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2016年02月01日

第11回 節分と豆まき

2月3日は節分、節分といえば豆まきですね。「鬼はぁ外、福はぁ内」の掛け声とともに、邪気や災厄を祓う行事です。

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 そもそも節分とは何か。立春、立夏、立秋、立冬の前日、季節の変わる節目の日のことです。4回の節分のうち、立春の前日の節分だけがなぜいまも残っているのか。それは、旧年から新年へという変わり目の正月と同じ季節だからです。旧暦では、月と太陽のリズムを併せ用いる太陰太陽暦でした。月の満ち欠けの一巡りでやってくる新年が正月で、太陽の一巡りでやってくる新年が立春です。一年の区切り目に正月と立春の二つがあったのです(新谷尚紀『日本人の春夏秋冬』小学館)。そして、それはほぼ同じ時季、新暦の2月初旬でした。
『古今和歌集』の冒頭につぎのようなおもしろい歌があります。
「年のうちに 春は来にけり ひととせを 去年(こぞ)とやいはむ 今年とやいはむ」
立春はふつう新年にやってくるものなのに、今年は正月よりも先に立春がきてしまった。いまは去年というべきか今年というべきか迷ってしまいますね、という意味の歌です。
 正月と立春の行事には一年の初めという意味で、共通する特徴が三つあります。一つは旧年に蓄積した災厄や汚れの祓え清め、二つめは清新な生命力を得る年取り、三つめは新年をよい年にという祈願と招福です。節分の豆まきは一つめの祓え清めです。玄関先に焼いた鰯の頭を柊(ひいらぎ)に刺しておくのも魔除けの意味です。それに対して、年齢の数より一つ多く豆を食べるのは二つめの年取りの意味です。恵方巻きは風習としては新しいものですが、その背景には三つめの招福の意味があります。だからそれなりに流行っているのです。

 では、節分の鬼と豆まきとは、いつの時代に始まったものなのでしょうか。比較的古い記録としては、室町時代の『看聞日記』が知られています。応永32年(1425)の節分の日の記事に「鬼大豆打」とあります。そこでは豆まき役の若い公家が、その役を決めつけられるのをとてもいやがっています。祓え清めの役はいやだというのです。室町時代後期の武家の作法書である『今川大双紙』では、「節分の夜の鬼の大豆をも、御年男きん(勤)ずる也」とあります。そのころから豆まきの役は厄年に当たる年男がつとめるものだとされていたことがわかります。豆まきが鬼を追い払う役であると同時に、自分の厄を祓うという考え方があったのです。江戸時代になると、庶民の間でも豆まきがさかんに行なわれるようになります。
 節分に鬼を追い払うという行事のルーツをたどっていくと、古代中国に起源をもち、奈良時代以来のこと、平安時代にも引き継がれた宮中での大晦日の晩の追儺(ついな)の行事があります。角の生えた熊皮をかぶり、黄金の四ツ目の仮面、黒い衣服に赤い裳を着し、戈(ほこ)と楯(たて)をもった方相氏(ほうそうし)と呼ばれる異様な扮装の役の者が中心となり、侲子(しんし)と呼ばれる者20人を率いて内裏の四門をめぐります。その方相氏が大声を発して戈で楯を撃つと、親王以下群臣が桃弓(もものゆみ)に葦矢(あしのや)そして桃杖(もものつえ)をもって、悪鬼、疫鬼を追い払うという行事でした。

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その追儺の行事が、平安時代の宮廷や大寺院で行なわれ伝えられていくうちに変化が起こりました。一つめの変化は、異様な風体の方相氏が逆に鬼と見なされるようになったことです。二つめは大寺院での修正会や修二会の鬼追いの祈禱行事へとなったことでした。さらに三つめは、大晦日と節分の時季の近さから、大晦日の追儺ではなく節分の行事として定着していったことです。
 節分の行事はこのように歴史の中でいろいろと大きな変化を重ねてきています。しかし、祓え清め、年取り、祈願と招福、という三つの意味があることには変わりありません。今年もぜひ、2月3日の節分の晩は、豆まきを楽しんでみてはいかがでしょうか。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)
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