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2015年11月01日

第8回 七五三のお祝い

11月15日は七五三のお祝いです。
深まり行くさわやかな秋の一日、日本各地の神社は晴れ着の親子連れの参拝客で賑わうことでしょう。しかし、現在のように七五三が三歳と七歳の女児と五歳の男児のお祝いとしておこない、日取りも11月15日となったのは実はあまり古いことではありません。 
 七五三というのは、1・3・5・7・9という奇数の中の3つの吉数をとったもので、縁起のよいことを願い喜ぶ上での、祝儀の数字として選ばれたものです。もともとは「七五三の膳」などといい、本膳に七菜、二の膳に五菜、三の膳に三菜を出す、豪華な食膳の料理のことを意味するものでした。江戸時代半ばに流行った雑俳にも、「どきどきと 何から喰ふぞ 七五三」というのがあります。それより少し後になると「七五三とは めづらしひ 十五日」というのがあり、そのころから七五三が子どもの祝いになってきたことが知られます。
 現在にまでつながるような七五三のお祝いが一般化するのは、明治時代の都市部からでした。森鴎外や徳田秋声などの作品にはその様子が描かれています。それでも昭和の戦前期までは大都市に限られており、広く日本各地に広まるのは戦後の高度経済成長期のことでした。

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 さて、七五三という言い方は比較的新しいのですが、そのもととなった子どもの祝いの習俗は非常に古い歴史をもっています。早い例では平安時代中期に着袴(ちゃっこ)を三歳で行なった守平親王(後の円融天皇)の例が知られています。また『栄花物語』や『源氏物語』にも東宮(とうぐう)たちの三歳の祝いがさかんに行なわれたことが記されています。この袴着の祝いは平安末期〜鎌倉時代になると五歳の男児の祝いとなり、江戸時代には武家の子どもの五歳の祝いとして一般化していきました。
 髪置きは三歳の祝いで、鎌倉、室町の公家や武家の記録にさかんにみられます。江戸時代の雑俳にも「髪置きや 加茂へときめく 肩車」というのがあります。幼児を肩車して京都の賀茂社へとお参りする庶民の親子の幸せな姿が目に浮かびます。
 記録にはあまり残っていませんが、明治〜昭和まで日本各地の農村地帯でもっとも広く伝えられていたのは、三歳や五歳ではなく、七歳の男女児の帯解きの祝いでした。七つの祝いともいい、それまでの付け紐のついた着物から帯で締める着物に替える祝いです。
埼玉県の和光市域の例ですが、毎年11月15日になると男女とも七歳になったオビトキッ子が、晴れ着や羽織袴で正装し、親類縁者の若者に肩車をしてもらい、みんなで氏神様の神社へと参ります。神社へ着くと境内に生えている柴を手折り、神社のまわりを三回まわって、その柴を拝殿の後ろの板壁に挿します。その後で集まってきてくれた人たちに餅まきをしたり、お菓子やミカンなどを配ります。そうしてオビトキっ子は帰りはもう自分の足で歩いて帰ります。この七つの祝いには、その子があらためて氏神様の氏子になるという意味もありました。

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七つの祝いといえば、「とうりゃんせ」の歌が知られていますが、
「この子の七つのお祝いに、天神さまへ参ります」
「行きはよいよい帰りはこわい、こわいながらもとうりゃんせ、とうりゃんせ」
という不思議な詞が歌われています。そこには、子どもから大人へ、新しい世界へ旅立つという意味が含まれています。膝の上でもう甘えてはいられない、子どもなりに社会の一員へとなっていくのだという意味のお祝いでした。
 七五三には、その日だけは主人公になり、自分が大切にされていることを体験し、そこからまた新たな自分を作っていく、という自覚をもたせ、応援するという大切な意味があったのです。今年、七五三のお祝いのあるご家庭、また自分の家の子どもでなくても、神社にお参りしているかわいい七五三の親子連れを見かけたら、そんなお祝いと応援の気持をこめ、あたたかく見守ってあげたらいかがでしょうか。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)


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