
その2 心の友
先の見えない南北朝の時代に生き、
つれづれなるままに、
心にうつりゆくことを書き綴った兼好法師。
今回もその思いを追体験してみましょう。
同じ心
兼好は『徒然草』第十二段で次のように述べています。
同じ心ならん人と、しめやかに物語して、をかしきことも、
世のはかなき事も、うらなく言ひなぐさまんこそうれしかるべきに、
さる人あるまじければ、つゆたがはざらんと対(むか)ひゐたらんは、
ひとりある心ちやせん。
たがひに言はんほどの事をば、げにと聞くかひあるものから、
いささかたがふ所もあらん人こそ、
「われはさやは思ふ」など、あらそひにくみ、・・・・・
第十二段
同じ心もちの人と語り合えたら嬉しいのだが、
世の中にはそうでない人のほうが多い。
だから、相手に遠慮して、
話を合わせてすませようとしてしまう。
それではひとりでいるようなものだ。
少し、すこし意見が違う人のほうが、
『自分はそうとは思えない』と
言い争ったり憎しみを持ったりして・・・・・、
と、嘆息する兼好。
日々、難しいものは対人関係です。
話が合わないのにじっと我慢して耐え、話がずれないように、
「そうですね」などと言っているのもつらいものです。
ときには議論するのも良いかもしれません。
そうすると、すこしは心が通うようになるかもしれませんから。
そうなのです、意見が違ったら、それもいいじゃないか、
「議論しょうぜ!」という元気な気持ちも大切。
それこそ、人との関係を大切にする情熱です。
でも、あまりにも意見が食い違い、それも頑固な相手だったら!
ついつい素直になれなくなって、
議論ではなくなり、けんか腰になって、
言い争ったりしてしまいますから・・・・・。
こんな時には、相手に愛と尊敬をもって接することが
一番かもしれません。
それに、カッと、怒りの気持ちが起きそうなものなら、
すぐに悪い毒素が体中に溢れ出て、健康にも良くないです。
私たちが日々幸せな気持ちで過ごせるかどうかは、
対人関係が関係しているといえます。
どんな苦しいことがあっても、
同じ心をもつ人がそばにいるだけでも随分と違ってきますね。
いつも思います、「同じ心ならん人」は、
どこにいるのでしょうか、と。
兼好はどうだったのでしょう。
この段の結末では、
「心へだてなく言えたらいいのになあ」と願いつつ、
すこしさびしい様子で、
「自分と同じようでない人とは、
とおりいっぺんの他愛ないことを話しているうちはいいが、
真実の心の友というものには、はるかに距離が感じられる。
わびしいことだ」と述べているのです。
(現代訳『3日でわかる古典文学』監修 大橋敦夫・西山秀人より)
兼好は、真実の心の友を求めていたのですね。
そして、次の段に移っていくのです。

真実の心の友
第十三段では次のように書いています。
ひとり、燈(ともしび)のもとに文(ふみ)をひろげて、
見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰(なぐさ)むわざなる。
文は、文選(もんぜん)のあはれなる巻々(まきまき)、
白氏文集(はくしのもんじふ)、老子(らうし)のことば、
南華(なんくわ)の篇(へん)。
この国の博士(はかせ)どもの書ける物も、
いにしへのは、あはれなること多かり。
心の友を見つけることはとてもむつかしいことですね。
兼好は、自らの生活では得ることの難しい「真実の心の友」を
「古典(書物)」に見出し、「見ぬ世の人」を友としたのです。
古典を読み、「見も知らぬ昔の人」を心の友にしていくことは、
現代の私たちにもありますね。
兼好の心の友は次のようなものでした。
『文選』という詩文選集。
古代中国、梁の武帝の長子、昭明太子(501~531年)が学者に命じ、
周より梁に至る約千年間の代表的な詩文を集めたものです。
創作の手本として親しまれました。
そして、『白氏文集』。
唐の白居易(白楽天)の詩文集です。
清少納言もその詩に親しんでいました。
『枕草子』での一場面に、その詩が出てきます。
中宮より「少納言よ、香炉峰の雪いかならん」とお声があったとき、清少納言は、黙ったまま御簾を高く巻き上げたところ、
中宮は思わずにっこりとお笑いになったという場面です。
中宮定子は、『白氏文集』の一節
遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聴き、
香炉峰の雪は簾(すだれ)をかかげて見る。
をふまえて問いかけていたのです。
清少納言も愛したこの詩文集に、
兼好も心を癒されていたのでしょう。
次の「老子のことば」というのは、
中国道家思想の祖・老子が書いたとされる書物『老子』があり、
その中で語られる数々の言葉のことです。
「南華の篇」とは、
中国戦国時代の荘周(そうしゅう)の著で
『荘子(そうじ)』ともいいます。
これ等の書物は、現代もよく読まれ、
今も多くの人々の心の友となっているものです。
現実の世の中に真実の心の友が見出せないとき、
「見も知らぬ昔の人」を友として、その心を共に生き、
勇気づけられ、人生を楽しくすることはいいことですね。
兼好は、見出した心の友に自分の心を照らし合わせて
つれづれなる日々を暮らしていたのではないでしょうか。
たとえば、老子のことば、
人を知る者は智(ち)なり、自ら知るものは明(めい)なり。
人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。
足(た)るを知る者は富(と)む。強(つと)めて行なう者は志有り。
其の所を失わざる者は久し。
死して而(しか)も亡びざる者は寿(いのちなが)し。
(他人のことがよくわかるのは知恵のはたらきであるが、
自分で自分のことがよくわかるのは、さらにすぐれた明智である。
他人にうち勝つのは力があるからだが、
自分で自分にうち勝つのは、ほんとうの強さである。
満足することを知るのが、ほんとうの豊かさである。
努力をして行いつづけるのが、目的を果たしていることである。
自分の本来のありかたから離れないのが、永つづきすることである。
たとい死んでも、真実の「道」と一体になって滅びることのないのが、
まことの長寿である)。
(現代語解釈『老子』金谷治著より)
また、『荘子』には、荘周が蝶になる楽しい話があります。
昔者(むかし)、荘周夢に胡蝶(こちょう)となる。
栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。(略)
で、はじまる斉物編のところです。
『国語百科』の現代語訳では、
『以前、荘周は夢の中で蝶になった。
ヒラヒラと飛んでいる蝶であった。
自身楽しい気分で、気持ちにピッタリあっていた。
(違和感はなかった)。
そして自分が人間の荘周であることなどは忘れてしまっていた。
はっとして目が覚めてみると、
そこには驚いた様子で人間の周がいた。
そこで、そもそも人間である周が夢の中で蝶となっていたのか、
それとも蝶が夢の中で人間の周になっているのかが
わからなくなってしまった。
(なるほど世間の常識では)
人間の周と蝶とでは必ず区別があるはずである。
(だが、その区別は本当のものであろうか)
このような(確かに存在しているようで、定めのない)状態のことを、
物事の絶え間のない変化というのである。』
夢の話しですが、「夢が現実なのか? 現実が夢なのか?」
この荘子の問いは、「この世の真実は何か」といっているようで、
とても深く考えさせられます。
このような夢を見たことはありませんか。
兼好は、このところを読んで、
ひとりニコッとしていたかもしれませんね。
真に頼るべきもの、心の余裕
心のありかたを日々に考えていた兼好。
次のようなことを述べている第二百十一段があります。
よろずの事は頼むべからず。
愚かなる人は、深く物を頼む故に、恨み、怒る事あり。
よくあることかもしれません。
頼んだことがうまくいかないからといって、
恨んだり怒ったり。
そうなると大変です。
兼好は言います、頼み事はするな。
また、“自分も他人も頼りにしない”ことが大切なのだ、と。
もしや、兼好は出家する以前、さまざまな問題を抱え、
ときには悩んだ末に、頼み事をしたのかもしれません。
そして、わかったことなのでしょうか。
兼好は、権勢や財産、また学才や徳、
そして、主人や家来にも頼るな、すぐにそむかれることがある。
まして人の厚意、また約束も「信ある事少なし」と、言うのです。
では、「真に頼るべきもの」は何なのでしょう。
兼好はそれについてはふれてはいませんが、
心のありかた、それも心の平穏をもたらすものについては
語っています。
兼好が言いたかったことは次のようなことです。
他を頼らず、心の余裕をもとう。
心に余裕を持っていれば、いささかも傷つくことはない。
人間は天地と同じような無限の可能性を持っているのだから、
寛大で柔軟な心を持っているとき、
喜怒の感情に心が妨げられることもなく、
他に煩わされることもない、と。
(『3日でわかる古典文学』監修 大橋敦夫・西山秀人より)
やはり真に頼れるものは心のありかた。
それも、「ゆるくしてやわらかな心」をもつことなのでしょう。
つづく

資料:
『徒然草』 西尾実・安良岡康作 校注 岩波文庫
『3日でわかる古典文学』 監修 大橋敦夫・西山秀人 ダイヤモンド社
『国語百科』 編集代表 内田保男・石塚秀雄 大修館書店
『老子』 金谷治著 講談社学術文庫
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