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野染に参加してー神戸から [2011年09月29日(Thu)]

                          季村敏夫(きむら・としお)


「秋の三陸、野染の旅へ」、今回、京都の染色家斎藤洋さんの誘いに応じることになったのは、訪問先に、宮古という地名を見出したからだ。みやこ、私にとって、美しい土地の名。昭和21(1946)年の新緑もえる頃、宮古の海辺で私の両親は出遭っている。
北ボルネオのアピ(現在マレーシアのコタ・キナバル。アピはマレー語で火の意味)にあった捕虜収容所を出た父はゼッセルトンから出帆、サイゴン経由で広島県の大竹に上陸、復員(復員時の部隊名第37軍司令部)、列島をまっすぐに北上、宮古に向かった。
三井物産塩業部宮古工場に就職、東京から疎開していた19歳になったばかりの女性に遭遇。当時の宮古は魚臭い小さな町、それでも、渡し舟にゆられた、今では考えられない詩的な日々だったと今なお存命の母は述懐する(父は昭和50年3月、54歳で死去)。
さらに、宮古を襲った大津波の惨禍。幼い折から、宮古という響きは私に、そのような記憶を知らず知らずに植えつけていた。自分にとって原風景ともいうべき宮古を一度訪れてみよう。これが旅への参加の動機であった。

野染という行為が、ひとの心をこれほどまでにほどくとは予想外のことであった。障がい者の集う小さな作業所、最初私は、おそるおそるの手探りの感じで関わっていたが、共同作業にうち興じる生徒のこころの襞に触れ、そのたびに、逆にこちら側がほぐされるという得がたい体験を獲得できた。
ほどく、ほぐされる。お母さんたちの、日々の鬱屈。大津波や火災がもたらす、生々しい記憶の傷口。だが、作業のあと、おもわず安堵の表情を浮かべるお母さんたちは、みな美しいと私はうなった。青空にゆれる真っ白な布。布のまわりの人のざわめき。人と布との、色を通じた交流。やがて、あざやかに染め上げられる布。野染とは、なんとシンプルな共同行為なのか。ある日ある時、偶々ひとときを分かち持つ。共に在って時間に携わるからこそ、色は輝く。どの作業所でも、面白い、楽しい、色が自然だ、こんな感嘆の声が訪問者に寄せられた。むろん、生徒はみな一心不乱。黙々と染めの作業に没頭。日ごろのこわばった感情は、布を染めあげることによって瞬時にほどけていった。そしてこれが重要なことだが、ほどかれた感情にゆすられたこちら側がものの見事にほぐされている。
作業のあと、3月11日の大災厄の記憶がいきなり胸にこみあげ、お母さんのくちびるがわななく。指先がふるえる。泣き笑い、あれほどの悲嘆を身体で味わいながらも、微笑みが灯されていたこと、これは驚き以上の、畏怖に近い感情を私にもたらした。関西でいう、「ほな、歌でもてこまそ」、という心配り。野染は詩歌に携わる私に、歌の源泉ということをあらためて教えてくれた。

夕暮れ、ある作業所の門をくぐり出るときのこと。野染の最中、ひとことも言葉を発することのなかったダウン症の女性の手を私は握りしめた。すると眼前の頬は見る間に紅色に染まり、目にはあふれる涙。これはやばいな、瞬時に感じとった私は、そそくさと車中の人になったが、数十分経過した頃、突如嗚咽に襲われ、驚いてしまった。次から次へと漣打つ底知れぬ感情の波に、さまざまな記憶の断片が流れつき踊っていた。幼いとき、宮古のことを聞かされたこと。もう忘れていた、なんでもない記憶のひとコマまで飛び出したり、今なおうずく記憶が、お前はなにをしている、おめおめと生き延びて、いったいなにをしようとしているのかと重層的に問いかけてきたりして、ほんとうにふしぎな時間の劇であった。

あとで気づいたことだが、手の平から伝わることのたいせつさを、私は初めて学んだ。
言葉ではない伝達。野染は、手と手による、シンプルなきわめて原始的な行為だったことを。色を染めるとは、こころのなかに閉じこめている「色」という時間を外部へ開くこと。色即是空、空即是色、これを難しくとらえるのではなく、背負いこむ厄介な荷物を、いったん空中にほうり投げてみる、すると荷物の重量などいっきょに鳥の羽のように軽くなり、苦しいおもいは空無になる、そんなふうに自由気ままに解釈し直してもまったく問題ない、野外の共同作業の一員に紛れこみ私は、脳天から爪先まで、垂直にたち割られるおもいに襲われていた。

この旅を知ったのは、妻のひとことだった。彼女は草木染めが大好きで、家の二階に小さな作業場をもうけ、毎日ごそごそ、音を発している。機の音であり、布と布がすれあう音であり、植物を煮つめる音である。音は訪れ。私にも、新たな音づれがもたらされた。
以上が、旅から戻った直後の、率直な印象である。  (2011、9、22)



わらび学園にて







季村敏夫さんから届いた便りを、載せていただきました。


詩人が今も在ることの驚き、慄き。
自らの体と精神をリトマス試験紙のように晒してゆくことで、その時と場の色をあぶりだしていく様子は、はた目からは痛快でさえあるが、本人にとってはかくのごとく心身を切り刻むような作業なのだということが伝わってきます。
実はこの涙の先にはもう一つの物語が待ち受けていました。本人はこのような形で私などがその物語を披歴することはおそらく望まないことなのかもしれませんが、詩人のすぐ隣で心かき乱されていた私にも幾ばくかの言い分はあっていいように思う。

大槌、釜石を通過し、遠野を抜けたあたりで、右手に2両編成の釜石鉄道が闇夜に車窓に明かりを灯して花巻方向に。あの銀河鉄道である。並走する車の中でどこか恍惚としている時、彼のケータイが鳴る。何やら起こったらしい。車を道端に停める。

季村さんの詩集の出版元からの便りは、今年の花椿賞に季村さんが選ばれたという何とも嬉しいものだったのだ。その辺の事情に疎い私が後に知ったのは、この賞は毎年その年度に発行されたすべての詩集の中から最も優れた詩集一冊に贈られるもので、今年で29回目を迎えるその受賞者には谷川俊太郎、吉増剛造、大岡信、高橋睦郎、清岡卓行など、そうそうたる現代詩作家が名を連ねている。

彼は受賞のメッセージを明朝までに書き送らねばならないことになり、東和の小原家に戻るとすぐ、母屋の北にある蔵に籠り徹夜することになる。
朝、目を充血した季村さんがいた。朝飯の前、書き上げたその言葉を私たちの前で朗読してくれた。あの涙をいっぱいためて。


復興とは、言葉を取り戻していくことなのではないだろうか。そしてまたどうあがいてもどうしようもないような人(私)という存在を、てのひら(てびら)の温もりのような言葉が救いとってくれることを信じさせてくれた二人の詩人、季村敏夫さん、そして佐藤啓子さん ありがとう!!




伝説の蔵になるかもしれない・・





季村範江さん。ケアホーム希望にて

範江さんは阪神淡路大震災後〈震災の記憶と記録を後世に残す〉という活動を続けています。 震災・まちのアーカイブというグループを結成して14年目。

「被災地で生きている人々の声を残してゆきたいと考え、瓦版や小冊子などを発行したり資料収集をしています。また私の活動に主人はいろいろな支援をしてくれています。」

私(斎藤)は毛斯綸(モスリン)という布の縁で、西宮のあたらし舎(や)で会ったのが10数年前になります。名もない庶民の着物を収集して後世に残すことを目的に、仲間とともにくらしの着物資料館活動を続けてこられた人でもあります。
ともすれば忘れ去られてしまう、それも名もなき人たちの大切なものや思いを長い時間にわたって残してゆこうとする季村さんたちのような地道な動きは、今回の巨大複合災害においても大切な仕事になっていくのではないでしょうか。


14日は<季村さんの宮古>へ向かいます。


野染めに参加して その2 [2011年09月29日(Thu)]

野染・影





その人が忘れがたいー野染めに参加して その2
                                    季村敏夫


ケアホームからの帰路、車のなかで襲われた嗚咽、なぜ嗚咽なのか、なぜ突然だったのか、補足説明ではないが、自分へのメモとしてもう少し書いておこう。
 野染めのあいだ、ひとことも発することのなかった女性。海を遠望する大災厄のあとの地上に、小さな身体がただよっていた。空中にゆれる布に、積極的、行為的に関わるのではなく、ある自然な距離を保ちながら、離れたかとおもえば近づくという按配で、それでも彼女なりに黙々と野外作業に没頭していた。彼女のたたずまいが、布から絶えず一歩離れていた私の眼を釘づけにした。私は、近づくのでもなく、遠ざかるのでもない微妙なあわいを保ちながら、いくたびか布に誘った。横のもう一人は小さな笑い声を、燃え始めた落ち葉焚きの火のように放っていた。なんの歌なのかわからないが、口ずさみながら布に向かっている人もいた。どの人の指も、手のひらにも、染料がこびりつき、そんなこと委細構わず、じつに楽しそうだった。作業のあと、それを洗いながすのである。
 ひとことも発することのなかった女性の手のひら、指に付着した染料、「洗っても落ちないねぇ」(マクベス)、なかなか落ちなかった。私は、自分の指をそえるようにしてこすった。手のひらを重ねるようにさすった。何度も、そうした。指のあわいから、水がほとばしった。水の音に山の霊気がしのびこみ、気持ちよかった。だが、その人に張りついた色は容易に消えることはなかった。
 無事に野染め作業終了、帰り際、その人の姿が偶然眼の前にあった。いきなり私は手を握りしめた。別の方法で、染料をぬぐい落とそうとするかのように。しかし、このおもいは車中のなかでのこじつけで、そのときは、さよならを伝えようとして、自然と手が伸びた。手と手が重なった。すると手のひらから、じんわりと伝わるものがあった。なにかが響きあったのである。みるみる女性の頬は紅潮、両目にあふれる涙。畏怖の感情が、私を包みこんでいた。おもいもかけない出来事が起こったのである。
 ことばではない、身ぶり手ぶりの表現。身体から発せられる渾身の光、そのような表現があることをすっかり忘れていた私は、うちのめされ、倒された。どのような事態にあろうが、行為の有償性など微塵もおもうことなく、徒手空拳ひたすら懸命であること、人としてのそのような在り方をどこかで忘失していた自分が、おおげさではなく呪わしくおもえた。卑怯にもこれまで、あらゆる事態を真正面から受けとめることなく逃亡、結局は今日までおめおめと生き延びてきただけではないのか。そんなお前とは違って、あのひとはあの場所で、決して逃れることなく、あざとい構えからふりほどかれ、あるがままの姿で生きている、このおもいが突然おしよせてきた。すると、忘れていた記憶や抑圧していた記憶の光景がよみがえってきた。どうしたのだろう、次から次へと記憶の断片が襲ってきた。無意識のうちに抑圧していたものまでを苛烈に刺激したのが、自然な女性のたたずまいであったことに驚嘆した。
 岩手県宮古は、敗戦後の両親が出遭った土地。父はなにも語ることなく、あっけなく世を去ったが、ことあるごとに母は、幼少の私に宮古の思い出を語りつづけてきた。その記憶は、なぜか時間の経過とともにふくらみ、もはや誰のものなのか、母のものか、父のものなのか、共に宮古で暮らしていた父の妹たちの記憶なのか、織られた布糸のように、いまやすべてが重なりあった、誰のものでもない地層として私に植えつけられていた。地下水脈の重層的な、未生の記憶までが訪れ嗚咽となった、旅から戻り、このように私は位置づけている。
 私を新たに目覚めさせたのが、たまたま訪れたケアホームの女性であったこと。お互い、名を名のりあうことなく、風のなかで出遭い、わかれていく、おもいを寄せる人でもなく肉親係累でもない、すれ違っていく一人の他者が忘れがたいこと、おののきである。
             
                              (2011、9、30)







さまざまなことが、それぞれの体に一杯詰まり、東和に帰ると、小原さんが温かなぜんざいを作って待っていてくれました。疲れた体。ありがたく沁みました。







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