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2016年01月01日

第10回 今年はサル年

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 今年の干支は丙(ひのえ)申(さる)、申年です。陰陽五行では丙(ひのえ)は火の兄(え)、申は金の陽で、熱く硬いイメージの年でもあり、草木が伸び果実が成熟しあらゆる物事が形を成していくような機運の年でもあります。
 さて、正月といえば初詣。サル年にちなむ神社といえば、やはり栃木県の日光東照宮でしょう。「見ざる、言わざる、聞かざる」の三匹のサルが有名です。でもなぜ東照宮にサルの彫刻があるのでしょうか。
 第一に注目されるのは、その彫刻が神社の本殿ではなく、神馬の厩舎(きゅうしゃ)にあるということです。サルには馬の守り神としての信仰がふるくからありました。中世の『一遍聖絵』や『石山寺縁起絵巻』には厩舎につながれた猿が描かれています。

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農耕馬が川で泥を洗い落としたり水辺で草を食(は)んでいると、河童が馬の尻子玉を狙って尻尾にしがみつき水中に引き込もうとする「河童駒引き」という話があります。その河童から馬を守ると信じられたのがサルでした。河童ならぬサルの駒引きの絵馬を厩舎に掛けてお守りとしたり、厩舎の柱にサルの頭蓋骨やミイラ化した腕などを掛けていた例も多くありました。また正月にかつて多くみられたサルまわし芸は、中世の『吾妻鏡』などにも登場し、近世末期まで朝廷や将軍家でも年賀の行事に組み込まれていました。サルまわし芸の人たちは、頼めば厩舎で馬の安全を拝んでくれたりもしました。柳田國男はそのような猿まわし芸の人たちの情報を集め、彼らは単に見世物芸というだけでなく馬の医者をも兼ねていたと述べています。
 第二に注目されるのは、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿です。それはもともと中国の道教の三尸(さんし)の説から出た「庚申信仰」に由来します。61日ごとにめぐってくる庚申(かのえさる)の日の夜、人間が眠ると体内にいる三尸の虫が体から抜け出て天帝にその人間の罪過を告げて早死にさせるので、その夜は徹夜をするという信仰と行事でした。古代中国で成立し、日本では平安時代の宮廷貴族の間に広まりました。その徹夜の行事は「守庚申(しゅこうしん)」や「庚申の御遊(ぎょゆう)」と呼ばれ、酒宴を催し詩歌、管弦、碁、双六などに興じる娯楽中心のものでした。それが青面金剛(しょうめんこんごう)を庚申様として信仰するものへと変換したのは室町時代のことで、推進したのは天台宗系の修験者たちでした(拙著『死と人生の民俗学』1995)。江戸時代にはその庚申信仰が庶民の間にも広く普及し、各地で石造の庚申塔が建てられました。初期の庚申塔に刻まれたのが、青面金剛と三匹のサルです。そのころには、天帝に罪過を告げる三尸の虫が、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿へと変換されてきていたのです。
 そして第三に注目されるのが、日光東照宮の創建に大きくかかわり、家康の知恵袋ともいわれた南光坊天海です。天海が学んだのは比叡山延暦寺の天台教学でした。比叡山の地主神は日吉山王権現です。豊臣秀吉=日吉丸がサルと呼ばれたように、日吉山王権現のお使いはサルでした。徹夜の遊宴だった庚申の信仰と行事を、青面金剛の信仰へと大きく変換させたのも天台宗系の修験者たちでした。
こうしてみてくると江戸の初期、日光東照宮の創建に信仰面で深くかかわった天海と、政治経済・技術で貢献した人たちの信仰世界と、その間には、@神馬を守る厩舎のサル、A庚申信仰の三尸から三猿へと変換したサル、B日吉山王権現の使いとしてのサル、という三つのサルのイメージが、無意識的に共有されていたのであろうと考えられるのです。

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この新春、初詣に出かける人もそうでない人も、サル年にちなみ機会をみて栃木県の日光東照宮や滋賀県の日吉神社を訪れてみてはいかがでしょうか。これらに限らず由緒の古い神社には、まだまだ多くの歴史と民俗のミステリーが隠されているにちがいありません。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)
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