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2010年10月15日

第十九回 兼好法師「徒然草」



その1 つれづれなるまゝに

つれづれなるまゝに、日くらし、硯にむかひて、・・・・・。

兼好法師による『徒然草』序段の冒頭です。
鎌倉時代末期から南北朝時代に書かれたこの随筆は、時代に伴い、人により、さまざまな読み方ができるといわれています。
そこに書かれた「人間の本質や人との関係、人生の考え方」などは、教えられるところも多いのです。
今回は、兼好法師が綴った心の在り方をとおして、
よりよく生きる方法を学んでみたいと思います。

前回の主題だった明恵の時代からは、ほぼ140年後、
兼好法師は、明恵に心惹かれたのでしょう、
栂尾(とがのを)の上人として、ほほえましく描いています。
まずはそのところからはじめましょう。


豊かな誤解力

栂尾の上人、道を過ぎ給ひけるに、河にて馬洗う男(おのこ)、
「あしあし」と言ひければ、上人立ち止りて、
「あな尊(たふと)や、宿執開発(しゆくしふかいほつ)の人かな。
阿字々々(あじあじ)と唱ふるぞや。如何なる人の御馬ぞ、
余りに尊く覚ゆるは」と、尋ね給ひければ、
「府生(ふしやう)殿の御馬に候ふ」と答へけり。
「こはめでたき事かな。
阿字本不生(あじほんふしやう)にこそあンなれ。
うれしき結縁(けちえん)をもしつるかな」とて、
感涙(かんるゐ)を拭(のご)はれけるとぞ。

(第百四十四段)


明恵の人となりがよく描かれていますね。
――明恵が道を通りかかると、
河で馬を洗う男の「足、足」と言う声が聞こえます。
男は、馬の足を後ろに引かせようとして、
「足、足」と言っていたのでしょう。
それが、信心深い明恵の耳には、「阿字(あじ)」と聞こえたのです。

《「阿字」とは、
梵語(ぼんご)の十二母韻の第一で、
この音が本となって一切の語を生じ、
この字が元となって、一切の梵字が始まることから、
仏教では、この字に、宇宙一切の本源・種子として
多くの意義を付しているのです。
「宿執開発」の人とは、
宿執(前の生において執(と)り行った善根功徳)が
開発(今の世において開きおこって、善果を結ぶこと)した人。
参考資料:『徒然草』西尾実・安良岡康作 校注より》

そこで、明恵は立ち止まって、
「これはなんと尊いことだ。
善根功徳の人と見えて阿字阿字と大声に呼んでいる。
どなたの馬であろうか」
と問うてみたところ、
男は答えます、
「府生殿(ふしやうどの)のお馬でございます」と。
すると、明恵にとって「府生」という下級役人の呼び名は、
阿字の本質である一切諸方不生不滅の「不生」と聞こえて、
「これは、これは、阿字本不生とはなあ。
今日はまことに嬉しい法縁にめぐりあいました」
と、
感動の涙を拭(ぬぐ)ったというのです。
(明恵の言葉の現代語訳は、『徒然草を読む』上田三四二著より)

阿字本不生とは、
阿字は一切の語と字の本源であることから、
すべての諸法〔現象〕の根源として、
他の因より生じたものではない。
このことを悟れば、一切の諸法も、
もともと不生不滅であるという理。
『徒然草』西尾実・安良岡康作 校注より》

明恵と男の受け答えは、すっかりくいちがっていましたね。
明恵の「誤解」した「足」と「阿字」、「府生」と「「不生」のことは、
日ごろから、一心不乱に、この世の真理とは何かと考え、
懸命に修行に励んでいるからこそ生じたことなのでしょう。
明恵の人生にとって、「阿字」「不生」とは、
それほど特別に重い意味をもっていたのです。

白州正子氏は、その著『明恵上人』で、
この話について、次のように述べられています。

「短い文章の中に、
明恵の全貌を描きつくしている。
毎日のように見た夢も、
明恵は自分の方にひきよせて、
解釈している場合が多く、
天才に共通な、豊かな誤解と独断によって、
彼は自分の信仰を深めるとともに、
高い信念に到達して行ったのです」
と。

ところで、馬を洗う男は、どう思ったのでしょう。
なにやらしきりに感激しているお坊さんですが、
そのやりとりの中で、あたたかい至福のようなものを
感じたかもしれません。
それは「明恵が自分の周りに浄土を現出せしめた人」と
いわれるからです。



兼好の微笑

『徒然草』の中で多くの僧のことを書いた兼好ですが、
そのほとんどが皮肉っぽく批判的でした。
しかし、この明恵のときには不思議に皮肉も批判もありません。
兼好の明恵にたいするこのような想いについて、
『徒然草を読む』の著者上田三四二氏は、
次のように述べられています。

第百四十四段を記すとき、
兼好の唇に微笑が浮かんでいたかもしれない。
しかし、記し終わったとき、微笑はもう消えている。
「感涙を拭はれけるぞ」――この段をこう書き終わったとき、
兼好には、明恵の児童のような至純に刃向かいうる現実は
どこにもないように思われた。(略)

そして、
彼は微笑を持って向かおうとしても、
いつしか仰ぎ見てしまうようなものを明恵に感じている。
兼好は、現世において「あるべきやうにあらん」と願いつつ
真に超俗的であった明恵という一人の僧の上に、
ありうべき至高の人間存在の形を見ているのである。


このように明恵のことを至高の人と見た兼好法師とは
どのような人だったのでしょう。



卜部兼好(うらべかねよし)こと兼好法師


兼好の生まれた年は、弘安6年(1283)前後といわれています。
名前は、卜部兼好(うらべかねよし)といいます。
家は代々、神祇官(じんぎかん)として朝廷に仕えていました。
兼好も後二条天皇の御世(1301〜1308)の頃、
朝廷に仕え、蔵人を経て佐兵衛佐(さひょうえのすけ)になりました。
幼少の頃から聡明で、記憶力も抜群。
鋭い感性と洞察力、論理的な思考力も合わせ持っていました。
そして、和歌を学ぶとともに、
朝廷や武家の礼式の知識である有職故実(ゆうそくこじつ)も吸収、
和・漢・仏にわたる広い教養を得ていたといわれています。

しかし、そうした仕官生活の間に、
いつしか出家遁世の志が芽生えてきたのです。
その頃に詠んだ歌があります。

   世をそむかんと思ひ立ちし頃、
   秋の夕暮れに、

そむきなば いかなる方に ながめまし
   秋の夕べも うき世にぞうき


   世の中あくがるる頃、
   山里に稲刈るを見て、

世の中に 秋田刈るまで なりぬれば
   露もわが身も おき所なし

原文出典『兼好法師集』


「わが身もおき所なし」とは・・・・・、
鬱々としたその頃の気分がしのばれますね。

やがて、正和2年(1313)のこと、
兼好、およそ30歳頃だったでしょうか、
彼は、「兼好御坊(けんこうごぼう)」と呼ばれる遁世者になって
いました。
そして、詠った歌は、

さても猶(なほ) 世を卯の花の かげなれや
   遁れて入りし 小野の山里


出家した兼好は、「小野の山里」に住み、
遁世の道を歩き始めていたのです。

出家によって彼が捨てたものは、
「卜部家という下級貴族の家柄によって彼を規制する世間」です。
時代の風は、どのように吹いていたのでしょう。



ものぐるほし

当時は、あらゆるものが大きく変わろうとする時代でした。
そこでは、今までの常識というものが通用しなくなり、
人々の間では、先の見えない不安定な気分が漂っていたのです。

このような時代の中で、出家し遁世したといっても、
兼好は、なかなか世間を捨てきれませんでした。
みずから選びとったにもかかわらず、
「つれづれ」という孤独で物寂しい日々を
つらいと感じていたようです。
序段を読んでみましょう。

つれづれなるまゝに、日くらし、硯にむかひて、
心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、
あやしうこそものぐるほしけれ。


心のうちに物寂しい思いをいだいてを過ごす兼好は、
その心にうつりゆくものを書きとめていくとき、
「あやしゅうこそものぐるほしけれ」となってしまったのです。
それは、前述の上田三四二氏によれば、
書くことによって過去が押しよせてくるからである。
捨てたはずの名利が見えてくるからである、
と。

書くという行為の中でよみがえってくる世間への想いは、
なかなか捨てきれなかったのでしょう。
しかし、兼好は書き続けるのです。
上田三四二氏は、それについて、

彼は閑暇に徹しようとして徹しきることのできない心を
もてあつかいかねて、その心中に動くものを文章に移そうと試みる。
もちろんただ移すのではない。
漫然と移しているかに見えるその過程において心を立て直し
言いがたくもの狂おしいみずからを克服しようとしているのである、

と。

「心を立て直し、狂おしいみずからを克服しようと」して、
心の中にうつるものを書きつづける兼好。
その後、彼の意識はどのように変化し、生きていったのでしょうか。

つづく



資料:
『徒然草を読む』上田三四二著 講談社学術文庫
『徒然草』西尾実・安良岡康作 校注 岩波文庫
『3日でわかる古典文学』監修 大橋敦夫・西山秀人 ダイヤモンド社
『明恵上人』白州正子著 新潮社

posted by 事務局 at 15:11| Comment(0) | 兼好法師
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