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「総合経済対策 事業規模は10兆円」(日本経済新聞8月29日朝刊1面) [2008年08月29日(Fri)]
いよいよ決まる「総合経済対策」。なんだか懐かしい響きがする。90年代に毎年のようにやっていた補正予算の再来だ。財政支出を伴う「真水」と事業規模を分けて見た目を大きく見せようとするあたりも全然変わっていない。

この決定にかかわった政治家の方々にひとつだけ聞いてみたいのだが、90年代に乱発した補正予算の政策効果を検証したうえでのことなのだろうか?どういう理論的な根拠での政策なのか?その部分の説明責任を果たすことは最低限の義務だと思う。

また、公明党が求める「低所得者層向けの定額減税」だが、具体的なスキームがよくわからない。もし、東京財団ですでに政策提言を出している給付付き税額控除のことを指すのだとすれば、これは画期的なのでぜひ実現してほしい。
Posted by 佐藤孝弘 at 09:53 | 経済 | この記事のURL
「民主党10年史」橘民義編・著 [2008年08月28日(Thu)]
民主党関係者有志が党結成以来の歴史を振り返る本。5名の著者はいずれも民主党議員秘書や関係団体の職員の経験者だ。

党公認の「正史」ではなく、有志が実名でそれぞれの想いで書いているので、面白い。その分、やや偏りはあるのだろうがいわゆる暴露本という感じではない。むしろ各執筆者が持つ民主党への愛着が感じられる。

あらためて民主党の歴史を見直して思ったのだが、非常に失敗が多い。戦略ミスやスキャンダルでチャンスを逃したことも多い。よく解党しなかったものだと思う。しかし、そのくり返しの中で着実に国民の信頼を掴んでいっているのを感じる。おそらく、参加している人々が「政権担当能力ある政党にしよう」という思いを強く持っていたからこそこれまでやってこれたのだろう。この点、55年体制の社会党と比べると天と地ほどの違いがある。本書の冒頭、民主党の源流のひとつとして、本気で野党連合政権を目指し社会党を脱した江田三郎について述べられているが、それも納得できる。

「偽メール問題」など、民主党にとって耳が痛いであろう問題を正面から取り上げられている。当時の民主党内には「馬淵症候群」と呼ばれる傾向があったという。これは、耐震強度偽装事件の追及で名を上げた馬淵澄夫議員の活躍に嫉妬や羨望を感じる若手議員で、その一人に永田氏もいたとのことだ。こういった感情は政治家なら誰でも持つだろうが、それが暴走しないよう、党の危機管理体制を整えるべきだろう。本書もそれを指摘している。

そのほか、民主党の組織や政策形成過程などがわかりやすく解説されている。第一書林というややマイナーな出版社のため、書店にはあまり並んでいないが、永田町・霞が関界隈では結構話題になっている本でもある。今後の民主党の動向に興味がある人はぜひお読みいただきたい。
Posted by 佐藤孝弘 at 13:29 | 政治 | この記事のURL
「ヘッジファンド・アクティビズムの新潮流(上)―ウルフパック戦術(群狼戦術)と金融商品取引法―」武井一浩(商事法務2008年8月5日・15日合併号掲載論文) [2008年08月25日(Mon)]
アクティビスト型ヘッジファンドの行動として注目を集めている「ウルフパック戦術」の概要。その意味するところは、「ヘッジファンド・アクティビズムの過程において、エクイティ・デリバティブの手法を駆使して各国の大量保有報告制度等に基づく開示を行うことなく、上場企業株式に対する一定の権益を取得し機会をみて複数のファンドが一斉に上場企業側に対して攻勢をかけ自らの要求を実現する行為」を指す。

エクイティ・スワップや貸株等によって経済的持分と議決権が分離してしまうことは従来から問題視されていたと思うが、このからくりを利用し、複数のファンドが水面下で協調して行動することで開示義務をすり抜けるのだという。本論文によれば、アメリカのある統計で、2005年初頭から20か月の間で行われたアクティビスト型ヘッジファンドによる株主提案52件のうち、25%相当でウルフパックの現象が認知されたとのこと。

日本でも遅かれ早かれこの流れは押し寄せると思われる。例のごとく、いざ問題が起こってから大慌てしないよう、今から制度的対応を研究しておく必要があるだろう。
Posted by 佐藤孝弘 at 18:21 | 経済 | この記事のURL
「日本人とは何か。」山本七平 [2008年08月19日(Tue)]
山本七平氏による、縄文時代から明治維新あたりまでの日本通史。ただし、単なる日本史ではない。本人による序文のタイトルに「新しい"菊と刀”」とあるように、日本に興味を持つ外国人に対して、日本人自身が自国文化と歴史の特徴を説明できるようにという意図を持って書かれた歴史である。

著者が採用する歴史区分は伊達千広の「大勢三転考」の基準に従っている。と、言われてもほとんどの方がご存じないと思われる。私も本書を読むまで知らなかったが、伊達千広は紀州藩士で陸奥宗光の父にあたる。彼が1848年に「大勢三転考」を書いた。

これまでの歴史記述の常識であった「紀伝体」「編年体」と関係なく、日本の歴史を「骨(かばね)の代」「職(つかさ)の代」「名(な)の代」の三区分とした。そしてそれぞれが「氏族制の時代」「律令制の時代」「幕府制の時代」に該当する。山本氏によれば、当時の東アジアで、政治形態の変化に基づいて歴史を区分し、それに是非善悪の判断を加えない歴史記述の方法において彼だけであろう、という。

私は冒頭からガーンと頭を殴られたように感じた。これまで伊達千広ような重要人物を知らなかったのだから。その後、高校時代に使っていた日本史の教科書を引っ張り出してみたのだが、そんな名前は全く出てこなかった。読み進むほどに、自分が日本史や日本文化にいかに無知であったかが思い知らされるが、これが本当に面白い。

例えば、6章の「<民主主義>の奇妙な発生」では、日本になぜキリスト教布教が失敗し、民主主義は成功したのか、が述べられている。まず、その成否を分けるようなそれまでの文化的な蓄積の差があったのではないかと仮説を立てる。

日本には民主主義を受け入れる素地があったというのである。民主主義を制度的に実現するには、「一人一票の秘密投票による多数決」というハードルを突破する必要がある。氏族制の下では、個人が自由な投票を行うことができないのである。日本ではその原型が仏教における議決方法「他語毘尼(たごびに)」にあるという。

本書では延暦寺の例が出ている。「満寺集会」という全員参加の集まりには、一同が大講堂の庭に集まり、全員が敗れた袈裟で頭を包み顔を完全に隠している。そして、それぞれの提案に対し、声を変えて投票を行っていた。後に盛んになる「一揆」の意思決定にも別な秘密投票のやり方が用いられていた。

ここで大事なのは、この多数決の結果は「民意の現れ」だから正しいのではなく、「神意の現れ」だということである。これはヨーロッパも同様で、ローマ教皇の選挙「コンクラーベ」の結果も当然神意だと解釈されてきたそうだ。

確かに、組織の構成員が「反対であっても、投票で決まったことには従う」という発想がなければ、民主的な意思決定で物事は動かないだろう。この点、先日ご紹介した岡田克也氏の「政権交代」の中で、民主党が政権を取るための条件のひとつに、党内の手続きで決定したことにはそれまで反対していても従う、というものがあったことが思い出される。この点は現代の民主主義においても大きな課題なのだろう。

6章に限らず、すべての章が平板な歴史記述ではなく、新鮮で考えさせられるものとなっている。新書サイズで800ページという大著だが、読んでいて飽きることがない。日本人としてぜひお読みいただきたい一冊だ。
Posted by 佐藤孝弘 at 22:24 | 歴史 | この記事のURL
「官僚国家の崩壊」中川秀直 [2008年08月14日(Thu)]
自民党のいわゆる「上げ潮派」のリーダー格、中川秀直氏の決意表明的な色彩が強い最新刊。地方分権から外交まで、幅広い政策分野について考えが述べられているが、タイトルにもあるように官僚批判の部分が中心になっている。

「官僚との死闘七〇〇日」と内容がオーバーラップする部分も多いが、長谷川氏とはまた違った政治家としての視点で描かれているし、政局を「カオスの縁」理論で説明するなど中川氏独自の考え方も出てきて面白い。また、霞ヶ関の体質についてよく研究しているという印象を受けた。

私が最近興味があるのは、今の霞ヶ関がなぜ多くの場面で機能不全に陥っているかという点だ。それについて中川氏はキャッチアップすべきモデルがなくなったという点を理由にあげ、以下のように述べる。

「やがて欧米をキャッチアップする時代は終わり、日本はフロントランナーの一員になった。指針はもはや海外にはない。海外にモデルがないと官僚は指導できない。かくして霞ヶ関は指導力を失った。」

この点は全く同意できる。ただ、官僚の中にアイデアマンがいないという訳ではない。個人として斬新なアイデアを出してもそれを組織として実現することが体質的に難しいのだ。

また、霞ヶ関の機能低下には、中川氏があげたのとは別に、もう一つ大きな理由があると思う。それは、今起こっている重要課題のほとんどが、各省庁をまたがっている問題だということだ。そのような場合、一省庁の部局単位では到底解決のアイデアが出てこないし、官僚も消極的になる。役人の発想では、基本的に自分の課の所管事項以外の部分については口を出さない。霞ヶ関と言えば権限の奪い合いばかりしているというイメージがあると思うが、実際には「これはうちの案件じゃない」と仕事を押しつけあう「消極的権限争議」のほうが多いのだ。

その点を考慮に入れると、やはり政治が官僚をうまく使いこなしながら改革を進めるためには、省庁の部局の枠を越える、課題解決のための組織づくりのうまさがカギなのではないだろうか。
Posted by 佐藤孝弘 at 00:29 | 政治 | この記事のURL
「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」北康利 [2008年08月11日(Mon)]
福沢諭吉の伝記で、著者は前著「白洲次郎 占領を背負った男」がベストセラーとなった北康利氏。なお、北さんは私も部長を務めていた東大弁論部の先輩でもある。

福沢は豊前国中津藩の「下士」身分の家に生まれた。中津藩では、武士階級は「上士」と「下士」に分かれていた。1600名ほどの藩士のうち、上士と下士が1:3ほどの割合だった。子供の頃、上士身分の者が上士というだけで偉そうにしているのに忸怩たる思いでいたという。

中津藩を飛び出し、最初は長崎、次は大坂の緒方洪庵の適塾で蘭学を学ぶ中で、その才能を開花させていく。適塾は上士も下士もなく、実力だけが評価される世界である。それに加え、洪庵の門下生への慈愛に満ちた指導の中で、福沢は教育の有るべき理想を見た。

その後幕府に出仕した福沢は、咸臨丸で勝海舟とともにアメリカに渡り民主政治の実情を知る。アメリカ人にワシントンの子孫はいまどうしているのかを尋ねても答えられなかった。福沢からすればワシントンは日本で言えば徳川家康のようなもののはずであった。その子孫に国民が感心を持っていないという事実。ここに自由社会の本質をみた。

維新後は慶應義塾にてあくまで「民」の立場から人材の育成を続け、明治5年には「学問のすすめ」を発刊する。冒頭から、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといへり」という新時代の本質を一言でとらえた言葉で、全国民に衝撃を与えることとなる。まさに福沢が理想とする実力社会の到来を告げる言葉である。「学問のすすめ」は累計340万部も売れたという。

身分社会を打破し、社会の流動性が高まると個人の強さがこれまで以上に求められてくる。福沢はそのことをいち早く見抜き、国民を啓発することを自らの使命と心得ていたのではないだろうか。

先日、著者の北さんのお話を伺う機会があった。サブタイトルの「国を支えて国を頼らず」は福沢の言葉ではなく、北さんが福沢の人生や思想を現すために造った言葉とのこと。まさに言い得て妙だと思う。前作と同様、テンポがよく、登場人物が活き活きと描かれており非常に面白い。是非読んでいただきたいと思う。
「官僚との死闘七〇〇日」長谷川幸洋 [2008年08月06日(Wed)]
安倍政権の「改革」を影で支えたチームのルポタージュである。著者と高橋洋一氏、「教授」と呼ばれる学者の3名の動きを軸に、安倍政権発足〜現在までの政治状況が描かれている。

「政治VS霞ヶ関」、「上げ潮派VS財政再建派」という二つの対立軸の中、東京新聞の記者である著者が政権中枢の政策決定に関与し、改革を進めようとする。それに対し霞ヶ関がいかなる抵抗をしたか、実名つきで語られる。

私が面白かったのは第三章「大型補正の密謀」だ。2006年秋のこと、財務省は2兆円もの大型補正予算の検討をはじめた。景気が好調だった当時、税収の自然増が5兆円に達した。普通の人間なら、「財政赤字で苦しいのだから、その分財政再建にまわせばいいじゃん」と思うだろうが、役所の理屈ではそうはいかない。

2006年の財政赤字は当初予算で30兆円。5兆円をすべて財政再建に回してしまうと、それが25兆円に減る。そうなると次年度以降の予算編成では、「赤字25兆円」を議論の出発点とせねばならない。歳出削減のハードルも高くなる。そうならないように2兆円は使ってしまい、議論の出発点を「赤字27兆円」にとどめておこうというわけだ。

役人経験の無い方はこの理屈は理解しにくいと思うが、役所的な組織はとにかくフリーハンドを求めるのだ。それこそが権力の源泉だからである。裁量の余地がなければ財務省主計局の影響力はそれだけ落ちる。ちなみに、日銀がデフレが続いているにもかかわらず事あるごとに利上げを画策するのも、それによって金融政策のフリーハンドを確保したいからだ。

当時、各省の若手の役人の友人たちとの飲み会で、この補正予算の話題が出た。「バカバカしい。さっさと5兆円分借金返せよ」とみんな言っていた。ところが役所の最高幹部クラスでは、チャンスとばかりに予算の確保に走る。

とはいえ、役所にはしっかりと国民のために働いてもらわなければならない。「役所=悪」という発想では難しいだろう(著者も役人を手厳しく批判をしてはいるが、そのようなステレオタイプの発想には組しないようだ)。役人をいかに使いこなすか、政治サイドはその研究を徹底的に行うべきではないかと思う。
Posted by 佐藤孝弘 at 10:15 | 政治 | この記事のURL
「政権交代 この国を変える」岡田克也 [2008年08月04日(Mon)]
民主党衆議院議員、岡田克也氏の最新著。氏の生い立ちから政治家としての軌跡と、政権交代への想いが綴られている。

当事者目線で、情感たっぷりに書かれていて面白かった。とくに細川連立政権誕生のあたりや、新進党時代に小沢氏と羽田氏の対立の狭間で苦労したエピソードの部分は読ませるものがあった。

細川政権が生まれた頃、私はまだ高校生で、テレビにかじりついて各党党首の話を聞いていた。当初は日本の新しい政治が始まると思い期待していたが、その後の「国民福祉税構想の挫折→細川総理辞職→自社さ連立政権成立」という流れには本当にがっかりした。特に、従来の主張を180度転換してまで政権与党の座に就いた社会党には、本当に憤りを覚えた記憶がある。政権交代というシナリオがリアリティを持ってきた今、当時の失敗を反省し、活かすべきだろう。

そもそもなぜ「政権交代」が必要なのか、55年体制においても自民党内の派閥政治による「擬似政権交代」は起こっていた。なぜそれではダメなのか。岡田氏はこの本で、政・官と既得権者の癒着構造の打破を掲げている。私も、やはり大胆な政策転換がしづらいという点がもっとも大きいと考えている。特に、人の命に関わるような重要な政策(薬害など)で政策転換することは、同じ政党のかつての大臣を道徳的に非難することにつながってしまうため、間違いを認めにくいのではないだろうか。

そして大切なのはどのような方向で政策を転換するかということだろう。本書にも政策に関する記述がもう少し詳しいほうが良いと思った。政治家の著書を読むといつも思うのだが、おそらく読者層を広く設定すると細かい政策の話はカットせざるをえない事情があるのではないか。

本書の終わりのほうに出てくる、

「私は、所得格差拡大の原因がすべて小泉改革にあるとは思っていない。むしろ、経済のグローバル化に伴い、世界的に同様の現象が発生していると見るべきだろう。経済のグローバル化の果実はきわめて大きいし、そもそもグローバル化の流れにあらがうことはできない。その結果として、格差が広がり、中間層が薄くなっていく。」

といった認識は、先日ご紹介したライシュの著書と通じるものがある。次はより詳細で骨太な政策本を期待したい。
Posted by 佐藤孝弘 at 15:09 | 政治 | この記事のURL
「暴走する資本主義」ロバート・B・ライシュ [2008年08月01日(Fri)]
クリントン政権で労働長官を務めたライシュの著書の日本語版である(ちなみに訳者の一人、今井章子さんは東京財団広報部ディレクター)。仮にオバマ政権が誕生した場合、ライシュは要職に就く可能性があり、その意味でも本書は重要だ。

私はもともとライシュのファンで、「ザ・ワーク・オブ・ネーションズ」を読んでその分析の鋭さと視野の広さに感銘を受けたクチだ。今回もかなり大きな期待を胸に読んでみたのだが、やはり期待以上の面白さだった。買って損のない一冊である。

本書のテーマは資本主義の変質と民主主義である。ライシュの分析によると、まず個人には消費者・投資家としての側面と、市民としての側面がある。1970年代以降、消費者・投資家としての我々の生活は大層便利になった。良い商品を安く買えるようになったし、投資に対するリターンも増えた。一方、市民としての我々は賃金の低下、リストラの恐怖、格差の拡大、商店街の荒廃など、諸リスクの増大する中、不安を抱えて生きている。彼は以下のように述べる。

「つまるところ、消費者や投資家としてのすばらしい取引は、いったいどこから来たと考えればよいだろうか。その一部は、低賃金からである。低い賃金や福利厚生に甘んじなければならない労働者、安い給料の仕事に移らざるをえない労働者がもたらしてくれたものだ。そのほかには、一般の小売店よりも安い商品を提供して商店街を荒廃させる量販店からもたらされたと言えるし、一部は、地域社会への忠誠心をかなぐり捨て、インドネシアで十二歳の子どもを低賃金で働かせるグローバル・サプライチェーンへと変身した企業がもたらしてくれている。」

ライシュはその原因を資本主義の変質に求める。グローバル化や技術革新(ITや物流など)、規制緩和によって競争が激化し、消費者や投資家の企業への影響力が格段に高まったからである。そしてそれを「超資本主義」と名づけている。ここでは詳細には紹介できないが、そのことを様々な事例やデータで説明してみせる。

そこから生じる諸問題を解決できるのは政治である。民主的な手続きでルールや規制を変えていくしかない。ところが肝心の民主主義が超資本主義に飲み込まれており、全く機能していないとライシュは指摘する。具体的には、ロビー活動の激化により、政策が企業の利益を代弁しているにすぎなくなっているということである。一見公のための議論をしているようでああっても、裏には企業とロビイストによる政治献金がある事例などがたくさん出てくる。

ライシュは処方箋として、企業の経済活動と政府による政策を切り離すことを訴える。そこでも企業に道徳的な行動を期待しないこと、法人税を廃止することなど、面白い論点がたくさんあるのだが、ここから先は是非本書を読んで頂きたいと思う。

日本についての記述は少ないが、「超資本主義」の現状分析の部分は大部分日本にも当てはまっているように思える。たとえば格差社会の議論をする場合にはライシュが指摘するような経済の構造変化は必ず考慮に入れなければならないはずだが、そこまで深く突っ込んだ議論はあまりみられない。(例外として、山田昌弘氏は「新平等社会」などの著書でライシュを引用しながら議論を進めている)

また、日本でも「超資本主義」の暴走に政治が対処できていないという点は同じだが、アメリカとは事情が異なりロビー活動の激化によるものではない。これについては私たち日本人が原因とそれへの対策を考えていかなければならないだろう。
Posted by 佐藤孝弘 at 09:39 | 経済 | この記事のURL