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「成長なき自体の「国家」を構想する 経済政策のオルタナティヴ・ヴィジョン」中野剛志編 [2010年12月16日(Thu)]
執筆者の一人である谷口功一先生より献本いただきました。ありがとうございました。本書の問題意識は以下の序文の一節にあらわれています。

「しかし、もし、その経済成長が実現困難な状況となった場合には、経済政策は、一体、どうなってしまうのであろうか。成長なき経済政策など形容矛盾であり、成長しない社会では、経済政策はその存在意義を失うのであろうか。それとも、経済成長を目的としない経済政策というものがあり得るのだろうか。もし、そうであるなら、経済政策は、何を目的とし、そして、どのような理念の下に進められるべきなのであろうか。」

かなりエキサイティングな試みですが、今後の日本のあり方を考える上でこうした議論も必須かと思います。これからじっくり読ませていただき、また感想を書かせていただきます。
Posted by 佐藤孝弘 at 18:31 | 思想 | この記事のURL
臓器移植法改正案(A案)が成立 [2009年07月13日(Mon)]
このところ諸事情により本ブログが更新できずにおりました。ご心配のメールもいくつかいただきまして、読者の皆様へは大変ご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします。本日より通常ペースで更新してまいりますので、引き続きよろしくお願いいたします。

先ほどの参議院本会議で臓器移植法改正案の採決がありました。採決は修正A案、A案、E案の順で行われましたが、まず修正A案が否決され、次にA案が賛成多数で可決されました。E案は採決されることなく廃案となりました。

本件については、結論を出す前に議員一人一人が中身を理解し、しっかりと検討すべき法案だということで、東京財団でも議員会館勉強会をはじめ様々な機会を提供してまいりました。

しかし、衆参ともに政局のからみもあって審議時間も短く、残念ながら消化不良の状態での採決になってしまいました。結局議員の多くは内容の理解も不十分だったのではないでしょうか。下記に本日の参議院本会議での採決の結果(各議員の投票行動)を見ることができますが、修正A案に賛成しておきながら、次のA案にも賛成している議員が結構います。A案と修正A案の違いは脳死を一律に人の死とするかどうかで、それが最大の論点でもあるのですが、両案ともに賛成するというのはいったいどういう見識なのでしょうか。脳死の定義はどうでもよいが、とにかく法案が可決されれば何でもよいということなのでしょうか。

http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/vote/171/171-0713-v001.htm
http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/vote/171/171-0713-v002.htm

引き続き本件については、追いかけていきたいと思います。
Posted by 佐藤孝弘 at 14:59 | 思想 | この記事のURL
「脳死・臓器移植の本当の話」小松美彦 [2009年06月22日(Mon)]
今まさに国会審議中でもある、臓器移植に関する解説書です。脳死に関する論点について専門的な内容を含めてわかりやすく書かれています。

衆議院ではあっさりとA案が通ってしまったのですが、A案に賛成した国会議員のうち、どれだけの人が以下のような事実を知っていたのでしょうか?

「脳死患者は心臓が動いており、さわると温かい。汗や涙を流し、妊婦であれば出産する。脳死・臓器移植はこのような状態の人から、心臓などの臓器を取り出し、別の患者に移植する医療である。臓器を摘出する際、「脳死者」と判定された人にメスを入れた瞬間、脈拍と血圧が急上昇し、患者がのたうちまわることも珍しくない」

このような状態を本人意思が不明の場合、家族の同意だけで臓器摘出できるようにするのがA案です。本人の自己決定の権利を大きく侵害するほか、同意した家族が後にトラウマを抱えることにもつながるでしょう。「脳死者」=死体となったはずの家族がのたうちまわるのですから。

今回ご紹介する本書の問いかけは、「脳死」は「人の死」の基準とするに相応しいかという点です。

臓器移植法によると、脳死状態の定義とは、“脳幹を含む全脳の機能の不可逆的な停止”です。つまりこれは、大脳、小脳、脳幹のすべてが機能を停止したため、意識も感覚もなく遠からず確実に死ぬことが保証された状態ということです。

この定義だけみると、脳死を人の死としてもそれほど違和感を持たない方もいらっしゃるかもしれません。ところが、ここには大きな落とし穴があります。

定義上の脳死はそうであっても、それが実際に現場で運用されるにあたっては、ある人がこの定義に該当する脳死なのかを判定するプロセスが必要です。

最終的に脳死かどうかを確定させる“法的脳死判定”では、1.深昏睡、2.瞳孔散大、3.脳幹反射の消失、4.平坦脳波、5.自発呼吸の停止、という条件を満たし、これらの5条件が6時間以上の間をおいて二度満たされること、です。これはいわゆる「竹内基準」と呼ばれ、現行の臓器移植法の運用でも使用されているものです。

果たして、この判定方法で脳死と判定された人は、さきに挙げた定義上の脳死と確実に同じ状態と言えるのでしょうか?

本書では、この判定方法についても、様々な問題点を指摘しています。一点だけご紹介しますと、「脳死と判定された人に意識や感覚はないのか」というものです。

筆者はイギリスの麻酔学者デイビッド・ヒルの論文を引用しています。それによると「臓器摘出の執刀時に、ドナーの大半が急速で激しい血圧上昇と頻脈示す」そうです。
さらに同じくイギリスの麻酔医、フィリップ・キープは以下のように証言します。
「看護婦たちは本当に心底動転していますよ。[脳死者に]メスを入れた途端、脈拍と血圧が急上昇するんですから。そしてそのまま何もしなければ、患者は動き出し、のたうち回りはじめます。摘出手術どころじゃないんです。でしすから、移植医は私たち麻酔医に決まってこう言います。ドナー患者に麻酔をかけてくれ、と。」

いかがでしょうか。最悪の場合、このような患者は臓器摘出時に激痛を感じているおそれもあるということです。この点については、医学的にもまだ解明されていないそうですが、すくなくとも現時点ではその可能性を否定できないとのこと。アメリカでは臓器摘出時に麻酔を打つことはもはや“常識”になっているそうです。

この一点だけでも脳死を一律に“人の死”規定してしまうことに問題を感じざるを得ません。A案の問題性について、賛成者はどのくらい真剣に検討したのでしょうか。本書は、臓器移植を考える人すべてに読んでいただきたいと思います。いや、すべての日本人に読んでいただきたいと思います。全ての人が脳死状態になる可能性があるのですから。
Posted by 佐藤孝弘 at 21:59 | 思想 | この記事のURL
「臓器移植法 衆院通過」(「朝日新聞」2009年6月19日朝刊1面) [2009年06月19日(Fri)]
臓器移植法改正案が衆議院を通過しました。A案への賛成が、自民党議員を中心に予想以上に多く、賛成263、反対167で可決されたとのこと。私が永田町周辺で見聞する限り、直前まで本件を勉強せず、「なんとなく賛成」「なんとなく反対」といった感じで投票された議員の方がかなり多かったように思います。

A案は、極めて重大な内容を含んでいます。それは、生前臓器移植の意思を表明しなかった方の扱いです。A案では、生前に「私は臓器提供したくない」という意思表示をしなかった場合、家族の同意だけで臓器移植が行われることになっています。

これまでの臓器移植法ですと、生前意思表明していなかった方については、臓器移植できないことになっていました。A案はいわば、この原則と例外を逆転させたということです。

これはすごいことです。通常、自分が脳死状態になることを想像しつつ生活している人はいないはずです。こうした、確率が低く、かつ重大なリスクというもののリスク評価は通常の個人ではなかなかできないものです。

A案ですと「なんとなく」意思表明していなかっただけの方から臓器を移植してしまう可能性もあります。口の悪い言い方をすれば、国民をだまして流通する臓器を増やそうということにほかならないと思います。

それよりもまず、ドナーカードの普及や、免許証、健康保険証などに意思表明をする仕組みを整備し、あわせて臓器移植に関する教育をしっかり行い、臓器移植に関する国民の真の意思をさぐる努力が必要です。10年以上こうした努力を怠っておきながら、突然A案のような急進的な案が通ってしまうのはどう考えても順番がおかしいと思います。

法案審議は参議院に移りますが、慎重な審議を望みます。私個人としてもできることをしてみようと思います。
Posted by 佐藤孝弘 at 17:44 | 思想 | この記事のURL
「日本語が亡びるとき」水村美苗 [2008年12月05日(Fri)]
今話題の書籍。一時期アマゾンランキングで総合一位も取っていたようだ。著者の水村美苗さんは寡作だが極めて評価の高い小説家で、岩井克人先生の奥様でもある。

我々は今、「英語の世紀」を迎えている。幾多の歴史的経緯によって、英語が英語を母語とする人々の枠を超えて、世界中で流通する言葉、すなわち著者のいう「普遍語」となりつつある。また、インターネットの普及はそれに拍車をかけている。

たとえば50年後、「地方語」としての日本語が生き残るのは確実であろうが、はたして日本で生まれる最高の知性を持った人間が、学問や文学の世界で日本語を使って「読まれるべき言葉」を書くだろうか?それは英語ではないのか。

著者の問いかけに、読む者は頭をガーンと殴られたような感覚になるだろう。英語が苦手な私としては、なおさらだった。詳しくはぜひ本書を読んでいただきたい。

最終章にはそれまでの分析を踏まえた政策提言がついている。学校教育において、国民全員をバイリンガルにするのを目指すのではなく、一方で英語を自由自在に操るエリート(著者はそういう表現を使っていないが)を育て、一方で国民全員への国語教育を徹底して行うというもの。

個人的には大賛成だ。日本の強みは知的な能力の平均レベルの高さにあると思うので、それを維持・発展させる上でも有効な政策だと思う。
Posted by 佐藤孝弘 at 10:49 | 思想 | この記事のURL
「先端医療のルール 人体利用はどこまで許されるのか」島次郎&イベントのご案内 [2008年11月23日(Sun)]
東京財団研究員で、日本の生命倫理関連の政策研究の第一人者、島次郎さんの著書。島さんは本書で問いかける。

「ある人が事故にあって手首から先が切断されてしまった。切り落とされた手は床に落ち、当人は気絶してしまう。そこに別の人が通りかかり、血まみれの手が落ちているのを見つけて、そばにあった焼却炉に投げ込んでしまった。さて、この人はどういう罪で罰せられるか。」

切断された手が「物」であるならば窃盗あるいは器物損壊、「人」であるならば傷害罪になるが、果たしてどちらなのか。

もちろんこの話自体はフィクションであるが、近年に至ってこういった問題を真剣に考える必要性が出てきた。技術進歩により、遺伝子治療や生殖医療、移植医療が可能とする領域が凄いスピードで広がっている。日本でも、いわゆる万能細胞の研究などは世界の最先端を走っている。

ところが、技術の進歩に伴い発生するであろう、法的・倫理的諸問題についての準備は日本ではまだまだ進んでいない。フランスはすでに「生命倫理法」をつくり、人体を「人ではないが単なる物でもない、特別な保護に値する存在」とした。

東京財団政策研究部では、「生命倫理の土台づくりプロジェクト」にて島さんを中心にまさにこの問題に取り組んでいる。本プロジェクトホームページの「時評」はいずれも読み応えがあるので、本書と合わせてぜひお読みいただきたい。

【イベントのご案内】
※11月28日(金)15:00〜17:00、生命倫理の土台づくりプロジェクトにてフォーラムを開催することとなりました。
イベント名は「生殖補助医療はどこまで許されるのか?〜韓国を参考に日本での代理出産を考える〜」

→詳しいご案内はこちらをクリック

島さんはもちろん、宗教学者の島田裕巳先生、社会学者の橋爪大三郎先生という豪華メンバーでの討論になります。興味深い議論になると思いますのでぜひどうぞ!
Posted by 佐藤孝弘 at 10:43 | 思想 | この記事のURL
「留魂録」吉田松陰 [2008年10月28日(Tue)]
私が幕末で好きな人物を聞かれると、吉田松陰と横井小楠の二人を挙げる。ともに思想に生き、その実践に尽くした人だ。松陰に関してはその真っ直ぐな心と大胆な行動に、小楠に関してはその圧倒的な構想力と先見性に惹かれる。

本書は吉田松陰の遺書で、安政の大獄により処刑される前日に、松下村塾の門下生達に対して書かれたものである。

そもそも幕府が松陰を呼び出したのは、尊攘派の若狭藩士、梅田雲浜との関係を問いただすことだった。それ自体は大した問題ではなく、松陰は無難に釈明した。しかし、その際、勢い余って自分から老中の間部詮勝暗殺計画を立てていたことを告白してしまう。

結局これにより処刑が決定されるわけだが、この留魂録には生と死を揺れうごく気持ちが実に正直に表現されている。

「留魂録」と言えば人の一生を四季に例えた一節が有名だが、動揺期を過ぎ、死の覚悟を決めた後の心境を綴ったものだ。死を目前にした松陰の言葉は、純粋さを極限まで推し進めるとこうなるのかという名文だ。ぜひ味わっていただきたい。

冒頭には、江戸に移送されることになった時、木綿の布に「孟子」の「至誠にして動かざる者、未だ之れ有らざるなり」の一句を書いて、手ぬぐいに縫いつけ、江戸に持ってきたというエピソードが出てくる。この句の意味は「真心を尽くして臨めば、心を動かされない人はいない」といった意味である。吉田松陰の人生はまさにこの言葉を地で行くものとなった。この言葉は、私も座右の銘にしている。

人生で迷いが生じた時にぜひ読んでいただきたい一冊だ。
Posted by 佐藤孝弘 at 21:09 | 思想 | この記事のURL
「政治神学」カール・シュミット [2008年10月23日(Thu)]
本日の日経新聞によると、今般の金融危機への対応を協議する緊急サミットの日程は11月15日とのことだ。麻生総理は今まさに重大な決断の局面にいるのだろう。衆議院の選挙期間は12日間なので、11月30日投票日にすればサミットとは日程がかぶらなくて済む。

20世紀前半に活躍したドイツの法学者カール・シュミットは、「主権者とは、例外状況に関して決定をくだす者」と言っている。そして戦争のときのように、平時の法体系が想定していなかった事態にこそ政治の本質が現れるとする。政治学にとっての「例外状況」とは、神学にとっての奇跡と同様の意味を持つ。シュミットは例外状況に正面から取り組むことを避けてきた既存の政治学を批判する。さらに議会制民主主義の批判へと続き、後にはナチスの御用学者という批判を浴びることとなる。

実際にはシュミットの意思と反し、議会制民主主義が世界に広まったわけだが、シュミットが提示した例外状況理論のエッセンスは(多少薄まった形で)今でも当てはまるように思われる。

いかなる政治制度であれ、トップに立つものが決断を迫られている点には変わりがない。そして、例外状況にあるかどうかは、概念としては明確に区別できても、実際の政治においてはそれほど明確ではない。

マスメディアが発達した現在、「例外状況」をいかに演出するかという要素が加わる。郵政解散が典型事例だが、総理の行動により例外状況的な舞台をつくり(国民にそう認識させ)、勝負に出る。小泉総理以降、日本の首相はいつもそのことを考えているのではないだろうか。

冒頭解散の機会を逃した麻生総理にとっては、今回がラストチャンスだろう。欧米の金融機関が軒並みマヒしている状況、ユーロ・ポンドが暴落し、円が相対的に最強の通貨となってしまった状況。(戦争ほどではないが)真の例外状態に近い状況が麻生総理に起こっている。ここで大胆な提案を打ち出して世界に対してリーダーシップを示し、強いリーダー像をもって選挙を戦う。これ以外に戦略としては無いのではないか。

ここで解散を先送りすれば、民主党は再び「ガチンコ対決」モードとなり、物事が何も決まらない状態が続くだろう。そして、総理の支持率は低下を続け、解散の機会を失うことになる。

とはいえ、サミットが失敗するリスクも当然存在する。ここでいかなる決断をするか、総理の真価が問われている。
Posted by 佐藤孝弘 at 12:59 | 思想 | この記事のURL
「いま、働くということ」大庭健 [2008年09月24日(Wed)]
「何のために働くのか?」という問いに正面から向き合った一冊。働くこと自体の意味を哲学的に考察している。

通常、この問いに対しては「生活のため」「生きるため」あるいは「自己実現のため」ということで片付けられてしまうところだが、それより深い部分に切り込もうとしている。「生活のために働く」といった時点ですでに労働は単に何かの目標達成のための「手段」と位置づけられる。さらには人生を「プロジェクト」としてとらえ、その成功がすべてということになる。そこでは、「労働それ自体の意味や喜びは何か」という視点が欠落してしまう。

著者は人間の仕事にのみ固有の特徴として、「間柄において働く」という点に着目する。人間は他者のことを考えるだけでなく、他者が自分をどう自分を考えているかを考えてしまう存在である。また、人間の行動は、自分の行動も他人の行動も何らかの意図に基づいた、理由のある行為であるという特徴がある。

人間のこのような特質は、仕事に以下のような固有の意味を与える。

@実際に対面仕事で接する相手との相互承認
A社会の不特定多数との関係において役割を果たすこと

二つが満たされてはじめて、人間は社会的な存在が承認されているという安堵を感じるという。逆に、この二つが満たされないと人は根源的不安に陥る。

このような視点からみると、たとえばグッドウィルで行われていたような日雇い派遣は人間を破壊する労働形態ということになるだろう。私も実際に日雇い派遣で働いたことがあるが、@、Aのどちらもなかった。だから著者の結論は、非正規雇用と労働者派遣の規制である。

そういう方向性が本当に望ましいかどうか、私はまだ結論を出せない。いずれにせよ労働法制を考える際には「労働」という行為自体を根本から考える必要があると思われるが、その点本書は大いに参考になった。

※なお、本書の存在は本ブログを読んでいただいているおやっさん様に教えていただきました。ありがとうございました!
Posted by 佐藤孝弘 at 17:50 | 思想 | この記事のURL
「伝習録」王陽明 [2008年01月22日(Tue)]
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
(ご挨拶がかなり遅れ、失礼しました)
年初から株価の急落により、経済は混迷を極めておりますが、私は右往左往せず、長期的に世の中の役に立つ政策提言を行うことを目指してがんばってまいります。近々その成果の一つを世に公表できると思います。


今回ご紹介する「伝習録」は私の座右の書で、人生の転機にはいつも読み返している。明の時代の中国の思想家・王陽明の言行や手紙などをまとめたもの。同時に政治家として、軍人として大きな功績を残している。

私が最も好きな一節は

「問ふ、上智と下愚とは如何ぞ移す可からざると。先生曰く、是れ移す可からざるにあらず。只だ是れ移るを肯んぜざるなりと。」

これは、王陽明の弟子が、
「論語に『生来智力の優れたものと、劣ったものとは、後天的な修養では変わらないものだ』とありますが、どうしてこれが教育によって変えられないのでしょうか?」
と尋ねた際の応答である。

ここで引用されている論語の一節は、簡単に言えば「ダメな人間はいくら努力してもダメ」とも読めるような内容である。王陽明の弟子がこの内容について疑問を持つのも当然であろう。

王陽明は、「変えることが不可能なのではなく、自身が変わろうとしないからである。」と答えた。

陽明の返答の意味するところは、どんな人も生来備わっている能力があり、成長し立派になる資格を持っているということだろう(ちなみに陽明学ではその能力のことを「良知」という)。陽明の言葉は、人間愛に満ち、かつ人を前向きな気持ちにさせるものがある。

「伝習録」の魅力は一回では書ききれない。また折を見てご紹介したいと思う。
Posted by 佐藤孝弘 at 19:34 | 思想 | この記事のURL
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