CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
« 2011年08月 | Main | 2011年10月»
プロフィール

さいとうひろしさんの画像
さいとうひろし
プロフィール
ブログ
<< 2011年09月 >>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
カテゴリアーカイブ
リンク集
最新記事
最新コメント
成広のり子
風花 (03/11) ハックの家
つ ど う (09/17) 佐藤美紀子
梅雨展 (06/20) さいとうひろし
もうすぐ春だよ (03/17) chako@h2o
もうすぐ春だよ (03/16) さいとうひろし
アワワワワ〜! (12/11) さわだともこ
アワワワワ〜! (12/11) さいとうひろし
神様 仏様 (09/12) saito
神様 仏様 (09/11) うえむら
言葉 (07/11)
月別アーカイブ
日別アーカイブ
https://blog.canpan.info/shamurie/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/shamurie/index2_0.xml
野染に参加してー神戸から [2011年09月29日(Thu)]

                          季村敏夫(きむら・としお)


「秋の三陸、野染の旅へ」、今回、京都の染色家斎藤洋さんの誘いに応じることになったのは、訪問先に、宮古という地名を見出したからだ。みやこ、私にとって、美しい土地の名。昭和21(1946)年の新緑もえる頃、宮古の海辺で私の両親は出遭っている。
北ボルネオのアピ(現在マレーシアのコタ・キナバル。アピはマレー語で火の意味)にあった捕虜収容所を出た父はゼッセルトンから出帆、サイゴン経由で広島県の大竹に上陸、復員(復員時の部隊名第37軍司令部)、列島をまっすぐに北上、宮古に向かった。
三井物産塩業部宮古工場に就職、東京から疎開していた19歳になったばかりの女性に遭遇。当時の宮古は魚臭い小さな町、それでも、渡し舟にゆられた、今では考えられない詩的な日々だったと今なお存命の母は述懐する(父は昭和50年3月、54歳で死去)。
さらに、宮古を襲った大津波の惨禍。幼い折から、宮古という響きは私に、そのような記憶を知らず知らずに植えつけていた。自分にとって原風景ともいうべき宮古を一度訪れてみよう。これが旅への参加の動機であった。

野染という行為が、ひとの心をこれほどまでにほどくとは予想外のことであった。障がい者の集う小さな作業所、最初私は、おそるおそるの手探りの感じで関わっていたが、共同作業にうち興じる生徒のこころの襞に触れ、そのたびに、逆にこちら側がほぐされるという得がたい体験を獲得できた。
ほどく、ほぐされる。お母さんたちの、日々の鬱屈。大津波や火災がもたらす、生々しい記憶の傷口。だが、作業のあと、おもわず安堵の表情を浮かべるお母さんたちは、みな美しいと私はうなった。青空にゆれる真っ白な布。布のまわりの人のざわめき。人と布との、色を通じた交流。やがて、あざやかに染め上げられる布。野染とは、なんとシンプルな共同行為なのか。ある日ある時、偶々ひとときを分かち持つ。共に在って時間に携わるからこそ、色は輝く。どの作業所でも、面白い、楽しい、色が自然だ、こんな感嘆の声が訪問者に寄せられた。むろん、生徒はみな一心不乱。黙々と染めの作業に没頭。日ごろのこわばった感情は、布を染めあげることによって瞬時にほどけていった。そしてこれが重要なことだが、ほどかれた感情にゆすられたこちら側がものの見事にほぐされている。
作業のあと、3月11日の大災厄の記憶がいきなり胸にこみあげ、お母さんのくちびるがわななく。指先がふるえる。泣き笑い、あれほどの悲嘆を身体で味わいながらも、微笑みが灯されていたこと、これは驚き以上の、畏怖に近い感情を私にもたらした。関西でいう、「ほな、歌でもてこまそ」、という心配り。野染は詩歌に携わる私に、歌の源泉ということをあらためて教えてくれた。

夕暮れ、ある作業所の門をくぐり出るときのこと。野染の最中、ひとことも言葉を発することのなかったダウン症の女性の手を私は握りしめた。すると眼前の頬は見る間に紅色に染まり、目にはあふれる涙。これはやばいな、瞬時に感じとった私は、そそくさと車中の人になったが、数十分経過した頃、突如嗚咽に襲われ、驚いてしまった。次から次へと漣打つ底知れぬ感情の波に、さまざまな記憶の断片が流れつき踊っていた。幼いとき、宮古のことを聞かされたこと。もう忘れていた、なんでもない記憶のひとコマまで飛び出したり、今なおうずく記憶が、お前はなにをしている、おめおめと生き延びて、いったいなにをしようとしているのかと重層的に問いかけてきたりして、ほんとうにふしぎな時間の劇であった。

あとで気づいたことだが、手の平から伝わることのたいせつさを、私は初めて学んだ。
言葉ではない伝達。野染は、手と手による、シンプルなきわめて原始的な行為だったことを。色を染めるとは、こころのなかに閉じこめている「色」という時間を外部へ開くこと。色即是空、空即是色、これを難しくとらえるのではなく、背負いこむ厄介な荷物を、いったん空中にほうり投げてみる、すると荷物の重量などいっきょに鳥の羽のように軽くなり、苦しいおもいは空無になる、そんなふうに自由気ままに解釈し直してもまったく問題ない、野外の共同作業の一員に紛れこみ私は、脳天から爪先まで、垂直にたち割られるおもいに襲われていた。

この旅を知ったのは、妻のひとことだった。彼女は草木染めが大好きで、家の二階に小さな作業場をもうけ、毎日ごそごそ、音を発している。機の音であり、布と布がすれあう音であり、植物を煮つめる音である。音は訪れ。私にも、新たな音づれがもたらされた。
以上が、旅から戻った直後の、率直な印象である。  (2011、9、22)



わらび学園にて







季村敏夫さんから届いた便りを、載せていただきました。


詩人が今も在ることの驚き、慄き。
自らの体と精神をリトマス試験紙のように晒してゆくことで、その時と場の色をあぶりだしていく様子は、はた目からは痛快でさえあるが、本人にとってはかくのごとく心身を切り刻むような作業なのだということが伝わってきます。
実はこの涙の先にはもう一つの物語が待ち受けていました。本人はこのような形で私などがその物語を披歴することはおそらく望まないことなのかもしれませんが、詩人のすぐ隣で心かき乱されていた私にも幾ばくかの言い分はあっていいように思う。

大槌、釜石を通過し、遠野を抜けたあたりで、右手に2両編成の釜石鉄道が闇夜に車窓に明かりを灯して花巻方向に。あの銀河鉄道である。並走する車の中でどこか恍惚としている時、彼のケータイが鳴る。何やら起こったらしい。車を道端に停める。

季村さんの詩集の出版元からの便りは、今年の花椿賞に季村さんが選ばれたという何とも嬉しいものだったのだ。その辺の事情に疎い私が後に知ったのは、この賞は毎年その年度に発行されたすべての詩集の中から最も優れた詩集一冊に贈られるもので、今年で29回目を迎えるその受賞者には谷川俊太郎、吉増剛造、大岡信、高橋睦郎、清岡卓行など、そうそうたる現代詩作家が名を連ねている。

彼は受賞のメッセージを明朝までに書き送らねばならないことになり、東和の小原家に戻るとすぐ、母屋の北にある蔵に籠り徹夜することになる。
朝、目を充血した季村さんがいた。朝飯の前、書き上げたその言葉を私たちの前で朗読してくれた。あの涙をいっぱいためて。


復興とは、言葉を取り戻していくことなのではないだろうか。そしてまたどうあがいてもどうしようもないような人(私)という存在を、てのひら(てびら)の温もりのような言葉が救いとってくれることを信じさせてくれた二人の詩人、季村敏夫さん、そして佐藤啓子さん ありがとう!!




伝説の蔵になるかもしれない・・





季村範江さん。ケアホーム希望にて

範江さんは阪神淡路大震災後〈震災の記憶と記録を後世に残す〉という活動を続けています。 震災・まちのアーカイブというグループを結成して14年目。

「被災地で生きている人々の声を残してゆきたいと考え、瓦版や小冊子などを発行したり資料収集をしています。また私の活動に主人はいろいろな支援をしてくれています。」

私(斎藤)は毛斯綸(モスリン)という布の縁で、西宮のあたらし舎(や)で会ったのが10数年前になります。名もない庶民の着物を収集して後世に残すことを目的に、仲間とともにくらしの着物資料館活動を続けてこられた人でもあります。
ともすれば忘れ去られてしまう、それも名もなき人たちの大切なものや思いを長い時間にわたって残してゆこうとする季村さんたちのような地道な動きは、今回の巨大複合災害においても大切な仕事になっていくのではないでしょうか。


14日は<季村さんの宮古>へ向かいます。


野染めに参加して その2 [2011年09月29日(Thu)]

野染・影





その人が忘れがたいー野染めに参加して その2
                                    季村敏夫


ケアホームからの帰路、車のなかで襲われた嗚咽、なぜ嗚咽なのか、なぜ突然だったのか、補足説明ではないが、自分へのメモとしてもう少し書いておこう。
 野染めのあいだ、ひとことも発することのなかった女性。海を遠望する大災厄のあとの地上に、小さな身体がただよっていた。空中にゆれる布に、積極的、行為的に関わるのではなく、ある自然な距離を保ちながら、離れたかとおもえば近づくという按配で、それでも彼女なりに黙々と野外作業に没頭していた。彼女のたたずまいが、布から絶えず一歩離れていた私の眼を釘づけにした。私は、近づくのでもなく、遠ざかるのでもない微妙なあわいを保ちながら、いくたびか布に誘った。横のもう一人は小さな笑い声を、燃え始めた落ち葉焚きの火のように放っていた。なんの歌なのかわからないが、口ずさみながら布に向かっている人もいた。どの人の指も、手のひらにも、染料がこびりつき、そんなこと委細構わず、じつに楽しそうだった。作業のあと、それを洗いながすのである。
 ひとことも発することのなかった女性の手のひら、指に付着した染料、「洗っても落ちないねぇ」(マクベス)、なかなか落ちなかった。私は、自分の指をそえるようにしてこすった。手のひらを重ねるようにさすった。何度も、そうした。指のあわいから、水がほとばしった。水の音に山の霊気がしのびこみ、気持ちよかった。だが、その人に張りついた色は容易に消えることはなかった。
 無事に野染め作業終了、帰り際、その人の姿が偶然眼の前にあった。いきなり私は手を握りしめた。別の方法で、染料をぬぐい落とそうとするかのように。しかし、このおもいは車中のなかでのこじつけで、そのときは、さよならを伝えようとして、自然と手が伸びた。手と手が重なった。すると手のひらから、じんわりと伝わるものがあった。なにかが響きあったのである。みるみる女性の頬は紅潮、両目にあふれる涙。畏怖の感情が、私を包みこんでいた。おもいもかけない出来事が起こったのである。
 ことばではない、身ぶり手ぶりの表現。身体から発せられる渾身の光、そのような表現があることをすっかり忘れていた私は、うちのめされ、倒された。どのような事態にあろうが、行為の有償性など微塵もおもうことなく、徒手空拳ひたすら懸命であること、人としてのそのような在り方をどこかで忘失していた自分が、おおげさではなく呪わしくおもえた。卑怯にもこれまで、あらゆる事態を真正面から受けとめることなく逃亡、結局は今日までおめおめと生き延びてきただけではないのか。そんなお前とは違って、あのひとはあの場所で、決して逃れることなく、あざとい構えからふりほどかれ、あるがままの姿で生きている、このおもいが突然おしよせてきた。すると、忘れていた記憶や抑圧していた記憶の光景がよみがえってきた。どうしたのだろう、次から次へと記憶の断片が襲ってきた。無意識のうちに抑圧していたものまでを苛烈に刺激したのが、自然な女性のたたずまいであったことに驚嘆した。
 岩手県宮古は、敗戦後の両親が出遭った土地。父はなにも語ることなく、あっけなく世を去ったが、ことあるごとに母は、幼少の私に宮古の思い出を語りつづけてきた。その記憶は、なぜか時間の経過とともにふくらみ、もはや誰のものなのか、母のものか、父のものなのか、共に宮古で暮らしていた父の妹たちの記憶なのか、織られた布糸のように、いまやすべてが重なりあった、誰のものでもない地層として私に植えつけられていた。地下水脈の重層的な、未生の記憶までが訪れ嗚咽となった、旅から戻り、このように私は位置づけている。
 私を新たに目覚めさせたのが、たまたま訪れたケアホームの女性であったこと。お互い、名を名のりあうことなく、風のなかで出遭い、わかれていく、おもいを寄せる人でもなく肉親係累でもない、すれ違っていく一人の他者が忘れがたいこと、おののきである。
             
                              (2011、9、30)







さまざまなことが、それぞれの体に一杯詰まり、東和に帰ると、小原さんが温かなぜんざいを作って待っていてくれました。疲れた体。ありがたく沁みました。







釜石から山田へ [2011年09月27日(Tue)]


9月13日(火) 曇



    海の鐘

   海の鐘が、鳴りやまない
   平成23年3月11日14時46分
   海の鐘が、鳴る、鳴る
   海と地球が、大暴れ・・・・・・・
   鳴りやまなかった海の鐘                
                    海をうらまない 佐藤啓子著 合同出版





ヤマボウシの実も色づいて  大船渡にて



花巻・東和から30Kほどで遠野、そこから山に。トンネルを幾つか抜けると釜石の町に入る。そのトンネルの向こうはがらっと気候が変わっていることがよくある。手前で晴れていても、霧が濃くなっていたり、遠野が雨でも釜石は晴れていたりしたことが今回もよくあった。
この日は山田町で昼過ぎから野染。雲行きは少しおかしい。
途中釜石を通るので、6月に野染でお邪魔した釜石祥雲支援学校に立ち寄ることに。何しろあの生徒や先生たちに無性に会いたかった。今回も京都より一緒のポコちゃんや、東京から来た澤畑明見さんにとっても特別な場所であったと思う。
被災地で野染をすると計画したものの果たして的外れなこと、独りよがりなことではないかという危惧を見事に取っ払ってくれ、私たちにこれから進んで行く大きな勇気を、まずいただいた人達でした。
突然の訪問にも関わらず、みんなは両手をひろげて体いっぱいで歓迎してくれました。
今回会えたのは中学部の人たち。わらび学園と私たちをつなげて下さった刈屋真知子先生、美術担当の千葉久美子先生たち。たった一度の出会いだったのに、嬉しさと懐かしさがこんなにもこみあげてくるとは。
今回新しく加わった神戸から来た季村夫妻も、木皿みえさんもすんなりと入りこめるような、この人たちのこの何とも言えない温かさは一体どこから来るのだろう。




フラダンスのゆったりとした振り付けで<ふるさと>をみんなで歌い踊りました。わらび学園やケアーホーム希望でも、木皿みえさんとのこの時間は格別なものとなりました。








京都を発つ前に、信州・松本の一人人形芝居がらくた座のちいおばさんこと木島知草さんが旅先の福島から美味しそうな梨(もちろん放射線の数値が問題でないもの)を一箱送ってくれたものを持ってきていたので受け取ってもらいました。後にとても美味しくみんなで食べましたと電話で伝えてくれました。







大阪の木村 薫さんが子供たちへと作って
持って来てくれた和凧も喜んで受け取ってもらいました。。





    そして大槌、吉里吉里を抜けて山田町へ




ケアホーム希望 1 [2011年09月27日(Tue)]
9月13日(火) 13:00〜 曇り



   


  雨が降っても、復興作業をしているね。
  間違いなく、街じゃない。
  雨だから、作業しづらいね。
  寒いだろうね。
  間違いなく、信号もない。
  でも、雨に、風に、波に負けない。
  希望の雨が、キラリと、降るよ。

                
               佐藤啓子著 海をうらまない 合同出版 より




この日行った、山田町の障がい者ケアホーム希望と、そのケアホームと関係の深いはまなす学園はともに壊滅。廃ホテルになっていた旧ホテル陸中海岸に身を寄せ合い過ごしていたそうです。今はそれぞれの仮設住宅が出来、生活されています。
今回の旅を準備してゆく段階で、 「障がいを持って生活している方たちと野染をしたいのですが受け入れて下さるところはあるでしょうか」と山田町役場に電話をしたところ、ケアホーム希望の方より来て下さいとの連絡がありました。
6月から始めた野染の旅は、一切今まで繋がりの無い障がいを持って生きる人たちの所へ、このように直接連絡を取り手探りしながら進めてきました。そのきっかけはあるところで、被災地の支援学校の養護教員の方と出合ったことにありました。3・11以降の、彼らの困難はいかばかりであろうか。出来るだけ楽しい時間を共に創っていけないだろうかなどと思い巡らしていったのが、このような具体的な動きとなっていきました。
こちらからの申し出に、面倒な手続きなど必要とせず、言葉をシンプルに交わし合い了解して行けるのは、とても不思議です。なぜなのだろうか。


どうにかして今を、生き、みんなで乗り越えていかねばという思いと共に、やはりいかんともしがたい悲しみや喪失感、そして底知れぬ不安を抱えている人たちにとって必要なのは、絆という言葉に象徴するようなタガではなく、タガを解いてゆくような時間や場所なのではないのだろうか。怒り、泣き、笑う時間と場所を(それも一人ではなく)見つけ作っていくことが、今、そしてこれからは大切になっていくのではないのでしょうか。軋み、硬直した心と体をいかに解いてゆくのか。難しいことだなと、つくづく思います。





その旧ホテル陸中海岸の敷地内に建てられた<希望>の仮設住宅の前で野染めが始まります。そこから少し離れたところで仮設生活をしているはまなす学園からも何人か参加。雨が心配だけど、乾かす場所はホテルの廊下を使ってよいとのこと。こんなこともすんなりと決定出来る。



「震災以来、みんながこんなに笑ったのは初めて」とスーさんこと施設長の鈴木貴雅さん。




女の人たちが先に縫い始めたのを見ていた男の人たちも、いつとはなしに<てびらこつぎっこ>に夢中。この<つぎっこ>は京都・論楽社で縫い始めたものを手渡しました。そういえばあの時も男達が背中丸めて縫っていたっけ。ベースの布はこの夏法然院で子供たちと染めた野染布。




女子は白地にさまざまな色のてびらこを、おもいおもいに。
「今日の夕食はカップラーメンだからね!」
今日ばかりはショクヨクよりチクチク。







そのあと、私たちは、詩集<海をうらまない>に出会う。

そして神戸の詩人も・・・・





      写真はケアホーム希望の了解を得て掲載させてもらいました。


ケアホーム希望 2 [2011年09月27日(Tue)]





てびらこつぎっこが終わり、最後に木皿さんとみんなで<ふるさと>を舞い唄い帰ろうとすると、一言もしゃべらず、静かにてびらこをつぎっこしていた人が、今日のお礼にと一冊の詩集を手渡してくれました。




  止めるには 止まるには


  どうして、こんなに、地球や海が、暴れだした。
  みんなこんなに、頑張ってんのに
  何が、たりないのかな。
  止めるには、止まるには。


         <海をうらまない>  佐藤啓子著  合同出版社 より



その詩集を手に取り、ページを開いた時、私の中に溢れたのは、なぜか申し訳ないような感情でした。遠い京都からやってきて、おやじギャグを飛ばしながら皆を笑わせ、きれいな色を作り、30mもの布を張り、走り回って染めていくような時間の後、てびらこをつぎっこし、こちらのイメージを伝えていくような作業。その一々にみんな応えてくれ、もちろん楽しんでもくれて、私たちも充実感をたっぷり感じた後、そっと差し出してくれた言葉。


痛く、温かく、不安に満ち、希望を捨てず、触れれば涙が溢れそうな、でもそっと包んでくれるようなリリカルな言葉。大地震と大津波の後の恐怖、大船渡に住まわれている佐藤さんのご両親やお姉さんの安否もわからないという、極限の不安のただなかで、綴っていった言葉。





 あったかい


 私がかぜひいて、熱を出すより、
 まだ海の中にいる人こそ、
 早くあったかいとこへ行かせて、
 体を休ませたいよ。
 私は、生きているから、大丈夫。
 早くあったかいとこへ行こう!


         <海をうらまない>  佐藤啓子著  合同出版社 より



この詩集の売り上げの一部は、
「障がい者ケアホーム希望>の震災支援に充てられます。


なぜ<海をうらまない>のか?
あれほどの命が奪われたのではないか。
住み慣れた町が根こそぎ壊されてしまったではないか。
6月に出会った、唐丹のおばあちゃんは「海が憎い」と泣いていた。


手渡された本を繰り返して読んでも、私の中でどうしても引っかかってしまう何かがこの言葉にはありました。
旅から帰って間もなく佐藤さんから手紙が届きました。

「・・海を恨みたくないのです。人を恨むことに、なるからです。」

なんという言葉なのだろう!

私はまたこの言葉の意味を問いながら歩いていかなければならないと思っています。



海にはカキの養殖筏が復活。でも育つには数年かかるとのこと。





啓子さんたちに見送られ、薄暮の山田町を後にしました。



すっかり暗くなった45号線を南へ、大槌町を通り抜けたあたりから、助手席に座っていた、神戸から来た詩人の季村敏夫さんが、急に嗚咽し始めました。

大槌小鎚 ふたたび 1 [2011年09月23日(Fri)]

9月12日(月) 快晴  



根こそぎ津波と火事でやられた大槌町に、移動郵便局車
新しい電信柱も立てられて


だいぶ片づけられた町はいっそう人の匂いが消えていた。
ガレキとひとくくりに呼びたくない。それぞれの衆生の証なのだから。


東京より前回も一緒に旅をした澤畑明見さんと同行して来た木皿みえさんが、太い竹で出来たハワイの笛<プーオヘ>を大地と空に向け吹く。そこにいきとして生きてきたモノ達の息吹が立ち上がってくるように感じました。





避難所となっていた総合運動公園・体育館のわきを通ると、ちいさなプレハブの診療所が開所していました。私たちが前回野染をした<まごころ広場>はまだ残って続けておられました。避難所は岩手ではいち早くなくなっていてやはり3カ月の間に随分と様子が変わっていました。小さな川沿いを山に向かいあがっていくとそこここに小さな仮設が出来ていて人の気配がある。田んぼの上に建てられたものが多く、川がすぐ近くでいかにも湿気が高いのがわかります。この地域にはコンビニなど店らしきものがなく、車がなければ生活していくには極めて厳しい環境だと思います。近頃、異常に多い集中豪雨も心配です。つい先日の台風でも大槌の仮設の一部に避難指示が出たみたいです。


やがて懐かしいわらび学園に到着。すぐ下にあった集会所に寄り添うように避難していた人達も、抽選という非人間的な選ばれ方により、バラバラに仮設へと選り分けられていました。
そうやって今まで少しずつ慈しんできた、また悲しみを共にしてきた人の営為が分断され、切り裂かれてゆく被災地と呼ばれる場所とは何か・・・  福島のことも・・



みんな待っていてくれました。

野染めが始まる。



この日は真夏日のような暑さ。快晴。




染める時。みんなの体が顔がほぐれ、声が出る。




染まる時、風が吹く






大槌小鎚ふたたび 2 [2011年09月23日(Fri)]


野染のあと





野染で火照ったからだ、ほどけた気持ちを持ちより、まずお茶っこ。澤畑さんたちが長い付き合いをしている山形・鶴岡にある、障がい者の皆が力を合わせて頑張っている、クッキー屋さんおからや から送られてきた、だだちゃ豆(枝豆)を豪快に喰ったあとは、澤畑明見さんによる、魔法の一本針による毛糸の靴下カバー作りが始まります。これから寒い季節を迎える人たちの足元を少しでも暖かにと。みなさんからいただいた毛糸をたっぷりテーブルの上にひろげ、アミアミ会のスタート。一気に集中していきます。



「私はやっぱり二本針」





皆さんが送ってくれた布も、お針箱も分け合う





ともだち




前回、6月にわらび学園を訪ねた際、京都造形芸術大学の11人の学生たちが野染めし、11の白いてびらこ(南部言葉で蝶のこと)を縫い付けたものを手渡しました。そしてこの間縫い継がれ完成した、てびらこつぎっこ<ともだち>が壁に掛けられていました。
太陽に向かって飛び交うたくさんの<てびらこ達>
あの時言い尽くせない事ごとがこの地で起こったのだと思う。私にはわからない。ぎりぎりの所での助け合い。そして喪失、絶望。障がいを持った彼らが、いかにその場その場で力をくれたか話してくれた人がいました。
深く傷つく心身をそれぞれ抱えながら<ともだち>を作っていった時間がいかばかりか。
光満ちたこのつぎっこ(南部言葉で布のこと)に縫いこまれた叫び、悲しみの先に救いがあらんことを祈る。




すっかり乾いた布の前、光に包まれて



写真はわらび学園の了解を得て掲載させていただきました。


鹿踊りのはじまり [2011年09月22日(Thu)]


9月11日(日)



太陽はこのとき、ちょうどはんのきの梢の中ほどにかかって、少し黄いろにかがやいて居りました。鹿のめぐりはまただんだんゆるやかになって、たがいにせわしくうなずき合い、やがて一列に太陽に向いて、それを拝むようにしてまっすぐに立ったのでした。嘉十はもうほんとうに夢のようにそれに見とれていたのです。   <宮澤賢治・鹿踊りのはじまり より>



午後4時、神戸から二人、京都から二人、東京から二人。花巻で落ち合うと、ちょうど、鹿踊りのはじまり。これからあの臨在の海に向かい旅をする私たちにとって、思いがけない、そして勇気を与えてくれる出来事でした。

この小さな町、花巻によくこれほどの若い衆が・・と、驚くほどの勢い。見物の人たちよりこの花巻祭に参加する人たちのほうが多いのではないだろうか。


いくつもの鹿踊りの<連>が、それぞれの集落から集まり、町の大通りを舞台に一斉に踊り始めました。それぞれの流儀で舞い、太鼓を打ち鳴らすと、遠くの地から今着いたばかりの私たちが一気に、魂を丸ごとわしづかみされたよう。太鼓の音はそれぞれの川が集まりやがて大河となって海に流れゆく大きな奔流のように、私たちの体を満たしてくれました。




花巻農業高校の生徒たち。



嘉十はもうまったくじぶんと鹿とのちがいを忘れて 「ホウ、やれ、やれい。」と叫けびながらすすきのかげから飛び出しました。  (同)


今回の旅の後押しを、鹿たちがしてくれました。
<このままいっていいんだよ>と。

大地震からちょうど半年、そしてあのパンドラの箱を開けたようなNY貿易センタービル崩壊から10年のこの日、空には十四夜の月がありました。

釜石街道を海の方向に走り、東和の村に着くと、静かな闇の入り口にはコスモス。小原さん が暖かな夕餉を用意して待っていてくれました。



明日は、大槌です。





巡り還る [2011年09月21日(Wed)]


昨日夜、京都に帰りました。


一日一日が一頁一頁、大切な世界がめくられて行くような、苦楽溢れる旅でした。

私どもへの物心両面へのお力添え。お針箱や毛糸、そしてご寄付。みなさんの思いを確かに感じながらの旅でもありました。


台風と台風の間のつかの間の晴れ間。予定されていた8か所の野染はすべて出来ました。20年を超える野染の歴史のなかでも特筆すべきことでした。

この旅に参加した仲間は延べで11人。それぞれの思いを抱えて帰路に着かれたことと思います。


私はこれから秋の作品展が目白押しに続きます。またこの旅で染められた500メートルあまりの布の色止め作業もあり、すぐにでもお伝えすべきだと思いますが、あせらず私以外の方たちの言葉も添えながら少しづつお伝えできればと思います。







旅は、まず花巻祭・鹿踊りから始まりました。
9月11日





てびらこつぎっこ<ともだち>   わらび学園
9月12日






山田町・障がい者ケアホーム希望 仮設住宅にて
9月13日





大船渡・気仙光陵支援学校にて
9月15日




釜石・平田での〈魔法の一本針〉アミアミ会
かつて400人が暮らした避難所にて
9月17日




花巻・東和の夜 [2011年09月16日(Fri)]
今日も涙する人と出会う。
闇、絶望、抗う人の目。
一人で立っていなければならないとしたら
今日の日差しは悲しいほど明るすぎる。


お針箱、毛糸、編み針、レース、花ふきん、凧・・・
皆さんなにより喜んで受け取ってくれています。


野染め、すでに6個所で、てびらこつぎっこは3箇所で行いました。

明日は釜石・平田地区での野染め。晴れますように。




あったかい


私がかぜひいて、熱を出すより、
まだ海の中にいる人こそ、
早くあったかいとこへ行かせて、
体を休ませたいよ。
私は、生きているから、大丈夫。
早くあったかいとこへ行こう!


<海をうらまない>佐藤啓子著 より



障がい者ケアホーム希望(山田町)で野染め、てびらこつぎっこを一緒にした佐藤さん。
無口でニコニコしている人が書き綴る言の葉。ただひたすら胸に迫る。
| 次へ