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2008年06月15日

“四季おりおり”第十二回 梅雨の日々

梅雨の日の楽しみのひとつは紫陽花を見ることです。



紫陽花や 藪(やぶ)を小庭の 別座敷

                                芭蕉

しっとりと紫陽花の花が咲く藪は趣きがあり、そこには風流な小庭の座敷があるようです。

ふる雨が染めたかのように紫陽花の花が色づく梅雨の日々。
家々の庭に様々な色の紫陽花が咲いているのはよいものですね。

その紫陽花の花は少しずつ色を変えていくようです。
「咲きはじめの青、それが白みがかったかと思うと、紫碧色(しへきいろ)の深い色に。雨にぬれていくと、その青は紅に、そして、青黄から茶褐色になって枯れていく」
これが紫陽花の七変化
今、庭に咲いている紫陽花は昨日の白い色から紫へと変わりつつあります。

そのせいなのでしょうか、紫陽花の花言葉は「変わりやすい心」。

正岡子規の句には、

           紫陽花や きのふの誠 けふの嘘

粋でちょっとにくい花。

では、紫陽花の咲く小庭を見ながら梅雨にまつわるお話をいたしましょう。



日本の季節は六つある?

日本は春夏秋冬、四季がある国ですが、実際には六つの季節があるともいわれます。
それは梅雨秋雨と呼ばれる雨の季節です。

今は、春から夏に移り変わる間の梅雨。
この時期に東アジアに現われる雨の帯。
これが梅雨前線なのです。

梅雨という言葉は、梅の実が熟するころ雨季に入るため、中国では「梅雨(メイユ)」と呼ばれ、それが日本に伝わりました。
日本では、音読みで「梅雨(ばいう)」。
「つゆ」とよむようになったのは江戸時代からといわれます。それは「露」の連想から。

旧暦では、現在の6月は5月で、そのころはこの長雨を「五月雨・さみだれ」とも呼んでいました。
「さ」は5月のこと、「みだれ」は「水垂れる」の意味だそうです。



さみだれの旅






さみだれの 空吹きおとせ 大井川
                     芭蕉





昔の旅は大変でしたね。

雨は恵みと災害の両刃の剣です。
空梅雨(からつゆ)では水不足、多すぎると豪雨。

豪雨になると川は水かさを増して濁流となり、渡ることができなくなります。
川留(かわどめ)といって旅人は水がひくまで川を渡ることはできません。
足止めをくらって何日も宿場で待たなければなりませんでした。

大井川でもよくあったことなのでしょう。

元禄七年五月十一日のことです。
五十一歳の芭蕉は深川を旅立ちます。
箱根を越し、さみだれの中、十五日に島田宿に着き、門人の如舟(じょしゅう)の家に泊まりました。この人は塚本孫兵衛といい、大井川の庄屋で、川越人足の元締めです。
その夜は大雨で、三日間の川留めとなってしまいます。
さみだれの降り続く大井川は濁流となって流れていたのです。

芭蕉は困り果てた旅人の災難をふりはらうことを願い、この句を詠んだのでしょう。

濁流をもたらした暗い雨雲。
大井川よ、その勢いで吹き飛ばしてしまえ、その雨雲を、と。


四日後の五月十九日、大井川はまだ激しい勢いで流れていました。
そこで、川奉行如舟はよりぬきの人足を動員して、芭蕉を無事に越えさせます。
そのおかげで名古屋を経て、十日後の二十八日にふるさとの伊賀上野に着いています。



梅雨将軍



・・・・・山際まで御人数寄せられ候ところ、俄(にわか)に急雨(むらさめ)、石氷を投げ打つ様に、敵の輔(つら)に打ち付くる。見方(みかた)は後の方に降りかゝる。(中略)
空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取って、大音声を上げて、すは、かゝれかゝれと仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れたり。弓、鎗、鉄砲、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿(ぬりご)も捨て、くづれ逃れけり。
天文廿一年壬子五月十九日(永禄三年庚申)『信長公記』


現在の暦になおすと、6月22日梅雨末期。
織田信長の桶狭間の合戦です。

信長は「梅雨将軍」と呼ばれています。
梅雨のことを知り尽くしていた信長は、激しい雨を隠れ蓑にして敵のスキをつきました。この勝利は信長を天下人へとつき進ませたのです。

遠藤周作の『決戦の時』には、この時のことが次のように綴られています。

「さきほどまで晴れていた空が曇ってきた。黒い大きな雲が西南から流れてきている。
(雨か)と信長は馬にまたがると、(雨よ、降れ)と念じた。雨によってこの隠密な行動をかくせば、それに越したことはない。午後の一時に近かった。まわりの樹々がざわめきはじめた。風が吹きだした。(天佑か)信長は勝つと思った。それはこの時、ほとんど彼の確信になった。(中略)
(雨のなかを突入するか、それとも晴れた瞬間を狙うか)信長は空を仰ぎながら、機を計っていた。
機こそ勝敗の鍵となる、と彼はいつも考えていた。雨があがった瞬間、敵はほっとして気をゆるめるであろう。そこを狙うのだ」
と。

梅雨を味方にした信長の姿がここにあります。

鉄砲が戦いの主役となった長篠の戦い
鉄砲隊に頼る信長軍に、梅雨の晴れ間が味方したといわれています。

本能寺での信長の悲運な最期は、天正二年六月二日未明のことです。やはり梅雨の時期です。
秀吉が梅雨で増水した川をせき止め、備中高松城を水攻めにしていた時のことだったのです。

    ときは今 あめが下知(したし)る 五月哉(さつきかな)
                                    光秀
(本能寺の変の前、京都の愛宕山での連歌会で明智光秀が詠んだ発句)

本能寺取り巻き、勢衆、四方より乱れ入るなり。
(中略)是は謀反か、如何なる者の企てぞと、御諚(ごじょう)のところに、森乱(もりらん)申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。(『信長公記』)

いつも想うのです。
運命とは日々のひとつひとつの行動の積み重ねでしょうか。





梅雨の豪雨と神話

梅雨の末期は要注意、ものすごい量の大雨が降ることがあります。
昭和三十三年の梅雨の時期、山陰地方は大雨に襲われました。このときから集中豪雨という言葉が新聞で使われ始めたそうです。

その山陰地方の伝説にヤマタノオロチの物語があります。
スサノヲノミコト八俣(やまた)の大蛇(おろち)退治です。

このお話の八つの頭と八つの尾をもつ大蛇は豪雨で荒れ狂う川にたとえたものといわれます。

『古事記』には、「汝の哭(な)く由(ゆゑ)は何ぞ」と問ひたまへば、答へ白(まを)さく、「我が女(むすめ)は本(もと)より八稚女(やをとめ)ありしを、この高志(こし)の八俣のをろち年ごとに来て喫(くら)へり。今そが来べき時なるが故に泣く」とまをしき。
(「あなたはどういうわけで泣いているのか」とお尋ねになった。これに答えて、「私の娘はもともと八人おりましたが、あの高志の八俣の大蛇が毎年襲ってきて、娘を食ってしまいました。今年も今、その大蛇がやって来る時期となったので、泣き悲しんでいます」と申した。:『古事記』次田真幸全訳注より)

出雲国に天降った須佐之男命(スサノヲノミコト)は、八俣の大蛇に食われそうになった櫛名田比売(クシナダヒメ)を救います。

ヒメが大蛇に呑まれるというのは、雨期になると肥河(ひのかわ)が氾濫して稲田が壊滅する恐ろしさを神話的に語ったものなのでしょう。
(ヒメは日本書紀に「奇稲田姫(くしいなだひめ)」と記されているように、稲田の女神の意味なのです)

この神話は、須佐之男命に象徴される勇敢な男たちの物語ではないでしょうか。
そこには、大蛇として表わされた川にむかいあい、神に祈り、知略あふれる治水の作業によって、毎年の氾濫を止めた人々がいたのです。
その活躍は、出雲の地に豊かな実りをもたらしたことでしょう。

梅雨の豪雨から命がけで稲田を守り、米作りに励んでいた古代人の姿が見えてきますね。


自然からのメッセージは大切です。
しっかりと受けとめて、生きていきたいものです。

今年の梅雨は、雨が多くしかも気温が高めだそうです。黴の発生が心配ですね。
梅雨の晴れ間には、窓を開けて換気しましょう。







資料:
『天気の100不思議』村松照男著 東京書籍

『季節おもしろ事典』倉嶋厚著 東京堂出版 

『季節の366日』倉嶋厚著 東京堂出版

『気象のしくみ』村松照男監修 オリンポス著 ナツメ社

『古事記』全訳注次田真幸 講談社学術文庫

『信長』秋山駿著 新潮文庫

『決戦の時』遠藤周作著 講談社文庫

『芭蕉の俳諧』輝峻康隆著 中央新書
posted by 事務局 at 00:00| Comment(0) |
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