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2016年04月01日

第1回 花見弁当

お花見の季節です。日本では各地で桜の名所にはこと欠きません。なぜ、日本人はそんなに桜の花が好きなのでしょうか。

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一つの答えは昔の歌人、西行(1118−1190)の歌に隠されているようです。
「吉野山 こずえの花を 見し日より 心は身にも 添はずなりにき」
「あくがるる 心はさても やまざくら 散りなむのちや 身にかへるべき」

山桜の花を見ると、心(魂)が身から抜け出てしまう、というのです。そして、花が散ると、心はまたもとの身体へと帰り、ふつうの生活にもどる。つまり、多くの日本人にとって、心が身体から抜け出てしまい居ても立ってもいられないような気持ちにさせる花、それが桜花らしいのです。
 桜花の花見の始まりは、平安時代の宮中でした。『日本後紀』弘仁3年(812)2月辛丑12日条に「宮中花宴」の記事がみられます。嵯峨天皇の時代の、神泉苑での清らかな花見の宴でした。
室町時代、京の都人たちの花見の喧噪をよそに、夢幻の中の静かな花見の世界を描いたのが、世阿弥(1363−1443)の名作「西行桜」です。桜の美しい京都の西山に隠れ住む西行の草庵近くに、花見の人びとが次々に訪れるので、静寂を破られるのを嘆いた西行が、
「花見にと むれつつ人の くるのみぞ あたらさくらの とがには有りける」と詠みます。すると、花見の人びとが去り静寂が戻った夜、どこからともなく老いた桜の木の精が現れ、草庵の静寂を妨げられたのを桜の咎というのは不当ではないか、と抗議します。しかしその後、西行とともに都の桜の名所の美しさを語り合い、興が募って謡い舞ううちに春の夜が白みはじめ桜の精は消えていきます。ふと気が付くと、あたり一面雪のように散り敷く花の中で、西行は我に帰る、という趣向の謡曲です。
 絢爛豪華な桃山時代の花見の代表は、豊臣秀吉の「醍醐の花見」でしょう。諸大名に女房衆を集めた大規模な花見で有名です。江戸時代になれば、庶民もにぎやかに花見を楽しむようになります。そして、それは現代にまで続きます。

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 花見といえばごちそうです。老舗の料理屋さんやデパートなどでは、現在でも花見弁当に100種類以上の品数が揃えられており、もはや年末のおせち料理に次ぐくらいになっています。
花見弁当の登場は江戸時代のことです。記事の早い例としては、織田信長が安土城で花見弁当を初めて見たという伝説があるのですが(『和訓栞』1862)、江戸時代になるととくに京都を先進地域として江戸や大坂などの都市部で広まったようです。17世紀半ばの俳諧には「弁当や花見の種をまくの内」などとあります。
花見弁当の献立を詳しく書いたのが、19世紀初頭の『料理早指南』(全四編1801-1804刊行)という本です。「花見の提重詰」に小割籠がセットになっており、上・中・下の三種類の献立が記されています。いま読んでみても驚くのは、四重と瓶子でたいへんなごちそうが揃えてあることです。

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初重は、詰め合わせで九種。かすてら玉子、わたかまぼこ、わか鮎(いろ付やき)、むつの子、はや竹の子(うま煮)、早わらび、うちぎんなん、長ひじき、春がすみ(よせもの)
二重は、引肴で、むしがれい(うすく切てほいろにかける)、さくら鯛(ほねぬきはやずし)、干大こん(五ぶつけむすびておびあかとうからし)、かんろばい(白さとう)
三重には、ひらめ(さし身)、さより(ほそつくり)、しらかうど、わかめ、赤すみそしき、そして割籠がつき、よめな、つくし、かや(小口ひたし物)、焼飯。
四重は、蒸し物で、小ぐらの(きんとん)、紅梅もち、椿もち、薄皮もち、かるかん、それに、お酒の瓶子で、すみ田川中くみ。
どこかの料亭でぜひ再現してみてほしいくらいのごちそうです。
 少し時間にゆとりのある方は、自前の花見弁当の重詰めを作って、家族や友だちといっしょに満開の桜花を愛でてみてはいかがでしょうか。


文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)
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