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「買収防衛策―企業価値研報告書をめぐって(上)」太田洋(日本経済新聞7月29日朝刊「経済教室」) [2008年07月31日(Thu)]
6月30日に経済産業省の研究会である「企業価値研究会」が出した報告書「近時の諸環境の変化を踏まえた買収防衛策の在り方」についての論評。

同報告書にある、「買収者に対する金員等の交付を行うべきではない」「金員等の交付を行わなくとも買収防衛策を発動できると責任をもって説明できる場合でなければ、買収防衛策は発動されるべきではない」などの記述について、ブルドックソース事件における最高裁決定の一部を実質的に否定していると批判する。

だが太田氏は「買収者へ経済的補償を支払うべきだ」といっているわけではない。「報告書」の内容に問題があるのではなく、行政庁の研究会が「報告書」という形で世に公表することの意味について疑問を呈しているのである。太田氏は言う、

「買収防衛策の導入や発動の適法性に関して裁判例の蓄積が進んだ現状で、最高裁の判断の一部を実質的に否定する内容を、一般的な「ガイドライン」という形式でこの時期に公表する必要性が果たしてあったのであろうか。しかも、この「ガイドライン」は、会社法その他の法令の「解釈」なのか、政策提言なのか、一種の自主ルール的な意味があるのか、全く不明確だ。経産省という公的な権威が最高裁判断と抵触する内容を公表すれば、実務は戸惑わざるをえない。」

実に率直な意見である。このような意見が実務を担う弁護士の方から出てきたことには敬意を評する。

この指摘については、私はこのブログでも何度も指摘してきた。「報告書」や「指針」をいくら出しても、それは法律ではないのだから、裁判所を拘束しない。実務を混乱させるだけだ。責任ある行政庁であるなら、あくまで立法で対処すべきだ。

太田氏も「最高裁の判断に受け入れ難い部分があるなら「ガイドライン」に類する形ではなく、立法提言の形や、それに対する(論評としての)「批判」の形で報告書を公表すべきである。」と述べる。

これについては、東京財団は今年の2月にすでに政策提言「株式会社の本質と敵対的買収」を公表し、現在各方面に働きかけているところである。会社法、金融商品取引法の改正を含め、立法による買収ルールの整備の具体的な提案をしている。

一方、太田氏は買収ルールの形成には個別事例の蓄積によるほうが適切なものができるのではないかとも述べている。この点、私とは意見が異なる。個別事例の蓄積には裁判所やそれに近い行司役が必要になる。英米で可能だったのは、アメリカにはデラウェア裁判所、イギリスにはテイクオーバーパネルがあり、人材やノウハウの蓄積がしやすかったという事情があったからである。その上、この両国においても非常に長い時間をかけてルール形成してきたのである。

果たして日本の裁判所にそれが可能なのか?可能だとしても何十年もかかってしまうのではないか。そのような問題意識から、我々はまず立法によりある程度買収ルールを明確にすべきということを主張してきた。

いずれにせよ、太田氏の勇気ある発言により、ようやく日本の買収ルールをまともに議論する土台が整ったといえるだろう。
Posted by 佐藤孝弘 at 10:21 | 経済 | この記事のURL
「私の履歴書 人生越境ゲーム」青木昌彦 [2008年07月25日(Fri)]
東京財団でVCASI(仮想制度研究所)を主宰する青木昌彦先生の自叙伝。もともと日本経済新聞の人気コーナー「私の履歴書」で連載していたものに大幅に加筆されている。

学生時代にブントで活躍した頃からアメリカでの研究生活、そして現在に至るまで、青木先生が企画してきた7つの「知的ベンチャー」を軸に自身の人生を振り返っている。先生自らが「越境ゲーム」と称しているように、学問的にも地理的にも、既存の枠組みを超えて自由自在に活動されてきたことがよくわかる。

読んでいて驚くのは登場人物の“濃さ”だ。経済学者だけにとどまらない大物の連続で、青木先生の幅広い交友関係がわかる。人を引き付ける磁力のようなものを持っておられるのだろうと思わずにはいられない。

その出会いとと研究生活の中から得られた結論はどれも示唆に富んでいる。私にとっては、
たとえば以下のような部分が非常に印象に残った。

「社会のゲームの新しいルールは、古いルールをぶちこわした後に突然生まれるのではなく、ゲームのルールを変えようという人たちのあいだですでに実験され、胚胎されているプレイの仕方が、だんだんと世の中に受け入れられることによって生まれるのだ」

「真の「改革」(制度変化)とは単なる「独法化」というような組織いじりで達成しうることではなく、人々が分かち持つ意識のあり方(マインド・セット)と深く関連するということに深く思い至った。」

読み物としても非常に面白く、冒険活劇を読んでいるような気持ちになる。ぜひ読んでいただきたい一冊だ。

先生は現在進行形でVCASIという7つめの知的ベンチャーに取り組んでおられる。こちらのほうにも今後ご注目いただきたい。
「耐震偽装―なぜ、誰も見抜けなかったのか」細野透 [2008年07月16日(Wed)]
ここ半年ほど、いわゆる「官製不況」の問題がメディアを賑わせていた。中でも、昨年6月に施行された改正建築基準法は常に一番の具体例として掲げられていた。この問題は現在どうなっているのだろうか。

「日経アーキテクチャ」の最新号の特集「改正建基法の呪縛」などを読む限り、問題は全く解決していないようだ。同特集にある、建設関係の実務家へのアンケートでは「改正建築基準法で建築物の安全を確保できたと思うか?」という問いに対し、「安全を確保できるようになった」と答えたのがたったの12・2%、「安全を確保できたとは思わない」が69.3%という状況である。いわゆる耐震偽装問題を受けて改正された建築基準法だが、このアンケートをみるかぎり全く効果がなかったということになる。

しかも、手続きの煩雑化により、住宅等の新規着工が大幅に遅れ、多数の建設関係企業が倒産することとなった。いったい何のための改正だったのか。当時のメディアの報道ぶりにも問題はあったが、現場を見ずに拙速で行われた法改正がどれだけ国民にダメージを与えるかが本当によくわかる事例だと思う。

本書は、耐震偽装問題が起こった背景となる、構造設計の現場や建築士の境遇、確認審査の実態などがわかりやすく解説されている。構造設計自体がかなり専門的な分野で業界外の人にはとっつきにくいが、本書ならこの問題を考える際の基本的なポイントをおさえることができるだろう。

本書でも取り上げられているが、建築基準法で定める耐震基準は、「最低基準」であるにすぎない。つまり、「震度6強の地震が来てもとりあえず中にいる人は死なない」といった程度の基準にすぎない。この基準ギリギリで建物を建てると、「中の人はとりあえず死なないが、立替が必要」ということにもなりうる。そして、それについては誰も責任を取ってくれないのである。

ところが一般には、建築基準法の基準を満たしていれば安全・安心という、間違った認識が広まっている。買主への説明としてそのように言う不誠実なディベロッパーも多い。このズレが最大の問題と思われる。

著者は「耐震性は躯体コストに比例する」と言う。つまり、コンクリート費用や鉄筋費用を節約しようとすればそれだけ耐震性は下がるということである。逆に言えば、安全は金を出せば買えるということになるだろう。その程度の認識も我々にはないのである。何千万をする買い物をするのに、その安全性について気を払わないようになってしまったのは非常に不思議なことだ。

厄介なことに、いったん建ててしまった建築物の安全性は、素人である消費者には全くわからない。また、建築には極めて多数の関係者が関係するため、責任が分散してしまい、結局だれも責任を取らないということになりがちである。(耐震強度偽装問題のときがまさにそうであった)

非常に難しい問題だが、実態をしっかりと踏まえたうえで、実効性のある法改正が求められている。現在、東京財団でも検討を進めており、いずれその成果を公表したい。
Posted by 佐藤孝弘 at 19:29 | 経済 | この記事のURL