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2016年09月01日

第6回 栗菓子

むかしからの秋の味覚といえば、やはり栗でしょう。昭和30年代まで、日本各地の農村では、里山から野生の山栗がたくさん採れました。大栗の木が植樹されていた家では、子供たちは朝はまだ薄暗い時刻に誰よりも早く起きて、熟れて地面に落ちているイガイガの大栗を拾うのが楽しみでした。栗の実を上手に取り出してそのまま焼いて食べたりゆでて食べたり、また栗ご飯に炊いてもらったりしました。「桃栗3年、柿8年」などといって、果樹の恵みは先祖のおかげだと言い聞かされたものでした。

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その後の高度経済成長は、身近な材料の手作り菓子よりも、洗練された美味しい商品としてのお菓子の流通の時代をもたらしました。現在では、秋の味覚として美味しい栗のお菓子がおおぜいのファンを集めています。栗ようかん、栗きんとん、マロングラッセなどなど、この季節でしか味わえない旬のお菓子がきれいにショウウインドウに並びます。たとえば、栗きんとん、これはお正月のおせち料理の定番としてよく知られている縁起のよい食べ物ですが、その旬の季節とはいま、秋の9月です。正月の栗きんとんと9月の旬の栗きんとんとは、味も形もずいぶんちがいますが、いずれも日本の伝統的な栗の菓子です。岐阜県、美濃国の南東部の恵那地方から加茂郡八百津町への一帯では、栗きんとんで知られる和菓子屋さんが軒を連ねています。季節限定で、首都圏、東海、関西のデパートでも販売されて人気を集めています。京都の和菓子屋さんでは茶巾と呼ばれて人気を集めています。また京都では、マロングラッセ風の栗きんとんも喜ばれています。

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 では、日本の文化と歴史の中で、栗とはいったいどんなものだったのでしょうか。実は、稲や米が日本人にとってもっとも大切な食糧となるまでの、縄文時代の人びとの生命と生活を支えてきたでんぷん質(炭水化物)の中心が、栗だったのです。青森県の三内丸山遺跡では、野生の栗と栽培された栗との両方があったことが発掘調査によってわかっています。
秋は収穫の季節です。稲作と米が第一ですが、稲は栽培がむずかしく気候の影響を受けやすいうえ、病虫害や害鳥などの被害も多く、決して安定した作物ではありませんでした。それと比べると、里芋などの芋類、大豆などの豆類は安定した作物でした。収穫祭の一つにお月見がありますが、八月一五夜を芋名月、九月十三夜を豆名月と呼んだのでした。そして、その九月十三夜は栗名月とも呼ばれています。また、九月九日は重陽の節供で菊の花や菊酒で祝う節供ですが、一方では栗の節供としても祝われてきました。芋や豆は野生のものはほとんどなく栽培される作物です。しかし、栗は栽培もされますが野生の栗もたいへん豊富です。栗はとても安定した収穫物であり、飢饉の心配や危険のない大切な食べ物だったのです。栄養価からみても、でんぷん質、たんぱく質、カリウムなどのミネラル類、ビタミンC、そして食物繊維も豊富で、まさに完璧な食材なのです。薬効も古くから知られており、疲労回復、足腰丈夫、大腸小腸にもよい、とされてきました。
そうした実際の栄養価と薬効が知られていたからこそ、縁起のよい食べ物ともされてきました。勝栗(搗栗)は打鮑や昆布とともに、縁起と栄養の両方がよい戦陣の食材でもあり、正月のめでたい上方の蓬莱(ほうらい)や、江戸の喰積(くいつみ)に干柿や昆布などと一緒に盛り付けられてきたのです。

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 瓜はめば 子ども思ほゆ 栗はめば 
   まして偲ばゆ いずくより 来たりしものぞ…

と山上憶良が歌っているように、栗は万葉の時代から、心の和む食べ物でもあったようです。平安時代の『延喜式』には、栗は諸国から朝廷に貢進されており、当時は丹波産の栗が有名でした。丹波栗という評価は現在でもよく聞かれます。 
 京都の貴族たちの間で、栗きんとんが食されるようになっていたのは室町時代のようです。三条西実隆という公家の日記『実隆公記』の大永7年(1527)8月1日条に「自徳大寺金飩一器被送之」とあります。徳大寺さんから金とんを1ケース送って来られた、というのです。旧暦の8月1日は、ちょうどいまの9月1日前後です。みなさんも、9月には秋の栗きんとんを味わってごらんになってはいかがでしょうか。


文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)
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