
江戸時代中期の辞書『俚諺集覧』に「せち、節日の食膳を節供と云を略せる也、俗にオセチと云」と記されています。つまり、おせちは節日に神様に供える食膳の御節供の略で、正月の料理に限定されていませんでした。江戸時代前期の『日本歳時記』には、雑煮や屠蘇や鏡餅のことは書かれていますが、組重のおせち料理のことは書かれていません。おせち料理も組重もなかったのです。しかし、江戸時代後期のアンケート調査「諸国風俗問状」には、組重について「組重の事、数の子、田作、たたき牛蒡、煮豆等通例。其外何様の品候哉」と質問があります。北は陸奥国から南は肥後国まで15件の回答によると、江戸と同じ組み合わせだという例が多く、それに加えて秋田ではハタハタ、肥後天草では鰹節とスルメなど、地域の特産物があげられています。越後長岡領の答書によると、蕨を笑いという言葉にかけて縁起のよい料理に見立てています。正月料理に縁起をかつぐという伝統は変わりないようです。
おせち料理の源流を考える上で参考になるのは、上方の「蓬莱(ほうらい)」と江戸の「食積(くいつみ)」です。蓬莱は三方の上に米・勝栗・干柿・熨斗鮑・橙などを盛り付け飾っておくもので、井原西鶴の『日本永代蔵』(1688)には「春の物とて是非調(ととの)へて、蓬莱を餝(かざ)りける」とあり、その絵が載っています(図)。一方、喰積は正月の年賀の来客がそれを一口食べます。雑俳『柳多留』には「喰いつみを三十日に喰ってしかられる」という川柳もみられます。

【図】井原西鶴『日本永代蔵』より
それより少し前の天保7年(1836)刊『萬家日用惣菜俎』には、正月節料理と年始重詰があると書かれており、節料理と重詰とは別だったことがわかります。前述の「諸国風俗問状」の質問の組重は、現在のおせち料理ではなく、祝い肴の喰積のことだったのです。元旦に食べる御節の食膳とは別に、重詰めを喰積と呼ぶ例は明治になってもみられます。もともと正月のお膳をおせちと呼んでいたのが、現在では喰積と呼ばれた重詰めをおせち料理と呼ぶようになったのです。
江戸の組重が各地で共通していたのは、江戸の文化が参勤交代などで日本各地に広まったからだと想定できます。近代に入ると交通の発展、商業の活発化、婦人雑誌などマスコミの影響もあり、さまざまな要素を取り込みながら変化し、日本の伝統的な正月料理としての位置を占めていきます。そして戦後、生鮮食品の流通の拡大で、地域や階層を越えて広く豊かな食文化として享受できるようになりました。子孫繁盛の数の子、豊年満作の田作り、根深く根強いたたき牛蒡、まめに健康にという煮豆、いずれも縁起の良い食べ物です。そこに、めでたいの鯛、長寿にあやかる海老、子孫繁盛の里芋、芽が出てめでたいクワイ、すくすく伸びる筍、先を見通す蓮根などが加わり、めでたい物尽くしのおせち料理が完成していったのです。最近では刺身やウニ、イクラなどのほか、キャビアやフォアグラ、ローストビーフなども好まれます。それらは2000年頃を境に、高級おせち料理商戦によって急速に普及しています。高級食材と美食グルメという現代人の欲求がそのブームを支えているのです。
そこから縁起のよい食材、めでたい料理という意味は消えていくのか、それともキャビアは子孫繁盛、ローストビーフは牛の強さ、のように新たな意味を付けられ残っていくのか、それを観察しているのもおもしろいのではないでしょうか。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)