「気」のコミュニケーション [2012年10月04日(Thu)]
看護学生たちを病院実習に連れて行くと様々なコミュニケーションの壁にぶつかります。 「私はコミュニケーションが得意です」という学生ほど、次から次へと話題を展開し、結局、患者さんの本当の想いを聞けないという場面によく出くわします。
相手の様子を察することなく、自分に主導権のある会話を表面的につらつらやり、患者さんのその時の気持ちに丁寧に触れるチャンスを逃してしまいがちなのです。 もちろん、これは学生に限らずなのですが「気が付かない」コミュニケーションは対人職の場合、相手の抱えている様々な問題を見逃すことにつながります。
日本人のコミュニケーションの半分くらいは「気」によるコミュニケーションだと私は思っています。 「察する」ことが要求されるのです。 気を付けて、気にかけ、気を配り、気遣う振る舞いが暗黙のうちに要求されます。 この「気」を駆使したのコミュニケーションが、ネットや携帯メールが普及したことにより実践できなくなっているように私は感じています。
例えば、最近の学生は何かを欠席する場合でも、電話ではなくメールで連絡をくれます。メールは電話ほど相手の時間を束縛しないということもありますが、「今日は休みます」とか「レポートが間に合いませんでした」など、言いにくいことを伝えることは非常に「気を使う」作業なので、より「気楽に」「気軽に」伝えられるメールを用いるのだと思います。
会って話をする、電話で話す、メールで伝えるという3つのコミュニケーション手段の中で、メールは最も「気」を駆使しないコミュニケーションだと思われます。 会って話をすると、視覚・聴覚・臭覚など五感をフルに活用し相手の気を感じることができます。電話でも、相互の雰囲気を察することができます。電話をする場合は、相手に対して迷惑な時間帯ではないかとかける前から「気」を遣い、「欠席します」という伝え方も言葉だけではなく、語気も「気」を配ります、会話の「間」も一種の気のやりとりの時間で、沈黙からも相手の気持ちを察することが可能です。 電話の受け手の方も、受話器の向こうの学生の様子の気配を感じながら「どうしたの?」と気がかりを学生に伝えることが可能です。
ところがメールの場合は文字だけから相手の気を感じ取ることになります。 もちろんメールの一言一句に気を付けるわけですが、携帯やPCの画面の文字から気を感じ取るのは非常に困難で、そこからは正確な相手の気は伝わりません。ゆえにメールでのやりとりは行き違いが生じるのかもしれません。
学生達は授業の感想文はもちろんレポートなどにも絵文字を用います。 メールを主体としたコミュニケーションの多用で、気を駆使した会話を普段行わないために自分の「気持ち」や「気分」など、気を伝える会話を日常の中で習得していないのだと思います。
「授業の内容は難しかったですが、臨床に生かせるようようにがんばります」と書く場合 「授業の内容は難しかったですが、臨床に生かせるようようにがんばります(*^_^*)」 あるいは 「授業の内容は難しかったですが、臨床に生かせるようようにがんばります(-_-;)」 というように、彼らは絵文字を添えます。 前向きの頑張るなのか、大変な思いを抱きながらでも頑張るなのかという、自分の心持・気持ちを言葉ではなく絵文字で表現するわけです。
前者の場合であれば「臨床で生かせるように前向きにがんばっていきたいです」とするとか、後者の場合は「臨床で生かせる自信はないですが、自分なりの努力をしたいと思います。」というように自分の気持ちを修飾しながら「気」を相手に伝える練習が必要なのかもしれません。
おそらく会社など大人の社会でも「言いにくいことはメールですませる」といった気(エネルギー)をできるだけ消耗しなくていい手段が使われていると思われます。 日本人が従来、大事にしてきた気を駆使したコミュニケーションがIT化により、国民全体的に習得の場を極端に失っているのかもしれません。
看護教育の世界でいうと、平成生まれの学生達が大正・昭和生まれの方を看護しますが、そもそも大正生まれの方と平成生まれの子とでは用いる言語も、知っている歴史も文化も違うわけなので言語的コミュニケーションさえも危ういのですが、それに加え気を駆使できなければ会話の成立は極めて厳しいと思われます。
気を駆使しないコミュニケーションツールが広がる中、日本人が本来大事にしてきた、雰囲気を察し気を配る「気のコミュニケーション」をいかに保ち次の世代に伝えていくかは、私たちの世代の 一つの責務なのかもしれません。
さてこの記事の中で何回「気」を用いた言葉が出てきたでしょう 気持ち・気づく・気をつける・気にかける・気を配る・気遣う・気楽・気軽・雰囲気・気かかり・気配を感じる・・・
私たち日本人がいかにコミュニケーションで気を大事にしてきたか、この言葉の数だけでもよくわかります。 追記 〜手紙の気〜 この記事を書き終えてふと思ったのですが、手紙もメールと同じように文字だけを使ったコミュニケーションツールです。 でも、手紙からは気が伝わります。 なぜでしょう。 一文字一文字に気が込められそれに封がなされ、相手に届くからでしょうか。 不思議なことに手紙からは相手の気配を感じることができます。
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自律すること、そして’Quality of future’ [2011年02月26日(Sat)]
自律の話の続きです。
我が国には自立支援法という法律ありますが、では、自立と自律の違いは何でしょう。 国語辞書を引くと、「自立:independence」は他の助けや支配なしに自分一人の力で物事を行うこと。ひとりだち。「自律:Autonomy」は他からの支配・制約などを受けずに、自分自身で立てた規範に従って行動することとあります。
国語辞書の通り解釈すると、誰か人の助けを借りて生活している人は「自立していない人」となります。しかし、誰の助けも借りずに生きていける人などいないと思いますし、支援の目指すところは一人で何でもできることではなく、「その人がその人らしく生きられる」ことにあります。つまり、支援の目指すところは自立ではなく自律だと思うのです。
日本の中で「支援」「ケア」という用語が使われる時、支援する人・される人のように、主体が支援する側にあるようなニュアンスがどうしてもついて回ります。 しかし、ケアでも支援でもその主体は当事者であることの前提なしに、当事者たちの自律を促す行為とはならないでしょう。
例えば、足を骨折した人がいて、一人で歩いて動けるようになったら「支援した」と言えるかというと、そうではありません。何をもって「動ける」と判断するか?というと、これはやはり、本人の判断だと思います。 人によっては、「日常生活ができればいいです」と言うかもしれませんし、アスリートであれば「現役復帰できるまで自分は動けるようになったとは言えない」というかもしれません。 支援の主体が当事者である限り、支援の方法もゴールもまた当事者が決めることになります。
私たち支援者は、ややもすると自分の価値観で「支援」「ケア」を押し付け、私たちの考える自立を促したりしますが、これは支援するどころか相手の主導権を奪い、自律を阻害するものだと言えます。
では、その人がその人らしく生きられる支援とは一体どんなものなのでしょうか。
まずは、生きていけるだけの生活・経済が保障されることは最低限の支援だと思います。そして次の支援は、「その人がどんな風に生きたいか」を支えることでしょう。どんな自分になりたいかを本人が選択し、自身の人生に関し裁量権を持ってこそその人の尊厳は保たれます。
自分で自分のことが決定できる限り、その人はその人であり続けます。そして、自分自身で物事を選択し主体的に生きることは、よりよい未来に向って生きることだとも思います。
支援すること、自律を助けることはQOL:Quality of lifeのみならず、未来の質:Quality of futureをも支えることだと私は思うのです。
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生活の質とAutonomy:自律 [2011年02月26日(Sat)]
6年前修士論文の調査で、統合失調症患者のQOL調査をしたことがありました。 我が国の医療政策は在宅に向けて進んでいるけど、長期に入院させられた挙句に外に出された患者さんというのは、幸せに暮らせているのか?というのが当時、スウェーデンから帰国したばかりの私が抱いた疑問でした。
結果は、入院患者さんと在宅患者さんと差がほとんどありませんでした。 長期入院患者さんの中には「三食のご飯が出て、看護師さんによくして頂いてありがたいです。」と入院生活に満足されている方が多数いらっしゃいました。 逆に、在宅の患者さんは「もっといい仕事に就きたい」「海外旅行をしたい」「もっと広い家に住みたい」と、不満を沢山抱いていらっしゃいました。 未来を描く人は現状に不満があり、未来に希望や期待のない人の方が現在の生活に満足していてQOLが高く出るという皮肉な結果となりました。
現状への不満は、自分の人生をよりよくしようという意思の現れであり、よりよい人生を送るためにある程度必要な要素だと言えます。逆に不満のない人生は期待のない人生と言ってもよいかもしれません。そういった意味で、「今の生活への満足」と「人生の質」というのはイコールではないということだと言えます。
データを詳しく分析するうちにおもしろいことがわかりました。 入院患者の中でも閉鎖病棟より開放病棟の患者の方が生活の満足度が高く、在宅の中でもグループホーム居住者は生活の満足度が高いという結果が出たのです。これはいったいどういうことを意味するのでしょうか。
グループホームの患者はインタビューの中で「家族から独立できてうれしい」「自力で生きている感じがする」という声が聞かれ、自分自身の生活を自分でコントロールできているという実感があるように伺えました。一方、自宅で暮らす患者でも、家族の経済に依存していたり、職の無い患者に関しては「家族と一緒にいるのが苦痛だ」「一人暮らしがしたい」「親が干渉する」などの声が聞かれ、家族が患者の生活をコントロールしようとしている様子が伺えました。 病棟においても同様で、閉鎖病棟は鍵がかかり自分自身の生活を自分でコントロールできる環境になく、より「自律」して生活できるのは開放病棟の方です。
つまり、患者の生活の質は自律:Autonomy と関連するのではないかと考えられました。家族や支援者は患者の支えになりますが、支援者が「支援」「ケア」と思って患者に対して行っていることが患者の主導権を奪ってしまえば、逆に患者のAutonomyを侵害し生活の質を下げかねないということです。
昨日のブログにも書きましたが、支援の主体は誰であるのか?ということを忘れずに、当事者の主導権を奪わないこと・その人自身を尊重することが患者の自律を促し、ひいては彼らのQOL向上につながるのだと思います。
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差し伸べられた手を離さない看護 [2010年08月06日(Fri)]
8年間の病院勤務の中で、病棟内で患者さんが自殺をしてしまったという事態に3回、遭遇しました。自分の夜勤時間帯に1回、あとの2回は私が非番の時でした。
病院で看てきた患者さんが退院後に、ご自宅で自死されたケースは私が把握しているだけで、3人。 必ずしもご遺族は、「自殺しました」と病院に教えてくれるわけではないので、私が関わった患者さんで、自殺された方の数は「少なくとも」6人以上ということになります。
病院内で既遂された患者さんのご遺族が、憔悴しきったご様子で、こんなことをポツリと言いました。「家でも未遂はあったけど、家では死なずに済んだのに」と。「病院に入れたらもう大丈夫って安心していたのに・・・」と、深い悲しみを湛えたその言葉には怒りでもなく、ただただ理不尽な思いや、期待していたものに対する失望を感じました。
私の夜勤の時に遭遇した自殺は、夜勤の巡回の直後に起きたものでした。 片時も彼のそばを離れず、そばに居られたなら、彼は死なずにすんだかもしれないと、今でも思うことがあります。50人の患者を2人で看る夜勤で、それは到底できないわけですが。
しかし、ご遺族としては「死にたい、死にたいと言っている人間をなんで、一人にしておいたのか?」と当然のことながら思うと思います。 精神科病棟は、そんな人たちの命を守る病院はないのか?と。
私も例えば、娘が「死にたいよ」と言ったなら、片時も目を離さずに一緒にいることでしょう。 家族が、「なんでずっと一緒にいてくれなかったのですか?」という、思いを強く抱かれる気持ちはとてもよく理解できます。
診療報酬の枠の中で、我が国の精神科病棟は、看護の人員配置が他の科と比較して少なく、どんなに重症な患者さんに対しても看護師が「つきっきり」に、そばに居られる状況にありません。かといって、自殺の危険性が高いから、鍵のかかる部屋に看護師が独自の判断で入れることも法律上禁止されています。
先日、あるご遺族から言われたことで(一部改編して記しますが)、「彼は、自殺する前にナースステーションに寄ったそうです。でも、みんな忙しそうで、誰も一緒にいてくれなかった。なんで、ほんの数分、看護師は彼の話を聞いてくれなかったのか?彼はその数分の間に既遂してしまった・・・」という言葉を聞いた時、今更ながら、「お一人お一人の命の尊さ」を知りました。私たちにとっては50人の患者さんの中の一人ですが、それぞれの患者さんがそれぞれ誰かのかけがえのない人なのだと。当たり前のことを痛いほどに思い知らされました。
病院では人数的に誰かのそばに一人のスタッフがつきっきりということは、物理的に無理なのですが、しかし家族が患者さんを大事に思うような、そのような「思い」を持ち命を守っていくことが大事だと思いました。
ご遺族のお話を伺い、大切な家族を思うように、一人ひとりの患者さんを大事に思える看護師を育てたいと心の底から思いました。
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