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「戦国大名 日本の歴史11(中公文庫)」杉山博 [2007年11月13日(Tue)]
民主党小沢党首の辞意表明と撤回についての一連の騒動を見て上杉謙信を思い出した。唐突に聞こえるかも知れないが、謙信もいったん「辞意表明」し、その後翻意して、再び国主の座に戻ったのである。

弘治二年(一五五六)三月、二度目の川中島の合戦から戻った謙信は、隠居を宣言し、高野山に入ると言い始めた。家臣達は大いに驚いて謙信に懇請し、それを受ける形で政務に復帰した。この事件の原因としては、合戦により心身共に疲れてしまった謙信が、投げやりな気持ちになったという見方もある。しかし著者の分析は、すべて謙信の演出だったのではないかということである。謙信は復帰するにあたり、家臣に誓紙をもって忠誠を誓わせた。さらに人質を春日山城に差し出させている。結果として、謙信の権力基盤は強化されたのである。

戦国大名というと中央集権的なイメージがあるが、実際には領国を分有する国人層のリーダーという位置づけにすぎなかった。他国に戦を仕掛けるには、彼らを動員する必要があるが、独立意識の強い家臣団では、いつ裏切りやボイコットがあるかわからない。どの戦国大名も領内を掌握するため、どこかの段階で権力を集中化する必要があった。

例えば中国地方の戦国大名、毛利元就の家臣には、有力豪族の井上一族がいた。その身勝手な行動に元就はほとほと手を焼いていたが、耐えに耐えながら版図を少しずつ拡大した。次男の元春を吉川家、三男の隆景を小早川家に継がせ、体制を万全に固めた上で、ついに井上一族を断罪、血の粛清を行った。同時に「今後家中のことは思いのまま成敗する」と宣言し、ようやく専制体制が実現したのである。

本書では、他に北条氏、武田氏、伊達氏、島津氏等、有力大名が苦労して「同輩中の首席」という立場から権力を掌握していく過程が活き活きと描かれている。その手法も様々で、現代の政党政治におけるリーダーシップの形成過程にも通じるものがあって面白い。

日本では、分権型の統治構造の伝統が長く、それは江戸期に入ってもまだ色濃く残った。笠谷和比古氏が指摘しているように、江戸時代には、主君「押込」のような行動が合法化していたのである。明治になっても戦後になっても分権型の統治構造に変わりはなかった。日本では専制型の統治機構が生まれにくい、というより、そもそも歴史上存在したことがないのかも知れない。
Posted by 佐藤孝弘 at 17:46 | 歴史 | この記事のURL