなくわきあがってきます。
人生における苦しみは、
この欲望による妄執(渇愛)が起すものです。
この苦しみを除くためには
執着を滅する必要があります。
これが第三の命題の「滅諦(めつたい)」です。
そして、苦を滅するための正しい実践=道が
第四の命題、「道諦(どうたい)」です。
正しい実践=「道」が最後になっています。
「道」を大切にしたブッダの思いです。
欲望へのこだわりから自由になる努力、
その誠実な生き方にこそ最善の意味があると考えたのです。
これがブッダの人間観の本質といわれています。
その八つの正しい道、「八正道」は次のようなものです。
じつに〈苦しみの止滅にいたる道〉という聖なる真理は、次のごとくである。略
正しい見解、正しい思惟、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい念い、正しい瞑想である。
「サンユッタ・ニカーヤ」『ブッダの人と思想』中村元・田辺祥二著 より
最後のことば

ブッダの「智慧」を説く旅も45年が過ぎました。
いまや80歳の高齢。
最後の旅の記録が『大パリニッパーナ経』となっています。
そこにも法=真実を大切にしたブッダの言葉が残されています。
みずからをたよりとして、他のものをたよりとせず、
法を島とし、法をよりどころとして、
他のものをよりどころとするな。
若い修行の日々を過ごした思い出の地・ヴェーサーリーでは、
ヴェーサーリーは楽しい。略
この世界は美しいもので、人間の生命は甘美なものだ。
常にこの世の苦を説いた道の人。
そのブッダから出たこの言葉には感動してしまいます。
「くもりなき心にうつるこの世の風景」です。
そして最後のことば、
さあ、修行僧たちよ。おまえたちに告げよう。
『もろもろの事象は過ぎ去るものである。
怠ることなく修行を完成なさい』と。
☆
五木寛之著『仏教の心』では、
ブッダについて、次のように述べられています。
ブッダは命がけの苦行を体験し、
その後の瞑想によって思索と直感の深い合一をえて、生涯ひたすら人々に教えを語って、旅に死んだ。
争わず、戦わず、名誉も富も求めず、権力にへつらわず、だれをも差別せず、やがて病に倒れる。
その一生はため息がでるほど人間的だ。
超人的とも思えるほどの論理と、
じつに親しみを感じさせる生涯と、その問いの驚くべき落差こそが二千数百年の時間をこえて私たちに迫ってくるのである。
ブッダ80年の生涯でした。

資料:
『ブッダの人と思想』 中村元・田辺祥二著
『シッダールタ』 ヘッセ/高橋健二訳 新潮文庫
『ブッダの世界』 中村元編著 学習研究社
『人間ブッダ』 田上太秀著 第三文明社 レクルス文庫
『釈迦とイエス』 ひろ さちや著 新潮選書
『釈迦の本』 学習研究社
『仏教のこころ』 五木寛之著 講談社
『ブッダの教え』 文・山折哲雄 写真・大村次郷 集英社