
私たちは、四季おりおりの着るものについて、季節に合わせて、さまざまな工夫を重ねてきました。
今は宇宙服まであります。
衣替え
6月1日は衣替え。
学校や職場の制服が夏服に替わります。
それは、日本人のふだん着が和服だったころの風習がいまに残ったものです。
季節の変わり目に、裏地をつけた「袷(あわせ)」から、裏地のない「単衣(ひとえ)」に替えたのです。
私たちの服装が和服から洋服へと移っていった明治時代。6月1日は夏の衣替え、10月1日は冬の衣替えとなりました。それが今に続いています。
江戸時代、幕府は年4回の衣替えを定めていました。春と秋には袷(あわせ)、夏には裏地のない帷子(かたびら)、冬には防寒用の綿入と。庶民もそれに準じておこなっていました。
あの紫式部や清少納言が活躍していた平安時代ではどうだったのでしょう。
宮中では、「衣替え」は更衣(こうい)とも言われ、4月と10月に行われていました。
4月の更衣は、暖かくなるので綿入りの衣服から綿を抜くことから「綿貫(わたぬき)」と言われていました。この宮中の衣替えが民間にも広がっていったのです。
衣のはじまり
人類で初めて衣をまとった人々は?
毛皮の衣をまとっていたと推測されているのはネアンデルタール人。
数十万年前の旧人で、とても優しく、労わりあって生きていたとされる人々です。
では、自然界から1本の繊維を取り出し、紡ぎ、布を織ったのはいつの頃でしょうか。

六千年程前、中国・黄河流域の半坡(はんぱ)という地域の人々は骨を磨いた美しい縫い針を持っていました。
半坡の人々は獣の皮や、植物の繊維でできた織物を着ていたようです。
考古学的推定によると、当時の衣服は、襟や袖のないワンピース型と上下に分かれたツーピース型。
装身具などもたくさん見つかっているので、おしゃれを楽しんでいたのではないでしょうか。
日本では
火焔土器を作り出した縄文時代の人々はどのようなおしゃれをしていたのでしょう。
あの土偶のような装いをしていたのかもしれません。

青森県亀ヶ岡遺跡(縄文時代晩期)の資料には「縄文の人々は天災や病気などの不安や恐れを解消し、安心して生活するため、呪術(まじない)をとり入れた願いや祈りのまつりを行っていたようです。
まつりでは、身を飾り、呪文(じゅもん)や踊りを行い、笛・タイコ、また琴などで音楽を奏でていたと思われます。
まつりの人々の装いは、髪は赤い紐で結髪(ゆいがみ)され、その髪は赤色漆塗りの竪櫛(たてぐし)やヘアピンで飾られ、耳には赤色漆を塗った耳飾、顔には赤色か緑色で呪術の文様が描かれていたようです。そして首には青緑色のヒスイの玉やイノシシの牙(きば)の垂飾(たれかざり)がかけられ、手首には貝や赤色漆塗りの腕輪が、また腰には貝やいろいろな腰飾がかけられ、衣服は織物や編物でつくられ、しかも文様まで描かれた装いであったと思われます」と。
以前、青緑色のヒスイの玉を見ましたが、神秘な美しさを漂わせたものでした。その時、赤い漆を塗った器も見たのですが、これもまた不思議な美しさを持っていました。
当時は今から見れば神秘的で不思議なパワーを身につけていなければ生きていけない環境だったのかもしれません。
日が暮れると、満々と星が輝く夜空に吸いこまれそうになったり、深い闇を持つ森にのみ込まれそうになったりしたことでしょう。
縄文の人々は、夜空の星や森と一体化し、自らが宇宙の神秘と、不思議な力をみなぎらせて生きようとしたと思われます。
衣裳はその身を守るとともに、その心を守っていたのではないでしょうか。
長く続いた縄文時代は、わずかな間に急激に変化し、弥生時代に移っていきました。海外から渡来する人々がふえ生活様式も変化していったのです。
3世紀頃の日本について、中国の史書『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には次のように書かれています。
「男子はみな刺青(いれずみ)をしています。
倭人は好んで海にもぐり、魚や貝をとっていますが、刺青は、大きな魚や悪いことをする水鳥を追い払うのに役立っているのでしょう。
服装は、男はみな、髪を角髪(みずら)に結い、布きれを頭に巻きつけています。着物は、大きなきれを体に巻きつけているだけで、ほとんど縫ってありません。
女は、髪を後ろでたばねています。着物は、きれのまん中に穴をあけ、その穴から頭を出して身にまとっています」と。
豊かな山野に恵まれた日本列島。当時から、麻、藤、葛(くず)など、多くの種類の植物から糸を紡ぎ、布が織られていたと思われます。
古墳の時代になると、埴輪によって当時の衣裳をおしはかることができます。
女性は上衣と裳(も)、つまりツーピース。男性は上衣と、ズボン状の袴を着け、膝下を紐で結んでいます。
飛鳥・奈良時代の服装は、高松塚古墳の壁画にある女性たちのようだったのでしょうか。上着の丈は長く、全体にゆったりと、裳は裾が長くてカラフルな縞模様。けっこうおしゃれでしたね。
歌に見られる人と衣
7世紀から8世紀にかけての歌に目を通すと、人々と衣のかかわりが見えてきます。

太刀の後(しり) 鞘(さや)に入野に 葛引く我妹(わぎも)
ま袖もち 着せてむとかも 夏草刈るも
万葉時代の民謡、旋頭歌(せどうか)
(入野で葛の蔓を手繰りよせている妻、そのうちに私に着せようと思ってか、夏草を刈っているよ。)
当時の女性は夫のために葛を取り糸を紡ぎ布を織り、そして衣を縫っていたのですね。
防人歌(さきもりのうた)では、
韓衣(からころむ) 裾に取りつき 泣く子らを
置きてそき来ぬや 母なしにして
(韓衣の裾にとりすがり、泣き叫ぶ子どもを残して、防人になってやってきたのだ、母親もいないのに。)
母を亡くした子を残して戦いに行く防人は、大陸風の作業衣を着ていたのでしょう。
足柄の 御坂(みさか)に立(た)して 袖振らば
家(いは)なる妹(いも)は 清(さや)に見もかも
旅立つ夫は一生懸命に袖を振ります。「はっきりと妻に見えるだろうか」と。
袖を振って呼び寄せるのは妻の心。
妻も歌います。
色深く 夫(せ)なが衣(ころも)は 染めましを
御坂たばらば まさやかに見む
(あの人の衣の色をもっと濃く染めておけばよかった。そうすれば、きっと、あれは夫だとはっきり見えたのに)
それほど長い間、夫の姿が小さくなるまで見送っていたのです。
袖に託して、一つに繋がっている夫婦の愛。
和風化へ
6世紀から8世紀にかけて大陸の影響を受けた装いも、平安時代に入り和風化していきます。
衣服を1枚、2枚と重ねて着る「襲(かさ)ね」の風習が生まれます。
そのいろどりによって四季の移り変わりなどを表わす「襲ね」。
それは美しさと同時に寒さを防ぐ実用的な姿でもあったのです。
それが十二単の装束につながっていきます。
中世からは身体を暖かく包む小袖が欠かせない衣服となり、小袖全盛の江戸時代となるのです。

更衣美人図 喜多川歌麿筆
和服を着る機会も少なくなった日本人。
優雅に袖を振ることも少なくなっていますね。
「日本の着物は着ている自分よりも、周りの人を気づかう衣裳」と言われます。
人と衣類のおりなす文化をもう一度見直して、大事にしていきたいものです。
資料:
『日本人のしきたり』飯倉晴武編著
青春出版社
『ひとはなにを着てきたか』黒川美富子著
文理閣
『装うこと生きること』羽生清著 勁草書房
『私の万葉集』大岡信著 講談社現代新書
『スーパー日本史』益田宗・中野睦夫監修
古川清行著 講談社
『北の誇り・亀ヶ岡文化』青森県教育委員会