安倍智穂さんと共に 1 [2011年10月04日(Tue)]
9月14日(水) 曇り時々雨 宮古市田老・樫内へ 東和の朝は雨、天気が怪しい。内陸と海岸、そして沿岸部でも岩手の北にある宮古と、南の陸前高田ででも、かなり天候が違うことがこの間わかり始めてきて、宮古は大丈夫だろうと根拠のない予測を立て、遠野、釜石、大槌、と馴染みになった道を通り抜け宮古に入る。 季村敏夫さんのルーツともいうべき町。彼の口から何度か聞いた、彼の父母が若き日出会った町、小舟で行きつ戻りつ熱き情を交わしたであろう閉伊川。その川にも津波は上がっていったのだろうか。そこに架かる橋を、彼は車の中からどんな思いで見ていたのだろうか。 宮古市内から二つ目のトンネルを抜けると、6月に来たあの宮古恵風支援学校が近い。4つ目のトンネルを抜けるとやがて田老町樫内。45号線を右手に入りしばらく行くと海寄りの高台に仮設が並ぶ。その先にバブル期の匂いを残すリゾートホテル跡のような洋風の建物群が突然現れる。そこを拠点にしたみやこワーク・ステーションという、障がいを持つ人たちが住み、共同作業所をも併設しているこの場所で、今日初めの野染をすることになる。 昔はホテル前の噴水広場であったような場所に、そのワーク・ステーションの方たちと、近くの仮設の人たちが集まっていました。その中に、今回の野染を呼んでくれた黒田陽子さん(後に黒田さんは私の大学時代の友人の姪に当たる人だとわかり驚きました)、そしてたいまぐらの安倍智穂さんが笑顔一杯で出迎えてくれました。智穂さんとの3カ月ぶりの再会を喜ぶ間もなく、天候があまりにも怪しく早速白生地を張ることに。 今にも降り出しそうな中でも、ダジャレだけは言わなければならない。 笑うことこそ野染。・・・でも早く染めたい人達。 染め始めるとあっという間に20m近い木綿布が見事な秋色に。 小さなこどもが一人参加。笑いを巻き起こし、人々を解き、繋げてくれる。たった一人でもこどもという存在が改めていかに大きな力を持っているかを、今回も感じさせてくれました。(おっちゃんのギャグなど太刀打ちできない) 以上、写真は澤畑明見さん提供 染めた布の上に白生地を置き、指先で線を描くと色が浮かび上がる。版画の一つ・リプリントを楽しむ。染料を吸って乾きやすくする効果もある。 染終わるや否や、とうとう雨が落ち始め、やがて本格的な降りに。 本館と、昔は結婚式場らしき建物をつなぐウエディングロードのような屋根つきの通路に急遽皆で、長崎の龍踊りのように布を運び入れ乾かすことに。野染ではこんなこともよくある。そんな時は、雨をも楽しむしかない。雨粒に打たれた野染の布もなかなか美しくて特別なものとなる。(このブログでもリンクしている安倍さんのブログ・森の暮らし たいまぐら便り にもこの時の様子がとてもきれいな写真とともに載せてくれているので是非ご覧を!) お針箱・毛糸・編み針など受け取っていただきました。前列の左から二番目の人が黒田陽子さん。この地域で踏んばっている様子が伝わってきました。 本館内にある喫茶店で温かいコーヒーをご馳走になり(ワーク・ステーションでは珈琲の自家焙煎もし、販売もしている)一息つき、野染で出来たさまざまな作品(野染の行方)をみんなで見て楽しんだ後に、エイズ・メモリアル・キルトをひろげました。一瞬にしてみんなの目が変わったように感じました。涙をためている方も何人かおられました。今、このキルトを広げることが果たして適切であったかどうか確かなことはわかりません。でも辛い病を抱え、精一杯生きた人たちの思いは、ここで必死に生きる人たちにも辛さだけでない、言葉を超えたメッセージを伝えてくれたと信じます。 この日の終わりに、乾いた野染を取り込みに戻って来た時、染に参加しメモリアル・キルトも見てくれていた、見覚えのあるお二人の人が手伝いに来てくれていました。仮設でたまたま出会ったお二人が、今はかけがえの無い大切な友となったことを話してくれました。笑顔で二人寄り添いながらしてくださった話がとても心に残り、私はなぜか、こんなところまで一緒に来てくれたキルト達のことを想っていました。 阿部智穂さん。 樫内でもとても大切な存在であることがひしひしと伝わってきました。 午後はその安倍さんがチクチクの会をずっと続けているグリーンピア田老の仮設住宅での野染です。雨はいつの間にか上がっていました。 |