
そばが現在のように美味しいごちそうになったのは、歴史的にみてそれほど古いことではありません。そばの歴史をふりかえってみると、むかしのそばは決してごちそうではありませんでした。
鎌倉時代の説話集『古今著聞集』に、道明阿闍梨という平安時代中期の高僧にまつわる説話が紹介されています。修行の旅の途中で、山の住人にそばをふるまわれたときの話です。そこで次のような歌が詠まれています。
ひたはへて 鳥だにすへぬ そまむぎに
ししつきぬべき 心ちこそすれ
(一面に生えていて、鳥さえ食べないような「そまむぎ(蕎麦)」を食膳に供されて、肝を冷やすほどの心地がしました)
平安京の都に住む上流階級の貴族や高僧にとって、そばは人間の食べ物とすら考えられていなかったようなのです。道明阿闍梨に供されたのは、蕎麦の粒をそのまま粥にしたものであった可能性があります。あるいはそば粉にして練った蕎麦掻(そばが)きか、そば粉を水で溶いて焼いた蕎麦(そば)焼(や)きだったかもしれません。

そばが人気の食べ物になるのは、麺状の蕎麦(そば)切(き)りになってからです。蕎麦切りの初見については多くの人が注目してきました。現在では、信濃国(現在の長野県)木曽郡大桑村須原の定勝寺の『定勝寺文書』の天正2年(1574)3月16日条の「振舞ソハキリ」だというのが定説になっています。定勝寺の修復工事の竣工祝いの品々とその寄進者の名前が記されており、「徳利一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」「振舞ソハキリ 金永」などとあり、千村淡路守夫人が酒を徳利で1本とそば粉1袋、金永という人物が蕎麦切りを振る舞ったというのです。その他、蕎麦切りの発祥地については古くから諸説ありますが、やはり信州からだろうというのが定説です。それが江戸時代になって江戸や大坂などの近世都市で流行し、たくさんのそば屋が繁盛していったのでした。江戸時代前期の寛永20年(1643)版『料理物語』には、蕎麦切りの製法が詳しく記され、味付けにも大根の汁、花ガツオ、おろしアサツキの類、からし、わさびなどがよいと記されています。江戸時代中期の寛延4年(1751)脱稿の『蕎麦全書』には江戸におけるそば作りの技法やそば屋の名店とその店のそばの呼び名をたくさん紹介しています。日本のそばの一大発展期は、寛延年間(1748−1951)をはじめとする江戸中期だったのです。

現在の日本でそばが話題になるのはやはり年末の年越しそばでしょう。では、その起源はいつころのことでしょうか。現在わかっている範囲では、実はこれも江戸中期、寛延年間のことなのです。寛延3年(1750)の句集『玄峰集』に、「蕎麦打ちて 眉(まゆ)髭(ひげ)白し 年の暮(くれ)」という句があります。蕎麦を打ったので粉で眉や髭が白くなった、という内容です。正月の年取りに際しての縁起かつぎで、そばは長くてのびるから寿命が延びるという長寿の願いが込められているのです。
私はうどん派かそば派かと問われれば、だんぜんそば派です。陸奥地方に行けばわんこそば、越後ではへぎそば、出雲ではもちろん割り子そばです。旅の楽しみの一つは、その土地の美味しいものを食べることです。日本各地にそばの美味しい店があります。そばは栄養バランスも抜群です。ぜひ秋の新そばを各地で味わってみてはいかがでしょうか。
文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)