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2010年02月15日

第三回  聖徳太子伝説

その1 和(やわらか)の心


古代より多くの日本人の想像力をかきたててきた聖徳太子。
今回は、「理想の人」といわれたその姿から、
“よりよく生きる道”を探ってみたいと思います。

想像してみてください。
6世紀初頭、
飛鳥から斑鳩(いかるが)への一本道を
愛馬・黒駒にまたがって颯爽と駆けていく人を。
その人の名は厩戸皇子(うまやとのみこ)。
道は太子道(筋違道:すじかいみち)。



『日本書紀』(720年編纂)の巻22には、次のように記されています。
推古天皇即位元年(593)のことです。

「夏四月十日、
厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)を立てて、
皇太子(ひつぎのみこ)とされ、国政をすべて任せられた。
太子は用命天皇の第2子で、
母は穴穂部間人姫皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)である」

(『全現代語訳 日本書紀』宇治谷孟著より)


聖徳太子という呼称は、没後に贈られる諡(おくりな)で、
生存中の名は、厩戸皇子といいます。

「尊厳ある理想の皇太子」として登場した聖徳太子。
それ以来、聖徳太子の存在は、
伝説ともなり、信仰の対象とまでなっていったのです。

以後、伝記だけでも、江戸時代以前に約100種。
明治以降、聖徳太子を主題とした著書が約300冊余り、
論文は1000篇に及びます。
(若林隆光編「聖徳太子関係文献目録」)

日本人は、聖徳太子像に何を託し、
何を見、何を求めてきたのでしょう。



太子の和

20歳で叔母・推古天皇の下、
国政の補佐役(摂政)となった太子。
22歳より、高句麗から来た慧慈(えじ) に仏教を習い、
博士覚(かくか)から儒教を学びます。
28歳、斑鳩に宮室(みや)を興し、
飛鳥に小墾田宮(おはりだのみや)を着工。
31歳、冠位十二階の授与式を行い、
憲法十七条を作ったとされます。

その憲法十七条の始まりには、

以和為貴
(和を以って貴しとなす)

仏教を習い、儒教を学んだとされる聖徳太子。
『論語』に、礼之用和為貴(礼の用は、和を貴しとす)とあり、
『礼記(らいき)』には、礼之以和為貴 (礼は和を以って貴しとなす)
という語句があります。
また、仏教の戒律では僧集団の「和」はとても大切なことなのです。
そのような儒教や仏教の精神を参考にした以和為貴の4文字。
その「和」は、
当時、官人貴族の心得としての「和を大切に」であり、
官吏が公務をおこなう時のキーワードとして打ちだされたものです。
しかし、しだいに日本人の心情にふれる言葉として、
多くの人々の心に宿るようになりました。

江戸時代、「和」は「やはらか」と読まれ、
この「和」なる人は、策におぼれる人ではなく、
策を弄することもない理想的な人格とみられていたのです。

現代の漢語辞典では「和」は、
どのような意味になっているでしょう。
辞典を開いてみると、
@「やわらぐ」「やわらぎ」とあり、
「おだやかになる」「なごやかになる」こと。
そして、「仲よくなる」「仲よくする」、気が合う。
つまりは、「平和」「親和」を生み出すと。
A「やわらげる」
B「のどか」「うららか」
C「ほどよい」「行き過ぎも不足もない」
また、「こたえる」「応ずる」「唱和」、
「ととのえる」「ととのう」とあります。
「和」の項目のラストには、
和而不同 ワしてドウぜず。 
人とやわらぎ楽しむが、よからぬことには同調しない。〔論語〕
以和為貴 ワをもってたっとしとなす。
和合の道を守ることが最も貴いことである。
〔礼記、儒行〕〔聖徳太子、十七条憲法〕と。
(『大修館漢語新辞典』蒲田正 米山寅太郎著より)
これらの4文字は、
私たちの文化が幾世代にわたって受け継いできたものですね。

そして、十七条憲法の第二条冒頭には、
「篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり」とあり、
仏教の教えで国を治めようとした当時のことがわかります。
太子33歳の時には、推古天皇の要請により、
「勝鬘経(しょうまんぎょう)」「法華経(ほけきょう)」
講じたとされ、仏教興隆の役割を担った太子の姿が見えてきます。
また、小野妹子を隋に派遣し大陸文化を導入。
身分の上下ではなく、
才能にあふれた徳のある者を用いるため、
平等の精神を広め、
農業のための池を作り、道を整え、
子どもたちに伎楽の舞を習わせた太子。



太子の徳

613年、片岡(現奈良県北葛城郡香芝町今泉付近)での出来事です。
通りかかった太子の前に、飢えた旅人が倒れていました。
太子は飲物や食べ物を与え、自分の衣服を着せてあげたのです。
その時のことが、歌になっています。

しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こや)せる
その旅人(たひと)あはれ 親なしに 汝生(なれな)りけめや
さす竹の 君はや無き 飯に飢て
臥せる その旅人あはれ


(片岡山で、食べ物に飢えて横になっておいでになる、その旅人は
お気の毒なことだ。親がないままに生まれ育ってきたのか、
仕える主人はいないのか、そんなことはなかろうになあ。
食べ物に飢えて横になっておいでになる、
その旅人はお気の毒であることだ)
『和歌の解釈と鑑賞事典』井上宗雄・武川忠一編より


翌日心配になって見舞いの者をやると、
「もう亡くなってしまいました」と。
太子は大いに悲しみ、塚を造り埋葬したのです。
数日後、「亡くなった人は聖者にちがいない」といって、
見に行かせると、墓の中に死体はなく、
衣服がきちんと折りたたまれ置いてあったそうです。
その衣を以前のように身に着けた太子。
当時の人々は、この飢えた人は聖人で、
そのことを知っていた太子も、
また徳のある聖人だと感心したということです。

この出来事を伝える話と歌は、
政(まつりごと)を行う人は、徳が備わり、
慈悲にあふれていることを願う日本人の
心の現われではないでしょうか。



世間と仏

622年(推古天皇30年)2月21日、
斑鳩で夫人の膳大朗女(かしわでのおおいらつめ)が亡くなりますと、翌22日、後を追うように太子も亡くなります。
49年の生涯でした。
死を悼む若き夫人の橘大朗女に、
太子が生前に語っていたとされる言葉があります。

世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)

(世間は虚しい仮のもので、ただ仏のみが真実である)

この言葉は私たちに何を伝えようとしたのでしょう。
幼い頃から体験したとされる数々の哀しい出来事。
「叔父たちの天皇位継承をめぐる悲劇や
豪族間の血で血を洗う争い」
そこには虚しい時間がながれるのみ。
真実の生はどこにあるのか、
よりよい世の中を実現するにはどうすればいいのかと、
「人生」に対する問いを持ち続けたであろう太子。
それは当時の人々の問いでもあったのでしょう。

求道者としての太子は悟っていたのではないでしょうか。
人の営みの根底には、
むさぼり・いかり・おろかさなど、さまざまな煩悩があるが、
仏の智慧の世界をもつことにより、救いの道が開けてくると。


人はこの世に生まれて、
何につけても満足だと感じることはすくないものです。
いつも苦しみの種を見出しては苦悩するのが、
哀しいかな人間の心。
そのような時、
悩みをやわらげる心の救済が必要となります。

次回は、そのことを考えてみたいと思います。




資料:
『和歌の解釈と鑑賞事典』井上宗雄・武川忠一編 笠間書院
『全現代語訳 日本書紀』宇治谷孟著 講談社学術文庫
『聖徳太子』田村圓澄著 中公新書
『聖徳太子の本』学研
『仏教を歩く・聖徳太子』朝日新聞社
『聖徳太子はいなかった』谷沢永一著 新潮新書
『大修館漢語新辞典』蒲田正 米山寅太郎著 大修館書店
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posted by 事務局 at 15:03| Comment(0) | 聖徳太子
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