CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る

2010年01月15日

第一回


吉田松陰の言葉があります。

  一死実に難し。
  然れども生を偸(ぬす)むの
  更に難きに如(し)かざる事
  初めて悟れり。

           安政六年四月頃野村和作宛

「死ぬ覚悟はできているが、死は実にむずかしい。
しかし、よりよき生を見出すことは、
さらに難しいと、初めて悟った」というのです。

生きることは、死ぬことよりも難しい!

安政6年4月といえば、
幕府の政策を批判したため死罪になる半年ほど前です。
松蔭30歳。

そのとき死を覚悟していた松陰ですが、
“よりよき生”考え出そうと苦闘しはじめたのです。
それは、自分がやろうと誓ったことを実現するためには、
死ぬことなく、生き抜いていかねばならないと思ったからです。


今回は、よりよく生きることを
日本古来の神話の中から考えてみましょう。



白鳥となった倭建命(ヤマトタケルノミコト) その1


  倭は 国のまほろば
  たたなづく 青垣 山隠れる
  倭しうるはし

                     古事記

(大和は、国の中でも最もすばらしいところだ。
青く茂った山々が、いく層にも重なり連なっているよ。
その山々に囲まれている大和は、なんと美しくすばらしいのだ!)

古くより伝えられてきた古代日本の悲劇の英雄ヤマトタケル。
東征からの還(かえ)り、病に倒れ、死を覚悟したとき、
もう見ることがない故郷を想い詠った歌です。
亡くなった後、
ヤマトタケルの魂は、白鳥となって飛んでいきます。
どうして、白鳥となったのでしょう。
どこへ飛んでいったのでしょう。


ヤマトタケルのことは、
『古事記』や『日本書紀』などに記されていますが、
その内容には違ったところがみられます。
『古事記』に伝わる物語を追体験してみましょう。

ヤマトタケルノミコトは、景行天皇の皇子。
幼名は小碓命(ヲウスノミコト)。

物語は、
兄・大碓命(オホウスノミコト)が父に嘘をついたので、
朝・夕の食事の席に出てこなくなったところから始まります。
そんなある日、父が
「どうしてお前の兄は朝夕の食事に出てこないのか。
お前からねんごろに教え諭(さと)してきなさい」と命じました。
ところが、いつまでたっても兄は出てきません。
父はどうしたのかと尋ねます。

「すでにねぎつ」(十分にねぎらってやりました)
「いかにかねぎつる」(どのようにねんごろにさとしたのか)


父との言葉の行き違いからか、
この弟は、兄の手足をもぎとり、
薦(こも)に包んで投げ捨ててしまったのです。
なぜこのようなことになってしまったのか。
「ねぎ」は「ねぎらう」「いたわる」の意味です。
ところが、弟は暴力的な「ねぎ」の意味にとったのです。
「かわいがる」が、「やさしくする」のではなく、
逆に「痛めつける」という意味で使われることがありますね。
乱暴者が「かわいがってやろうか」などと。
この「ねぎ」という言葉に、父と子の断絶が暗示されています。

また、その背後には
『古事記』に書かれていませんが、
母は、兄を溺愛していたのではないかと、
推理する人もいます。

その後、父である天皇は、
「建(たけ)く荒き情(こころ)」を恐れ、疎み、
この息子を遠ざけるようになりました。

抑えることができない荒々しい力を秘めた、
どこか翳(かげ)りを持つ少年の登場です。
物語は、父から疎まれ、放浪しながら苦悩する少年の
心の成長を語りだします。



熊曽(くまそ)討伐


父は、彼を身辺に近づけないようにするため、
熊曽討伐を命じ、西国に追いやります。
現在の九州南部です。

出発の時、ヲウスは、髪を額のあたりで束ねた少年の髪形。
叔母・倭比売命(ヤマトヒメノミコト)がいつも身につけていた
衣装をもらい、短剣を懐にいれて出かけたのです。
叔母が母親代わりのようです。

長い旅を経て、
クマソタケルの館に着くと、ちょうど宴を準備しています。
ころをみはからって、女装してまぎれこみ、
首領であるクマソタケル兄弟を討ちます。
その時、瀕死のクマソタケルの弟は、
「大倭(おおやまと)の国にこんな強い男がいたのか。
今より後は、倭建の御子と名乗られよ」。
その言葉が終わるやいなや、
熟した瓜を斬るように殺してしまいました。
ヲウスがヤマトタケルと名乗るようになったのは、
この時からといわれています。

還りには、山の神・河の神などを平定。
また、出雲に出向いて、イヅモタケルと友になるふりをし、
水浴びの時、あらかじめ作っておいた木刀と相手の剣を交換。
いざ、太刀合わせをと誘い、
抜けない木刀を持ったイヅモタケルを
斬り殺し、出雲を平定したのです。

「計略による勝利は英雄の条件」といわれますが、
友人を装って、殺すとは!
父から疎まれたヤマトタケルの心の闇が
そうさせたのでしょうか。

彼の心は、度重なる戦で病んでいったのでは・・・・・。



東国征伐


父は休息の間も与えずに、
さらに東国征伐を命じます。
父を恨みながらも、再び苦難の長征へと旅立たされるのです。
伊勢大神宮に参拝した彼は、
斎宮である叔母のヤマトヒメに、
「父は、私なんか、はやく死んでしまえとお思いなのか」
と嘆きます。

親子の断絶に苦悩するヤマトタケルノミコト。
「男の子が父親に背く心理状態」
オイディプス・コンプレックスでしょうか。
疎まれた人間という自覚から
ヤマトタケルの悲劇は始まったといえるのです。

叔母は、草なぎの剣
危険に出合ったときには開けなさいと御袋を授けます。
相模の国(神奈川県)で、
土地を治める国造(くにのみやつこ)にだまされ、
野原の中で火攻めにあってしまいます。
その窮地を、剣で草をなぎ払い、袋の中にあった火打石で火をつけ、
迫ってくる火を退けたヤマトタケルは、
相手を焼き滅ぼしてしまいます。



献身の愛

東に向かい、
走水の海(浦賀水道)を渡ろうとしたときのこと。
渡りの神が荒波をおこし、
船が進まず、今にも沈みそうになった時、
后のひとり弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)は、

あれ御子に易(かは)りて海の中に入らむ。

渡りの神を鎮め、
夫の東征が無事に成し遂げられるように願って
海に身を投じます。

オトタチバナヒメは詠います。

さねさし 相模の小野に 
燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも


(相模の野で、燃えさかる炎の中に、雄雄しく立って、
私の安否を尋ねてくださった、あなたさまよ)

妻が目の前で、
自分の身代わりになって、
死んでゆくなんて、
耐えられますか・・・・・。
ヤマトタケルの慟哭の声が聞こえてきます。

この犠牲によって、
ヤマトタケルは、上総国から東方に入り、
荒ぶる神や従わぬものたちを服従させることができました。
都へ還る途中、
武勇並ぶもののないヤマトタケルも、
足柄の坂で、遠く走水海に思いを馳せ、
亡き妻オトタチバナヒメを偲び、

あづまはや(ああ、わが妻よ)

と嘆いたのです。


ヤマトタケルが生まれて初めて知った“献身の愛”でしょうか。

つづく





資料:
『吉田松蔭』奈良本辰也著 岩波書店
『古事記』新潮日本古典集成
『古事記講義』三浦佑之著 兜カ芸春秋
『古代英雄七人の謎』豊田有恒著 東京書籍
『創られた英雄ヤマトタケルの正体』関裕一著 PHP
『古事記の世界』川副武胤著 教育社
『日本美 縄文の系譜』宋左近著 新潮選書

【ヤマトタケルの最新記事】
posted by 事務局 at 03:52| Comment(0) | ヤマトタケル
この記事へのコメント
コメントを書く