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「幕末維新に学ぶ現在」山内昌之 [2011年06月23日(Thu)]
イスラーム研究の大家である著者が幕末の人物を現代の政治状況とからめて批評した本です。もともとは産経新聞に連載していたそうで、本書は2009年3月から2010年3月までの分をカバーしています。

50名以上の人物伝を一冊で読めますのでお得感があります。坂本竜馬、吉田松陰といった有名どころから、福原越後、林忠崇など、あまり着目されない人物まで、広くカバーしています。

林忠崇は、上総国請西藩一万石の藩主だそうですが、なんと戊辰戦争の際、領地を返上し、新政府軍と戦い、脱藩大名と呼ばれたそうです。脱藩志士や脱藩浪士などということばは良く聞きますが、大名みずから脱藩したのは林忠崇だけだそうです。

そうした人物伝だけでもためになるのですが、著者が独自の視点で現代の政治の動きとからめて語るところが面白いです。特にこの本の期間は政権交代の混乱期なので、幕末ほどの混乱ではないにせよシンクロする部分もあります。大変読みやすくなっておりますので、ぜひお読みください。
Posted by 佐藤孝弘 at 17:48 | 歴史 | この記事のURL
「思城居 男はなぜ城を築くのか」濱口和久 [2010年05月06日(Thu)]
ゴールデンウィークはかなり仕事で埋まってしまい、どこも出かけられなかったのでせめて出かけた気分になろうということで読みました。タイトルは「おもしろい」と読みます。全国のお城について、その由来や見どころをコンパクトに解説した本です。著者の濱口さんは大学弁論部の世界でも先輩にあたる方です。(濱口さんは防衛大弁論部、私は東大弁論部になります)

安土城から江戸城まで、30のお城についてのエピソードが綴られております。もともと歴史好きなので、「岐阜城は堅固なイメージがあったけど、6回も落城してたのか」とか、「岡山城は安土城をイメージして作られてたんだ」など、歴史の勉強になるとともに新たな発見をさせてくれます。読んでいくうちに、やはり実際に行ってみたくなりまして、余計に欲求不満になったしまったのですが…。

旅行で出かけた時も、やはりこうした知識があるのとないのとでは楽しさが違ってきます。これまで歴史にあまり興味がなかった方も、ぜひ旅行前に本書をお読みいただければと思います。

なお、本書で紹介されている30のお城のうち、私が行ったことのあるのは、ちょうど半分の15です。その中で個人的なベスト3は、

1 上田城
2 松本城
3 彦根城

でした。上田城は本当に堅固な感じがして、さすが真田の城だなあと思いました。皆様も是非本書でお城を巡る楽しさを感じていただければと思います。
Posted by 佐藤孝弘 at 14:19 | 歴史 | この記事のURL
統帥権の独立と検察・日銀の政治的中立について [2010年02月12日(Fri)]
先日秦郁彦氏の「統帥権と帝国陸海軍の時代」という本を読んで思うところがありました。まだまだアタマの整理ができていないのですが、備忘録的に書いておこうと思います。

昭和史における軍部の暴走の大きな拠り所(法的根拠)として何かと取り上げられる「統帥権」ですが、昔から大きな疑問がありました。それは、「そもそもどうして明治憲法にこんな条文を作ったのか?」ということです。

大日本帝国憲法の第11条は、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と定めています。軍の作戦や指揮命令に関することについては、天皇が直接命令を下し、内閣の補弼は不要ということです。具体的には陸軍省に対する参謀本部の独立という形で制度化されました。

後付けかもしれませんが、いかにも「軍部の独走・暴走」を招きそうな制度ではありませんか。そういう懸念は憲法制定当時はなかったのでしょうか。私としては、統帥権独立の「政策目的」「制度趣旨」を知りたかったわけです。ところが、それについて明確に書かれた本にこれまで巡り会いませんでした。

本書は、その疑問に答えてくれました。驚くべきことに、その成立事情は研究レベルでも明らかではないというのです。現在においても、大きく分けて5つほどの説があるとのこと。

1、西南戦争などの教訓
2、プロシア軍制の模倣
3、日本的伝統の影響
4、天皇親政と民権対策
5、山県(有朋)一派の野望

これらの要因が複合的に作用して統帥権の独立が成立していったそうです。著者の秦氏は5の要因を強調されておられます。山県有朋が軍や政府内部で権力基盤を確立する過程に、大いに利用されたというわけです。実際上大きかったのはそこかもしれません。しかし、私がもともと興味をもっていた、公式の「制度趣旨」です。その点からすれば、どうやら、「軍隊の政治的中立」というところにありそうです(本書では4の部分に書かれています)。

本書の内容と私見を交えて書きます。統帥権の成立時期は西南戦争の直後にあたります。ご存じの通り、西南戦争は新政府内部の闘争に敗れた西郷隆盛が起こした反乱です。ここから得られるストレートな反省としては、政府内部の権力闘争が軍に及ぶと国内の軍隊の内乱になりかねないということです。そうならないために、軍隊は天皇に直属させることで中央の政争から隔離したということのようです。

また、当時の政府は自由民権運動が激化し、この運動と軍が結びつくことも恐れていました。この意味でも軍の政治的な中立は必要でした。

軍隊の非政治化・中立化が統帥権の表向きの制度趣旨となると、悪名高い「統帥権」も、もともとの趣旨自体は正しい、ということになります。しかし、後年それが徐々に拡大解釈され、軍部大臣現役武官制や帷幄上奏権とセットになって軍部の暴走につながったということになります。

大きな教訓のひとつとしては、「○○の政治的中立」といった制度趣旨の政策については、当事者がよほど運用に気をつけなければ当初の意図と違った結果が待っているということでしょう。

戦後の法律では基本的に全ての制度に民主的なコントロールが及ぶようにはなっているのですが、いくつか議論になりうる制度は残っています。

たとえば、検察の政治的中立の問題です。今回の小沢氏とその秘書への捜査の過程でも大いに議論を呼びました。検察は政治家の汚職などについても捜査も行います。一方、上司は政治家である法務大臣がなるという、利益相反的な状況が生まれてしまいます。

当然、検察の捜査に法務大臣となった政治家が捜査内容について口を出すことには慎重さが必要になります。そのための制度的なバランス調整として、検察庁法14条は「法務大臣は、第4条及び第6条に規定する検察官の事務に関し、検察官を一般に指揮監督することができる。但し、個々の事件の取調又は処分については、検事総長のみを指揮することができる。」と定め、法務大臣が個々の事件の捜査について指揮をするときには、検事総長を通じて行うという、いわゆる「指揮権発動」の条項を定めています。

さて、今回の騒動では、民主党サイドから「口先介入」的な動きが数多く出ましたが、統帥権の反省からはこういう対応が一番危険であることがわかるはずです。検察の捜査方法に本当に大きな問題があるなら、堂々と指揮権を発動すべきです(逆に、発動しないことが政治の怠慢ということになります)。そうでないのなら、圧力をかけるような発言は極力控えるべきでしょう。そうした中途半端な対応が「法の支配」を崩していくわけです。

また、政治からの独立性といえば、日銀の独立性という問題もあります。これは、金融政策については、政府から独立した中央銀行という組織の中立的・専門的な判断に任せるべきとの考えです。日本では1998年の日銀法改正により、この原則が法的に明確化されました。

最近では菅財務大臣がデフレ対策について、日銀に積極的な金融政策を求めています。1月29日の経済演説には以下のようにあります。

「さらに、今後の経済財政運営に当たっては、国民の暮らしに直結する名目の経済指標を重視するとともに、デフレの克服に向けて日本銀行と一体となって協力かつ総合的な取組を行ってまいります。
日本銀行に対しては、こうした政府の取組と整合的なものとなるよう、政府と緊密な情報交換・連携を保ちつつ、適切かつ機動的な金融政策の運営によって経済を下支えするよう期待します。」

また、別な場(衆院予算委員会)では、デフレ脱却に向けての金融政策のあり方について問われ、「わたしたちも、まだまだもっといろいろな政策があることはわかっているが、日銀の独立性も考える必要がある」と答えています。

などなど、日銀に対するもどかしい思いがにじみ出ています。しかし、日本銀行の金融政策について政治の関与が法的に正面から認められているのは、総裁、副総裁の人事です。その人選に対し、かつての民主党はどういう対応を取っていたのでしょうか。

現総裁・副総裁の人選をしたのは福田内閣の頃です。国会同意人事である日銀総裁の人選については、衆参の「ねじれ」により民主党がキャスティングボートを完全に握っていました。しかし、副総裁に就任していれば積極的な金融政策を志向したであろう、伊藤隆敏氏を蹴ったのはほかならぬ民主党です。

人選の際の民主党の拒否理由は、「元小泉内閣期の経済財政諮問会議議員だから」というものだったと思います。どういう人が相応しいかを議論したというよりは、日銀総裁人事も政争の具になっていたということです。政策軽視の最たるものです。いざ政権を取った今、その問題に気づいているのでしょうか。

もちろん、日常的に政府と日銀が政策目標についてしっかりすり合わせをするということも重要だと思いますが、もともとの人選の時にしっかり考えていれば今の菅大臣のようなボヤキはなかったはずです。

このように、現在においても統帥権の問題に近い問題が(薄まった形で)存在します。法制度を考える場合に「システムか、人か」という議論は尽きませんが、「政治的中立」がからむ制度ではどうしても「人」の側面が重要になるわけです。いったいいつになれば「政策重視の政治」が実現するのでしょうか。
Posted by 佐藤孝弘 at 14:52 | 歴史 | この記事のURL
「日本の失敗「第二の開国」と「大東亜戦争」」松本健一 [2009年04月23日(Thu)]
なぜ日本は無謀な戦争に突入したのか」、という問いは日本人であれば誰でも持っているかと思います。本書はその問いに対する一つの回答として、1915年の「対支二十一カ条要求」から開戦に至るまでの歴史を綴っています。

本書によると、日米開戦の根底には対中政策をめぐる対立が存在し、国内的には「統帥権干犯」問題が軍部の専横を招いた点が大きいということですが、これ自体は私も同感です。本書では、このことを当事者の発言や資料を交えつつ、見事に描き出しています。

いわゆる統帥権干犯問題が「政治化」したのは、1930年のロンドン海軍軍縮会議のときでした。巡洋艦以下の補助艦保有量制限について、海軍は対米7割を主張しましたが会議の結果はそれに満たないものでした。これに対し海軍軍令部長の加藤寛治(海軍大将)は、政府が海軍の認めない軍縮条約を結ぶことは天皇の統帥権の干犯にほかならないと主張したというわけです。

もちろん国際的な交渉は相手のある話であり、海軍が純軍事的観点からのみ主張する艦艇保有量が絶対ではありません。その他様々な要素を勘案して政府代表が責任を持って決める話なのですが、それを海軍が明治憲法上の統帥権とむすびつけることで「政治化」してしまったのです。

戦前の歴史が語られるときとかく陸軍ばかりが悪役にされがちですが、「統帥権干犯」問題の発端が海軍であったことは特筆されるべき事項でしょう。

これ以降、「統帥権」は軍人の専横を正当化する「魔法の杖」として機能しはじめます。石原莞爾が満州事変を起こしたときも、同様の論理を使って独断専行で事を進めました。

さらに問題なのは、政党の対応です。当時の政友会の犬養毅、鳩山一郎などは、統帥権干犯問題が出た時、これを民政党の攻撃の材料とし、倒閣を図りました。政争のために外圧(軍部)を取り入れることの弊害については後の歴史が証明する通りです。

著者はこれを「政党政治の自己否定」と述べ、経緯もくわしく書いています。こうして政党自体が信頼を失い、世の期待は軍やテロリズムに向かったわけです。現代の日本政治を考えるにあたってもこの点は得られる教訓が多いと思います。
Posted by 佐藤孝弘 at 15:40 | 歴史 | この記事のURL
「日本人とは何か。」山本七平 [2008年08月19日(Tue)]
山本七平氏による、縄文時代から明治維新あたりまでの日本通史。ただし、単なる日本史ではない。本人による序文のタイトルに「新しい"菊と刀”」とあるように、日本に興味を持つ外国人に対して、日本人自身が自国文化と歴史の特徴を説明できるようにという意図を持って書かれた歴史である。

著者が採用する歴史区分は伊達千広の「大勢三転考」の基準に従っている。と、言われてもほとんどの方がご存じないと思われる。私も本書を読むまで知らなかったが、伊達千広は紀州藩士で陸奥宗光の父にあたる。彼が1848年に「大勢三転考」を書いた。

これまでの歴史記述の常識であった「紀伝体」「編年体」と関係なく、日本の歴史を「骨(かばね)の代」「職(つかさ)の代」「名(な)の代」の三区分とした。そしてそれぞれが「氏族制の時代」「律令制の時代」「幕府制の時代」に該当する。山本氏によれば、当時の東アジアで、政治形態の変化に基づいて歴史を区分し、それに是非善悪の判断を加えない歴史記述の方法において彼だけであろう、という。

私は冒頭からガーンと頭を殴られたように感じた。これまで伊達千広ような重要人物を知らなかったのだから。その後、高校時代に使っていた日本史の教科書を引っ張り出してみたのだが、そんな名前は全く出てこなかった。読み進むほどに、自分が日本史や日本文化にいかに無知であったかが思い知らされるが、これが本当に面白い。

例えば、6章の「<民主主義>の奇妙な発生」では、日本になぜキリスト教布教が失敗し、民主主義は成功したのか、が述べられている。まず、その成否を分けるようなそれまでの文化的な蓄積の差があったのではないかと仮説を立てる。

日本には民主主義を受け入れる素地があったというのである。民主主義を制度的に実現するには、「一人一票の秘密投票による多数決」というハードルを突破する必要がある。氏族制の下では、個人が自由な投票を行うことができないのである。日本ではその原型が仏教における議決方法「他語毘尼(たごびに)」にあるという。

本書では延暦寺の例が出ている。「満寺集会」という全員参加の集まりには、一同が大講堂の庭に集まり、全員が敗れた袈裟で頭を包み顔を完全に隠している。そして、それぞれの提案に対し、声を変えて投票を行っていた。後に盛んになる「一揆」の意思決定にも別な秘密投票のやり方が用いられていた。

ここで大事なのは、この多数決の結果は「民意の現れ」だから正しいのではなく、「神意の現れ」だということである。これはヨーロッパも同様で、ローマ教皇の選挙「コンクラーベ」の結果も当然神意だと解釈されてきたそうだ。

確かに、組織の構成員が「反対であっても、投票で決まったことには従う」という発想がなければ、民主的な意思決定で物事は動かないだろう。この点、先日ご紹介した岡田克也氏の「政権交代」の中で、民主党が政権を取るための条件のひとつに、党内の手続きで決定したことにはそれまで反対していても従う、というものがあったことが思い出される。この点は現代の民主主義においても大きな課題なのだろう。

6章に限らず、すべての章が平板な歴史記述ではなく、新鮮で考えさせられるものとなっている。新書サイズで800ページという大著だが、読んでいて飽きることがない。日本人としてぜひお読みいただきたい一冊だ。
Posted by 佐藤孝弘 at 22:24 | 歴史 | この記事のURL
「戦国大名 日本の歴史11(中公文庫)」杉山博 [2007年11月13日(Tue)]
民主党小沢党首の辞意表明と撤回についての一連の騒動を見て上杉謙信を思い出した。唐突に聞こえるかも知れないが、謙信もいったん「辞意表明」し、その後翻意して、再び国主の座に戻ったのである。

弘治二年(一五五六)三月、二度目の川中島の合戦から戻った謙信は、隠居を宣言し、高野山に入ると言い始めた。家臣達は大いに驚いて謙信に懇請し、それを受ける形で政務に復帰した。この事件の原因としては、合戦により心身共に疲れてしまった謙信が、投げやりな気持ちになったという見方もある。しかし著者の分析は、すべて謙信の演出だったのではないかということである。謙信は復帰するにあたり、家臣に誓紙をもって忠誠を誓わせた。さらに人質を春日山城に差し出させている。結果として、謙信の権力基盤は強化されたのである。

戦国大名というと中央集権的なイメージがあるが、実際には領国を分有する国人層のリーダーという位置づけにすぎなかった。他国に戦を仕掛けるには、彼らを動員する必要があるが、独立意識の強い家臣団では、いつ裏切りやボイコットがあるかわからない。どの戦国大名も領内を掌握するため、どこかの段階で権力を集中化する必要があった。

例えば中国地方の戦国大名、毛利元就の家臣には、有力豪族の井上一族がいた。その身勝手な行動に元就はほとほと手を焼いていたが、耐えに耐えながら版図を少しずつ拡大した。次男の元春を吉川家、三男の隆景を小早川家に継がせ、体制を万全に固めた上で、ついに井上一族を断罪、血の粛清を行った。同時に「今後家中のことは思いのまま成敗する」と宣言し、ようやく専制体制が実現したのである。

本書では、他に北条氏、武田氏、伊達氏、島津氏等、有力大名が苦労して「同輩中の首席」という立場から権力を掌握していく過程が活き活きと描かれている。その手法も様々で、現代の政党政治におけるリーダーシップの形成過程にも通じるものがあって面白い。

日本では、分権型の統治構造の伝統が長く、それは江戸期に入ってもまだ色濃く残った。笠谷和比古氏が指摘しているように、江戸時代には、主君「押込」のような行動が合法化していたのである。明治になっても戦後になっても分権型の統治構造に変わりはなかった。日本では専制型の統治機構が生まれにくい、というより、そもそも歴史上存在したことがないのかも知れない。
Posted by 佐藤孝弘 at 17:46 | 歴史 | この記事のURL