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大槌小鎚 [2011年06月22日(Wed)]
6月14日  釜石祥雲支援学校の元気で和やかな野染めの余韻を体に感じながら、釜石の北にある町、大槌を目指す。被災がひどい釜石の町を抜けようとして道を間違え釜石港の北のはずれあたりまで来てしまう。どこか心地よかった体や気持ちがすっかり重く沈んでいく。
山側の三陸自動車道を通り、大槌町に下っていくと、海岸から数キロはあるであろう平野部、この町のすべてがひとさらいされたような寂寞たる風景が広がっている。わずかに残った建物には激しい火災の跡。ヒロシマ、ナガサキを想ってしまう。街のすべての機能が消滅したという。あの時、市長を始めとするこの町の行政の中心となる人たちが、津波など防災対策の会議の最中であったという。その方たち20人全員が犠牲に。
私たちはたった数日(いや数時間)現場にいるだけなのに、このような極めて違和感のある風景に身を置くと心身の根っこのほうに深刻なダメージを感じるようになる。この三カ月ここに身を置く人たちはいかばかりか。
私たちにはその山の向こうの、人の暮らしが豊かにある村で、おいしいご飯と温かなお風呂とぐっすり寝れる夜具をしつらえて待っていてくれる人がいる。そして京都には、東京には帰る家がある。私たちのしている支援という作業の意味を自問自答しながらの旅をやはり続けるしかない。
ここは宮澤賢治井上ひさしが夢を紡いだ悲願の地なのだから。物語の背後には津波や飢えや寒さが確かにあり、それに対峙するコトバを美しく掲げる人たちが精一杯生きてきた土地なのだから。










たいまぐら

飯桶を作っている工房









その津波が途絶えたほんの少し先にある小鎚地区の総合体育センターの弓道場が避難所になっている。そこから小さな川をさかのぼっていったあたりに点々と仮設が作られていっている。ここでこれからあの風景を眼前に、生きていかねばならない生活を想像する。

その避難所の中に、遠野まごころネットが作ったまごころ広場がある。


    被災地から被災地へ。つなげているのは被災地NGO恊働センター 




ここは避難所のカフェといった趣。確かにこのような場所、サロンは小さくても必要だなと、すぐ感じた。ここのテーブルでキルト作りが出来ればと思う。翌日の15日にこの広場で野染めをやることが急きょ決まる。その後、おなじ小槌地区のもっと山寄りにある共同作業所・わらび学園にお針箱と布のセットをお預けし、月夜の東和に戻る。


6月15日 再び大槌へ

        まごころ広場で野染め。お父さんたちも楽しむ。



澤畑明見さんが、指だけで編める簡単な袋(バッグ)作りを伝授。
段ボールに麻の経糸を巻き付け、指で緯糸を編みこんでゆく。「糸のよりを戻さないようにしてくださいね」と明見さんが教えると、すかさず「よりを戻したい」とつぶやく。
お母さんと息子さんが流された人でした。
ここでもお針箱と布を受け取ってもらいました。





わらび学園のすぐ近くにある部落の集会所も避難所になっている。
この学園の分園が流され、その方たちも避難されている。
造形大の学生たちが染め縫った蝶のキルトは、ここで縫い継がれることになりました。
今日電話をしたところ、今みんなで縫っておられるとのこと。



かなしみよ ふ〜っと飛んでいけ そして 小さな花にな〜れ  
                                    木島知草

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