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ここから4 [2011年06月29日(Wed)]
京都は35度を超える猛暑が続いています。
あの東和やたいまぐらの涼やかな空気がなつかしい。




さてこれからのことをお伝えします。

お針箱

今回の旅では、皆さんから送って頂いた、およそ420箱をお届けしました。
今は避難所から徐々に仮設住宅に移る時期になっていて、移った際の準備としてのれんやカーテンなど生活を彩るものなどを作りたい気持ちの方たちがたくさんおられます。
また支援の衣料のサイズが合わず不具合を感じている人もおり、お針箱はどこでもとても喜ばれました。また、たびたびお伝えしているように、皆で縫いだすと自然に出てくる言葉、そんな時だからこそ話せることがあります。これからますますそんな場所と時間が大切なものになっていくと思います。まだまだお届けしたいと思います。



                     

お針箱はとりあえず7月31日まで、受け付けさせていただきます。
その時点で、状況を見てさらに続けるかを判断いたします。

そこでお願いがあります。
ハサミが不足していてセットが組めません。
糸きり用の小さなハサミと、裁ちばさみがよぶんにありましたら、お送りください。


            糸通し、チャコペンもおねがいします。


布は今のところ集まっていますが、足らなくなりましたらまたお知らせいたします。


野染め





9月中旬、大船渡の支援学校で、小・中・高、全校生徒でするのをはじめ、釜石、大槌、田老町、越前高田(一部未定)などで、おもに障がいを持っている人たちとする、野染めの旅をいたします。

その前に、京都・法然院、東京・町田と東久留米のこどもたちと毎年恒例の野染めをしますが、そこで染められた布の一部を被災地で生かしてもらおうと話しています。
出来たら、てびらこつぎっこの布として縫い繫いでいけたらと、おもっています。


    京都造形芸術大学・三回生の<てびらこつぎっこ> 2011年5月


7月8月の野染め予定・
7/29(雨天30日)法然院 遊びの寺小屋 要予約 500円 7/16より受付 詳しくは075−752−4582 法然院・森のセンターまで
8/19(雨天20日) 三ツ又冒険遊び場たぬき山 町田市
8/27(雨天28日) 学芸大付属養護学校の庭にて 東久留米市
町田と東久留米のお問い合わせは風工房・斎藤 090−6674−8082  Eメール dye.kazafu@gmail.com まで 

               


今回の旅でご縁があった人たち、今まで大切なご縁を頂いてきた人たちと、これからもつながりながら、続けていきたいと思います。


ここから3 てびらこつぎっこ [2011年06月28日(Tue)]
      

       てびらこつぎっこ というコトバが自然と浮かびました。
                もちろん造語です。
            名詞でもあり動詞でもあります。  


       てびらこ(てびらっこ)とは南部言葉で蝶々のこと。
             つぎっこ とは同じく布のこと。



           風工房に毎年やってくる てびらっこ



てびら(蝶)・てのひらにスッととまる蝶なのか、わらしぇど(こどもたち)のてのひらなのか。 むこうとこちらを行き来する言翅(ことば)

つぎ(布)・「飢えは三日でも我慢できるけど、寒さは一日でも我慢できねえ」津軽の民族学者・田中忠三郎さんのことば。綿の採れるところではない、麻布に刺し子重ね、着古した後も古布を何枚も何十枚も重ねつぎ重ねつぎして、ぬぐだまり(あたたまって)きた歴史を持つ人たち。ぬのはつぎっこするもの。



                   たいまぐらにて
 

          てびらこつぎっこをみんなで縫いませんか。


みなさんにおねがいです。皆さんのお仲間と畳一畳分(90センチ×180センチ)の無地っぽいつぎっこ。濃い色のつぎっこには、白っぽいてびらこを、白っぽいつぎっこにはさまざまないろのてびらこを、参加した人の数だけ、自分の命と思って縫い付けてください。そのてびらこつぎっこを被災地の方々に手渡して縫い繫いでいけたらと思います。

それを風工房に送っていただいても、皆さんの縁のある被災地の方々にお針箱と布をセットして送っていただいても、もちろん自由ということにしましょう(むしろそのほうがさまざまな広がりがあって好ましいとおもいます)。









ここから2 [2011年06月27日(Mon)]


保育園から保育園へ 小さなコミュニティーから小さなコミュニティーへ


広田保育園のがらくた座公演の後、ちいおばさんたちは同じ陸前高田にある他の保育園をめぐりました。公演の後、私たちが託したお針箱を手渡してくれました。その40セットほどのお針箱の中に、東京・清瀬市の保育園から送られたものが数セット入っていて、箱の中には、保護者の方や職員の方たちのメッセージカードが添えられていました。それを見たその保育園の方たちが感動して、礼状をぜひ書きたいとおっしゃたそうです。

この間の旅でうっすらと結んでいったイメージがその話を聞いて、はっきりと見えてきたものがありました。
小さなコミュニティーから小さなコミュニティーへ、たとえば保育園と保育園、小さな集落と町内会、支援学校と支援学校などがそれぞれ個別に結び付いていけば、より良い支援が続けていけるのではないかというイメージです。


       わが町内の,あるお宅の前で  6月27日撮影


早速清瀬市の保育園にそのことをお伝えすると、すぐわかって下さり、礼状が届いたならば連絡を取り合うとおっしゃってくれました。
それをもう少し広げてたとえば清瀬市、武蔵野市あたりの保育園のネットワークと、陸前高田の各保育園が一つづつ繋がっていくことは出来るのではないか。たとえば世田谷と大船渡、宇治市と釜石など。
特に保育園は学校などと比べてもよりその地域との結びつきが深いし、より融通がきくところです。お針箱から始まって、粉ミルク(アレルギー対応のも)や絵本、文房具、衣料、食料などニーズによって変化していく支援物資のことも、また精神的な悩みも同じ境遇同士より話しやすく、深くわかりあえていくはずです。
また園児のみならず、その家族、その地域へと広がってゆく、目に見える結びつきが作れると思います。
今回最初にお訪ねした釜石・平田地区の避難所・仮設などは私が住む京都・岡崎地区ぐらいでもその規模においては十分出来ることがあると思いますし、小さな集落の仮設などとは、それこそ<町内>や<手作りサークル>程度の規模でもかなりの支援が出来るのではと思います.

もちろんもっと根本的な仕事の問題、経済的支援、親を失った子供たちへの手厚いケアーなど、そのような結びつきだけでは解決できない深刻な状況は山積みしています。
でも自分たちを忘れずにつながっている人たちがいると思えることはとても大切なことなのではないでしょうか。

これから関東、東海、近畿なども大きな災害が来る可能性は高いです。今そのようなちいさなコミュニティー同志の繋がりを少しづつでも作り続けて行くことの意味は大きいと思います。
相互扶助、お互い様ですから。





そこで提案です。被災地の地図をまず広げてみてください。ここと思った町を見つけたら、コンピューターでその街の、たとえば保育園の情報を知って下さい。そして自分の街の保育園に話をしてください。そこから確かに始まるものがあるはずです。
お針箱や布は、そのきっかけを作ってくれる物だと思います。



小槌の小さな避難所のまけないぞう 遠野まごころネットにタオルを!
ここから [2011年06月27日(Mon)]
京都に戻り一週間が経ちました。


さまざまな光景や、交わした言葉が胸に詰まっていて、そこから何か次のステップに向かうには、今しばらくの時間が必要とおもいます。しかしながら多くの思いを、形として送って下さった方々に、今お伝えせねばならないことはあります。そのことが普遍性をもったものであるかどうかは分かりませんが、今ある内なる<願い>を信じてまとまりの無いような形になるかもしれませんが書かせていただきます。


          木洩れ日  宮古恵風支援学校での野染め


あの海を前に、今生きていることが地獄だと話された方がおりました。何も答えることはできません。ただ聴くことは出来ます。そこに常にいれば。
ではそこにその人の手すりのように常に立つことは、私には出来るのか。


地獄を生きる人はしかし、いわゆる被災地の人だけではない。例えば東京で電車に乗ると一日に何回も聞く言葉、人身事故。一日に100人ちかくの人が自死していく国に私たちは住んでいます。いや他人ごとではない、私もその一人にならないとは限らない。
そのような<わたし>がボランティアに行ってもよいのか。トレーニングしたら乗り越えられるような問題ではない。
寝る家もない、今日を生きる金もない路上生活者、ベッドの中で身動きできないままの人でも、この大災害に心痛めている人はもちろんいます。いや彼らこそ痛みを共有する人が多いのではとも思います。募金も出来ない、泥だしに駆けつけることもできないものは支援は出来ないのか。
でも今苦しむ人を見てどうにかしたいと思う切なる願い。願うことは出来る。
まずそこから始まらねばとおもいました。






この4月から5月にかけて被災地を廻った後、皆さまに<お針箱と布を被災地に>にと呼び掛けさせてもらいました。
短い間に、本当に多くの荷物が届きました。その荷を解くたびに伝わってくるお一人お一人の願いがありました。被災地でなくてもみな被災者なのではと、ある時期から感じるようになりました。この複合巨大災害によって体の一部が欠損したような痛みを覚えているのではとも感じました。その痛みの中には、このような事態を引き起こした責任が自分の中にもあるとの自己処罰的な認識が、特に福島原発の事態に関しては色濃くある人が多かったように思います。
苦しむ人たちのためにと、お針箱をそろえる作業、周りの人たちに呼び掛ける行為、針山を丁寧に作る時間が、自らの苦しみを解いてくれていたのではとも、我が身と重ねて感じました。

そのようにして頂いたものを抱えて巡る旅です。
一人が一人と出会い手渡してゆく旅にしなければと念じました。






POKO Cross Road [2011年06月25日(Sat)]
今回の旅は車でおよそ2,500Kmを走破した。
同行したポコは現役のタクシードライバーだから、本当だったら目の玉が飛び出るような料金を請求されるところだ。
若い時は中古のブルーバードで名神を150キロオーバーで走るような人も、今は滑るような安全運転。ずっと助手席にいた私と後部座席のメイちゃんにとっては、なんともぜいたくな旅ではあった。
ポコと出合ったのは40年前、京都の染工房だった。私は紆余曲折はあったものの染物を続け、ポコはさまざまな土地で様々な仕事をし、京都に戻ってからは10数年、古民家再生など中心とする設計事務所で図面などを描き、その後は今の仕事に落ち着く。その間、AIDSが原因で亡くなった人たちをキルトを縫うことで追悼し、記録してゆく世界的な運動、AIDSメモリアル・キルトに、共に関わり、その大きななディスプレーのためワシントンまで一緒に行ったこともある。
仕事や身内の介護などのやりくりをしての一週間の旅は、彼の強い気持ちをずいぶん感じることができた。そして何より冷静で穏やか、ゆったりとした語り口のポコがそばにいると、何とも頼もしく、なぜか気持ちが落ち着く、私たちにとってもありがたい存在だった。

              ?十年前のワタシ・ポコ・入道


今回の旅でポコはもう一つの目的があった。
やはり「あの時代」京都で同じ空気を吸い、転がり続けて今は盛岡でブルースの店クロスロードをしている旧友の店に行くこと。その友人がパートナーを亡くした後、この小さな店をオープンした時、ポコはやはり長い付き合いのブルースシンガー<入道>のステージをプレゼントしたという。そして東北のバックミュージシャンを従えての二回目の入道のライブがクロスロードであるというのだ。行かずばなるまい。


私たちが生まれ生きてきたこの60年余り、ある意味でこんなに平和でよい時代は日本の歴史の中でもなかったのかもしれない。でもそのしっぺ返しをこれからの時代を生きなければならない次世代、次々世代に重く残していくことになる。
今までの私たちの責任において、残りの日々何をなしえるのか。
深みを増した入道の声、同世代のバックミュージシャンの渋いブルース。合間に語る入道の言葉にもある決意がにじむ。店のマスターもこの6年間六ヶ所村に通い続けてきたという。しかし原発をついに止められなかった自分への攻めの言葉を、のちに届いた便りに聞いた。

    一巡りして出会い直したクロスロード。ここから始まることもある。

                                 ポコ、おおきに!



      宮古恵風支援学校のこどもたちと踊る、?十年後のポコ


冒険遊び場はいいね!! [2011年06月24日(Fri)]
6月17日 大谷海岸(気仙沼)の冒険遊び場へ

今回の旅の締めくくりは宮城県気仙沼の南、大谷海岸の山寄りに作られていっているプレーパーク・冒険遊び場。

訓練されたおとな(プレリーダー)の大きなコントロールの中で、こどもたちがこどもたちの責任において自分たちで遊び場を作って自由に遊ぶというこの活動は、さかのぼると1945年のデンマークにそのルーツがあるといわれています。日本では30年ほど前、世田谷の羽根木公園などからスタートし、今では全国に広がっています。





実はこのプレーパークの仕掛け人が、今回一緒に旅をしたひげさんこと、澤畑 勉さんです。彼は世田谷のいわば公務員でありながら、こどもの側に立った大切な提案を勇気をもって実現していった人だと思います。それもかなりユニークにしたたかに。

たとえば1997年に俳優の、故・牟田悌三さんや、今回の地方選挙で世田谷区長となった保坂展人さんなどと 立ち上げ、今では全国70か所にも開設されているチャイルドライン
こどもたちの声をそのまま受け取るこのダイレクトなホットラインもまた徹底的にこどもたちの側に立ったものであり、行政が行う「いじめ相談室」などとは一線を画したものです。

そのほか農業用の透明養生ビニールを使ってこどもが走り回れるぐらいのトンネルや巨大な円筒やキューブなどを送風機を使ってふくらませ、その時だけの蜃気楼のようなやわらかな構造物をこどもたちと作り上げる、シーバルクの活動など、彼が今まで成してきたことは、おとなが過度に指導せず、想像力を独占せず、どこか現代美術にも通じるラジカルさと、明るさがあり、そして何があっても<こどもとゆく>という強い思いに満ちてると私は思っています。

そして被災地にこそ遊び場をと、世田谷をベースに鍛え上げられてきたプレリーダーたちが入り、この土地をこどもたちのために快く提供してくれた地主の方と出会い、曹洞宗からの支援で、スタッフは近くの寺を拠点に寝泊まりし、たくさんのこどもたちと生き生きとした場を作っておりました。

こどもへの支援はどうしてもおもちゃや本など、<もの>に集中しがちですが、もちろんそのような世界も大切ですが、このようなこどもの側から自分たちの空間を作り確保していく作業は、こどもだけへの支援にとどまらない、その地域の力を蓄えていくための大切な時間を作っていけるのではないかと、元気に遊びまわるこどもたちの底知れぬエネルギーを感じながら思い巡るものがありました。





            弟子たちの仕事を点検する親分・ひげ




               シャボンとピーターラビット




                 賭場も開かれている




     この地域主体にこの遊び場がずっと運営されていくことを願う





がらくた座 [2011年06月23日(Thu)]
6月17日   陸前高田



話には聞いていたけどこれほど被害が、広範囲に広がっているとは・・・
あちこちで水が引いてないところがあり、地盤沈下があるのかもしれない。
向かったのは陸前高田市の北東側の半島、広田町にある広田保育園。

そこで私達のたいせつな友、木島知草さんが座長を務める信州・松本を拠点に全国を渡り歩くがらくた座(といってもピエロンロンことタカヒさんとの二人だけです)が公演をするというので会いに行くことになりました。



正面が広田町保育園。保育園の床上40センチまで海水に浸かったそうです。
波が防波堤を超え、目の前の家の屋根をも超えてくるのを見た園長先生や職員の方たちは、昼寝をしていたこどもたちを起こし、裏山の杉林のほうまで道のない斜面を必死になって逃げ、全員助かったと話してくれました。




今はもうすっかりきれいになった部屋にはたくさんのこどもたちが集まり、思いっきり声を張り上げ、ちいおばさんの巧みな人形劇にすっかり夢中になっていました。
辛い光景の中を辿り着いた私たちも、ホッとして、そして胸が熱くなりました。

          こどもたちも、そしておとなたちも大したもんだ!




          楽しく笑うとこんなにもげんきになるんだね。



ちいおばさんとピエロンロンはこの日の午後にも違う保育園で公演があり、翌日も何か所も回るとのこと。がらくた座にも皆さんから送られてきたお針箱と布、そして造形大の学生さんたちが染めた布を託しました。
いつも手を動かしながら縫うことが大好きな、そしてメモリアル・キルトを抱えて20年以上旅を続けるちいおばさんのこと、私たちの布とお針箱の旅の意味をいっぱいこころに詰め込んで巡業してくれることでしょう。
またどこか途上で会いましょう。

もちろん、広田保育園にもお針箱と布、受け取って頂きました。






小原さん [2011年06月23日(Thu)]
6月17日 遠野から陸前高田へ


5泊6日。小原尚子さん宅で5人がお世話になった。

<支援する人を支援すること>に徹した小原さんの姿勢はぶれることがなかった。

40年近くに及ぶ東京での福祉の仕事を終え、すぐ母親の介護のため帰郷。みとられた後、母屋や蔵の改修をし、庭の手入れ、野菜などを育て、長きにわたる社会的活動からゆったりとした時間を取り戻そうと歩み始めた矢先に今回の大災害。

彼女の住む花巻は、幸い深刻な被害はなかったけれど、隣町の遠野は、三陸沿岸地域へのボランティアの拠点となり、近くを通る釜石街道には自衛隊の車がひっきりなしに行き来する。

4月に私が不意に訪れたことが、彼女にとっては大変なことだったのかもしれない。でもあの時自分の位置をしっかりと見定め、私たちを迎い入れて下さった。

彼女の手で新しく蘇った蔵の中には、40年以上前の筑摩書房刊・宮澤賢治全集がある。晩年、釜石の石灰工場に通い、貧しき農民のためにと土壌改良に奔走した賢治の献身が、ここで生まれ育った小原さんの身の中にも生きているのではないかともふと思った。

人一人の思いが幾重にも重なり、長い時間かけて小さな一つの事がようやく成しえてゆく。それを続けていくしかないのだと、静かに気付かせてくれました。ありがとうございました。

また来ます。


宮古の風を染める。 [2011年06月22日(Wed)]
6月16日 快晴  岩手県立宮古恵風支援学校へ


青空に木綿布の白がまぶしい。20mの布にそれぞれ好きな色を選んで、おもいおもいの染めが始まる。大きな声で歌いながら踊るように染めている子がいる。生徒も先生も笑っている。





        ここからここまでを私がやりましたではない。
  色と色が、人と人が、人と色が、人と風が、風と色が溶け合ってゆく。





                 みんなでぼちぼち行こうな。
大槌小鎚 [2011年06月22日(Wed)]
6月14日  釜石祥雲支援学校の元気で和やかな野染めの余韻を体に感じながら、釜石の北にある町、大槌を目指す。被災がひどい釜石の町を抜けようとして道を間違え釜石港の北のはずれあたりまで来てしまう。どこか心地よかった体や気持ちがすっかり重く沈んでいく。
山側の三陸自動車道を通り、大槌町に下っていくと、海岸から数キロはあるであろう平野部、この町のすべてがひとさらいされたような寂寞たる風景が広がっている。わずかに残った建物には激しい火災の跡。ヒロシマ、ナガサキを想ってしまう。街のすべての機能が消滅したという。あの時、市長を始めとするこの町の行政の中心となる人たちが、津波など防災対策の会議の最中であったという。その方たち20人全員が犠牲に。
私たちはたった数日(いや数時間)現場にいるだけなのに、このような極めて違和感のある風景に身を置くと心身の根っこのほうに深刻なダメージを感じるようになる。この三カ月ここに身を置く人たちはいかばかりか。
私たちにはその山の向こうの、人の暮らしが豊かにある村で、おいしいご飯と温かなお風呂とぐっすり寝れる夜具をしつらえて待っていてくれる人がいる。そして京都には、東京には帰る家がある。私たちのしている支援という作業の意味を自問自答しながらの旅をやはり続けるしかない。
ここは宮澤賢治井上ひさしが夢を紡いだ悲願の地なのだから。物語の背後には津波や飢えや寒さが確かにあり、それに対峙するコトバを美しく掲げる人たちが精一杯生きてきた土地なのだから。










たいまぐら

飯桶を作っている工房









その津波が途絶えたほんの少し先にある小鎚地区の総合体育センターの弓道場が避難所になっている。そこから小さな川をさかのぼっていったあたりに点々と仮設が作られていっている。ここでこれからあの風景を眼前に、生きていかねばならない生活を想像する。

その避難所の中に、遠野まごころネットが作ったまごころ広場がある。


    被災地から被災地へ。つなげているのは被災地NGO恊働センター 




ここは避難所のカフェといった趣。確かにこのような場所、サロンは小さくても必要だなと、すぐ感じた。ここのテーブルでキルト作りが出来ればと思う。翌日の15日にこの広場で野染めをやることが急きょ決まる。その後、おなじ小槌地区のもっと山寄りにある共同作業所・わらび学園にお針箱と布のセットをお預けし、月夜の東和に戻る。


6月15日 再び大槌へ

        まごころ広場で野染め。お父さんたちも楽しむ。



澤畑明見さんが、指だけで編める簡単な袋(バッグ)作りを伝授。
段ボールに麻の経糸を巻き付け、指で緯糸を編みこんでゆく。「糸のよりを戻さないようにしてくださいね」と明見さんが教えると、すかさず「よりを戻したい」とつぶやく。
お母さんと息子さんが流された人でした。
ここでもお針箱と布を受け取ってもらいました。





わらび学園のすぐ近くにある部落の集会所も避難所になっている。
この学園の分園が流され、その方たちも避難されている。
造形大の学生たちが染め縫った蝶のキルトは、ここで縫い継がれることになりました。
今日電話をしたところ、今みんなで縫っておられるとのこと。



かなしみよ ふ〜っと飛んでいけ そして 小さな花にな〜れ  
                                    木島知草

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