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2015年10月01日

第7回 米と日本人:新米の季節

10月は稲の収穫の季節です。美味しい新米が流通し始めます。

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お米のご飯は日本の食事には欠かせません。米の消費量が最近では減っていると言われますが、もともと日本では米の消費量はそれほど多いものではありませんでした。昔からお米は貴重品で、真っ白いご飯は一般の人たちには冠婚葬祭の時くらいしか食べられないものでした。その貴重なお米を節約するために、麦飯や芋雑炊、またカテ飯(わずかな白米にイモ類や大根などを加えて焚き込んだもの)を食べるのが一般的な農村の食事でした。
1950年、国会答弁で当時の大蔵大臣・池田勇人が「貧乏人は麦を食え」と言ったという新聞報道が話題となりました。池田の発言は、所得に応じた経済の原則を語ったものでしたが、新聞報道のわかりやすい言葉の方が広まります。つまり、貧乏人は米は食べられないので麦を食べる、という実感がそのころの日本社会にはまだまだあったのです。

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 日本の米の歴史、稲作の歴史は非常に古く、九州北部では紀元前10世紀後半には水田稲作が始まっていたことが明らかとなっています。しかし、その後の日本列島各地への稲作の普及は遅々として進みませんでした。九州北部で稲作が始まってから南関東にまで広まるのに、650〜700年という途方もない時間がかかったのです。そして、結局、現在の山形市と仙台市を結ぶ線から北方の東北地方には稲作は定着しませんでした。なぜ、稲作が定着しなかったのでしょうか。それは稲作労働の過酷さと、労働力を統率する権力システムの構築が容易ではなかったからでしょう。しかし、いったん水田稲作の定着に成功した地域の首長たちは、その手にした労働統率力と収穫物の独占により、持続可能なシステムを構築します。そして余剰労働力を古墳築造へと展開させました。ですから、西暦240年頃から600年頃まで、稲作が定着しなかった東北地方の一部を除き、日本各地で古墳時代が展開します。古墳時代とはまさに地方ごとの首長王権が稲作を徹底的に定着させ、稲を租税として徴収するシステムを完成させていった時代だったのです。
 やがて飛鳥時代には中国王朝の権力システムを導入し、律令国家の構築へと至ります。その天武・持統天皇の時代こそ、稲の王である「天皇」(大王)と、「日本」(倭)が誕生した時代でした。
(新谷尚紀『伊勢神宮と出雲大社−「日本」と「天皇」の誕生−』2009、同『伊勢神宮と三種の神器−古代日本の祭祀と天皇−』2013いずれも講談社選書メチエ)

そうして成立した古代王権では「聖なる米」と「俗なる米」とがありました。聖なる米が11月の天皇による大嘗祭(新嘗祭)の新米であり、俗なる米が租税としての租庸調の田租でした。
稲と米とは権力に密着したもの、政治の結晶だったのです。
古代の田租から中世近世の年貢米へと、稲と米は独特の歴史を刻んでいきます。ですから、日本の政治・経済・文化にとって、稲と米とはただの農産物ではないのです。

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 毎年1年をかけて収穫される米には、それを食することで人間の生命(魂)、年齢を1つずつ加えていくという意味があります。11月の新嘗祭のご飯で天皇はその霊威力を更新強化します。そして正月の鏡餅を年玉として年齢と年齢力を1つ加えていくのです。
天皇だけではありません。長い歴史と古い由緒を伝える新嘗祭は、広く一般の人たちの収穫祝いの祭りとして伝承されていたことが風土記や万葉集には書かれています。
現在では勤労感謝の日となっていますが、先祖たちが苦労をして伝えてきた稲作と新米の収穫祭。今年は皆さんも新米で温かいご飯を炊いて味わってみてはいかがでしょうか。新たな生命力が得られるにちがいありません。

文:新谷尚紀(日本文化藝術財団専門委員/国立歴史民俗博物館名誉教授)



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