
春過ぎて夏来るらし白たへの
衣干したり天の香具山
『万葉集』持統天皇
(春が過ぎて夏が来たらしい。真っ白な衣が干してある。あの香具山に。)
みんなは大丈夫かしら、何ごともなく元気で夏を迎えたかしら。この夏も無病息災で過せるようにお祈りしなくては。
緑まばゆい天の香具山をみると、真っ白な衣が干してある。空も青く澄みわたり、風も気持ちよく吹いていること。
村の娘たちが早乙女になろうとして山に物忌みのお蔭(こも)りしているのでしょう。
干しているのはその斎服。
元気にしているようでよかった。
新しい季節を無事に迎えられて本当に嬉しい。
持統八年(694)に完成した藤原京の東に香具山があります。(現在の奈良県桜井市と橿原市の境)
高さ百メートル余りの低い山。
その山腹に干された白い衣を見ながら無事に新しい季節を迎えたことへの喜びと感謝の気持ちを歌われたのでしょう。
当時は、むし暑い夏に疫病が流行ることがあって大変だったのです。多くの人の命が奪われる季節と恐れられていました。そのことを考えると、持統天皇の人々の無事を願う心がよく理解できます。
持統天皇は天智天皇の娘として生まれ、天武天皇の妻となり、その後、自らも天皇になった人です。
その胸のうちには、父と夫の確執、壬申の乱、若くして亡くなった息子の草壁皇子のことなど、さまざまなことが思い出されていたに違いありません。
天武天皇崩御の後、夫の偉業を継いだ持統天皇。宮廷の儀式も整えられ、柿本人麻呂など宮廷歌人も活躍するようになりました。
その宮廷の夜空にはどのような星が輝いていたのでしょうね。
七夕歌
『万葉集』には、柿本人麻呂の詠んだ「七夕歌」が三十八首あります。
天の川 梶(かじ)の音聞こゆ 彦星と
織姫(たなばたつめ)と 今夜逢ふらしも
(天の川で舟をこぐ梶の音がしている。彦星と織姫が、今夜逢うらしい。)
七月七日は、牽牛織女の二つの星が年に一度の出逢いをするという七夕伝説の日。

ご覧になりましたか、天の川をへだてて輝くわし座のアルタイル(牽牛星)彦星と、こと座のベガ(織女星)織姫を。
この七夕は、ロマンがあって素敵な日のようにいわれていますが、本当は悲しい物語なのです。
天帝の娘織女は機織(はたおり)がとても上手で働き者でした。天帝は娘を気使い、これまた働き者の牛飼いの青年・牽牛と結婚させたのです。愛しあうようになった二人は、楽しく過すうちに、機織ることも牛を世話することも少なくなってしまいました。
それを見て天帝は機嫌をそこね、二人を引き裂き、一年に一度しか逢えなくしてしまったのです。
柿本人麻呂は、牽牛織女の天上の恋物語を地上の恋のように感じながら歌を詠んだのでしょう。
我が恋ふる 丹(に)のほの面(おも)わ 今夜(こよひ)もか
天の川原に 石枕まく
(私が恋している妻の紅の美しい顔よ、あなたは今夜も天の川原でひとりさびしく石の枕をして寝ているのでしょうか)
彦星が、妻の織姫を思いやっている切ない心が伝わってきます。
恋ひしくは 日(け)長きものを 今だにも
ともしむべしや 逢ふべき夜だに
(あなたへの恋しさはこんなにも長い間だったのですよ、こうして逢うべき夜だけでも、私をじらさないでくださいね、今だけでも)
恋する夫との逢瀬を一年も待った織姫の辛い心がわかります。
耳を澄ませば、ほれ聞こえてきますよ。
彦星の舟をこぐ音が・・・・・。
我が背子に うら恋ひ居(を)れば 天の川
夜舟(よふね)漕ぐなる 梶の音聞こゆ
(わが夫を恋慕っていると、天の川の川面で懸命にこいでいるらしい梶の音が聞こえてきます)
良かったですね、織姫さま。

鵲(かささぎ)の橋
中国の七夕伝説では、鵲という鳥が翼を連ねて天の川に橋を渡し、織姫がそれを渡って彦星に逢うと伝えられています。
元禄十六年(1703)五月七日、近松門左衛門の世話物浄瑠璃『曽根崎心中』が大阪の竹本座で上演され、大当たりしました。
多くの人の心をつかんだこの人形浄瑠璃は、一ヶ月前に実際に起った心中事件をもとにして作られたものです。
人々の涙を誘ったお初・徳兵衛の道行きの場面では、鵲の橋が語られます。
空も名残と見あぐれば、雲心(くもこころ)なき水の音、北斗は冴えて影うつる、星の妹背(いもせ)の天の川。
梅田の橋を鵲の、橋と契りていつまでも、われとそなたは夫婦星、必ずさうと縋(すが)りより、二人の中に降る涙、河の水嵩(みかさ)も増さるべし。
(これがこの世の見おさめと、振り仰ぐと、羨ましくも無心な雲は、人間の悩みも知らぬ顔に、悠々と流れており、北斗星は冴え渡って、天の川のほとりに見える牽牛・織姫の夫婦星と共に、眼下の蜆川(しじみがわ)に影を落としている。ああ我々二人も、七夕の夜に鵲の橋を渡って逢うと聞く、あの星にあやかって、この梅田の橋を鵲の橋と見做(みな)し、お互いに何時までも夫婦の契りを結ぼう。そうだ、きっと二世まで添い遂げようと縋り寄る、二人が中に雨と降りそそぐ涙には、蜆川の水量も増すことであろう。
『曽根崎心中・丹波与作通釈』黒羽英男著より)
ここでは、牽牛と織女の二つの星は、日本人の「義理と人情」の涙の中に滲(にじ)んでいくのです。

おしどり
星合いの宇宙
では、宇宙感覚の星合いは、いかがなものでしょうか。
夜空を見上げて見る彦星と織姫星の距離は約16光年です。
遠いですね。
地上から見れば超遠距離恋愛です。
しかも、ともに恒星、たがいの位置関係は何年たってもほとんど変りません。
彦星が光で愛のメッセージを伝えても、織姫がそれを受けとるのは16年後なのです。
そして織姫の返事は、その16年後にやっと彦星に届くのです。
こんなにも忍耐強い宇宙の恋。
もしかすると、二つの星には心を通わす別の回路があるのでしょうか。

資料:
『日本人のしきたり』飯倉晴武編著 青春出版社
『私の万葉集』大岡信著 講談社現代新書
『和歌の解釈と鑑賞事典』井上宗雄 武川忠一編 笠間書院
『季語の底力』櫂美知子著 生活人新書
『季節おもしろ事典』倉嶋厚著 東京堂出版
『日本人の一年と一生』石井研士著 春秋社
『日本の年中行事』弓削悟編著 金園社
『曽根崎心中・丹波与作通釈』黒羽英男著 武蔵野書院