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2009年08月15日

第十四回 夏は怪談話



日本の夏における文化の一つと申しましょうか、
怪談話は、昔はとても人気があったのです。

江戸時代、文政8年(1825)、夏のこと、
歌舞伎『東海道四谷怪談』が大当たり。
その時、71歳、四世鶴屋南北の戯作です。

人はさまざまなことを想像し、考え、作り出します。
この芝居が大当たりしたのは、
「怖いもの見たさ」でしょうか。
いやいやそれだけではなさそうです。

『東海道四谷怪談』のあらすじを知っておきましょう。
(当時、歌舞伎などでは、実在の人物や事件をそのまま上演することは禁止されていました。
赤穂浪士の討ち入り事件は、南北朝に時代を移し変え、
浅野内匠頭は塩冶判官(えんやはんがん)に、
吉良上野介は高師直(こうのもろなお)に、置き換えられています)

浪人・民谷伊右衛門は、もとは塩冶藩の侍でした。
同僚だった四谷左門の娘お岩と夫婦になっていましたが、
藩の御用金を横領したことを義父に知られ、
お岩が連れ戻されます。
悪事がばれたことを知った伊右衛門は、
義父・左門を殺害し、
お岩には、義父の仇は自分が討つとあざむいて復縁。
一方、隣の家の伊藤喜兵衛の孫娘お梅が伊右衛門に一目ぼれ。
孫可愛さに喜兵衛は、とんでもないことをしでかします。
伊右衛門は塩冶浪人であっても主人の仇討ちなど考えていないと判断、婿にしようと考え、お岩に薬といつわって毒薬をおくり、
伊右衛門を、自分の仕える高師直へ推挙しょうとします。
哀しいかなお岩!
夫に疎まれるようになり、
姦通の罪までかぶせられそうになってしまいます。
毒を盛られたお岩は、顔が醜く腫れ上がり、
梳(と)かす髪も抜け落ち、みるも無残な姿に成り果てて、
「うらめしいぞへ、伊右衛門どの」と、恨み死ぬ。
お岩の怨念は夫に祟(たた)っていきます。
舞台では怪異な出来事が次々とおこり、
日本一怖〜い怪談が展開されてゆく。
最後は、半狂乱のうちに、
お岩の義理の弟に討たれる伊右衛門の姿が、
観客の目にしっかりと焼きつけられるのです。

南北は、当時の大作家。
話のなかに、虚実とりまぜ、複雑にからみ合わせ、
時代世相を反映させているのです。
役者も一人で七役も十役も変身し、
でなければ役者とはいえぬ歌舞伎の乱世。
南北の奇才はそれに応えてあまりあります。

初演その日から今日まで、
この怪談が夏の人気の演目として上演され、
新劇、映画、小説にもなっています。

そのお岩さんを祀る神社が四谷左門町にあるというので、
お参りに行くことにしました。
地下鉄丸の内線四谷三丁目駅の3番出口を上がると、
新宿通りと外苑東通りの交差点。
向かいに大きな消防署の建物が見えます。
外苑東通りを南へ。
四谷警察署をすぎ、左に折れると閑静な住宅街。
そこに、神社の赤いのぼりがはためいています。
道を挟んで、「於岩稲荷田宮神社」と「於岩稲荷・陽運寺」があります。

 








 陽運寺




於岩稲荷田宮神社(おいわいなり たみやじんじゃ)



鳥居の近くに、「伝説 四谷怪談お岩ゆかりの地」とあります。
柵は石つくりで、一本一本に名前が彫られています。
岩田専太郎、村上元三、歌舞伎座、明治座、演舞場、菊五郎劇団、
吉右エ門劇團、市川寿海、中村歌右エ門、中村時蔵、中村勘三郎
花柳章太郎など、演劇関係や料亭関係の名前がずらり。
芸能関係の人々の参拝が多いようですね。

手を清めて、本殿でお参り。
神社にまつわる資料が沢山置かれています。
よく読むと、いろいろわかってきました。

さんのモデル田宮 岩は、
鶴屋南北が生きていた時代より200年も前の人なのです。
1636年 (寛永13) に、没しています。
どうして祀られるようになったのでしょう。

神社の資料によると、
お岩は徳川家の御家人、田宮又左衛門の娘で
夫の伊右衛門とは、人もうらやむ仲のよい夫婦でした。
しかし、収入が少なかったのです。
30俵3人扶持(年収、今の金で3万5千円ほど)。
これでは暮らしが成り立ちません。
そこで、2人は家を復興するため奉公に出ました。
田宮家では、代々、信心深く、
邸内に稲荷さまを祀っていました。
稲荷さまを信仰し、奉公に精を出します。
おかげで、しだいに夫婦の蓄えも増え、
無事に家を再興することができました。
それが評判になったのです。
稲荷信仰のおかげで、田宮家は復活したと。

その後、ますます評判が高くなるにつれ、
田宮家では屋敷社のかたわらに、小さな祠(ほこら)を設け、
お岩さまを祀るようになりました。
近所の人の参拝も断りきれず、
たくさんの人がお参りにくるようになり、
「於岩稲荷」「大厳稲荷」「四谷稲荷」「左門町稲荷」などとも呼ばれ、
家内安全、無病息災、商売繁盛、芸道上達、開運悪事災難除けの神
として、江戸の人気を集めるようになったのです。

それから200年後のこと、歌舞伎の世界にお岩さんが登場するのです。
ときは文政の世、江戸は文化爛熟の時代、
寛政時代からはじまった幽霊物の読み本の最盛期!
南北は、どのように思って、この怪談話を書いたのでしょう?



お岩さんと鶴屋南北

神社に置かれた『東京の「お寺神社」謎とき散歩』(岸乃青柳著)の
抜粋では、

「時は、江戸後期。所は、歌舞伎の作者、鶴屋南北の部屋。
鶴屋南北はかねてから『於岩稲荷』のことを聞いていた。
お岩という女性が死んでからもう二百年がたっている。
それなのに今でも江戸で根強い人気があることに注目した。
人気のある「お岩」という名前を使って歌舞伎にすれば
大当たり間違いない。と見当つけた南北は台本書きに入った。
お岩があんな善人では面白くない。
刺激の強い江戸の人間を呼ぶにはどぎついまでの脚色が必要だ。
南北は「お岩稲荷」から「お岩」の名前だけを拝借して、
江戸で評判になったいろいろな事件を組み込んだ。
密通のため戸板に釘付けされた男女の死体が
神田川に浮かんだことがある。
よし、これを使おう。主人殺しの罪で処刑された事件もあった。
あれも使える。姦通の相手にはめられて殺された俳優がいた。
それも入れよう。
四谷左門町の田宮家には怨霊がいたことにしよう。
江戸の人間なら、だれでも記憶にある事件を作家の空想力で操り、脚本はできた。
しかし、四谷が舞台では露骨すぎる。
「お岩」の名前だけ借りれば十分だ。
南北が付けた題名は『東海道四谷怪談』。
四谷の於岩稲荷の事実とは無関係な創作であることを
示すことにした。
天才的な劇作家が虚実取り混ぜて創作したのが、
お岩の怨霊劇だった」


お岩稲荷神社の人からも「たいしたものだ」と言われた南北。
先祖や道徳を大切にしないと「バチや祟(たた)りがおきる」。
そのことをよくわかって欲しかったのでしょう。
そのような南北の思いが込められている怪談話なのです。

当時の観客は、お岩の哀しみ、恨みに涙を流し、
伊右衛門が怨霊に追い詰められ、
半狂乱のうちに討たれ、死んでいく姿に
身を震わせたことでしょう。

忘れてはならないのは、
伊右衛門は、元赤穂浪士という設定です。
見事に本懐を成し遂げた義士に対して、
南北は、その裏に義士になりきれない侍たちがいたことを、
哀しく陰惨なドラマとして描きたかったのでしょう。
南北の「東海道四谷怪談」は、文政の「忠臣蔵」ともいえます。



寺と坂の町


この界隈には、多くの坂と寺があります。

お岩稲荷から最も近いのは、「暗闇坂(くらやみざか)」
松厳寺と永心寺が左右にある小さな坂道。
このあたりには樹木が繁っていたのでしょう。
寺の樹木が道を被って暗くしていたに違いありません。

永心寺からすこし行くと戒行寺(かいぎょうじ)
この寺の南脇を東に下る坂は「戒行寺坂」
別名「油揚坂」です。
昔、坂の途中に豆腐屋があり、
質のよい油揚げをつくっていたそうです。
この戒行寺には、罪人の処刑や刀の試し切りをなりわいとしていた
「首切り山田浅右衛門」の墓があります。

坂を下り左に折れてすぐのところに、「観音坂(かんのんざか)」
横にある真成院の潮踏(塩踏)観音に因んで名づけられたそうです。
また江戸時代には西念寺(さいねんじ)の表門がこの坂に面していたため、「西念寺坂」とも呼ばれます。
この西念寺には、
みなさまよくご存知の“忍者ハットリくん”で有名な服部半蔵
永眠しています。
徳川家康の旧臣で、伊賀者の指導者。
江戸の警備にあたっていた折、江戸城西門辺りに住んでいました。
今の半蔵門は彼の名に由来しています。
槍の名手でもあり、寺には家康から拝領したと伝えられる
残っています。
全長2m58p、槍先と柄の部分がすこし欠けているそうですが、
戦国時代を偲ぶ貴重なものです。


静かな寺の町を歩きながら思いました。
人の恨みの怖ろしさを知るため
怪談話を、心から耳を傾け、聴いてみようかと。
そのようなことをしみじみと考えさせてくれる
今回のさんぽでした。






資料:
新潮日本古典集成『東海道四谷怪談』 新潮社

『忠臣蔵と四谷怪談』 朝日選書

『お岩と伊右衛門』 高田衛 洋泉社

神社資料『東京の「お寺神社」謎とき散歩』 岸乃青柳著 広済堂出版

その他、展示資料(産経新聞記事「東京ストーリー」)他

「名作解体新書 東海道四谷怪談」株式会社インフォルムのホームページ



posted by 事務局 at 10:58| Comment(0) | 東京
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