• もっと見る

« 2011年07月 | Main | 2011年09月»
ギャップと蓮の花 −被災地・岩手県を訪問して−(2) [2011年08月16日(Tue)]

東日本大震災被災地訪問(2)
2011年8月10日〜8月11日

シーズ加古川 李 貫一


 遠野市
10日の朝は7時45分までに各自朝食を済ませ、遠野市へ向かった。山に囲まれ、街は静かだ。
遠野市には遠野市社会福祉協議会・ボランティアセンターがある。
山田町が最前線なら、ここは中継基地。遠野市は内陸にあり被災地ではない。各被災地へほぼ等間隔で行ける位置にあり、ここがボランティアや物資の中継地点になっている。最近まで物資倉庫になっていた体育館も視察した。
このボランティアセンターの近くに、もうひとつボランティアセンターがある。「日本財団ROADプロジェクトボランティアセンター」の看板が遠野市浄水場の中に見える。
 工事現場にあるような仮設施設がボランティアセンターになっていて、宿泊もできる。

 釜石市
遠野市から釜石市へ。釜石は海岸近くに街が広がっていたために林立した倉庫や工場の建物、高層のオフィスビルやマンション、商店街が大きな被害を受けている。窓は壊され、鉄骨が折れている建物が野放しになって残っている。もし車が通り、人の気配がなければゴーストタウンそのものである。
訪問した「NPO法人@リアスNPOサポートセンター」の入居ビルは2階までの部分は爆風を受けたような様相で、3階以上で仕事が行われている。さらに上層階は住宅になっていて、ひとつのビルに廃墟とオフィスビルと住居が階層をなしていて、廃墟となった下層の目線をそのまま上に向けると洗濯物がほしてある住居が見える。悲惨のなかに人の強さと希望を見出した風景だった。
廃墟となった店舗の前に「営業中」の看板を掲げて店の前に椅子を出している床屋さんに、どんなところからでも這い上がり復興を果たそうとする庶民の力強さを感じ取れることもできた。
お会いしたのは同NPO法人代表理事の鹿野さんと事務局長の川原さん。復興を果たそうとする勢いと知恵を兼ね備えた知勇兼備の人だ。
現在、@情報誌(生活情報)の発行 Aアーカイブづくり B映像を子どもたちの教育に活用 Cイベント(仮設住宅向け)の開催 などの事業を県から受託している。支援の区切りは2年で、それ以降をどうするか。
これからの重要課題は「人材の確保」「人材の育成」だという。
長期的な復興には人材が必要で、資金面とソフト面合わせた支援が必要。
行政の限界から民間の活力にも期待している。
代表理事の鹿野さんは県下の中間支援をまとめる「いわて連携復興センター」の代表理事でもある。
岩手県も兵庫県と同じく、NPOの中間支援組織は一つではない。
兵庫からのアドバイザー派遣など、今後の支援のかたちを探るのも今回訪問の目的のひとつ。鹿野さんからは専門家だけでなく、実際に神戸の商店街を復興してきた当事者のアドバイスも重要と付け加えた。


大船渡市
大船渡市の少し高台に「リアスホール」という曲線がきれいな市民ホールがある。その中にレストランをあり、現在そこで被災者のための弁当を作り、配っている団体が「さんさんの会」である。
そこに兵庫県から運んできた玉ねぎ、カボチャ、スイカなどを降ろす。
私は副代表などから話を聞く事務局長を横目に、入荷したものをノートにつけていた青年に声をかけた。
当初はここリアスホールが避難所となっていて、避難者に食事を出していた。仮設住宅ができてからは仮設住宅に食事を配給し、今は仮設住宅の独居老人などに弁当を配っている。
他の人が感じ取れない現場にいて、日々一人暮らしの高齢者に弁当を届けているボランティアの彼女に、自分の感覚でいいので、日々のことを感じたままに書き残しておくようにアドバイス。未来の宝を見るようでした。

陸前高田市
大船渡市から陸前高田市は近い。
しかし、陸前高田市の沿岸部に入った途端、太陽は雲に隠れ、どんよりとした雲が覆ったような気がした。
だだっ広い白黒の世界があった。水が引かず、泥の一帯の上に廃墟となった白い建物が傾いているだけである。ここでは復興の気配も感じることができなかった。
車で通り過ぎただけの場所であったが、強い印象を自分に残した。
そこで色を感じたのは、いまだ捜索を続けている消防庁のゴムボートの色と赤茶けた鉄の山だけだった。


所感
岩手県の広さゆえか、被災地の惨状ゆえか、多くのギャップを感じる二日間となった。
何もなかったかのようにビルが林立し、ビジネスマンやビジネスウーマン、学生たちが行き交う盛岡市内、町と町、都市と都市を結ぶ長い線の左右には、太古の昔より変わらず厳として存在する濃緑の森たち。しかし、沿岸部に出ると風景は一変する。対極の光景がそこにはある。まだ悲惨な惨状の爪痕が残っている。
がれきを積み上げた山は、悲しみとやりきれない恨みを積み上げている。そこには色のない白黒の世界が広がる。
さらに言えば、被災者と被災を免れた者、生き残った者と死んでいった者。
ギャップがあることが悪いとか良いとかということではなく、ただ事実としてギャップがあることを感じた。
しかし、廃墟の中でいくつもの光を見ることができた。それは「人の光」であり、「希望の光」。
久慈市「やませデザイン会議」の田中さん、川代さん、
「山田町社会福祉協議会」の阿部さん、佐々木さん、
「NPO法人いわてNPOフォーラム21」の中村さん、
釜石市「NPO法人@リアスNPOサポートセンター」の鹿野さん、川原さん。
大船渡市「さんさんの会」でボランティアをしている青年。
世の中には素晴らしい人達がたくさんいる。岩手は必ず復光する。
泥水の中から綺麗な花を咲かせる蓮の花。そんな花が咲く土壌が被災地・岩手にはあると思った。
私の大切な友人を含め、訪問時、貴重な時間をいただいた方々にあらためてお礼を申し上げます。有難うございました。

ギャップと蓮の花 −被災地・岩手県を訪問して−(1) [2011年08月16日(Tue)]

東日本大震災被災地訪問(1)
2011年8月8日〜8月9日

シーズ加古川 李 貫一

 被災地へ
 東日本大震災から5カ月。8月8日から11日まで田中理事長、柏木事務局長に同行するかたちで、被災地・岩手県を訪問した。私にとっては初めての被災地訪問となる。
 現地入りは私の希望からである。「現場に立ち、少しでも痛みを感じることができれば」と思ったからである。
届けるものもあり、車での岩手入り。8日の午後6時ごろ加古川市を出発し、最初の訪問地・久慈市に入ったのは9日の午前8時ごろ。11日の朝には兵庫県に戻っていたので、実質、岩手県にいたのは9日と10日の2日間。
この2日間、天気は晴れで、気温も30度を超え、猛暑日が続いた。

 岩手県
 岩手県は北海道に次いで全国で2番目に広い面積を持つ県。
 今回お会いした人達の口からも、「岩手県は広いから」という言葉が出てくる。
 地元の人も広さを実感している。なかには「東京へ出るより県内の各市へ行く方が時間がかかる」と付け加える。
 今回訪問したのは、久慈市、宮古市、山田町、盛岡市、遠野市、釜石市、大船渡市、陸前高田市である。岩手県の沿岸を南下したかたちである。
 
 久慈市
比較的被害が少なかった久慈市。「もう50センチ堤防が低ければこの建物も無事ではなかった」という久慈市勤労青少年ホームで話を聞く。
久慈市はもともと工場が少なかったので、被害も少なかったという。
また、河口から約1・5キロぐらいのところで、川が2本に分かれ、津波の力が分散し、被害を少なくしているという。
お会いしたのは「NPO法人やませデザイン会議」議長の田中さんと事務局長の川代さん。
団体名の「やませ」の意味は「やっかいもの」「迷惑なもの」の意味で、しくみを変えることで、自分たちが楽しめるもの、有益なものにしていこうとの意味が込められている。
同団体は市より勤労青少年ホームの指定管理を受け、「ジョブカフェ」の委託を県より受けている。設立より18年。青年会議所のOBを中心にスタートした団体。現代表の田中さんは6代目。
 久慈市は福祉系のNPO法人が多く、市民活動的なNPO法人は少ない。多くが任意団体でやっていける。

 宮古市・田老町
私が最初に目にした被災現場は、以前「万里の長城」とも言われた高い堤防が築かれている田老町。高く築かれた海辺の堤防の内には家族のいとなみがあったであろう住居のコンクリートの土台だけが四角を並べている。
堤防の手すりの鉄棒は曲がりくねり、津波の威力を物語る。今は無力だった堤防の高さだけがむなしい。 
堤防の東には、今は静かに海が広がり、西には、少し離れた高台の上に小学校の校舎と運動場が見える。その建物にも津波は押し寄せ、穴を開けている。
そこにいたであろう子どもたちのことが気になり、近くにいた地元の人に聞くと、全員無事だったという。


 宮古市街
宮古市の魚市場。壊れた建物の中には人の活気が少し戻り、がれきは一部では排除され、徐々に活気を取り戻そうとしている。
かたちを留める鉄筋コンクリートの建物は爆風が通りぬけたように窓枠だけが残り、鉄骨を剥き出しにしている。
津波の爪痕が色濃く残る残骸の風景のなかで、徐々に活気を取り戻そうと行き交う車。「復興」の景色だった。
身近な人たちに亡くなった方や、被災している人がいる宮古の人たち。平静に暮らしを繰り返しながらも、心の傷を共有している。


再会
宮古市には私の古い友人がいる。
私が韓国の延世大学韓国語教育部へ留学していた時、20年以上も前の話である。やはり日本から留学に来ていた女子大生で、帰国後、結婚をして、宮古市に住んでいた。
ご結婚されたこともあり、連絡することもなかった。しかし、大震災後、安否だけでもと思い、以前使っていたメールアドレスに送信したところ、使用されていない様子で、メールは届かなかった。
今回の岩手訪問に便乗し、訪問。約20年ぶりの再会となった。
家は海からそれほど遠く離れていない位置であったが、少し高台にあり、被災を免れていた。相手にとっては急な訪問であり、御迷惑ではなかったかと思う。
 また、前日、兵庫県から車を走らせてきて風呂に入っていないことが気になった。
彼女はピアノを教えていて、数分後には生徒さんが来られるという状況であった。
お互い変わらない様子を確認し、当時の思い出を二三語りあい、震災時の状況を聞いた。
自らが被災することはなかったが、知人の中には被災された方がおられた。
被災前と同じ日常を繰り返しているようでも、痛みを共有されているようであった。
帰り際にも、これから山田町の復興をお手伝いさせていただくために、シーズ加古川のスタッフ一人を当分の間常駐させることを告げると、「(山田町を)よろしくお願いします」と頭を下げてくれた。もったいなくも、申し訳なかった。岩手の人と出会い、多くを教わり、励まされているのはむしろ私たちだ。
元岩手県職員で「いわてNPOフォーラム21」の中村さんによると、震災を機にこういった再会劇が各地であったとのこと。

山田町
宮古市から釜石市へ行く途中に、下閉伊郡山田町はある。人口18,634人(2011年3月1日)の町で死者597人、行方不明者256人、家屋倒壊数3184棟。
人の命を数で表すことはできない。ひとりひとりに全て物語があり、何ものにも代え難い命であった。
宮古市から45号線を走り、左に折れた先に山田町の災害ボランティアセンターがある。そこには大きな爆撃があったのではないかと見間違う戦場のような光景があった。
左側は海で、沿岸にあった木々はなぎ倒され、右側には、がれきの山が5階の高さぐらいに積まれている。泥水の上には建物の屋根の部分だけが見えている。さらに進むと大きな旅館だった建物の上に押し流された車が乗っている。
それを左に見て入った所が以前は海洋センターであった山田町の災害ボランティアセンターである。
体育館と道場、グランドがあり、グランドにはドクターヘリが止まっていた。多くのボランティアが行き交い、ボランティアを終えて帰ろうとする団体が、玄関で記念撮影をしていた。
お会いしたのは、山田町社会福祉協議会事務局事業推進係長の阿部さんと同協議会主任ボランティアコーディネーターの佐々木さん。
最前線であるこのセンターで指揮を執っている。もっとも敬意を表したい人たちだ。
現在、支援のかたちは転換期を迎えている。物資の提供や修復から、地域づくり、仮設住宅のコミュニティづくりに移っている。生活相談を含め「カフェ」の開催が仮設住宅ごとに始まっている。
地域づくりは社協、NPO、ボランティア、地域の方が一緒になり進めていくが、地域の方が主役となるよう持っていく。また地域のなかで、仮設住宅の人と既存の在宅の人たちの交流促進も課題。
ここに投下されたわれらシーズ加古川の岩本君も社協の佐々木さんや阿部さんに付いてこの事業を進める。



盛岡市
9日の夜は盛岡市のビジネスホテルで宿泊。この盛岡市でお会いしたのが、「NPO法人いわてNPOフォーラム21」の中村さん。最近まで岩手県職員として働いておられた。
名刺には「協働コーディネーター」という肩書と一緒に「郷土食コーディネーター」という肩書があり、まずそちらに興味が引かれた。
岩手の郷土食から話が始まり、県全体のNPOや中間支援組織の歴史や現状をお聞きした。発展して、中間支援の育成や指定管理のあり方にも話が及んだ。

(2)へ続きます。