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善気山遊びの寺小屋 [2011年07月30日(Sat)]

京都・鹿ケ谷・法然院の境内に身を置くと、幾重にも重なる自然の音に,わが身も溶け込んで行くような心地よさをいつも実感します。寺の庭と山との境が見事に融通(ゆづう)し、ここを棲みかにしているムササビやアオバズクも、山から来て境内の池の周りの木に卵を産みつけるモリアオガエルも、どっこい生き伸びているコモグラも、本堂の餅を失敬しにくるニホンザルの親子も、里から登ってくるヒトも、ヒグラシの鳴き声と重なる晩鐘も、解け合って違和感のない時間が流れます。
そして毎年この時期にはその音たちに人間のこどもたちのさまざまな声が加わり、自然の音がより豊かになるようです。
善気山遊びの寺小屋〜おてらで なんか やったはる〜 は、そんな空気の中で、おとなとこども、寺と人、山と里が集うなんともぜいたくなプログラム満載の4日間なのです。




蝉しぐれの中の野染
染めた布の一部を<てびらこつぎっこ>作りの為に、いただきます。





4年前からこの「寺子屋」で作り続けている
<お寺の森の生きものキルト>





お針箱を作って届けてくれた二人




このお針箱たちも含め計60セットとうちわ60本、青木萬里子さん(国際あやとり協会会員)からいただいた、あやとりセット40本を、
川崎フリースペースたまりば に遊びに来る福島のこどもたち60組に手渡してもらうよう発送いたしました。

キルトの輪 [2011年07月28日(Thu)]
今日は午前中から風工房に〈クレエの輪〉の人たち5人がワイワイと集まり、お針箱セット作りや、てびらこつぎっこをしました。





私たちがお気に入りの小さなギャラリーが京大病院の北辺りにありました。何よりそこのオーナー・文子さんの人柄に魅かれて、たくさんの素敵な作家やファンがいつもよい感じで集まるギャラリーの名がクレエ。文子さんはすぐれたニットの作家でもあり、冬の前にはだれでも夢中になるような美しいリースをたくさん作る人でした。


南三陸町の避難所に送ります。縫い継いでいってくれますように。




いつもとびっきりの笑顔の文子さんが、ふっと突然亡くなられ、私たちは何かたまらなくなって暫くは、集まることも出来ず彼女の面影ばかりをそれぞれが追っていたような日々が続きました。やがて彼女のメモリアル・キルトを作っていこうと、今日集まった人たちなどが中心に動き始め、そのギャラリーに縁のある人たちのもとを訪ね歩き、一針一針縫っていくような旅が始まりました。もう一度それぞれが出会い直していくような作業でもありました。それが〈クレエの輪〉という名の集まりとなりました。



今日出来上がったお針箱



メモリアル・キルトを縫うということの意味は一言では言えないと思います。ただ懐かしんでいるだけではない<やむにやまれぬ思い>がそこには必ずあるということは確かだと思います。

エイズ・メモリアル・キルト運動のルーツのひとつでもある、優れた社会活動家でもあり、同性愛者でもあったハーヴィー・ミルクさんのことや、南米チリのあのピノチェト独裁時代に女たちが作り、それが独裁を打倒する大きな力となったアルピジェラ運動のような、悲しみ、怒り、救いの物語としてのキルトのことも、いずれお伝えさせてもらえればと思います。




三室戸保育園のこどもたちの野染にアップリケされたてびらこ
京都造形芸術大学の学生さんたちが縫ったものと一緒に、釜石・平田地区の仮設住宅に送ります。


もう一人、お針箱作りを丁寧に続けておられる方を紹介します。
辻畑照代さん。 こちらからの呼びかけに、打てば響くように答えて下さり、いままで大切にお付き合いしてこられた彼女の友達たちにも伝え広げてくれて、まるで手紡ぎ手織りをするようにこのプロジェクトを進め、支えてくれています。その作業の様子を彼女の便りからお伝えします。


篠笛奏者でもある辻畑さんの繊細な思いが一杯詰まっています



釜石・平田地区の仮設住宅に、お針箱65セットと布、うちわを、宮城の南三陸町の避難所にも35セットと、布、うちわを送ることが出来ました。

ありがとうございました。
山川草木悉皆成仏 1 [2011年07月26日(Tue)]
赤松 桂 という友がおります。

CANON のIXYという小さなデジタルカメラを片手に、武蔵野辺りを徘徊しては、おもに花を視つめ、言葉を探し続けている人です。
高校時代から付かず離れず、しかし深く影響しあいながら来た間柄です。
彼は、時折その<作業>を、限定した友人たちにPCを通じ伝えてくれます。受け取った者も、その感想を言葉として還すという<作業>を重ねてきました。


私が今回のような動きを始めて暫くして、次のようなメッセージが届きました。



臨界の 海へ放たむ 白き蝶


私がこの間の旅を通じて与えられたイメージ「蝶舞ふ海」

papillon.pdf
の返歌と、捉えています。


私も彼も広島、長崎の原爆投下後、暫くして生まれ、戦後と呼ばれる時代を生きてきました。そしてこの福島での原発事故。
これからを生きるこどもたち、そして、いきとして生きる動物たち、草木、大地、海、空さえも<原発後>を、否応なく生きていかなければなりません。このような事態を結果的に引き起こしてしまうような社会を、私たちは66年に亘り選び取り、もしくは阻止せんとする力も及ばず、いわゆる〈平和〉を享受してきました。


滋賀県知事・嘉田由紀子さんが「卒原発」という言葉を発しました。原発的なる社会を私たちが選び取って生きてきた戦後という時代の卒業式を、深い悔悟と決意を刻みながら、今私たちの手で執り行わなければならないと思っています。


7月22日に<2011 夏の花> と題された連作が、赤松桂から届きました。今までこのような直截な社会的メッセージを作品にすることはあまりなかったので意外でもあり新鮮でもありました。今回の出来事が彼の精神や肉体に、少なからぬ深刻な影響を与えているのではないかということは、3・11後に体調を崩し入院をした辺りからの彼の言動から感じていました。

彼の放つ言葉と写真を、彼の了解を得て当ブログにて2回に亘りお伝えしたく思います。



2011 夏の花




たばしるや 白いダリアの 放射線





山川草木悉皆成仏 2 [2011年07月25日(Mon)]



あぢさゐの プルトニウムの 青匂ふ





鈍色(にびいろ)の ストロンチウム 薔薇の色





セシウムを 真紅に染めて 立葵





むらさきに 木槿(むくげ)の ヨウ素 朽ちゆけり





めくるめく 体内被曝 虞美人草





2011年3月11日、宮城県沖で発生した巨大地震とそれに伴う巨大な津波で、福島第一原子力発電所は崩壊した。その結果引き起こされた放射能汚染は、その範囲と深刻さにおいて、我々の想像をはるかに超えるものとなっている。

この放射能汚染は今までの事例と決定的に異なっている。すなわち、広島、長崎に投下された原子爆弾、又、第5福竜丸を象徴とする核実験による被爆、大気汚染、あるいは、スリーマイル島、チェルノブイリ原発事故による放射能汚染に対しては、我々は被害者の立場を取り得た。

しかし、今回の福島原発事故はその規模の深刻さ、広大さにおいて、我々は間違いなく加害者の立場に立たざるを得ない。それは原発に対して、積極的に推進、応援してきた人間も、容認、黙認してきた人間も、反対してきた人間も(原発を阻止できなかったという意味で)、それぞれの立ち位置において、この問題と向き合わざるを得ない。これは我々、日本人が世界的、歴史的に初めて問われる事態である。

だが、今、人々の関心事は放射能汚染の、人間に対する影響に集中している。確かに、今までのデーターがあまりにも少なく、情報の信ぴょう性の根拠が疑われているため、その不安は拡大するのみである。しかし、この放射能は、我々人間だけではなく、海や山、大地や空気までも例外なく汚染していく。

あきらかに、人間は有機的自然物であり、外的な有機的自然との関係において存在している。言い換えれば、自然の一部として存在しているにすぎないのだ。人間は放射能汚染を計測することができる。人間は放射能に汚染された土地から逃げることができる。

しかし、そこに生息している動物、植物は危険を察知することもできないのかもしれない。仮に、危険を察知できたとしても、植物はその場から離れることはできないのだ。植物は放射能に汚染され、遺伝子にその影響が刻印されていく。その結果、どのような生態系の変化が起きるのか。全くそのことに関しては解明されていない。言葉を持たない動物や植物の立場に立って、彼らの声を代弁することは誰にもできない。だが、貧しくとも想像力を働かせることはできるはずだ。その想像力こそが、今までの人間中心の発想から生まれてきた「原子力発電」からの訣別を可能にしていくのではないだろうか。

又、暑い夏がやってきました。この情況をテーマに写真と言葉を選んでみました。直截な御感想をいただければ幸いです。     桂






集まる [2011年07月23日(Sat)]
台風一過、涼やかな一日。


宮古と釜石の支援学校からお便りが届きました。




宮古恵風支援学校からは懐かしい絵日記
紙の上でもみんな野染をしているね




       

 釜石祥雲支援学校での野染(6/14)と、届いた手紙。
陽の光のような字とコトバ






そして、仮設住宅の<のれん用>に浴衣地がありましたら送って下さい
との呼びかけに、なんと届いたのは、力士浴衣!元気が出る!!
浴衣は北海道から、うちわは宇都宮から






京都造形芸術大学の染織テキスタイルコースの学生さんたちが集まり
てびらこつぎっこの会



7月21日は、何かみんなワイワイと集まってくる一日でした。



ヒトノカラダ [2011年07月20日(Wed)]

過酷な闘病を続けておられる、仙台の加藤さん(蝸牛庵日乗)から、命を振り絞るようにして、大切なヒントに満ちたメッセージが発信されています。 どうか皆さんに伝えてください。



               
木村正樹さんの作品 
      ℂ Steve McCurry / Magnum Photosを複写
ART SPACE NIJI ノアの箱舟「私の場合」展より 2011 6/14〜19 
   

                        
原発を推し進めている側から発せられるメッセージには、個人(わたし)が見えない。そこから人間の発露としての作品は、存在しえるのだろうか。

広島と長崎の原爆後から、魂の底をノックしてくるような数限りない言葉や、絵画、音楽が無数の個人から表出してきたけれど、核兵器を容認している側からはどんな作品が生まれたのだろうか。





私は私を信じていない。小さなごまかしや自己正当化。そしていつも大切なところで自分を裏切ってきたように思う。世の中にはそうでない人たちもたくさんおられるともちろん思う。
でも、原発のようなちょっとしたミスでも致命的な結果を引き起こすような代物を扱っている現場で、私のような人間がいないとは限らない。今、福島で起こっていることはどうみても、人という存在の愚かしい営為がどうしようもなく重なっていった結果であることは間違いないだろう。

この原発のとんでもない事態により、土も空も水も人も木も、人以外の動物も、軋み、汚れて悲鳴を上げているその根本は、人(わたし)の愚かさから来ているのではないだろうか。
そのことを直截に視つめ、そこから言葉を必死になって探し、その先に居丈高ではない、ヒトノカラダのような施設をデザインし、欠陥だらけの人間(愚者)でも動かしていける、いざという時の痛手が最小限に踏みとどまれる様な、懐の深い電力システム・作品を作っていくというのは夢物語だろうか・・



              同作品展より  木村正樹 作


読売新聞 7月21日(木)23時19分配信
21日の東京株式市場で、東京電力株は急騰し、終値は前日比81円(15・9%)高の590円と、3月28日以来約4か月ぶりの高値水準となった。6営業日続伸で、取引時間中には一時、597円まで上昇した。出来高は約2億7671万株で、東証1部全体の15・3%を占めた。
福島第一原子力発電所の事故収束に向けた新工程表が発表されたことへの好感に加え、原子力損害賠償支援機構法案が成立すれば、巨額の賠償支払いによる経営破綻が避けられるとの見方から、買い戻しが続いている。



コンチキチン [2011年07月16日(Sat)]
 今日は祇園祭宵山。

京都の夏の暑さは、まるで鍋底で芋の煮っ転がしにでもなっているよう。
それが宵山ともなると何十万人もの人たちがどっと繰り出し、芋の子を洗うような濃密な夜となる。狂おしい祭りの夜こそ、何か京都の底知れぬ力が露わになるように感じます。猛暑はなくてはならないこの祭の装置のようなものかもしれません。

鉾町では、旧家が玄関を開き、由緒ある屏風などを、祭に集まった人たちに公開してくれます。いわばこの一時来るもの拒まず、結界が解け、内と外とが溶け合っていきます。
敷居が高そうな京都の町屋の、これもこの時期だけの何とも憎い装置なのだと思います。



                 我が家のジャッキー


私たちがこのたび廻った、三陸の被災地。あのような出会い方は、普段の生活ではとてもないだろうな、というようなことが何回もありました。
たとえば、避難所に入って行って、今まで縁もゆかりもない人と出会い、お針箱のことをお伝えしていくと、次第にその人の家族のことや、今までの生活のこと、そして本当に辛い話まで語り合うまでになることは、日常にはあまりないことだと思います。
野染にしてもお互いそれなりの準備を重ねて実現していくものですが、初めてであったボランティアスタッフに「それでしたら明日やってくれますか」(大槌の避難所)と即決で決まってしまう。
<だれも鍵をかけていない社会>が一時存在しているような、そして同じもの<いのち>を見つめあっているような社会がある。それはとても不思議です。

阪神淡路大震災の3日後、友人宅を訪ね歩き、疲れきって深夜の道を一人歩いていた時、後ろからなぜか、空(から)のバスが、まるでトトロの猫バスのように近づいてきて、なんと私のところで止まったのです。びっくりしている私に向かって「どこまで行くんや?乗っけたるわ」と運ちゃん。5キロ近い道を私のためだけに、新しい路線を即席に作り走ってくれたのを思い出します。それも無料で。


3・11以後、数限りない奇跡のような出会いが至る所であったんだろうなと思います。慈悲に満ちた〈逸脱〉や〈無法〉のようなことが、命の淵を歩いている人同士を救っていった現場を想います。






今日も、炎天下の中、宅急便のお兄さんがお針箱を届けてくれました。
送って下さった皆様、ありがとうございます。
釜石・平田地区の仮設住宅に向け、送らせていただきます。










報告 [1] [2011年07月12日(Tue)]
今まで二回、東北の被災地を巡りました。
その様子は、このブログにて随時お伝えしてきましたが、ここで報告書という形で三回に分けてまとめ、次の段階に向かいたく思います。今までと重なる文章や写真があると思いますがお許しください。佐田芽衣さんの報告(当ブログ・ここから5 岩手に行って、岩手が好きになった)も合わせてご覧ください。

初めて被災地へ
2011年4月の末から5月にかけて一週間、東北(いわき・相馬・仙台・盛岡・遠野・釜石)を巡りました。
3月11日の後、自らの足元が揺れ続けているような、どこかとても心身共に気持ちの悪い状況がいつまでもあり、生業としての染物も手つかずの状況が続いていました。阪神淡路大震災の時も3日後に行ったのですが、それは被災地に多くの友人が住んでいて、安否が分からず、居てもたってもいられなかったからでした。もちろん今回の被災地にも何人か知り合いは住んでいましたがあの時とは何か質的に違う動機によって体が突き動かされているように感じていました。それが何であったのか今でも言語化できないところがあります。でも今回の複合巨大災害によりわたしの体の一部が欠損してしまったような痛みを、より感じていたのは確かだったと思います。変な話ですが、その感覚を現地に行くことによりさらに確かにしなければいけないとなぜか思いました。もうひとつこの4月の満月の夜に初孫が誕生したことも多少ならず、後押しされていたのかもしれません


なんのために
旅の目的を二つに絞りました。一つは被災地で私のような物作り(クラフトなど)をしている作家の、京都のギャラリーなどでの発表の場が出来ないだろうか。被災地の作家マップと京都のギャラリーマップを重ねるようなイメージ。とりあえず行き、ネットワークを持っている各地のキーパーソンの方々と会い、話を聞くところから始めようと思いました。
目的の二つ目。私は24年ほど仲間たちと共にエイズ・メモリアル・キルトに関わってきました。社会的差別の極みのような状況の中亡くなっていった人のため、家族や友人が集まり一枚の布を取り囲んでその人にふさわしいデザインを考え、偲び、慈しみ合いながら縫い上げてゆく作業が、残された人たちの悲しみを共有しあい、受容し、乗り越えてゆく時間と場所を豊かに作っていくことを私たちは経験してきました。
この大災害の中で一瞬のうちに失われた命(動物なども含めて)を思い、身近な人たちが集まり布を囲んでメモリアル・キルトを縫う作業は、たとえば、やがて仮設住宅などで孤立していくであろう人たちにとって、とても意味のある時間と場所を作りだしていけるのではと思いました。
いずれにしろ、まず行くこと、見ること、話すことから始めようと動いたのがこの旅でした。



AIDSメモリアル・キルト サイズは世界共通、90p×180p 日本で言うとちょうど畳一枚分、人一人が横たわれる大きさです。このキルトはHIV/AIDSにより今まで亡くなったすべての人たちに向け何十人の人たちが自分にとっての思い出の布(ブルーの布)を持ちより、風工房に集まり、一針一針縫い上げていったものです。40人ほどのこどもたちも参加しています。個人に向けたキルトには、その人が来ていた服や、好きだった趣味の数々、愛した犬猫などが縫い付けられたりもしています。


出会った人々
いわきでは陶芸家野口孝寛さんの家に一泊お世話になり、いわきアート集団の代表の吉田重信さんとそのメンバーが集まる会に参加し、仙台では、こどもたちが必ず持っている<ものを創り出す力>を引き出す作業を長年続けているBe-Iの関口怜子さん、クラフトの良い作家が集まるギャラリー蒼の森美枝子さん、そして市民によるさまざまな分野での広いネットワークを創り出してきたカタツムリ社の加藤哲夫さん、盛岡では美術集団の事務局をされている岩手大学の種倉紀昭先生、<てくり>という雑誌を媒体に岩手の作家を丁寧に紹介されている、〈町の編集室〉の木村敦子さんなどとお会いし、それぞれの方たちから貴重なアドバイスをたくさんいただきました。


そして最後に三陸のボランティアの拠点〈遠野まごころネット〉を訪ねました。そこではがれきの撤去や泥だしなどの活動のほかに、神戸の被災地NGO恊働センターが中心になり避難所での足湯ボランティアやタオルを素材に<まけないぞう>作りなどを続けておりました。
特に私が興味を持ったのはそのまけないぞう。皆夢中になってチクチクと縫っていて、その時間が豊かな語りあいの場所を作っているとのことでした。出来上がったものは支援者に買ってもらい、いくらかの現金収入にもなります。そのためのタオルや縫製道具が足りないとスタッフの方はおっしゃっていました。やはり布を縫うということの持つ力がこの厳しい環境の中でこそあるのだという確信を持ちました。そこではずっと担いで持って歩いていたエイズ・メモリアル・キルトを見てもらったところ、確かな共感を得てくれました。




          大槌町の小さな避難所にも<まけないぞう>が


京都に帰って
この旅から帰り、まず京都のギャラリーのネットワークの中心におられるであろう方や、お寺を社会に向け広く開いているご住職の方などと会い、被災されたアーティストの発表の場を作っていく具体的な方策を相談をしました。それぞれの作家、それぞれのギャラリーの姿勢も大切なものとして当然あり、即具体的な動きにしていくには乗り越えないといけないハードルがいくつもあります。まず大きなスペース(芸術センターや公共のホールなど)で被災地の作家展を開催し、そこで作家とギャラリーが出会っていくような形から始めたらどうだろうかなどのアイディアが出ました。しかしたとえば陶器の作家の中には窯が壊れている人が多く、余震が続く中で、作り直すのもままならない人もいます。また津波の直接的な被害にあわれた方たちは、作品も流され、基本的な生活が壊された人がほとんどで、作品展どころではない状況です。この間被災地と行き来している中で少し見えてきたのは、小さなコミュニティ同士の直接的な交流が大きな意味を持つのではないかということです。ギャラリーとギャラリーが美術館と美術館が繋がっていくことは今まででもありましたが、これを機会に意識的に形を作っていくことの意味はあるなと思います。
さまざまな課題を残しつつまだこのことに関しては具体的には今は動けていない状況です。
発表の場があるということは物作りをしている人たちにとって希望ですし、生活を支えるための基盤ですからどうにか知恵を出し合っていけたらと思います。


お針箱・布を被災地へ
この旅から帰ってすぐ、〈針、糸、ハサミ、針山、布を被災地へ!〉という呼び掛け文を作り知り合いに発送しました。お針箱を持って逃げる人はまずいません。支援の物資の中にもそのようなものは少ないと聞きました。当初は命を支えるための食糧、寒さから身を守る毛布や衣料、薬などが必要です。避難所生活が長引いてくると、やはり与えられたものをいただくだけの生活は精神的にもきついものがあります。自分の好きな食材で料理もしたい、好みの服も着たいという人間的な思いは当然出てくると思います。特に創造的な作業をすることはとても大きな意味を持つと思います。まけないぞう作りが人気なのはそのことをよく示していると納得しました。その呼び掛けに多くの人がすぐ反応して下さり、各地から続々と縫製道具や布が集まり、連日ボランティアが整理、お針箱作りに追われました。また、郵送代や交通費などに使って下さいとご寄付も送られてきました。




蝶のキルト・てびらこつぎっこそして野染
いわきの浜、30キロ圏内の無人の街、相馬港、相馬から宮城に向かう国道6号線から右手に延々と続く今まで見たことのない光景、歩けないほどの強風の中廻った釜石の町、そして、その海に至るまでの里山の、森の、無数の緑と溢れる光など、体に刻まれた風景。
釜石で出会った津波後3日目に生まれた赤ちゃんの輝き、いわきの現代美術作家・吉田重信さんが話してくれた<銀河鉄道の夜>、その後彼が京都のギャラリーで発表した臨在の海というタイトルの白い菊を千本使ったインスタレーション、闘病中の加藤さんのベッドサイドで話したメモリアル・キルトや原発のこと、偶然に出会った大船渡の支援学校の養護教員の方の<あのときの話>などが重なり合い、私の中で浮かび上がったのは、なぜか蝶のキルトのイメージでした。

蝶は今は浄土におられる人や動物たち。臨在の海を前に必死に生きようとしている人たちと共に、蝶を縫っていけたらと思いました。それがその後の旅で見つけた言葉、てびらこつぎっこにつながっていきます。てびらとは南部言葉で蝶々のこと、つぎは布のこと。



 造形大での野染、この日はあいにく雨、残念ながら室内ですることに


私はこの一学期だけ、京都造形芸術大学・染織テキスタイルコースの講師としてかかわりました。被災地を巡る旅から帰ってすぐ、5月の半ばに3時間ずつの授業を6プログラム担当しました。最初の授業では長い布を張り刷毛をそれぞれが持ち、人が染めたうえでも委細構わず、一斉に染め重ねていく〈野染〉をしました。この野染めもメモリアル・キルトと同じく24年ほど続けている私のライフワークです。
それを染めた後、この布を被災地にもっていきたい。そしてメモリアル・キルトのベースの布として手渡して行きたいと、学生たちに伝えたところ快く承諾してくれました。その後そのゼミの11名と野染の布の上にそれぞれが持ち寄った白い布で11匹の蝶々をそれぞれの命の象徴として縫い付けました。

報告 [2] [2011年07月12日(Tue)]
岩手・花巻へ  6月11日
15:00 拠点となる花巻・東和の小原宅へ到着。東京から参加の澤畑勉・明見夫妻と合流。澤畑勉さんは、世田谷の児童館職員(現在は退職)などを続けながら、30年にわたり冒険遊び場(プレーパーク)作りを全国に広げ、10数年前からはこどもが電話を自由にかけることができ、思いのたけを話し、それをたっぷりと受け止めて聞くことができるおとながいるというチャイルドラインを仲間と共に立ち上げ、現在は全国に70以上の窓口を開設するなど、つねにこどもの側に寄り添い、<こどもとゆく>ことに徹した幅広い活動をしている人です。
一週間、5人がお世話になる小原尚子さんは東京で40年間福祉の仕事を続け、退職後故郷の花巻に戻りゆったりとした生活を始めた、私の古くからの友人です。被災現場に通う毎日、疲れた体をゆっくりと解きほぐしてくれた本当にありがたい存在でした。支援者を支援することに徹してくれました。
その夜は、小原宅にもたくさん届いていた布やお針箱を整理しなおして明日に備えました。

遠野、そしてたいまぐらへ  6月12日
宿泊先の東隣の町、遠野へ。三陸沿岸へのボランティアの拠点、遠野まごころネットを訪ねる。そこで震災直後より入り、まけないぞう作りの中心のスタッフをされている神戸の被災地NGO恊働センターのメンバー増島智子さんに合い、アドバイスをいただきました。
震災から3カ月がたち、各避難所の様子も変わってきて、今は徐々に仮設住宅に移り始めている時期。これからは、それぞれがバラバラになっていくことで孤立化し、孤独死などを注意していかなければならないと、阪神淡路大震災をも経験した増島さんの言葉は説得力を感じました。また被災地が広範囲に広がっていて、中央から遠く離れている岩手にはボランティアの数が足りずこれからのことを心配していたのが印象に残りました。今フォローできている被災地は大船渡、釜石、大槌などの大きな町で、その間の集落には殆ど行けてないことも話してくれました。また、まけないぞう作りは大変な人気で皆夢中になって作っているとのことでした。
その話を伺い、これから私たちは出来るだけ小さな集落を巡っていこうと決めました。



             森の暮らし たいまぐら便り


その日、私たちは大切な方と出会いました。 たいまぐら(アイヌ語)という遠野から宮古に抜ける美しい山間の集落に住む阿部智穂さん。その地域は震災の影響は少ないところで、質の高いクラフト作品を作っている人達が住むところでした。阿部さんは草木染の作家、おつれあいは木桶職人で素晴らしいお櫃を作っていました。住む家、家具、、器、道具、そしてその空気まで慈しんで生活しているような方たちでした。阿部さんは、震災後その山から海沿いの田老町や山田、吉里吉里などの避難所に通いチクチク縫う時間と場所を作っている人でした。布の力、縫うことの深い意味、そこで交わされる会話や言葉の豊かさを、本当に実感している人であることがすぐわかり合い、共感しました。あの蝶のキルトや、エイズ・メモリアル・キルトも見ていただくと、深く直感してくれました。みんなにも見てほしい。そして作っていきたいと言ってくださいました。布を2箱、お針箱を60セットほど託しました。それらはすぐ被災者の方たちの手元にすべて届き、一つも残らなかったと伝えてくれました。
明治、昭和とこの近代でも二度にわたる大津波を経験した三陸海岸、その都度しぶとく立ち直ってきた海の民の背後には、豊かな森にすむ山の民の力が強くあったのではとふと想いました。今度の平成巨大津波でも、山の力が大きな役割を担っていくのではないかと連想しました。今秋9月13日ぐらいには彼女の通っている田老町で野染めができそうです。
こらからも長くゆったりと繋がっていきたいと思います。


平田・唐丹そして大船渡へ 6月13日
初めて訪れた避難所が釜石の南に位置する平田地区。旧釜石商業学校平田校舎の体育館が避難所に、そして校庭には仮設住宅がほぼ出来上がっていて、入居が少しずつ始まっている状況でした。避難所の中は皆どこかに行っているのかまばらで、閑散としていました。
一番奥に年配のご夫婦が座っておられたので話しかけました。「お針箱を持って来たのですが必要でしょうか?」するとその奥さんの顔がみるみる内に変わり、「お針箱ほしかったんです」とおっしゃられました。後でわかったのですが、この方は若い時から洋服のオーダーの仕事をしていたとのこと。家は800メートルほど流されてしまったけど、ミシンだけが潮に浸かってはいたけれど残されていたとのことでした。そこで受け取ってくれたお針箱30セットほどと布は避難所にいる方たちで分けられと後に聞きました。その後、仮設が当たり今はそこで住まわれているとお葉書をいただきました。
仮設には200世帯近くが入居します。その人たちにはお針箱は行き届いていません。いずれ100セットほどと布をまとめて送ろうと思います。仮設には必ず談話室があります。そこであの縫うことが身に付いている人などを中心に味気ない仮設の部屋を自分色に彩る布作品を作ったり、蝶のキルト・てびらこつぎっこをみんなで縫い、豊かな喪の時を作っていってくださればと願います。
また次に行ったときはみんなで野染めが出来ればと思っています。



      平田からさらに南の小さな集落・唐丹の仮設住宅にて


唐丹を後にして、大船渡へ。
5月に信州の友人の葬儀の席で、大船渡にある気仙光陵支援学校の養護教員をされている方と偶然に出会いました。浄土に行かれたその友が引き合わせてくれたように感じました。震災後、障がいを持っているこども達のことがとても気になっていた私は彼女の話を聞き胸が締め付けられるような気持ちになりました。みんなで野染をしましょう、楽しい時をいっぱい作りましょうと約束をしました。その校長室には、小、中、高校の先生たちが集まっておられました。学校は津波からは遠い場所にあり無傷でしたが、生徒や職員の家や、家族には深刻な被害を受けている人が数多くおられることを聞きました。今秋の9月15日に全校で野染をすることが決まりました。ここでもお針箱セットと布を受け取ってもらいました。今その布を使って高等部の生徒たちがパッチワークに挑戦しているという嬉しい便りも届きました。

この日の最後に、この支援学校の同じ町内にある「うさぎのしっぽパッチワーク教室」をされている熊谷和子さんの所に伺いました。私たちの動きを知り何かお手伝いできればと事前に連絡をくれていました。30数人おられた生徒さんが今では7人になってしまったこと。布を卸してくれていた店のご家族4人全員が流されてしまったことなどを話してくれました。かわいいアトリエの中には悲しみがいっぱい詰まっているように感じました。
支援学校のことを伝え、子どもたちとこれから何か一緒に出来ることを考えていきましょうと話しました。ここでもお針箱と布を受け取ってもらいました。 

釜石の風を染める6月14日



釜石祥雲支援学校での野染。幸いこの場所までは津波は来ていませんでしたが、もちろん少し話を聞いただけでも家を流された職員の方や、身近な人たちを失っている人もたくさんおられました。周辺にはいくつもの避難所があるとのことでした。こじんまりした学校の中庭が野染め場。天気が怪しい。まず小学生たちが染める。染める布は愛知県から送られてきた晒し木綿をつなぎ合わせたもの。こちらの説明を聞くまでもなく鹿刷毛を握りはじけるように染め重ねてゆく。色と色が重なり流れ溶け合う。やがてピカピカの光がさし、青空が広がる。次は中学生。さすがの落ち着きの中、見事な染めが完成。笑いと歓声の中の野染が終わりました。ここでもお針箱と布をお渡しできました。秋にはまた来る約束をしました。



晴れ晴れとした野染の後、すさまじい被害の釜石の町を抜け、町のほとんどが流された大槌町へ。被害の無かった山寄りにある共同作業所「わらび学園」を訪ね、お針箱と布を受け取ってもらいました。

再び大槌町へ  6月15日
大槌町は、主だった行政の幹部が津波などの災害対策会議をしていたまさにその時に大津波が来て全員が流されてしまったとのこと。町の行政をはじめほとんどの機能がなくなってしまったすさまじい被害にあわれたところでした。総合体育センターの弓道場が避難所になっていました。ここには遠野まごころネットが作ったまごころ広場がありました。
避難所だけでは息が詰まってしまいそう。ちょっと息抜きできるカフェのような存在はとても大切だと思いました。また被災者だけでなくボランティアや自衛隊の人などとの交流の場ともなっていてとても可能性を感じる場でした。
ここで急遽、野染をすることになりました。いつもこどもや女の人が多い野染ですが、ここでは年配の男の人が一生懸命染めていたのが印象に残りました。私たちの布を中心とした活動はどうしても女の人が関わりやすいものです。仕事を失った働き盛りの男の人も多く、その心情を思うと、何とも苦しいものがあります。野染に夢中になっているその背中を見ながら、男が元気を取り戻すような力強い支援策が早急に必要であることを強く感じました。
野染めが終わってしばらくしてこどもたちが学校から避難所へ帰ってきました。まごころ広場にやってきた何人かのこどもたちの表情がとても気になりました。普段私たちがこどもに対して感じることのない沈んだ空気と何か話したいような表情。想像を超える出来事があったのだと改めて思いました。こういう時こそ国が集中してスクールカウンセラーなど送り込めたらとも思いますが、もともとそのような力を蓄えている国ではありません。だからこそ大学生などがこぞって被災地に向かい、危うい状況にある、特にこどもたちのそばで踏ん張っていくような大きな流れが出来ないものかとの夢物語のようなこともつい想ってしまいました。
蕨打直集会所へ
子供の様子に後ろ髪をひかれる思いで、小さな避難所にいきました。
ここは前日行ったわらび共同作業所の分園が流されてしまい、その関係の人たちが10数人避難されているところでした。亡くなられた方たちの写真が飾られた部屋で、澤畑明見さんが持ってきた「魔法の一本針」で即席のワークショップをしました。まごころ広場でも指だけで作れるバッグの編み物の即席講習会をした明見さん。やはり手を動かす時間は特別な力が湧いてくるようで、すぐみんな夢中になります。
京都造形芸術大学の学生たちが染め縫った〈てびらこつぎっこ〉はここで手渡され縫い繫いでいくことになりました。


報告 [3] [2011年07月11日(Mon)]
宮古の風を染める  6月16日

花巻・東和を東へ走り、遠野あたりから、いったん北へ山道を行く。岩手の山河がこれほどまで豊かであったとは!沿岸部のいつまでたっても慣れることがない凄まじい風景の背後にあるこんなにも美しい世界。その両方の世界を行き来する毎日は、やはり普通の感覚からずれていく。道は宮古街道に突き当たり、そこを東に向かい山田鉄道沿いに進むと又あの海に突き当たる。釜石とも大槌とも違う宮古の風景を右手に見ながらしばらく行った小高い場所に宮古恵風支援学校はありました。
この日は特別に晴れ渡り、深い青の空からこれも特別にキラキラした光が、あたり一面に満ちていました。
この陽のように明るいこどもたちとの野染めも特別なものになりました。






             楽しいこといっぱいしていこうな



           
         ここでもお針箱と布を受け取ってもらいました。

 
野染めの布と写真(データ)をお送りいただきありがとうございました。
皆喜んで、これから何を作ろうか?と盛り上がっておりました。
「おっちゃんが、いろいろと教えてくれたもののなかから何を作ろうかね。」
            「うーん」 
「たくさんの皆さんに見ていただけるような作品に仕上げたいね」
作品ができましたら、また、お知らせいたしますね。

         先日、名須川美智子 先生から届いたメールです。


陸前高田から気仙沼そして・・  6月17日

話には聞いていたけどこれほど被害が、広範囲に広がっているとは・・・
あちこちで水が引いてないところがあり、地盤沈下があるのかもしれない。
向かったのは陸前高田市の北東側の半島、広田町にある広田保育園。
そこで私達のたいせつな友、木島知草さんが座長を務める信州・松本を拠点に全国を渡り歩くがらくた座(といってもピエロンロンことタカヒさんとの二人だけです)が公演をするというので会いに行くことになりました。

波が防波堤を超え、目の前の家の屋根をも超えてくるのを見た園長先生や職員の方たちは、昼寝をしていたこどもたちを起こし、裏山の杉林のほうまで道のない斜面を必死になって逃げ、全員助かったと話してくれました。保育園の床上40センチまで海水に浸かったそうです。
今はもうすっかりきれいになった部屋にはたくさんのこどもたちが集まり、思いっきり声を張り上げ、ちいおばさんの巧みな人形劇にすっかり夢中になっていました。
辛い光景の中を辿り着いた私たちも、ホッとして、そして胸が熱くなりました。

木島知草さんは、人形劇を通じて、体のこと、性の事、エイズの事などとても大切なことをこどもやその保護者の人たちなどに伝えていっている、わたしの大好きなそして尊敬する<旅の人>です。チェルノブイリの原発事故の後には、現地に行きロシア語を暗記し、歯磨きの習慣のない免疫力の落ちたこどもたちに、人形劇でその大切さを伝えに行ったような人です。
人の悲しみを、その小さな体で丸ごと受け止めて、共に苦しむことのできる人です。
震災後は、福島に入り、原発で苦しむ人たちのところで人形劇をしていたといいます。




今私たちおとなが、こどもたちのために何ができるのか。
この旅を通じて突き付けられていた大きなテーマです。
やはり腰を据えて覚悟を決めないといけないことが確かにあります。
そんな悲壮感いっぱいのおとなたちを救ってくれるのもこどもたちの笑顔なんだとちいちゃんの舞台を見てまた教えられました。

広田保育園にお針箱と布を、ちいおばさんにもこれから巡業する保育園のためにお針箱と布を託しました。
またどこかの旅の空で会えるね。


旅の終わりは冒険遊び場

今回の旅の締めくくりは宮城県気仙沼の南、大谷海岸の山寄りに作られていっているプレーパーク・冒険遊び場。

訓練されたおとな(プレリーダー)の大きなコントロールの中で、こどもたちがこどもたちの責任において自分たちで遊び場を作って自由に遊ぶというこの活動は、さかのぼると1945年のデンマークにそのルーツがあるといわれています。日本では30年ほど前、世田谷の羽根木公園などからスタートし、今では全国に広がっています。実はこのプレーパークの仕掛け人が、今回一緒に旅をしたひげさんこと、澤畑 勉さんです。
そして被災地にこそ遊び場をと、世田谷をベースに鍛え上げられてきたプレリーダーたちが入り、この土地をこどもたちのために快く提供してくれた地主の方と出会い、曹洞宗からの支援で、スタッフは近くの寺を拠点に寝泊まりし、たくさんのこどもたちと生き生きとした場を作っておりました。




こどもへの支援はどうしてもおもちゃや本など、<もの>に集中しがちですが、もちろんそのような世界も大切ですが、このようなこどもの側から自分たちの空間を作り確保していく作業は、こどもだけへの支援にとどまらない、その地域の力を蓄えていくための大切な時間を作っていけるのではないかと、元気に遊びまわるこどもたちの底知れぬエネルギーを感じながら思い巡るものがありました。




これで、4月から6月にわたる旅のレポートは終了ですが
もちろん旅はまだまだ続きます。

9月12日から18日まで、また三陸を巡ります。
今度は野染中心の旅となります。
スケジュールが確定したらお知らせします。

お針箱はとりあえずこの7月いっぱいまで受け付けます。
その後様子を見て、再開することも十分あります。

蝶のキルト・てびらこつぎっこ は被災地以外でも作り現地の方たちにリレーして縫い繋いでいくことを提案します。

長旅になります。これからもよろしくお願いします。   斎藤 洋


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