
心が生じて悪魔が生まれる。
心が滅すれば悪魔もなくなる。
旅は、心が恐れるから恐ろしい。
心が恐れなければ恐ろしくない。
わたしはすでに救世の大願をたてたものです。
インドにまいり三蔵の妙文をいただき、
国にもどって、わが太宗皇帝のお力になるつもりでいます。
(『ザ・西遊記』呉承恩著作 全訳・村上知行より)
『西遊記』に登場する三蔵法師の言葉です。
天竺(インド)への旅、第一夜に泊まったのは法明寺。
その時、住持以下、五百人あまりの僧侶たちが集まり、
灼熱の砂漠と、厳寒の天山山脈を越える、
生死をかけた旅を、“無分別な冒険”だと
忠告したときの三蔵法師の答えなのです。
奇想天外な物語で人気の『西遊記』。
作者は、明の時代の呉承恩(ごしょうおん)といわれます。
背景にあるのは、
多くの人々によって語りつがれてきた
唐の名僧・玄奘三蔵(602年〜664年)の求法の旅。
玄奘のことは、唐代の終わり頃から伝説化され、
歌や芝居に取り入れられてきたのです。
史実の玄奘三蔵は、
仏教にこの世の救いを願い、
釈迦がひらいた仏教の本質はどこにあるのかと自問して、
生死をかけて、はるか仏法源流の地である天竺(インド)に
旅をした名僧です。
今回は、その情熱に向き合い、
よりよい生き方とはどういうものかを
考えてみたいと思います。
☆
玄奘三蔵の大旅行には
当時の人々も大変驚きました。
この比類ない意志の人を知るには、
『大唐西域記』や『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』があります。
求法の旅は、玄奘20代後半、
629年(貞観3)8月に長安を出発し、
645年(貞観19年)正月に帰朝するまでの
前後17年の歳月であったといわれています。
旅行記には、見聞した西域・インドの季候、
風土・民族・習俗、言語・境域・物産・伝説等、
もろもろのことが記述され、
伝記には、その痛快な行動や劇的な話も加えられています。
多くの国の人々と交流した玄奘三蔵。
その国際的な行動力と優秀な語学力はすばらしいものがあります。
帰国後には、持ちかえった経典の19年間にもわたる翻訳事業。
その事業は、唐の朝廷と交渉し公費でおこなわれたのです。
そのような政治力をもかねそなえた玄奘とは、
とてつもなく魅力のあふれた人だったのでしょう。

玄奘という人
その生い立ちは、
紀元602年(隋・仁寿2)、
古都洛陽の東方約28キロにある河南省陳留県の
陳家に四男として生まれています。
父の名は慧(え)。
県令(知事)などをつとめた人ですが、
郷里に隠棲し、好きな古典などに親しむ生活でした。
玄奘は、子どもの頃から聡明で可愛く、眉目秀麗。
俗称は陳(ちん)、名は褘(き)。
当時のことを知るために、すこし歴史に目をやると、
4世紀から6世紀に至る300年間、南北に分裂。
589年、隋の文帝が統一。
この分裂の時代に、
西アジアから異質な文明の波がやってきました。
その文化は華麗な色彩に満ち、その先端に仏教があったのです。
北魏のころ、洛陽には仏教寺院が立ち並び、
その数は千をこえたといわれます。
そして3000人のインド・西域僧。
洛陽に近い陳家もその新しい文化の影響を受けました。
次兄の素は、「今は仏教の時代です」といい、
洛陽の浄土寺に入って僧になってしまったそうです。
10代のはじめ、父が亡くなり、兄に連れられ洛陽へ。
そして、少年は、維摩経(ゆいまぎょう)や法華経を
誦習(よみなら)うようになったのです。
素直な心と行動力
612年(大業12)、その洛陽で、
新しく少数の僧を「得度する」という詔勅が出ました。
「度(ど)」とは受戒して正式に僧になることで、
度された人は国家に保証されて修行することができます。
志願者が数百人も集まりました。
当時、玄奘は少年でまだ資格がありません。
しかし、僧になりたかったのです。
運命は積極的に自分で開くものなのでしょう。
役所の前に行き、門のかたわらに立っていると、
試験官・鄭善果(ていぜんか)の目に、
利発そうな少年の姿が映りました。
「どこの家の子か?」と尋ねられ、名前を言うと。
「僧になりたいか」と。
「はい、しかし勉強をはじめたばかりで、まだ資格はありません」
「出家して、何をしたい?」
「はい、御仏の教えを学んで、世にひろめたいのです」と。
鄭善果は、素直な答えに心を動かされます。
その賢そうな姿に感心し、
特別に規定をまげて少年を度することにしたのです。
凛々しい少年僧の誕生です。
こうして彼は正式に僧籍に登録され、
玄奘と名のり、仏典の研学に励みます。

教えを求めて
時代は激しく変化しました。
高句麗遠征軍の大敗北によって、
隋の支配はゆらぎはじめたのです。
民衆は過酷な徴税をきらい、逃亡する流民が各地にあらわれました。
山西省に唐公李淵(りえん)が、軍を率いて立ち上がり
首都長安を陥れます。
浄土寺で3年間修行した玄奘はたくましく成長していました。
兄を説得し戦火の迫る東都洛陽を逃れ、
西へ向かい、首都長安に入ります。
しかし、戦禍のさめやらぬ長安。
武装した唐の兵士と無惨に焼かれた寺院があるのみです。
翌年、兄弟は蜀の成都にむかいました。
この高い山にかこまれた四川の地は、
天下の争乱も及んではいません。
数百の聴衆が有名な僧の講義に集まり、
経を読む声が寺々から流れてきたそうです。
するどい歴史感覚と思想感覚
玄奘は成都に滞在し、
摂大乗論(しょうだいじょうろん)と
阿毘達磨論(アビダルマ)について学びました。
それは、大乗仏教と大乗仏教以前の部派仏教の教えを
同時に学んだということです。
玄奘の感覚はするどかったのです。
当時、中国に伝えられていた仏教は大乗仏教でした。
しかし、それ以前の仏教哲学も大切です。
それらを同時に学ぶことによって、
始めて歴史的に正しい仏教のあり方が
理解できると考えたのです。
こうして、玄奘は仏教哲学の歴史的源流を
究めていこうとしました。
622年(武徳5)、満20歳になった玄奘は、
成都で具足戒を受けて比丘(びく)僧になります。
比丘僧になると、戒律を学び、
各地の高僧を訪ね、研学する日々がつづくことになります。
学問に目覚めた若い玄奘は、
兄と別れて1人で旅立ちました。
ある商人の力添えで舟を仕立て、川を下り、
湖北の荊州(けいしゅう)に出ると、
この地で、漢陽王の前で摂大乗論とアビダルマを
講じたといわれます。

仏門千里の駒
以後、数年間、玄奘の行動力はものすごく、
湖北から北の河南へ、河北へ、相州へ、趙州へと。
各地では、高僧を訪ねて数々の教えを受けました。
そして、やっと憧れの長安で学ぶことができるようになると、
有名な僧である法常(ほうじょう)と僧弁(そうべん)から、
摂大乗論について改めて詳しく学んだのです。
その理解力に驚いた僧は、
玄奘をたたえて「仏門千里の駒」と言ったということです。
しかし、疑問も生まれはじめました。
多くの師に出会い、教えを請いましたが、
その説は、解釈もさまざまで食い違いがあったのです。
当時の中国では、同一の経論でも人によってさまざまな解釈が
なされていたようです。
疑問の解決、原典を読みたい
そのころ、玄奘は『十七地論(瑜伽師地論・ゆがしじろん)』
という本の名前を知ります。
ヨーガの瞑想をおこなう修行者・瑜伽師(ゆがし)の
修業体験の段階(「地」)を17に分けて論じた本で、
大乗の立場から部派の教えもふくめて説いているのです。
けれども当時、この本はまだ全訳がありませんでした。
玄奘に「原典を読みたい!」という強い想いが生まれます。
仏教生誕の地・インドに行き、
『十七地論(瑜伽師地論)』を得たい。
そして、釈迦がひらいた仏教というものの本質はどこのあるのか、という自らの疑問をただしたい。
それが玄奘の願いとなったのです。
貞観元年(627)秋頃から、
唐の朝廷に、同志とともに許可を求めました。
“求法のためにインドに行きたい”と。
しかし、許可はでませんでした。
建国まもない新政権にとって、亡命する者がでることを
警戒したのです。
断念した同志たち、しかし玄奘だけはあきらめませんでした。
やり遂げる、あきらめない、
という玄奘の意志力が発揮されるのは
まさにこれからです。
つづく

資料:
『大唐西域記』水谷真成訳 中国古典文学大系 平凡社
『玄奘三蔵』湯浅泰雄著 名著刊行会
『三蔵法師の歩いた道』長澤和俊著 青春出版社
『ザ・西遊記』呉承恩著作 全訳・村上知行
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