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2010年04月01日

第六回 玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)



その2 求法の旅立ち

怒涛さかまく大海の彼方に、
光り輝くスメールの山が望まれる。
しかし舟はない。
意を決して海中にふみ入れる。
と、踏み出してゆく足許に、
石の蓮華の花が次々にひらく。
波上を歩いて山下に達した。
しかし、登ろうにも手がかりはない。
身を躍らせて空中に浮かぶ。
風はかるがると運んで山頂に至る。
四方は一望の下にひらけた。

              『玄奘三蔵』湯浅泰雄著より

玄奘法師が仏法を求めてインドへ旅立つときにみた夢です。
深層心理学的解釈によれば、
「高い山への登頂は、大いなる望みを象徴、
空中飛行は、みえざる力の導きの確信」。
そして、「大海のイメージは無意識領域の深みをしめし、
海の底から湧き出てくる蓮華の花と山頂から見るその世界は、
玄奘の意思をみちびいていく直観力のたしかさである」と。

子どもの頃、よく空を泳ぐ夢をみましたが、
いつも墜落しそうになり、怖かったことを覚えています。
でも、玄奘は違います!
何があってもポジティブ・シンキング、
「みえざる力の導きを確信できる人」だったようです。

今回は、“人の志というものは、
いかに人の人生を燃焼させ、情熱を引き出し、充実させるか”、
ということを、玄奘三蔵の旅を通して追体験したいと思います。


眼を見て話す

一瞬の決断が生死を決めかねないのが旅。
命をかけたきびしい旅にでかける玄奘とは、
どのような男だったのでしょう。
弟子の伝えるところでは、身長は六尺あまり。
2メートル近い長身ですね。
色白で、肌はやや赤みを帯びた好男子。
人と話をするときは、相手の眼をまっすぐ見て、
決してそらせなかった純粋な人。
話し方はゆっくりとして明瞭。
その玄奘が求法の志をもって西域に旅立ったのは、
28歳の時といわれます。


天竺・西域へ

貞観3年(629)秋8月、

三蔵はそのあくる朝、
月が空に残っているじぶん、
はやばやと目を覚まして出発した。
楓葉(ふうよう)・荻花(てきか)の秋である。

         『ザ・西遊記』呉承恩著作 全訳・村上知行より

出国禁止令を破っての出発。
長安から秦州へ、蘭州へ、涼州へ。
涼州はシルクロードの中継都市、仏教も栄えていました。
人々に頼まれ、玄奘は『涅槃経』などの講義を何度も行い、
1月余りがあっという間に過ぎていきます。
インドへの求法の旅という大望があり、先を急ぐ身ですが、
いつも目の前の人を最も大切にする心をもっていたのが玄奘です。
しかし、涼州都督(軍政長官)がやってきて長安に帰れと。
そのとき、玄奘の志に深く感じていた涼州第一の僧・慧威が、
ひそかに、2人の弟子をつけて西方に出発させてくれました。

それからは、いつ逮捕されるかわからないので、
目立たないように、昼は寝て、夜歩くことにしたのです。
そして西へ西へ。
涼州から甘州、粛州、瓜州まで約半月。
見渡す限りの砂漠の中、逃亡者のような夜行の旅です。

瓜州に着くと、すでに涼州都督からの通達がきていました。
「密出国を企てている玄奘を捕まえよ」と。
李昌と名乗る役人が玄奘のところにやってきて尋ねました。
「あなたは、ここに書いてある人か。本当のことを言ってください」
玄奘は、情熱を持って求法の志を語りました。
熱心な仏教の信者でもあった李昌は、玄奘の話に感じて、
「師のために、この文書は破棄しましょう」といい、
目の前で破り棄ててくれたのです。


熱風吹く砂漠へ

逮捕をまぬがれた玄奘ですが、ぐずぐずしてられません。
ここまでついてきてくれた涼州の僧・慧威の弟子を帰し、
ここからは、1人で行く決心をしました。
町外れの小さな寺で、胡人の若者と出会います。
彼に頼まれて俗人信徒の五戒を授けると喜んで帰りましたが、
また会いにやってきます。西方のことを聞くと、
よく知っているようなので案内を頼むことにしました。
翌日の夕方、草原地帯で待っていると、
赤毛のやせた馬に乗った老人と一緒にやってきました。
老人は、次の目的地である伊吾(ハミ)まで
30回あまり往復したことがあるそうです。
老人が言うには、
「ひどい道で、砂漠の砂が深く熱風がふけば助かる人は
 いない。
 大勢で隊を組んでも道に迷うことが多く、
 ひとりではとうてい行きつけない、命を大事に」と。
玄奘は、伝えます。
「法を求めるために西方へ行くのです。
 天竺にいくまで、決して帰りません。
 途中で死んでも後悔はしません」と。

老人は玄奘の動かぬ決意に驚きます。
そして、「どうしても行くというなら、私の馬に乗っていきなさい。
この馬は伊吾に往復すること15回、道もよく知っている」と。
玄奘は長安での占いに、よく似た馬が出てきたことを思い出し、
この老いたやせ馬と自分の馬を交換してもらいました。

夜に入って出発です。
真夜中、はるかに玉門間が見える渓流のほとりにたどり着き、
谷を渡ると休息しました。
そのとき、若者の挙動がおかしくなります。
刀をもって近づいてきたり、はなれたり、
何度も玄奘の様子をうかがうのです。
おそらく彼は最初から玄奘の金品を奪おうと
思っていたかもしれないのです。
そして、老人の話に怖気づいたのか、
「おれはいかない、家族もいる、密出国がばれたら大変だ」と。
玄奘は、彼に荷物と馬を与えて帰らせました。
それからはただ1人での砂漠の中を進むことになります。
前進するための目印は、馬糞や大地に高く積まれた骨でした。


広大な砂漠・莫賀延磧(ばくがえんせき)

玉門間から伊吾までの広大な砂漠の1人旅。
そこは、新疆でももっとも長い莫賀延磧という名の大流砂。
沙河(さが)といわれる水のない大地が広がっています。

空には飛ぶ鳥もなく、地上には走る獣もなく、
また水草もない。


途中、野馬泉(やばせん)というところで水を補給しょうとしました。
だが、その場所がみつかりません。
しかたなく皮袋から水を飲もうとしましたが、
あろうことか、皮袋の重さでひっくり返してしまい、
水をほとんど失ってしまいました。
しかも、道に迷ってしまったのです。
どうしょうもありません。引き返そうとしましたが、
「インドに到達しなければ一歩も東に帰るまい」と
誓ったことを思い出し、再び西方をめざすのです。
5日間ほどは一滴の水もなく、全身渇ききって、
苦しくなり、進むことができなくなりました。
砂の中に倒れふし、観世音菩薩を念じるのみです。
つい眠りこけました。
すると、大きな神霊が現われ、
「何を眠りこけておる! ぐずぐずせずに早く行かぬか!」と。
驚いて目を覚ました玄奘は、
力をふりしぼって風上に4キロばかり進みました。
そのとき、馬が勝手な方角に駆け出してしまいます。
どうすることもできず、馬にまかせてそのまま行くと、
雑草の生えた丘に出たのです。
草を食べ始めた馬。
あたりを見廻すと、泉が見えるではありませんか。
老人と交換したこの年老いたやせ馬が、
草と泉のある場所を知っていたのです。
玄奘は思わず祈りをささげました。
そこから2日ほどかかり、やっと伊吾国にたどり着いたのです。
伊吾は、天山北路と天山南路の分岐点にあるオアシスの町、
西域36ヶ国の東端です。小さな町でしたが仏教の寺もあり、
住民たちや王が歓迎してくれました。




高昌国(カラ・ホジョ)の王との出会い

伊吾国に着いた玄奘のことを伝え聞いた高昌国王は、
皇太子の頃、長安や洛陽を訪れたことがあり、
玄奘にぜひ会ってみたいと思いました。
玄奘に会うと、「貴僧にお会いすると身も心も喜びにふるえる」と、
その人格に惚れこみます。
そして、「この国に永住する気はないか」と言うのです。
さすがに玄奘もこの頼みには応じることはできません。
そこで、出発を1ヶ月のばして「仁王経」の講義をし、
インドからの帰りに3年間この国に滞在することを約束しました。

これほどまでに人を魅了する玄奘!
玄奘という人は、一緒にいると何か安心感があり、
人々に生きていることの実感と喜びとを
感じさせてくれる人だったのでしょう。
魂にエネルギーを与える人とでもいえばいいのでしょうか。

しかし、この世は無常なものです。
帰国のとき、王との約束を果たすため、
玄奘が立ち寄ろうとしたときには、
高昌国は、すでに唐によって滅ぼされてしまっていたのです。

その後も、何度も盗賊に襲われたり、厳寒の氷河を超えたりで、
仏法を求める強い志がなければとうてい達成できない旅でした。


ブッダの国

多くの困難に遭遇しながらやっと着いたブッダの国。
玄奘は各地の寺の僧を訪ね、仏法を学びました。
特に、大乗教学の中心ナーランダ寺では、
大徳戒賢老師について、5年にわたる研究生活に没頭し、
インドへの目的の一つ、『十七地論(瑜伽師地論・ゆがしじろん)』老師の講義を聴き学んだのです。
また、多くの経典やサンスクリット語も学びました。
その後、インド各地の仏跡巡礼を終えて中国に帰り、
持ち帰った経典の翻訳と、大乗の教えを広める活動に
人生をかけたのでした。

瑜伽師地論の「地(ブーミ)」とは、
大地が万物を育てるように、
生命あるものすべてをいつくしむ境地、

という意味だそうです。
玄奘三蔵の境地もそこにあったのでしょう。

玄奘三蔵の霊骨は、日本に渡来して、
埼玉県岩槻市の慈恩寺と奈良・薬師寺に分骨されています。

次回は、釈迦の生涯にもふれてみたいと思います。

posted by 事務局 at 11:24| Comment(0) | 玄奘三蔵

2010年03月15日

第五回  玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)

その1 救世(ぐぜ)の大願


心が生じて悪魔が生まれる。
心が滅すれば悪魔もなくなる。
旅は、心が恐れるから恐ろしい。
心が恐れなければ恐ろしくない。
わたしはすでに救世の大願をたてたものです。
インドにまいり三蔵の妙文をいただき、
国にもどって、わが太宗皇帝のお力になるつもりでいます。

(『ザ・西遊記』呉承恩著作 全訳・村上知行より)


『西遊記』に登場する三蔵法師の言葉です。
天竺(インド)への旅、第一夜に泊まったのは法明寺。
その時、住持以下、五百人あまりの僧侶たちが集まり、
灼熱の砂漠と、厳寒の天山山脈を越える、
生死をかけた旅を、“無分別な冒険”だと
忠告したときの三蔵法師の答えなのです。

奇想天外な物語で人気の『西遊記』。
作者は、明の時代の呉承恩(ごしょうおん)といわれます。
背景にあるのは、
多くの人々によって語りつがれてきた
唐の名僧・玄奘三蔵(602年〜664年)の求法の旅。

玄奘のことは、唐代の終わり頃から伝説化され、
歌や芝居に取り入れられてきたのです。

史実の玄奘三蔵は、
仏教にこの世の救いを願い、
釈迦がひらいた仏教の本質はどこにあるのかと自問して、
生死をかけて、はるか仏法源流の地である天竺(インド)に
旅をした名僧です。


今回は、その情熱に向き合い、
よりよい生き方とはどういうものかを
考えてみたいと思います。



玄奘三蔵の大旅行には
当時の人々も大変驚きました。
この比類ない意志の人を知るには、
『大唐西域記』『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』があります。
求法の旅は、玄奘20代後半、
629年(貞観3)8月に長安を出発し、
645年(貞観19年)正月に帰朝するまでの
前後17年の歳月であったといわれています。
旅行記には、見聞した西域・インドの季候、
風土・民族・習俗、言語・境域・物産・伝説等、
もろもろのことが記述され、
伝記には、その痛快な行動や劇的な話も加えられています。

多くの国の人々と交流した玄奘三蔵。
その国際的な行動力と優秀な語学力はすばらしいものがあります。
帰国後には、持ちかえった経典の19年間にもわたる翻訳事業。
その事業は、唐の朝廷と交渉し公費でおこなわれたのです。
そのような政治力をもかねそなえた玄奘とは、
とてつもなく魅力のあふれた人だったのでしょう。




玄奘という人

その生い立ちは、
紀元602年(隋・仁寿2)、
古都洛陽の東方約28キロにある河南省陳留県の
陳家に四男として生まれています。
父の名は慧(え)。
県令(知事)などをつとめた人ですが、
郷里に隠棲し、好きな古典などに親しむ生活でした。
玄奘は、子どもの頃から聡明で可愛く、眉目秀麗。
俗称は陳(ちん)、名は褘(き)。

当時のことを知るために、すこし歴史に目をやると、
4世紀から6世紀に至る300年間、南北に分裂。
589年、隋の文帝が統一。
この分裂の時代に、
西アジアから異質な文明の波がやってきました。
その文化は華麗な色彩に満ち、その先端に仏教があったのです。
北魏のころ、洛陽には仏教寺院が立ち並び、
その数は千をこえたといわれます。
そして3000人のインド・西域僧。
洛陽に近い陳家もその新しい文化の影響を受けました。
次兄の素は、「今は仏教の時代です」といい、
洛陽の浄土寺に入って僧になってしまったそうです。
10代のはじめ、父が亡くなり、兄に連れられ洛陽へ。
そして、少年は、維摩経(ゆいまぎょう)や法華経
誦習(よみなら)うようになったのです。


素直な心と行動力

612年(大業12)、その洛陽で、
新しく少数の僧を「得度する」という詔勅が出ました。
「度(ど)」とは受戒して正式に僧になることで、
度された人は国家に保証されて修行することができます。
志願者が数百人も集まりました。
当時、玄奘は少年でまだ資格がありません。
しかし、僧になりたかったのです。
運命は積極的に自分で開くものなのでしょう。
役所の前に行き、門のかたわらに立っていると、
試験官・鄭善果(ていぜんか)の目に、
利発そうな少年の姿が映りました。
「どこの家の子か?」と尋ねられ、名前を言うと。
「僧になりたいか」と。
「はい、しかし勉強をはじめたばかりで、まだ資格はありません」
「出家して、何をしたい?」
「はい、御仏の教えを学んで、世にひろめたいのです」と。
鄭善果は、素直な答えに心を動かされます。
その賢そうな姿に感心し、
特別に規定をまげて少年を度することにしたのです。
凛々しい少年僧の誕生です。
こうして彼は正式に僧籍に登録され、
玄奘と名のり、仏典の研学に励みます。




教えを求めて

時代は激しく変化しました。
高句麗遠征軍の大敗北によって、
隋の支配はゆらぎはじめたのです。
民衆は過酷な徴税をきらい、逃亡する流民が各地にあらわれました。
山西省に唐公李淵(りえん)が、軍を率いて立ち上がり
首都長安を陥れます。

浄土寺で3年間修行した玄奘はたくましく成長していました。
兄を説得し戦火の迫る東都洛陽を逃れ、
西へ向かい、首都長安に入ります。
しかし、戦禍のさめやらぬ長安。
武装した唐の兵士と無惨に焼かれた寺院があるのみです。

翌年、兄弟は蜀の成都にむかいました。
この高い山にかこまれた四川の地は、
天下の争乱も及んではいません。
数百の聴衆が有名な僧の講義に集まり、
経を読む声が寺々から流れてきたそうです。



するどい歴史感覚と思想感覚

玄奘は成都に滞在し、
摂大乗論(しょうだいじょうろん)
阿毘達磨論(アビダルマ)について学びました。
それは、大乗仏教と大乗仏教以前の部派仏教の教えを
同時に学んだということです。
玄奘の感覚はするどかったのです。

当時、中国に伝えられていた仏教は大乗仏教でした。
しかし、それ以前の仏教哲学も大切です。
それらを同時に学ぶことによって、
始めて歴史的に正しい仏教のあり方が
理解できると考えたのです。
こうして、玄奘は仏教哲学の歴史的源流を
究めていこうとしました。

622年(武徳5)、満20歳になった玄奘は、
成都で具足戒を受けて比丘(びく)僧になります。
比丘僧になると、戒律を学び、
各地の高僧を訪ね、研学する日々がつづくことになります。
学問に目覚めた若い玄奘は、
兄と別れて1人で旅立ちました。
ある商人の力添えで舟を仕立て、川を下り、
湖北の荊州(けいしゅう)に出ると、
この地で、漢陽王の前で摂大乗論アビダルマ
講じたといわれます。



仏門千里の駒

以後、数年間、玄奘の行動力はものすごく、
湖北から北の河南へ、河北へ、相州へ、趙州へと。
各地では、高僧を訪ねて数々の教えを受けました。
そして、やっと憧れの長安で学ぶことができるようになると、
有名な僧である法常(ほうじょう)と僧弁(そうべん)から、
摂大乗論について改めて詳しく学んだのです。
その理解力に驚いた僧は、
玄奘をたたえて「仏門千里の駒」と言ったということです。
しかし、疑問も生まれはじめました。
多くの師に出会い、教えを請いましたが、
その説は、解釈もさまざまで食い違いがあったのです。
当時の中国では、同一の経論でも人によってさまざまな解釈が
なされていたようです。



疑問の解決、原典を読みたい

そのころ、玄奘は『十七地論(瑜伽師地論・ゆがしじろん)』
という本の名前を知ります。
ヨーガの瞑想をおこなう修行者・瑜伽師(ゆがし)の
修業体験の段階(「地」)を17に分けて論じた本で、
大乗の立場から部派の教えもふくめて説いているのです。
けれども当時、この本はまだ全訳がありませんでした。
玄奘に「原典を読みたい!」という強い想いが生まれます。

仏教生誕の地・インドに行き、
『十七地論(瑜伽師地論)』を得たい。
そして、釈迦がひらいた仏教というものの本質はどこのあるのか、という自らの疑問をただしたい。
それが玄奘の願いとなったのです。

貞観元年(627)秋頃から、
唐の朝廷に、同志とともに許可を求めました。
“求法のためにインドに行きたい”と。
しかし、許可はでませんでした。
建国まもない新政権にとって、亡命する者がでることを
警戒したのです。
断念した同志たち、しかし玄奘だけはあきらめませんでした。

やり遂げる、あきらめない
という玄奘の意志力が発揮されるのは
まさにこれからです。

つづく






資料:
『大唐西域記』水谷真成訳 中国古典文学大系 平凡社
『玄奘三蔵』湯浅泰雄著 名著刊行会
『三蔵法師の歩いた道』長澤和俊著 青春出版社
『ザ・西遊記』呉承恩著作 全訳・村上知行
posted by 事務局 at 12:08| Comment(0) | 玄奘三蔵