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尖閣ビデオ流出と職業政治家の「死」 [2010年11月06日(Sat)]
尖閣諸島沖漁船衝突事件のビデオ映像がインターネット上に流出した問題は現代日本政治が抱える最大の問題を浮き彫りにしました。少し長くなりますが、それについて書きたいと思います。現在のところ、誰が、どのような意図で動画をアップしたのかは明らかになっておりません。多くの見方は、海上保安庁や検察など、政府内部の人間が行った可能性が高いとしております。

本件に関する国民の反応で特徴的なのは、動画をアップした人間を讃える人が多いということです。ユーチューブの書き込みを見てもそうですし、本日(11月6日)付の読売新聞によると、海上保安庁に映像を見た国民からの電話が100件程度あり、そのうち83件が「仮に流出させたのが海保の関係者であっても処分はしないでほしい」「犯人捜しはしないで」といった意見だったそうです。

仮に動画をアップしたのが政府内部の人間だとすれば、それは重要な国家機密の漏えいです。極めて重大な問題で許されざることでしょう。尖閣問題にはいろいろな見方や意見対立もあるでしょうが、国家機密の漏えいはどのような立場から見てもやってはいけないことのはずです。しかし、国民の多くがそれを讃える。これはいったいどういうことでしょうか。

実は私も、このニュースを聞いた時、なんとなく「スッキリ」した気分になった一人です。その後やはりこの行為は問題だと思ったものの、最初にスッキリしたことは紛れもない事実で、その感覚はどこから来るのか、考えてみなければならないと思いました。

結論から言えば、職業政治家がプロとしての役割を放棄し続けた結果、個人としてリスクを取った独断専行に対し多くの支持が集まったということだと思います。尖閣の問題については、初動から船長の逮捕、釈放、その後の中国の報復措置への対応、ビデオの公開と、迷走に迷走を重ねてきました。多くの国民は政府の場当たり的、優柔不断な対応にいら立っていたはずです。そして、それらの迷走の中で、最高責任者たる菅総理がどういう方針で臨んでいるか、どういう決断しているのかは全く見えてきませんでした。

総理大臣という職の本質はつきつめれば決断です。政治的な決定には、様々な価値の利害や対立を含まないほとんどありません。そして、総理にはその中でも最も判断が難しいものだけが上がってくるのです。政府の課題についての案件が総理にあがってくるまでには、政府内の無数のプロセスがあります。省庁間で意見が異なる案件については、各省の係長同士の交渉でケリがつかなければ課長補佐同士、それでケリがつかなければ局長同士、それでケリがつかなければ次官同士、そうでなければ大臣同士というふうにカウンターパートのレベルが上がっていきます。そして、多くの案件は最も難しい、国民にとって影響が大きい政策が最終的に総理の決断案件となってきます。

こうした案件は、どういう決断をするにせよ、それによって得をする人、損をする人、幸せになる人、不幸になる人が出てきます。決断を下すこと自体が身を引き裂かれるほどつらい内容も多いでしょう。だからこそ、総理を務める人間にはそうした決断に耐えうるだけの歴史感覚や見識、そして胆力が求められるわけです。

総理大臣の仕事のほとんどは、「大方針を示し、決めること。そして個々の決定の積み重ねのなかで、国家を何らかの方向に導くこと。」であることに尽きることがわかると思います。

ところが菅総理は就任以降、ほとんどその仕事を放置、または放棄、または他人まかせにしてきました。外交案件に限りません。補正予算の規模を決められない、消費税についての方針を決められない、子ども手当の金額を決められない、TPPへの方針を決められない、年金制度の抜本改革の方向性を決められない、来年度予算の歳入の見通しが全く立たないことへの方針が決められない、あるのは “検討せよ”という「総理指示」とそれを受けた“○○会議”ばかりです。

こうして、総理大臣というプロの職業政治家の頂点にいる人がその責任をまったく果たしていない状況をいやというほど見せつられている国民からすれば、政府内の人間が機密漏えいの罪に問われる危険性を省みず、個人としての判断で動画公開を決断したことに人はスッキリしてしまうことになるでしょう。これを職業政治家の「死」と言わずして何と表現すればよいのでしょうか。

菅内閣の行動がこの点で劇的に変わらない限り、今後も政府部内の個人としての独断専行や政治のプロ以外の人が政治に影響を与えようとする直接行動を「讃える」風潮は変わらないどころかますます強まっていくものと考えられます。
菅総理は12年前の著書「大臣」で以下のように述べています。

「政治家が「トップダウンでやる」と言うと、独裁につながるという批判の声をよく聞く。しかし、私は誤解を恐れずにあえて言えば、民主主義というのは「交代可能な独裁」だと考えている。」

当時これを読んだ私は、菅氏はどのような政治制度であれ、リーダーの役割がは「決断」に集約され、それは常に「孤独」であるということを深く認識しているのだと思って感心していました。しかし、総理就任後の動きをみておりますとどうやら買いかぶりだったようです。もう一度職業政治家としての役割とは何かを深く認識し、行動に移していただきたいと切に願います。それができないのであれば、官邸を去るべきです。
Posted by 佐藤孝弘 at 12:28 | 政治 | この記事のURL