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2017年02月01日

第11回 稲荷寿司

 2月の行事といえば、節分だと思う人がいまは多いかもしれませんね。しかし、節分は旧暦では2月ではなく1月の行事でした。「大晦日と元旦」が月の満ち欠け、「節分と立春」が太陽のめぐりによる新年を迎えるための行事で、両方とも旧暦では同じく1月初旬でした。明治6年(1973)の改暦で、「正月」が新暦の1月に移り、「節分」が月遅れで2月に残ってしまったのです。
 古くからの2月の行事といえば2月8日、お稲荷様の初午の祭りです。お稲荷様へのお供えといえば、きつね色の油揚げです。だから、2月といえば節分の恵方巻もいいでしょうが、やはり古くからの初午にちなみ、いなり寿司を味わってはいかがでしょうか。甘辛く煮た油揚げの中に酢飯を詰めた寿司で、関東では米俵型の四角形に作り、関西ではキツネの耳に似せたような三角形に作るのが多く、ゴマにシイタケ、ニンジンなどの具材を入れた五目稲荷も多いようです。

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 稲荷寿司の由来を伝えているのは、江戸時代後期の喜多川守貞『近世風俗志』(『守貞漫稿』)(1837−53)という本です。その記事によれば、「天保末年、江戸にて油あげ豆腐の一方をさきて、袋形にし、木(き)茸(のこ)、干瓢(かんぴょう)等を刻(きざ)み交(まじ)へたる飯を納(い)れて、鮨(すし)として売り巡る」とあります。つまり、江戸では天保末年に稲荷寿司を売り歩く者がいたというのです。この記事に続いて、次のような意味のことが書かれています。夜も昼もこれを売っているが、もっぱら夜に売っている者が多い。屋台の行燈(あんどん)に鳥居を書いて稲荷社のように仕立て、稲荷寿司とか篠田(しのだ)寿司(信太(しのだ)寿司)と名付けている。稲荷も信太もきつねに因む名前であり、きつねが油揚げを好むといわれるところからきているのだ。寿司とはいっても「最も賤価鮨なり」つまりもっとも安い寿司だと書いています。もともとは尾張の名古屋で作られるようになったもので、それが江戸でも天保の前半頃から店で売られるようになった。とはいうものの、ただ両国辺りの田舎者だけを相手にするような寿司店で売られていたくらいのもので、屋台で売り歩く安い寿司、というのが稲荷寿司だ、というのです。

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『近世風俗志』(『守貞漫稿』)より 寿司の屋台

 稲荷寿司の立場からみれば、まあずいぶんな言われ方、書かれ方ですね。この『近世風俗志』は、寿司についてはかなり丁寧でうるさく、押し寿司、箱寿司、握り寿司、海苔巻き寿司、笹巻寿司などの区別、アナゴやコハダや玉子などの握り寿司の具材など、図入りで詳しく書いているので、江戸時代後期の寿司の様子がよくわかる本なのですが、その寿司についての「食類」の記述の部分では、稲荷寿司についてはまったく触れられていません。さきほどの記事は、売り歩く者がいるということで「生業」の部分での記事です。大坂の出身で江戸に暮らしながら上方と江戸を往復し、それぞれの風俗や文化を比較して楽しんでいた喜多川守貞(1810−?)にしてみれば、稲荷寿司は寿司の中に入れるほどのものではなかったのでしょう。
 しかし、値段が安く美味しい手軽な寿司として、稲荷寿司は庶民の間では大いに受け入れられ普及していきました。現在のように新鮮な魚が流通するのは1970年代以降であり、長い間、日本各地では新鮮な魚の代わりに、いろいろと工夫が凝らされて、ちらし寿司やもぐり寿司などさまざまな食材の寿司が創られ賞味されてきました。海苔巻き寿司の安価版である干瓢巻と稲荷寿司のセットを、歌舞伎十八番の「助六由縁江戸桜」に登場する助六、曽我五郎と遊女の揚巻の名に因んで、「揚げ」(油揚げ)「巻き」(海苔巻き)としゃれて「助六」と呼んで楽しんでいるのもその流れです。

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 稲荷寿司には、関東と関西の違いもおもしろいのですが、それ以外にも北海道から沖縄まで、それぞれの地方でどんなこだわりがありどんなかたちで食べられているか、その違いを探り楽しみながら、この2月8日のお稲荷様の日には稲荷寿司を食べてみてはいかがですか。また、節分の恵方巻に稲荷寿司を加えて、現代版助六セットとして味わってみるのも楽しいでしょう。


文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)
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