• もっと見る
« 巡り合う | Main | ちくちく»
プロフィール

さいとうひろしさんの画像
さいとうひろし
プロフィール
ブログ
<< 2021年03月 >>
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
カテゴリアーカイブ
リンク集
最新記事
最新コメント
成広のり子
風花 (03/11) ハックの家
つ ど う (09/17) 佐藤美紀子
梅雨展 (06/20) さいとうひろし
もうすぐ春だよ (03/17) chako@h2o
もうすぐ春だよ (03/16) さいとうひろし
アワワワワ〜! (12/11) さわだともこ
アワワワワ〜! (12/11) さいとうひろし
神様 仏様 (09/12) saito
神様 仏様 (09/11) うえむら
言葉 (07/11)
月別アーカイブ
日別アーカイブ
https://blog.canpan.info/shamurie/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/shamurie/index2_0.xml
ここから3 てびらこつぎっこ [2011年06月28日(Tue)]
      
てびらこつぎっこ というコトバが自然と浮かびました。
もちろん造語です。名詞でもあり動詞でもあります。  
(てびらっこ)とは南部言葉で蝶々のこと。
つぎっこ とは同じく布のこと。

 
tebirako2_1.jpg

          
 風工房に毎年やってくる てびらっこ


てびら(蝶)・てのひらにスッととまる蝶なのか、わらしぇど(こどもたち)のてのひらなのか。 むこうとこちらを行き来する言翅(ことば)

つぎ(布)・「飢えは三日でも我慢できるけど、寒さは一日でも我慢できねえ」津軽の民族学者・田中忠三郎さんのことば。綿の採れるところではない、麻布に刺し子重ね、着古した後も古布を何枚も何十枚も重ねつぎ重ねつぎして、ぬぐだまり(あたたまって)きた歴史を持つ人たち。ぬのはつぎっこするもの。


                   たいまぐらにて
          
てびらこつぎっこをみんなで縫いませんか。

みなさんにおねがいです。皆さんのお仲間と畳一畳分(90センチ×180センチ)の無地っぽいつぎっこ。濃い色のつぎっこには、白っぽいてびらこを、白っぽいつぎっこにはさまざまないろのてびらこを、参加した人の数だけ、自分の命と思って縫い付けてください。そのてびらこつぎっこを被災地の方々に手渡して縫い繫いでいけたらと思います。

それを風工房に送っていただいても、皆さんの縁のある被災地の方々にお針箱と布をセットして送っていただいても、もちろん自由ということにしましょう(むしろそのほうがさまざまな広がりがあって好ましいとおもいます)。









ちいおばさん [2011年06月08日(Wed)]
ちいおばさんから電話があった。
「15,16,17日と陸前高田に行くんだけれど、洋さんと会えるかなあ?」

<ちいおばさん>こと木島知草さんは、松本に住み、がらくた座という一人人形芝居を長年やっている人で、日本各地を渡り歩き、人形劇を通じて、体のこと、性の事、エイズの事などとても大切なことをこどもやその保護者の人たちなどに伝えていっている、わたしの大好きなそして尊敬する<旅の人>です。
チェルノブイリの後には、現地に行きロシア語を暗記し、歯磨きの習慣のない免疫力の落ちたこどもたちに、人形劇でその大切さを伝えに行ったような人です。
1992年には仙台の加藤哲夫さんなどと一緒にワシントン記念公園での大きなエイズ・メモリアル・キルトのディスプレーにも一緒に行きました。
人の悲しみを、その小さな体で丸ごと受け止めて、共に苦しむことのできる人です。
震災後は、福島に入り、原発で苦しむ人たちのところで人形劇をしていたといいます。

そのちいちゃんが電話の向こうで泣いています。
陸前高田でちいちゃんの人形劇を呼んでくれていた以前からの知り合いの娘さんが、流され、遺体で見つかったこと。28歳で、おなかには赤ちゃんがいたということ。初孫だったとのこと。
そのおじいちゃんになる人は、夢中になってボランティアをやっていて、ちいちゃんから見ると、悲しみが深くて動きまわるしかないように見えると話してくれました。

陸前高田でちいちゃんと会う約束をしました。


 ちいおばさん自作のカレンダー 7月のページ


             今日は、98のお針箱を送りました。
蝶舞ふ海 [2011年06月05日(Sun)]

この20日ほど、あの臨在の海(いわき在住の現代美術家の言葉)が寄せては還すような揺らぎの中、さまざまな幻想のようなものが止めどなく胸の内に溢れています。
福島、宮城、岩手と廻り、帰宅後すぐに信州の織物をしている友人の死去を知らされ、夜行バスで松本へ。そのお別れの会で、献花の際、臨席者に一本ずつ花を差し出しておられる、亡くなられた姪にあたる方の様子に胸打たれ、お話を伺うと、大船渡市から来られたとのこと。当地の支援学校で養護教員をされていて、被災後の話を聞くことができました。
5月の連休明けから、ようやく学校が再開するとのことですが、知的なしょうがいがある生徒が避難所で嫌がられ、10日間も狭い車の中で一人閉じ込められるような状況になっているのを見つけ「本当にかわいそうだった」と話されました。  ごめんなさい!胸がきしみました。
野染の話を彼女にすると「是非みんなとやりたい」と、即答えてくれました。
帰郷後、彼女からメールが届き、校長先生もすぐ賛成されたとのこと。
行って、思いっきり皆で染めたいと思います。
亡くなられた友人が浄土での働きをすでに始めたとも思いました。

この旅で、エリザベス・キュブラー・ロスを強く感じていました。彼女が、ポーランドのユダヤ人収容所の壁に見た(幻視した)という、無数の白い蝶々のこと。
京都に戻り、前述の美術家・吉田重信さんが、木屋町三条にあるギャラリー射手座で臨在の海というタイトルでインスタレーションをしており見に行くと、部屋の床に砂が敷き詰められ、そこに千本のペットボトルに千本の背の高い白菊が活けられていて、暗い部屋の、奥左隅の下方にわずかな赤い明りが灯されていました。
相馬の海を想いました。
海岸から5キロも6キロもひとさらいされた風景。何も無いのではない。何かリアルなものを感じ怖くて、ここを離れたいけど引き留めるような力も感じる。
彼のインスタレーションを見ていると、白い波が揺れているよう。それが白い蝶達が波間をゆくようにもやがてみえてくる。
蝶のキルトをみんなで縫おうと、ふと思いつきました。
私は創造力を独占することが極端に嫌いであり、なんでもスピリチュアルなものに依拠してしまう人たちも極めて苦手です。でも今回のイメージは、もっと大きなものに突き動かされて形になったような気がしています。

大船渡の若者たちと染めた布の上に、それぞれ持ち寄った白い布を蝶の形に切り、アップリケしていこう。もうひとつ、真白な布の上に野染の布の蝶を縫い付けて行こう。美しいものをともに作りたい。豊かな喪の時間を共にできればと思います。


お針箱(針・糸・ハサミ・針山)を 被災地へ!


先日一週間ほど、いわき・相馬・仙台・釜石・遠野などを巡って来ました。改めて津波の凄まじさを目のあたりにし、また原発の及ぼす理不尽な状況に(私自身しっかりと向き合えてこれなかったふがいなさも含めて)怒りがこみ上げ、現場の風景の怖さと、果敢に作業を続ける駆けつけたボランティアの人たちの姿、余震の不気味さなどが重なり、京都に戻った今も私は精神的にかなりのダメージを受けているようです。被災者の方々の受けた衝撃や苦難は、それこそ計りしれません。
岩手の遠野総合福祉センター内にあるボランティアの拠点・遠野まごころネットhttp://www25.atpages.jp/tonomagokoro/を訪ねた際、今避難所ではタオルを使った〈まけないぞう〉作りが人気で、みな針と糸を持って夢中になって縫っているという話を聞きました。やはり縫うという作業は大きな力を持っています。そこで持ち歩いていたAIDSメモリアル・キルトを見てもらい、布を囲んで亡くなられた大切な人のことを思い、おしゃべりし、その人にふさわしいデザインを考え、みなで縫うその時間と場所がどんなに大切な意味を持っているか、スタッフにお伝えしたところ、すぐ分かってくださり、やりましょう、というより、「やってください」と頼まれました。
これから被災地では、学校の体育館などの避難所生活から仮設住宅などに移行していきます。阪神淡路大震災のときも、仮設に移ったお年寄りの方たちの孤独死や自殺が相次ぎました。「あの時死んでいたほうが良かった」という言葉を遺して。キルトは基本的にたくさんの人たちの手で作っていくものです。たとえば仮設の一部屋に集まり、針と糸を持ち今は浄土におられる人や動物たちのことを語り合い、失われた町の風景を取り戻しながらぼちぼちと縫い上げてゆく、ほどけ、とけあうような時間、そしてそのような場所を持つことがキルトを作ることの本来の意味です。作られたものを展示し発表することなどは二次的なことだと思っています。ただ、もしこのキルトが何百年先までも残されていくならば、後の世の人たちへの大切なメッセージに、結果としてなるとは思います。
そこでみなさんにお願いがあります。キルトを作っていくための道具や素材を集め送ってほしいのです。
針(穴の大きめなもの)針山、縫い糸(どんな色でもOK)ハサミ(糸切りバサミ・裁ちバサミ)。お子さんなどが学校で使った洋裁セットなどは最適。単品でもよいですが、出来ればお針箱のようなセットにしてもらえればありがたいです。みなさんの友達にも知らせてください。近くの小中高等学校などに頼んでまとめてもらうのもよいですね。

これらのことを実現するための人手が必要です。たとえばホームページ作り、チラシづくり、送ってくださった方々への返事担当、会計係、また現地に行ってキルト作りのアドバイスなどができる人など・・・手伝ってもよいと思われる方は連絡をください。また現地の辺りで、このような作業を理解してくれる、布好きなお知り合いがおられましたら紹介してください。 
       送り先・問合せ先は  
606−8321 京都市左京区岡崎東福ノ川町24 075−762−0500  斎藤 洋
                    dye.kazafu@gmail.com

AIDSメモリアル・キルトは、人をエイズという病名や 数量で表すのではなく、キルトを縫うという作業によってこの病で亡くなった、一人の人間の存在を見つめなおし記録していこうと、1987年にサンフランシスコで始まりました。今もこの病に苦しむ人たちの傍らで、世界中で縫われ続けているアートであり、工芸であり、祈りでもあります。日本では1990年メモリアル・キルト・ジャパン http://mqj.jpが設立され、今も活動を行っています。
   
被災地NGO恊働センター:http://www.pure.ne.jp/~ngo/ 神戸のNGO 被災直後から現地に入り活動。宮崎新燃岳の野菜を今回の被災地に運び、炊き出し、各避難所での足湯、<まけないぞう>作りなど被災者に寄り添う活動をしている。