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釜石の風を染める [2011年06月21日(Tue)]
6月14日 東和から遠野を抜け釜石へ。

岩手県立釜石祥雲支援学校での野染めに向かう

天候が晴れたり曇ったりで少し心配になる。山寄りの小川沿い、こじんまりとした学校の中庭が今回の染場。幸い、津波や揺れによる大きな被害はなくこどもたちや職員の方々も無事であったとのことですが、保護者の方や親せき友人などが深刻な被害を受けられたり、家を流された方たちも多いということでした。今回訪ねた場所はみな同じように、すべての人たちが大きなダメージを受けているといってよいと思います。
それは400Kmに及ぶ東日本太平洋沿岸に住む人たちに共通することなのではないでしょうか。(福島は論外!)
野染めの前に、控室で美術担当の千葉久美子先生に、エイズ・メモリアル・キルトと作りかけの蝶のキルトを見てもらいました。何かを伝えるための道具ではなく、作業をする時間や場所自体が優れたアートであることを感じて下さったみたいです。
中庭のほうがざわざわし始める。小学部のこどもたち18人がすでに集まっている。染めのおっちゃんや、国籍不明っぽいひげさん、太陽に光る頭を持っているぽこちゃんなどけったいなおおとなたちにも何やら興味津津。
いわゆる健常者のこどもたちなど比較にならないくらいの個性を持っている、いわゆる障がい者(この呼び方はなんとかならないものか)といわれるこどもたちとの野染めは特別に楽しく、そして心してせねばならない。
こちらのちっぽけな常識など、時としてものの見事に突破してしまうからだ。それに乗り遅れたら損だと思っている。それにはこちらが出来るだけ体と心をたっぷりと広げ解けておかないといけない。(これはダジャレを連発することの言い訳)
今回染める布は、幅85センチ長さ15メートルぐらいの木綿布2本。被災地支援にと蒲郡の方から送られて来た布をつなげて使わせてもらう。それをガリという道具で両端を挟み、地面と平行に宙に浮かせる格好で張り、竹の先に針がついた伸子という道具で布をぴんと伸ばす。バケツに水を張り、染料の原液を溶かし、それぞれ好きな色をワイワイと言い合い、作っていく。その前にやることがある。雲行きがにわかにおかしくなってきたので、そんなとき用のおまじない。みんなで太陽に向かって雨が降らないようにこぶしを突き上げ「おねがいしますだーっ!」と三回叫ぶ。20のバケツに20の鹿刷毛、それぞれ一つずつを持ち一斉に染めがスタート。



         染め祭りがどんどこどんどこ始まる。


体と体、色と色が重なり15分もしないうちに、見事な染めが出来上がった。そして皆が布を離れた後、たっぷりと色を吸った布の上で「染まるとき」が始まる。刷毛目が溶け合い、点が線となって流れてゆく。


そのあたりになると、例のおまじないのせいで、空はすっかり晴れ上がり、光に透けた色が鮮やかさを増してくる。そして最後の儀式。太陽に向かって「ありがとうございましただーっ」と三回こぶしを突き上げ、小学部の野染めは終了。
その後、もう一本を中学部のお兄さんやお姉さん9人がさすがの落ち着きで染め繋ぎ、釜石祥雲学校での野染めは終了となった。
まずは一時(いっとき)こどもたちも職員の方たちも、そして私たちも我を忘れて楽しめた・・かな。この布はいったん京都に持ち帰り、色止めをした後送り返すことになる。その布をではどうすうるかはこれからのお楽しみ。出来れば畳一枚分ぐらいは保護者の方たちや、地域の人たちも加わり一針縫ってもらい、大切な人や、動物や風景を想いながらキルトを作っていくような時間が出来ていければと願います。

次は大槻町でのお話です。


花巻→遠野→たいまぐら→平田→唐丹→大船渡 へ [2011年06月20日(Mon)]

旅は、緑溢れる物語の里から始まりました。

6月11日、早朝3:00に京都を出発、名神、北陸、常磐、東北、釜石道を辿り、岩手県花巻・東和出口に着いたのが、午後3:30。京都からは3人。40年来の友人、今はタクシー・ドライバーをしているポコちゃんこと寺元健二さん、京都造形芸術大学三回生の佐田芽衣さん、そして私。東和の道の駅で、東京からやってきた澤畑 勉・明見さん夫妻と合流。
JR釜石鉄道の晴山駅近くに住む、やはり40年来の友人、小原尚子さんが住む静かな村に着く。
地の野菜をたっぷり使った夕食、温かな風呂と、ふかふかな布団。今思うに、一週間、ここから海岸沿いの被災地に通い、重い疲れがたまった心身をほぐしてくれたのは、自分の役割を思い定めた小原さん(彼女は40年間東京で、障がい者などにかかわる福祉の世界にいた人)の優しく強い決意だったように思う。
その夜は 皆さんに送ってもらった布をもう一度すべて広げ、大きさや素材などバランスよくワンパックにして箱詰めする作業をして床に就く。今回用意できたのは、お針箱セット約420箱、布・段ボール12箱



6月12日 賢治の銀河鉄道のモデルといわれている釜石鉄道沿いの美しい道を走り、遠野まごころネットへ。<まけないぞう>作り活動を展開している被災地NGO恊働センターのスタッフ、増島智子さんを訪ね、今の状況などをお聞きし、アドバイスをいただく。
まけないぞう作りをしている避難所には、企業などからお針箱セットが提供されていて今のところ間に合っているとのこと。ただ、まだまだ入れていない小さな部落などの避難所がたくさんあること、阪神淡路大震災の時に比べ、メディアが当初、自粛を呼びかけた影響もあってボランティアの数がかなり少ない状況であることなど、話してくれました。

やはり私たちとしては、小さな避難所にダイレクトに行って、まず出会い、話していくところから始めようと決めました。

午後は、4月に来た時に電話だけで話したことのある、たいまぐらに住む、安倍智穂さんの所へ行くことにする。澤畑明見さんも阿部さんの書いた本を読んでいて是非会いたいとのこと。被災地・田老町の避難所で、チクチク縫う 場所と時間を作っている阿部さんの話を聞きたい、そして、たいまぐらという豊かな場所もぜひ見てみたいと向かう。
山の上にある広大な牧場を抜け、春蝉の合唱の中、宮古方面に下るとたいまぐら。
笑顔の素敵な阿部さんが待っていてくれました。



chihonote.exblog.jp 森のくらし・たいまぐら便り

旦那さんは、飯桶作りの職人さん。家や家具や道具、そしてそこの空気までが見事に美しい。そして手作りのヨーグルト!
布の力、縫うことの深い意味、そこで交わされる会話や言葉の豊かさを、本当に実感している人であることがすぐわかり合い、共感する。ともに旅をしていた造形大の学生たちが染め縫った、蝶のキルトや、エイズ・メモリアル・キルトも見ていただくと、深く直感してくれた。
みんなにも見てほしい。そして作っていきたいと言ってくださった。
まづ田老町に針箱と布を1セット、これから行くというあの吉里吉里町用に1セット、そして宇治の三室戸保育園の園児たちが染めた布を手渡すことが出来ました。


6月13日 釜石から大船渡へ

津波は、釜石駅まで来たという。駅の前には、あの新日鉄釜石の大きな工場。そこを通り過ぎると一気に壊滅した街に入る。初めてそんな光景を見た芽衣さん、ポコちゃんの様子が変わっていくのがわかる。
南に下がっていったところが平田(へいた)地区。がれきの町のバス停で降りたおばちゃんに、避難所の場所を聞き、旧釜石商業高校平田校舎へ。
避難所となっている体育館には人はまばら。一番奥に座っておられた年配のご夫婦に「お針箱と布を持って来たのですが」と話しかけると、「お針箱ですか!嬉しい!」と笑顔いっぱいになられた。話すうちに息子さんの家族が京都におられるとのこと。こんなことがあって、駆けつけてきたわが子の存在のありがたさが身に沁みたと、お父さん。
その息子さんの結婚式の写真が昨日、流された家のあたりから見つかったということで、見せてもらいました。
京都に帰り息子さんと話して分かったことですが、そのお母さんはずっと洋服のオーダーをやられていたとのこと、家は800メートルほど流されて、そこには海水に浸かったミシンだけが残されていたとのことでした。
何とも謙虚な、優しいご夫婦(坂本亀三・サトさん)で手渡した布も、自分が先に気に入ったものを真っ先にとるのではなく、みんなが帰ってきたら分け合うとおっしゃっていました。
その後もずっとお二人の事が気になり、数日後また訪ねてみました。その間に仮設の抽選がやっと当たったと喜ばれていました。でも案の定私たちが持っていった布は小さなものしか手に入れなっかったそうです。

みんな同じ形に作られている、味わいというものが皆無の仮設という住居は、辛いものがあります。せめてのれんやクッション、カーテンなどで自分の色,匂いを作っていきたいという思いはわかります。また仮設にはみんなが集まれる談話室のような公共の部屋が必ずあるので、そこで皆集まってキルトを縫うような時間が出来れば、孤立化していくことも少しはなくなるように思います。ご縁があったこの場所にある仮設にはこれからもずっと関わっていきたいと思います。



さらに南に行くと唐丹の集落がある。きれいなカーブを描いている湾が下に見える。巨大な防波堤がごろんと根こそぎ倒されていて津波の底知れぬ力を見せつけられ、唖然となる。
そこで出会ったおばあさんにもお針箱と布を渡すことが出来ました。隣の集落に住んでいて避難所生活をしていたけれどそこは閉所してしまい、困っていたところ空き家を提供してくれる人がいて今はそこで仮住まいをしているとのこと。ずっと海で仕事をしてきたけど、「今は海が憎い、今度津波が来たら山に逃げるのではなく浜に行く」と、涙ながらに話してくれました。
言葉がありません。友達の分にもとお針箱を受け取って下さったので、皆で縫い話す時間を持ち、少しでも心が安らぎ、立ち直る日が来ることを祈ります。



唐丹にも仮設が出来て、少しづつ人が入り始めていました。そこでも必要としている方々に手渡すことが出来ました。その日に仮設に来た人たちも多く、「あんたもおったんか」と、再会を喜ぶ人たちもおりました。


この日の最後に、岩手の一番南に位置する大船渡に入りました。以前ブログに書いた、あの亡くなった友人が導いてくれた気仙光陵支援学校を訪ね、小、中、高の生徒が参加する野染めの打ち合わせをしました。今年の9月の中旬にすることになりました。メモリアル・キルトの話もすることが出来ました。
38人の生徒と、15人の職員が被災されたとのこと。その数のお針箱と布一箱を手渡すことが出来ました。また三室戸保育園のこどもたちが染めた布を一枚託しました。

そして最後にお邪魔したのが<ウサギのしっぽパッチワーク教室>の熊谷和子さんのアトリエ。
パッチワークの専門誌に、今回の計画を伝え、被災地にあるキルトやパッチワークの専門家を紹介してくれないかとお願いしたところ、熊谷さんが何か出来ることがあればと名乗りを上げてくれたのでした。何と支援学校と同じ町内にありました。花いっぱいのアトリエでしたが、そのなかは悲しみが詰まっているようでした。
30数人いた生徒さんが今は7人になってしまったとのこと。パッチワーク用の布を委託してくれていた店の、家族4人全員が流されてしまい、当初はショックのあまり涙も出なかったといいます。何かしなければとの思いがあるけれど、体が動かない重い日々が続いていると話されました。
支援学校の事を話すと、自分にも何かできることがあればやりたいと、おっしゃってくれました。やはり熊谷さんも皆で縫って行くことの意味を深く知っておられる方でした。
ここにもお針箱と布のセットを託しました。

次は釜石などでの野染めの様子をお伝えします。
帰ってきました。 [2011年06月19日(Sun)]
今、京都に戻ってきました。

ヒゲさん、アケミさん、ポコちゃん、メイさん、
そして皆さんから送られて来た、お針箱や布たちとの一週間の旅の報告は、
出来るだけ早くお伝えするようにします。

とりあえず、皆無事に帰ってくることが出来ました。

ありがとうございました。


京都造形芸術大学の学生たちがが野染し縫いつけた作りかけのキルトを持つ、たいまぐらの安倍智穂さん(中央)とその制作にかかわった学生の一人、佐田芽衣さん 6・12


雨の陸前高田 走行中の車内より撮影 6・17



岩手県立宮古恵風支援学校での野染め 6.16



大船渡 うさぎのしっぽパッチワーク教室 6・13











 独活(うど)合える このすり鉢や 戦知る   大村あさ    [2011年06月09日(Thu)]


4月の終わり、福島市から相馬に向かい車を走らせていました。
コブシ、マンサクの目に染みいる黄。
梅と桜が同時に咲くのですね。
はじめて通る道。
東北の春の、美しさはこんなにも優しく、圧倒する豊かな色たちで満ちているのですね。

峠を幾つか越え、多分このまま下っていくと相馬の海。
胸がざわつき、確かにこの緑を覚えておこうと車を止め、シャッターを押しました。

相馬港・・に立った時の身のすくみを・・・その落差よ・・・・・



支援学校の子供たちとする野染めにと、高い染料を<見本伝票>として切って、使って下さいと持って来てくれた(株)佐野さん。
車を持たない私に、「無事に帰ってくれるだけで十分です」と無料で車を提供してくれた中央ホンダの池谷さん。
お針箱や布を送って下さった本当にたくさんの方々、配送費に、ガソリン代にと浄財を頂いた皆様。
ありがとうございました。

11日から17日まで岩手・三陸をめぐります。
帰りましたら、またこのブログにて報告をさせてもらいます。


ちいおばさん [2011年06月08日(Wed)]
ちいおばさんから電話があった。
「15,16,17日と陸前高田に行くんだけれど、洋さんと会えるかなあ?」

<ちいおばさん>こと木島知草さんは、松本に住み、がらくた座という一人人形芝居を長年やっている人で、日本各地を渡り歩き、人形劇を通じて、体のこと、性の事、エイズの事などとても大切なことをこどもやその保護者の人たちなどに伝えていっている、わたしの大好きなそして尊敬する<旅の人>です。
チェルノブイリの後には、現地に行きロシア語を暗記し、歯磨きの習慣のない免疫力の落ちたこどもたちに、人形劇でその大切さを伝えに行ったような人です。
1992年には仙台の加藤哲夫さんなどと一緒にワシントン記念公園での大きなエイズ・メモリアル・キルトのディスプレーにも一緒に行きました。
人の悲しみを、その小さな体で丸ごと受け止めて、共に苦しむことのできる人です。
震災後は、福島に入り、原発で苦しむ人たちのところで人形劇をしていたといいます。

そのちいちゃんが電話の向こうで泣いています。
陸前高田でちいちゃんの人形劇を呼んでくれていた以前からの知り合いの娘さんが、流され、遺体で見つかったこと。28歳で、おなかには赤ちゃんがいたということ。初孫だったとのこと。
そのおじいちゃんになる人は、夢中になってボランティアをやっていて、ちいちゃんから見ると、悲しみが深くて動きまわるしかないように見えると話してくれました。

陸前高田でちいちゃんと会う約束をしました。


 ちいおばさん自作のカレンダー 7月のページ


             今日は、98のお針箱を送りました。
チャコちゃん [2011年06月07日(Tue)]
皆で染めた布の上に白い蝶々を縫い付けている京都造形芸術大学の学生たち。この縫いかけのキルトは岩手の被災地で縫いつないでゆく。


チャコは北白川に住んでいて私たちの住まい兼工房は岡崎。
自転車だと下り坂ということもあって、10分もかからない。今日も、年季の入ったサイクリング車で颯爽とやってきました。彼女は私の連れ合いの高校の同級生。ピアノの先生をしていて、レッスンの合間に、各地から次々と送られてくる裁縫道具を種分けして、お針箱を作るボランティアをしてくれています。
実は彼女と私の連れ合いとは、高校卒業後、まったく出会うことなく40年弱過ごしてきたのだけれど、最近ひょんなことから再会し、そして今は毎日のようにこんな作業をしてくれている。
彼女だけではない。送ってくれた方への礼状は手書きにしようということになって、それを引き受けてくれたのも、卒業以来のマリコ。宇都宮のイモコも米子のイモリも、長野のチャイキも京都のペッタンも皆同級生。それぞれの思いを箱に詰め送り届けてくれました。

なんか不思議で、嬉しい。
辛い出来事がみんなを呼び寄せているんやね。

今日、花巻に向けてお針箱第一陣、とりあえず178箱送りました。これを受け取ってくれるのも、私の40年来の友達。これからの活動の拠点として受け入れてくれました。

明日の朝もチャコは、自転車でやってきます。
ほどけ、とけあう [2011年06月06日(Mon)]

 信州・白馬村の五月



国家という文字に付きまとう「家」。外国メディア紙上に日本国家が他国からの被災地支援に対する謝辞として選んだ言葉が「絆」。

リニア・モーターカーという巨大電力消費の象徴のような化け物を、この期に及んで東海道を走らせることを正式決定したという。リニア・モーターカーと原発はセットとして考えられてきたことは言うまでもない。そしてこの日曜日の京都新聞。国家戦略室素案として、原子力を重要戦略として位置付け、「世界最高水準原子力安全を目指す」と、原発推進路線を堅持する姿勢を鮮明にしたのが特徴と報じた。
そして、浜岡原発停止に踏み切ったこの国家の首相(もちろん彼に関しては言いたいことは山ほどあるが)を引きずり降ろし、<大連立>を組むという国家。そして国旗掲揚、君が代斉唱に際して起立しない公立校の教職員は免職にするというこの国家の司法。

絆の語源は、牛を繋ぎ止めるロープの事。自由を奪い、我が物にするというのが本来の意味。

この巨大複合災害の前のこの国家の国民が、毎年3万人を大きく超えて自死し、この10年だけでも30万人をゆうに超えているというこの日本という国家とはなにか。
福島の土地に根差し生きてきた人たちを<国家というシステム>はどうしようとしているのか。三陸の根こそぎさらわれた生活をどうしようとしているのか。これからひしひしと、被爆と被災が積み重なり生きていかなければいけないそのひとりひとりが被災死せざるを得ない前に、国家としてどのような<支援>をその一人に届けるというのだ。


ここは腹を据えなければならない。国家とは絆であり社会であり家であり家族であり私なのだ。

国家というシステムを変えていくのは、個としてのやわらかな精神を持った「私」なのだ。

今、この悲しみや辛さを我が物として駆けつけ、決しって群れずに、個として個に向かい続ける本当にたくさんのボランティアという存在が、この国家というシステムを解(ほど)いていくキーであり、最前線に位置する存在ではないかと感じている。

これから始めようとするキルトも、野染めも、断じて絆を目指しているのではない。皆で縫い、染めてゆく作業を通じてひとりひとりが解けあい、溶け合って対話していければと念じている。
お針箱がやってきた! [2011年06月06日(Mon)]
ブログがやっと立ち上がりました。
京都造形芸術大学の学生、佐田芽衣さんのおかげです。
このブログで、現地レポートや必要としているものなど,随時お伝えします。

1か月前に発行した風の便り(この便りは染物屋の風工房が年に一回、もしくは2週間ごとに、つまりは風の便りなので、いい加減に発行している私的通信)で、キルト作りのための材料を送って下さいと呼び掛けたところ、連日各地から荷物が届き、宅急便のお兄さんも思わず熱くなって応援してくれるほどたくさんになりました。

kazereport1.pdf

布は今のところ十分集まりました。また足らなくなりましたらお知らせいたします。ただ<まけないぞう>作りのためのタオル地はまだまだ必要としているようです。詳しくは
被災地NGO恊働センター 078-574-0701 http://www.pure.ne.jp/~ngo/ まで。

お針箱はキルトのほかにもまけないぞう作りや、仮設用のカーテン作り、また支援衣料のサイズ直しなどに必要だと思いますので、よろしくお願いいたします。
その際、針や糸など単品でもよいのですが、出来ましたらセット(針・糸・針山・糸通し・糸きりバサミ・裁ちバサミなど)にして下さるとありがたいです。セットにする手間が結構大変でボランティアの人がてんてこ舞いしています。またが不足しています。適当なものがありましたら助かります。
どうかよろしくお願いいたします。

蝶舞ふ海 [2011年06月05日(Sun)]

この20日ほど、あの臨在の海(いわき在住の現代美術家の言葉)が寄せては還すような揺らぎの中、さまざまな幻想のようなものが止めどなく胸の内に溢れています。
福島、宮城、岩手と廻り、帰宅後すぐに信州の織物をしている友人の死去を知らされ、夜行バスで松本へ。そのお別れの会で、献花の際、臨席者に一本ずつ花を差し出しておられる、亡くなられた姪にあたる方の様子に胸打たれ、お話を伺うと、大船渡市から来られたとのこと。当地の支援学校で養護教員をされていて、被災後の話を聞くことができました。
5月の連休明けから、ようやく学校が再開するとのことですが、知的なしょうがいがある生徒が避難所で嫌がられ、10日間も狭い車の中で一人閉じ込められるような状況になっているのを見つけ「本当にかわいそうだった」と話されました。  ごめんなさい!胸がきしみました。
野染の話を彼女にすると「是非みんなとやりたい」と、即答えてくれました。
帰郷後、彼女からメールが届き、校長先生もすぐ賛成されたとのこと。
行って、思いっきり皆で染めたいと思います。
亡くなられた友人が浄土での働きをすでに始めたとも思いました。

この旅で、エリザベス・キュブラー・ロスを強く感じていました。彼女が、ポーランドのユダヤ人収容所の壁に見た(幻視した)という、無数の白い蝶々のこと。
京都に戻り、前述の美術家・吉田重信さんが、木屋町三条にあるギャラリー射手座で臨在の海というタイトルでインスタレーションをしており見に行くと、部屋の床に砂が敷き詰められ、そこに千本のペットボトルに千本の背の高い白菊が活けられていて、暗い部屋の、奥左隅の下方にわずかな赤い明りが灯されていました。
相馬の海を想いました。
海岸から5キロも6キロもひとさらいされた風景。何も無いのではない。何かリアルなものを感じ怖くて、ここを離れたいけど引き留めるような力も感じる。
彼のインスタレーションを見ていると、白い波が揺れているよう。それが白い蝶達が波間をゆくようにもやがてみえてくる。
蝶のキルトをみんなで縫おうと、ふと思いつきました。
私は創造力を独占することが極端に嫌いであり、なんでもスピリチュアルなものに依拠してしまう人たちも極めて苦手です。でも今回のイメージは、もっと大きなものに突き動かされて形になったような気がしています。

大船渡の若者たちと染めた布の上に、それぞれ持ち寄った白い布を蝶の形に切り、アップリケしていこう。もうひとつ、真白な布の上に野染の布の蝶を縫い付けて行こう。美しいものをともに作りたい。豊かな喪の時間を共にできればと思います。


お針箱(針・糸・ハサミ・針山)を 被災地へ!


先日一週間ほど、いわき・相馬・仙台・釜石・遠野などを巡って来ました。改めて津波の凄まじさを目のあたりにし、また原発の及ぼす理不尽な状況に(私自身しっかりと向き合えてこれなかったふがいなさも含めて)怒りがこみ上げ、現場の風景の怖さと、果敢に作業を続ける駆けつけたボランティアの人たちの姿、余震の不気味さなどが重なり、京都に戻った今も私は精神的にかなりのダメージを受けているようです。被災者の方々の受けた衝撃や苦難は、それこそ計りしれません。
岩手の遠野総合福祉センター内にあるボランティアの拠点・遠野まごころネットhttp://www25.atpages.jp/tonomagokoro/を訪ねた際、今避難所ではタオルを使った〈まけないぞう〉作りが人気で、みな針と糸を持って夢中になって縫っているという話を聞きました。やはり縫うという作業は大きな力を持っています。そこで持ち歩いていたAIDSメモリアル・キルトを見てもらい、布を囲んで亡くなられた大切な人のことを思い、おしゃべりし、その人にふさわしいデザインを考え、みなで縫うその時間と場所がどんなに大切な意味を持っているか、スタッフにお伝えしたところ、すぐ分かってくださり、やりましょう、というより、「やってください」と頼まれました。
これから被災地では、学校の体育館などの避難所生活から仮設住宅などに移行していきます。阪神淡路大震災のときも、仮設に移ったお年寄りの方たちの孤独死や自殺が相次ぎました。「あの時死んでいたほうが良かった」という言葉を遺して。キルトは基本的にたくさんの人たちの手で作っていくものです。たとえば仮設の一部屋に集まり、針と糸を持ち今は浄土におられる人や動物たちのことを語り合い、失われた町の風景を取り戻しながらぼちぼちと縫い上げてゆく、ほどけ、とけあうような時間、そしてそのような場所を持つことがキルトを作ることの本来の意味です。作られたものを展示し発表することなどは二次的なことだと思っています。ただ、もしこのキルトが何百年先までも残されていくならば、後の世の人たちへの大切なメッセージに、結果としてなるとは思います。
そこでみなさんにお願いがあります。キルトを作っていくための道具や素材を集め送ってほしいのです。
針(穴の大きめなもの)針山、縫い糸(どんな色でもOK)ハサミ(糸切りバサミ・裁ちバサミ)。お子さんなどが学校で使った洋裁セットなどは最適。単品でもよいですが、出来ればお針箱のようなセットにしてもらえればありがたいです。みなさんの友達にも知らせてください。近くの小中高等学校などに頼んでまとめてもらうのもよいですね。

これらのことを実現するための人手が必要です。たとえばホームページ作り、チラシづくり、送ってくださった方々への返事担当、会計係、また現地に行ってキルト作りのアドバイスなどができる人など・・・手伝ってもよいと思われる方は連絡をください。また現地の辺りで、このような作業を理解してくれる、布好きなお知り合いがおられましたら紹介してください。 
       送り先・問合せ先は  
606−8321 京都市左京区岡崎東福ノ川町24 075−762−0500  斎藤 洋
                    dye.kazafu@gmail.com

AIDSメモリアル・キルトは、人をエイズという病名や 数量で表すのではなく、キルトを縫うという作業によってこの病で亡くなった、一人の人間の存在を見つめなおし記録していこうと、1987年にサンフランシスコで始まりました。今もこの病に苦しむ人たちの傍らで、世界中で縫われ続けているアートであり、工芸であり、祈りでもあります。日本では1990年メモリアル・キルト・ジャパン http://mqj.jpが設立され、今も活動を行っています。
   
被災地NGO恊働センター:http://www.pure.ne.jp/~ngo/ 神戸のNGO 被災直後から現地に入り活動。宮崎新燃岳の野菜を今回の被災地に運び、炊き出し、各避難所での足湯、<まけないぞう>作りなど被災者に寄り添う活動をしている。