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必然の出会い 1 [2013年06月04日(Tue)]


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「海の歌う日」 より



「必然の出会い」という伊藤ルイさんの本がある。伊藤野枝と大杉栄の間に生まれ、あの虐殺から一人生き残った人、ルイさん。彼女が1歳3カ月で死別した記憶の全く無い両親の、あまりの存在の大きさに苦しみ、しかしやがて父、母という二人の人間に、人間として向き合い、自らの立脚地を獲得しようとする道程で出会った人たち、和田久太郎、松下竜一、そして大道寺将司などなど、書き綴る中で、偶然の出会いだと思っていたことが、実はそれは必然の出会いだったのではと、思い至る。

私とルイさんが出会ったのは、1991年4月13日。アメリカの当時サンフランシスコに本部があったNAMES PROJECTからAIDS・メモリアル・キルトを200パネル(一枚の大きさが90p×180p)ほど、お借りし、日本の9都市を巡回するツアーを仲間たちと行ったさい、博多の会場で「偶然」に出会ったのがルイさんだった。3日間開催された博多展の初日に、一枚一枚のキルトをきわめて静かに、しかし、すごい集中力で相対している小柄な女性に、私は惹きつけられてしまい、結局最後までとなりに寄り添い話すことになるのだが、彼女は殆ど何も語らず、私の説明をただじっと聴き、お父さん譲りの大きな瞳でキルトを見続けていた。翌日、キルトの前に屈んで何かを置いている人がいる。あの辛い病を抱え、ほんのわずかな人生を生きた赤ちゃんのキルトの前に、一個づつケーキの箱を供えている、ルイさんだった。


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出会った2日目に頂いた自著「海の歌う日」

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その後、17年前の6月28日に亡くなるまで、年に一度ほど会うだけだったけど、その一期一会が切ないほどに今も胸の内にある。ルイさんは布がそして縫うことが大好きな人だった。私が染めた布の端切れを送ると、その布のための小引き出しを買ったと嬉しそうに話してくれた。その小さな布で小さな小物入れなどをたくさん作り、旅の人だった彼女は、いくつもそれを持ち、途上で出会う人・人に手渡していたみたいだった。ちょっと横に首を傾けてあいさつする様子がなんかとてもかわいくて、野の花のようで、今でも私の中の草原(くさはら)を揺らす風のような人。
彼女と私の生い立ちや育った環境はあまりにも違う。でもあそこで、メモリアルキルトの前で出会った。キルト展示の案内をどこかで見たルイさんが、まず見に行こうとした何かがあり、私もあのキルトにNYで出会って、深い所を突きあげられるような何かがあった。ルイさんは博多人形の彩色職人であり、手を動かし物を作る人で、わたしも染物屋を生業としていた。初めてお見受けしたルイさんのたたずまいに、体一杯の〈悲しみ〉のようなものを感じ、それが私の中の悲しみと共振した時間が確かにあった。悩み、絶望し、それでも自らが選びとるしかないその先にあるのが、この必然の出会いなのかもしれないと、今になって思う。

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ルイさんが京都に来て、彼女が大好きだったあの若冲の石仏・五百羅漢がある伏見の石峰寺を共に歩いた時、頂いたポーチ。染めたがら紡の端布にアフリカの泥染の布がアップリケされている。デジカメのケースとしてずっとカバンの中に入れ旅をしている。


3・11以降、大切な出会いが、あるいは出会い直しが、重なっている。
ともに旅するペコやポコやヒゲさん、一人人形芝居の木島知草さん、仙台の清水千佳さん、そして震災の年に逝った加藤哲夫さん(ほんの短い出会い直しだったけど今でも私の心の底に棲んでいる)など、以前からの長い付き合いだけれど、もう一度出会い直しているような実感がある。
釜石の山崎耀樹さん、釜石祥雲支援学校の刈屋真知子さん、ハックの家の竹下さん親子、大船渡保育園の富澤郁子さん、うさぎのしっぽパッチワーク教室の熊谷和子さん、ゆいとりの会の大棒レオ子さんなど、多くのたいせつな出会いがあり、それもやはり「必然の出会い」なのか。その出会いをじっと視つめていると、その底にあるのは悲しみのような気がする。あの大災害が今でも続く場で、耐えきれないような悲しみを抱え生きる人と出会い、語り合う中で、実は人が生きてゆくこと自体の悲しみに共感するような現場が多々ある。その時、偶然の出会いは必然の出会いとなってゆくのではないだろうか。
ルイさんが言う 「国家」や「社会から」「 」つきの「家族」として、良くも悪くも個人を圧迫してやまぬ牢固たる軛(くびき)から人間を解き放つ、たいせつな要件を個として獲得するために、一人闘うただなかで、他者とのこの必然の出会いが、大きな力を添えてゆくのかもしれない。

最近また、私にはなんとも慈しむべき出会いがあった。
<染色植物園機能を持たせた里山再生を実践的に研究する>宇都宮大学教育学部衣生活環境学研究室の佐々木和也さんである。
その出会いを次回書かせてもらいます。

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