高浜原発 緊急停止の朝に [2016年03月01日(Tue)]
おはようございます。うっすらと雪化粧の京都です。我が家の窓から、そして15歳のジャッキー(♀)階段を行く です。 高浜原発緊急停止中の今日、1日脱原発リレーハンストを、友・蒔田直子さんとしております。 2012年6月14日から1日も途絶えることないリレーに、なぜ参加してきたのか考えています。 その1 悔悟 私は今年69歳になります。日本で最初の原子力発電が行われたのが1963年、私が高校1年の時です。その後、ベトナム反戦運動などにもそれなりに関わりましたが、私の中で原発が主要な課題とはなりませんでした。その間、廃炉1基を含めると55基もの原子炉 が、乱立。わたしはそれに対し、福一事故が起きるまで具体的なアクションを起こしておりませんでした。 1971年より京都にて染色業に従事。それから40年以上化学染料を使い、その生業として来ました。その間のわたしが為した環境への負荷は、計り知れません。3・11以降のこの複合大災害は、我の有り様を根本から問われる一大事でありました。私が変わらなければ何も変わらない。2011年4月に産まれてきてくれた初孫の顔も、私にその根本を問うてきました。 その2 こどもたちのこどもたちのこどもたちのために このリレーハンストを提唱してきた神戸の「被災地NGO協働センター」のスローガンです。そんなわけで私は原発に関して語るべき自分史が極めて貧弱なものなのですが、この間、仲間とともに三陸海岸を中心に通う旅は、自然の一部としての人間(無論私も) の傲慢さを否応なく実感していく時間となりました。 山川草木、生きとして生きる動植物が悲鳴を上げているような景色が延々と続いているのです。それはもちろん今始まったことではないのですが、あの3・11があって多くの衆生の命が奪われ、街や海や山が酷いダメージを受け、悲鳴を上げている最中に、人の手によりさらに山を傷めつけ、380キロにもわたるコンクリートの巨大防潮堤をを作り、砂浜を奪い、海岸の豊かな生態系を無残にも破壊してゆく人間とは何たる生き物であろうか。 その最たるものが福一原発事故。これから気の遠くなるような長きにわたり、ヒトのみならず、生きとして生きるものたちの、こどもたちのこどもたちのこどもたちに、逃れようのない負荷を背負わせる出来事が今起こっている中で、再稼働どころか他国へも積極的に売ろうとしている、この国の中枢を担う人たち。 もう逃げるわけにはいかないのです。 その3 喰わない時間 喰わないで腹が減ることでしか、実感できないもの、見えないものが私の場合にはあります。それはなかなか大切なもののように感じています。そして、ほぼ会ったことのないすきっ腹の人から手渡されたバトンを、すきっ腹になった私が次の人へと引き継ぐのです。その間誰も監視をしているわけではない、きわめてパーソナルな行為ですが、それを続けている中で確かに<脱原発を願う>というだけでつながっている他者へ思いと信頼が、深まってゆくように感じております。 このリレーハンストは、私にとっては自らのありようを見つめる時間であり、ヒトの酷さと対峙する時間であります。 ☆ブログはこちら 〜 https://blog.canpan.info/stopnps/ |