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一般社団法人橋聡美研究室 設立のお知らせ [2021年04月26日(Mon)]

【一般社団法人橋聡美研究室 設立のお知らせ】


自殺予防教育やグリーフサポートの活動が忙しくなり

52歳で大学教授をサッパリやめてフリーランスになって1年経ちました。

2年くらい集中してこの活動をしようと思っていました。

しかし、1年活動する中で、社会の要望がさらに大きくなり、2年では終わらないなと、

腹をくくって橋聡美研究室を法人化することにしました。

本日、一般社団法人橋聡美研究室 設立です。


行政からの業務委託も法人化で受けやすくなります。


これまで以上に、私にできることがありましたら、お声かけ下さい。



名前を決めるのもいろいろ悩みましたが(トラウマグリーフセンターとか)

背中を押してくれたり、名前を一緒に考えてくださったり、法人化にあたり支えてくれたすべてのあなたに感謝します。 


Posted by 高橋聡美 at 15:46
橋聡美インタビュー記事のお知らせ [2020年06月22日(Mon)]
乳がん罹患者や家族、周囲の人たちに病気や生活に関する有益な情報を提供するサイト「ら・し・く」に橋聡美のインタビュー記事が掲載されました。
乳がんとは直接関係ないですが
Posted by 高橋聡美 at 10:37
父の命日 [2012年10月10日(Wed)]
今日は父の命日です。
あの時、私はスウェーデンに住んでいて、夜中の国際電話で父の死を知りました。

看護師をしていて沢山の人を看取って来たのにたった一人の父を看取れなかったと、悔やまれたことを思い出します。

命日の今日。
彼が亡くなった時間、私は子どもたちに朝ごはんを作り、彼女たちの髪の寝癖を丁寧にドライヤーで直し、父のことなど忘れて娘たちの世話をしていました。

父から貰った愛情はすべて子どもたちに還すことが親孝行なんだろうし、お父さんもきっとそんな私の姿を見て微笑んでるんだろう。そう思う、今日のこの日の朝です。

いつもお天気なんですよね。10月10日は。
焼酎ばっかり飲んで、みんなをよく笑わせていた父のように。
Posted by 高橋聡美 at 00:00
移動のお知らせ [2012年04月12日(Thu)]
ブログでのご報告が遅れました。

3月31日付で仙台青葉学院短期大学を退職しました。
7年間、仙台で暮らし、東北大学大学院医科学系研究科へ修士・博士課程と6年通い、宮城大学、仙台青葉学院短大では仕事でお世話になりました。

夫の仕事について回る根なし草の私を仙台の方々は本当に暖かくお迎えくださいました。

仙台グリーフケア研究会の活動を通して、自殺対策、遺族支援について色んなことを考える機会を頂きました。
どちらの問題も私たち一人一人の生活に密着した課題だと思っています。

また、震災後のメンタルヘルスについては自身の無力さを痛感しながら、それでも皆様と一緒に前へ進んできたという実感があります。
この震災での出来事を私は一生涯忘れませんし、あの経験の上に私の現在と未来があります。

そして、仙台を離れましてもこころはいつでも仙台と共にあります。

4月よりつくば国際大学医療保健学部看護学科に着任いたしました。

震災で経験したことを国内外に伝えていき、これから来るであろう災害にこの教訓を活かすこと、また看護教育の中に盛り込んでいくことを目指したいと思います。

仙台の皆さま、大変お世話になりました。
毎月の遺児・遺族のプログラムには帰る予定ですのでよろしくお願いいたします。

関東の皆さま、どうぞよろしくお願いいたします。

     桜舞う本郷の自宅にて 高橋聡美
Posted by 高橋聡美 at 17:47
看護師国家試験合格発表 〜高橋聡美から親愛なる教え子へ〜 [2012年03月26日(Mon)]
親愛なる 教え子の皆様へ

今日の国家試験合格発表、先生は我が子のことのようにハラハラしながらネットの前で待ちました。

震災の後、全員の生存が確認された時、私はあなた達に言いました。
「亡くなった数万の魂に誓って、命を救えるナースになろう」と。

あの時、わたしも数万の魂に誓いました。
この子達を、人の命を救えるナースに必ずしますと。

私たちは千年に1回を生き延びた奇跡のサバイバーです。
そしてあなた達は臨床に出る前に沢山の死と向き合った貴重な経験を持つ尊いナースです。

あの時を思い出すと、涙が出ることでしょう。
けれども、前を向いて歩きなさい。

いつか、「私は私みたいなナースに看護をしてもらいたい」そう思える知識と技術と心を持つ、本当のナースになりなさい。

合格 おめでとう
Posted by 高橋聡美 at 21:21
謹賀新年 [2012年01月01日(Sun)]
本当に大変な2011年でした。

3月11日以来、涙を流さなかった日はなかったと思うくらい試練の1年でした。

年末、「こんな年で、良いお年をと言うべきかどうか迷うんだけれど」と、前置きをされつつ「良いお年を」と、色んな方にご挨拶をされました。

こんな年だったからこそ、心から「良いお年を」と思いました。

皆さんにとってこの1年が、無事な1年でありますように。
心の底からそう思います。

1年、休む間もなく走り続けてきましたが、やはり大事にすべきものは、自分自身であり、家族であり、私を支えてくれる身近な人達なのだと思います。

私を支えてくれている皆様、昨年はお世話になりました。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。



今年もなんとかおせちを作れました。


クリスマスイブはファシリテーター養成講座で仕事。おまけに娘が発熱しケーキ作りは断念。チキンだけ焼いてのクリスマスでしたが家族そろってのクリスマスもお正月も本当にありがたいことです。
Posted by 高橋聡美 at 01:08
友人の余命 [2011年11月27日(Sun)]
先月、東京出張に行った時のことです。
夜の時間が空き、ふと昔の同僚のことを思い出しメールをしてみました。
震災後、1回も連絡をしておらず、どうしてるかなと「ふと」気になったのです。

「なんでお前はいつも急に連絡をよこすんだ」と文句を言いながらも、私の晩酌に付き合ってくれることになりました。

新橋駅で待ち合わせをし、彼の姿をみて私はびっくりしました。ダイエットをして16キロ痩せたという話は聞いていたのですが、病気でもしたようにげっそりと痩せてしまっていたのです。
「どうしちゃったの?がんみたいな痩せかたしちゃって!」と私は開口一番に彼に言いました。
「がんだってさ!」と、歩きながら彼は言いました。
「何、言ってんの!?」彼の横顔を見ながら笑いながら私は言いました。
「本当さ。膵臓がんなんだ。」彼は笑いながら言いました。でも確かに、それはがんを患った人の横顔でした。

私が混乱している中、食事をしながら彼はこんな話をしました。

治療は一通り終わり。
医者は余命は言わない。
膵臓がんが予後は悪いことは看護師の自分はよくわかってる。
職場の人にはほとんど知らせてない。
長くてあと、半年かなと自分では思ってる。

この大事な友がこの世からいなくなるなんて、今の私には想像もつきません。
「あと半年もたない?そんなことないよ。あなたはきっと長生きすると私は思うよ。」
そう私が彼に言った言葉は彼の為ではなく、この現状を受け止められない私自身への言葉だったと思います。

彼の為に何ができるかなと思った時に、結局、何もできないわけですが、震災太りをしてしまった私に「おまえ、それ以上太ったら、一緒に飯、食ってやらないからな」と毒を吐き、「そんな、元デブに言われたくありません!」と毒を吐き返し、ケラケラと二人で大笑いをする。そういう時間が私たちには必要なようです。

散々、毒づいたあとで、「私、あなたのことが大好きなんだ」と言ってしまったら、後から後から涙が出てきました。

どんなに、星に願いをかけても、月に祈りを捧げても、神様にだだをこねるみたいにお願いしてみても、いつかお別れの日はやってくる。

余命なんてあってないようなもので、誰でも突然死ぬこともあるわけなので、大好きな人には「大好きだよ」と言い、喧嘩をしたらその日のうちに仲直りをし、毎日を悔いなく生きること。
「その日その日を生き切ること」を大事に、命に対して謙虚に生きて行きたい。そう思った友のがんの告白でした。
Posted by 高橋聡美 at 16:47
祖母の死 〜二人の遺児を育てた祖母の思い〜 [2011年10月28日(Fri)]
 先日、祖母が他界し鹿児島に帰省しました。3歳から18歳まで共に暮らした「ばあちゃん(と私は呼んでいた)」でしたので、「祖母」という存在以上の家族でした。私は、祖母の作る味噌汁も、からいも団子(さつまいも団子)もヨモギ餅も、あら煮も大好きでした。私にとって祖母の料理はおふくろの味であり、故郷の味です。彼女みたいな味は、どれだけ真似をしても絶対に作れません。

小学生だったある時、私は友人からいじめられ挙句に「あんたなんかとは絶交だ」と暴言を吐かれ、しょんぼりして自宅に帰って来たことがありました。祖母はそんな私の様子に気付き「聡美ちゃん、どうしたの?」と話を一生懸命、聞いてくれました。話を聞き終わるか終らないかのうちに、祖母は激怒し、「そんなことを聡美ちゃんに言うやつは、こっちから絶交してやれ!!」と言いました。
祖母は自分が守るべき人に対しては相手が何者であろうが、「うちの子はいい子だ」と言い切るような人でした。それは父が人様に迷惑をかけた時でも、私の弟が警察に補導された時でも一貫していました。
祖母の盲目的な家族への信頼は、お守りのようなものでした。自信を失くした時でも、自分を肯定できない時でも、ばあちゃんはいつでも私を肯定してくれました。その愛情があって今の私があります。

彼女は20代でいわゆる戦争未亡人になった人でした。戦後の貧困の中、女で一つで幼子2人を育てたのでした。その心細さや苦労は如何ばかりだったかと思います。

高校の時に祖母のことを作文に書いたことがあり、その時に「じいちゃんが戦死したって聞いたとき、ばあちゃん、どんな気持ちだったの?」と聞いたことがありました。「幽霊でもいいから逢いに来てほしい。もう一度逢いたいと思った」そうです。戦争で若くして夫を亡くすことはどれだけ理不尽だったことでしょう。
夫亡き後、祖母は嫁いで間もない面高家の家を守り、お墓を守り、幼い子ども二人を必死に育て生きてきました。7年前には最愛の息子(私の父)を見送りました。その時、祖母は息子の死を決して認めようとはしませんでした。何度も何度も「道治、目を覚ませ。目を開けんか。」と亡き骸に語り掛け、火葬の際、遺骨が出てくると「聡美さん、見んな、見んもんじゃなか。見んもんじゃなか!(見るな。見るものではない。見るものではない!)」と、半ば叫ぶように私に言いました。遺骨となった息子の姿を見ることは息子の死を認めることだったのかもしれません。彼女は結局、息子の死を否定し続けこの7年を生きてきました。

私はよく、私が遺児支援をしているのは戦争遺児であった父への弔いだというのですが、戦争で夫を亡くし、大変な貧困の中、子どもを育て生きてきた祖母への思いもまたこの活動のモチベイションでもあります。

若くして亡くなった夫の分まで長生きした祖母。
面ノブ 93歳。本当に見事な一生でした。

ばあちゃん、じいちゃんとお父さんに会えたね?
そっちで、待ってたでしょ?
66年ぶりにやっと3人一緒だね。
聡美が自信を失くした時に、「大丈夫だ」と言ってくれるばあちゃんはもうこの世にはいないけど、ちゃんと自分で自分に「大丈夫」と言ってこれからも生きていくからね。
東北の震災の遺族たちにはばあちゃんみたいな苦労はさせないとうに、聡美、がんばるから、ばあちゃん、見守っててね。
それから、ばあちゃん、今日はばあちゃんの94歳の誕生日だよ。
亡くなった後に、言うのも変だけど、誕生日おめでとう。
本当に見事な一生だった。ばあちゃん、ありがとう。




私が育った鹿児島の南西部。東シナ海は祖母と父の思いでの詰まった海。





Posted by 高橋聡美 at 22:35
クローズアップ現代出演 あとがき [2011年06月28日(Tue)]
昨日のクロ−ズアップ現代、無事の放映が終了しました。
NHK植松さん、国谷キャスター、戸田さん、スタッフのみなさまありがとうございました。

また、あしなが育英会の方には事前に色々とディスカッションをさせていただきました。大変勉強になったと同時に、今まであしなが育英会がこの国で行ってきたことの重要性を改めて感じました。

鹿児島の空のもと生まれ育った私が千年に1回の震災にこの仙台の街に居る意味を考えています。

私の父は戦争遺児でした。
ルソン島で祖父は幼い息子を遺して亡くなったのです。
私の父は大変聡明な人でしたが、貧困のため高校進学をあきらめ、中学を卒業してからすぐに働きました。
その父は8年前に亡くなりました。
彼は学こそなかったですが必死にその人生を生きました。

父は私が高校(加世田高校)に受かった時、それはそれは喜びました。
「自分が行きたかった高校に娘が受かった」と涙を流して喜びました。
そしてお気にいりの焼酎を飲んでだれやめ(晩酌)をしました。

父は加世田の海をこよなく愛していました。
私もまたそうです。

それと同じように三陸の人たちはその穏やかなリアス式の海を愛し、そこで生まれ育ちました。
その愛する海が津波となって家族を奪い、家を奪い、仕事を奪いました。

どうすれば愛する海を恨めるでしょう。
どうすれば愛する海と和解できるでしょう。

この度、クローズアップ現代に僭越ながら出演させていただきましたが、私は著名人でもオーソリティでもなく、ただただご遺族や遺児たちと共に過ごし共に涙を流している人間の一人です。

戦争遺児であった父が未来を諦めたように、この震災において遺児たちが進学をあきらめたりしないように、そんな社会の仕組みを作りたいと思っています。

子どもたちが自分の人生に希望を持てる社会をつくるのは、政治家ではなく、私たち国民一人一人なのだと思います。

そして子どもたちが自分らしく生きていけること、これが遺児支援の目指すところなのだと私は思っています。








Posted by 高橋聡美 at 21:59
無事の有難さ [2011年03月04日(Fri)]
「家族はユニット」と、彼の行く所、行く所、ついて生活してきた15年。主人は年間約平均で100日、私は年間60日程度出張で、交互に出張しては家事や子育てを連携プレー(綱渡り?)でこなしてきました。

そんな彼がこの4月から初めての単身赴任ということで、家族4人がそれぞれに色んな不安を抱えています。私自身、今までどれだけ彼に色んなことを頼って生きてきたか・・・ということを今回の単身赴任で気付かされました。

娘が何か難しいことを聞くと全部、「お父さんに訊いて?」と彼に任せてきましたし、娘たちも私が忙しいのを見ると、今日、学校で起きた小さな(しかし子どもにとってはとても大きな出来事)を目を輝かせて彼に話していました。私も彼が「おいしい」と言ってくれるのが嬉しくて毎日、食事を作るのが楽しみでした。

そんななんでもない毎日の1ピース、1ピースがとても大事な日常であったことを、今回の単身赴任のことで気付かされました。この機会を与えられなかったらきっと私は、日々の生活の有難さや自分がどれだけ夫を必要としているかということに気付かずに過ごしたことでしょう。

平凡な毎日を過ごすと、刺激がなくてつまらないなぁと感じたりするものですが、「無事」であることがいかに有難く、無事の日々がどれだけ幸せに満ちているかを、日常の中では忘れがちなのかもしれません。

15年前は他人だった夫がこうして私と本当の家族になってくれたことに感謝して、例え離れ離れでも、これから先もお互いの人生を応援できるパートナーでありたいなと思います。



娘たちのための雛祭り弁当

昨日は雛祭りでした。娘たちがここまで無事に成長したことに感謝。主人にお弁当を作ってあげることもできなくなるのか。。。と淋しく思いつつ。これからも家族のために心をこめてお料理したいです。
Posted by 高橋聡美 at 21:17
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