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復興への道 〜想いを紡ぐこと〜 [2011年09月06日(Tue)]
今日は高橋聡美の研究室に「走る貯金」で震災遺児たちを応援する市民団体の竹俣さん、TEDxTOHOKUの亀井さんらがお見えになりました。

マラソンを趣味にされている竹俣さんはこの震災で自分も何かできることがないか?と考えた末に「自分には走ることしかできない。走ることで何か復興支援できないか?」と考えたそうです。
そこで走ったら貯金をして、それを遺児支援のために募金としようと思いついたとのこと。しかし、僕らは普通の一般市民で組織力もないし、広報力もないと、やや途方に暮れた様子で私の研究室にお見えになりました。
「自分たちも何か助けになりたい」というその想い。その市民の想いがあってこその復興だと思います。
そんな想いに被災地の子ども達は育まれ、成長していくのでしょう。いえ、もっと言うなら、その想いなしで子どもたちは成長できないでしょう。

一方、TEDxTOHOKUは東北大学の学部生らが中心となって展開している活動です。Asking the 3.11 Generationというテーマで現在イベントを企画中とのこと。
 3.11 Generationとは、東北そして日本にいるひとりひとりが東日本大震災の当事者であることを意味するそうです。イベントを通して、3.11 Generation が今後の東北,そして日本の未来を担う人材として、何を目指すべきか、何を行うべきか問いかけたいと、私の研究室にお見えになりました。

仙台は100万を超える都市ですが大学・専門学校生の人口は8万人を超えます。TEDxの皆さんのような学生さんの力はこの町のエネルギーの象徴、そして若い人たちを暖かく見守り、育んでくださる竹俣さんら年配の方の力もまたコミュニティの底力です。

復興に何が必要かと考えた時、物やお金だけではなくて、こんな市民の想い想い、その一つ一つが大事な要素なのだと思いました。

色んな専門家や著名人が被災地のために色んな活動をして下さいます。
その一方で無名の市民達もまた復興のために熱い想いを抱きながら、自分たちのできることを懸命に行っています。

著名か無名かとか、あるいはかかったお金の額の大きさに関わらず、その想いの尊さに変わりはありません。

私たちはこの千年に1回の大震災にこの町に共に生き、そしてこの町の復興の為に、共に歩む仲間なのだと思います。

みんなの想いを一つ一つ紡ぎながら、東北の復興を応援していきたいなと強く感じた今日の出逢いでした。

竹俣さん、布田さん、亀井さん、吉田さん、今日はありがとうございました。






Posted by 高橋聡美 at 01:12
DNA鑑定 [2011年08月29日(Mon)]
あるご遺族の方からのお電話がありました。

「先日、DNA鑑定で私との親子関係が否定できない遺骨があると連絡があり、母と確認されました。」 

震災後、彼は1日も休むことなく母親を探し続け、そして8月になりようやく1人の身元不明の女性が彼の最愛の母親であることが「科学的に」証明されたのでした。

「みんな言うんです。『遺体が見つかってよかったね』って、『これで落ち着くね』って。何が良かったんでしょうか。遺骨が手元に届いて、母親の死が今、現実になったばかりで何が『オチツク』んでしょうか。」

「母は80を過ぎていたので、みんな言うんです。『長生きしたんだからいいじゃない』って。何歳でも亡くなった人はそれぞれに大事なんですけど。」

「遺骨の箱は小さいんですけど…。すごくずっしりと重いんですよ。重いんですよ…」

死亡が確認された時点で、死が現実のものとなり降ってきます。
見つかって一安心と思うのは周りだけで。

彼の深いグリーフはこれから始まります。




個人が特定されない範囲内でご本人の許可を得て掲載しました。
Posted by 高橋聡美 at 18:40
復興への朝顔 [2011年08月29日(Mon)]
先日、あるご遺族が私の研究室に朝顔の苗を持ってこられました。

とても大事そうに彼はその苗を私の前に出しこう言いました。

「毎日、沈んでばかりではいけないなって。植物でも育てたら気分転換になるかもしれないと思って、朝顔の種を植えて、その苗をお世話になった人や感謝したい人にお配りするようにしました」

朝顔の季節を終えようとしている8月下旬に朝顔の苗は少し遅い季節かもしれませんが、それはご遺族一人一人のグリーフの段階やプロセスが違うのと同じように、苗を植えたい時期も苗を誰かにあげたい時期も違うのだろうと思いました。

その苗の鉢に「復興への朝顔」というシールが貼ってありました。

朝顔の種を一粒一粒大切に植え、一つ一つに苗を大事に育て、大切な人に渡す彼の姿を想像しました。その気持ちやその行い一つ一つが彼の心の復興の道なのかなと思うのと同時に、彼の口から「復興」という言葉が出て来たことを嬉しく思いました。

0からのスタートどころか、マイナスからのスタートを切らなければならない被災地の人々が希望を見ることは困難かもしれませんが、この苗がいつか綺麗な花を咲かせた時に、「綺麗だな」と思える時間があるといいなと思います。

「私は先生に感謝を伝えたくてこの苗を今日はお持ちしました。いつかこの苗が花を咲かせ、種を付けたなら、先生も是非、感謝したい誰かにこの種をわけてあげてください。」

復興の輪が広がること。そしてこんな風に人と人とがつながって「復興」していくことが大事なのだと思います。

インフラや経済などの復興ばかりに目が行く被災地支援ですが、被災地の人々の心の復興なしに復興などありえません。

少し季節遅れの朝顔は一体どんな色をしているでしょうか。
そして、いくつ種が出来て、私は感謝したい人に苗をきちんとお届けすることができるでしょうか。

朝顔の花ことばは「明日もさわやかに」。
植物を育てることは私はあまり得意ではないですが、一人の人と接するように、この朝顔は大事に育てていきたいなと思います。






Posted by 高橋聡美 at 18:19
Cafe de Monk [2011年08月28日(Sun)]
津波のご遺族を集めたわかちあいの会を開催した後、私はどうしようもない無力感に襲われました。わかちあいの会は確かにご遺族にとって必要な場であり、私がやっていることは意義のあることだと思うのですが、彼らの苦悩や苦しみに対して私はなんと無力なのだろうと感じたのです。

 もしも私が宗教家だったら、もっとご遺族の心の支えになるような声かけができるのだろうかと、普段から交流のあった曹洞宗のご住職金田諦應師にお電話をして悩みを聞いて頂きました。

 金田師は意外なことを仰いました。
「聡美さん、我々宗教者だってこの震災では無力だよ。ご遺族達の幾重もの苦悩を目の前に何もできない。宗教って言うのは本当は世の中の人が苦しい時に役割を果たすべきものだと思うんだけど、今まで自分たちがいかに葬式坊主だったか思い知ったよ。」と。

彼らは始め、読経のボランティアをしていたそうですが、袈裟を着て「はい、お経をあげますよ。お経をあげて欲しい方いませんか?」と声をかけても誰も寄って来なかったそうです。

ある時、彼らは歌津町をはじめとする被災地で炊き出しを始めたそうです。炊き出しをし、住民の方々とコミュニケーションをとる中で被災地の方々の悩みに少しずつ触れることができるようになったと彼は言います。

5月に入り、金田師からお電話を頂戴しました。
「Café dé Monkという車で移動するカフェを始めたんだよ。一緒にやらない?」
「お坊さんがなんでCaféなの?」と訊ねると「『話を聞きますよ』と看板を掲げて行ってもなかなか人は話をしに来ない。でもおいしいケーキがあれば皆集まって来てその中で色んな話をしてくれる。今抱えている悩み事や誰かを亡くした悲しみとかね。」といいます。

 早速、私も南三陸町で開催されたCafé dé Monkのお手伝いに行ってきました。

「南三陸Café dé Monk」と書かれた看板は金田師の手作り。被災地の瓦礫の中から許可を得ていただいてきた木の板に金田師自らがペンキを塗り看板を作ったそうです。マスター役を務める金田師は「ガンディ・金田」というニックネームで作務衣姿で皆さんをお出迎えします。西本願寺やキリスト教の牧師さんまで様々な宗教家たちがその場を作ります。

 カフェに名付けた「Monk」は英語で「お坊さん」を意味しますが、日本語の「文句」と掛け合わせた名前だそうで、金田師は「Monkにあれこれ文句を言ってもらって少しでも気持ちを楽にしてほしい。」といいます。さらに、「聞いている私達も一緒に悶苦(もんく)するんだよ。」と笑いながら話して下さいました。

 会場に次々と人々が集まり始めました。震災2カ月の南三陸町はまだ水道もガスも電気も通っていないところが多く、皆さん温かいコーヒーやお抹茶を喜ばれました。まだケーキ屋も再開のめどが立たない中、色んな種類の並んだケーキの箱を目の前に子ども達も大人もみんな目を輝かせています。

 用意された5つのテーブルは沢山の人で埋まりました。各テーブルには一人ずつお坊さん達が付いて皆さんの話に耳を傾けます。

家が流された話。漁船が流された話。大切な人を亡くした話。逃げた高台から見た津波の恐ろしい風景も生々しく語られます。あの日はとても寒かったこと。心細かったこと・・・。
 
 一緒にお茶を飲みながら本当に沢山の話を皆さんして行かれました。中には「孫がもうすぐしたら帰って来るんだけど、もらっていってもいいですか?」という方や「家にじいさんがいるからじいさんの分も持っていっていいかい?」という方もいらっしゃいました。金田師らは会場に来られない方々の分のケーキもちゃんと用意しておられ、バスケットにケーキを入れてご自宅まで運びます。そして自宅にこもって出てこない方々の話をまたそこで聞くわけです。
中には「仏さんにお経をあげてもらえないか」という申し出もあったりするそうです。

 Café dé Monkの支援の在り方は「支援する人」と「支援される人」という構図ではなく、共に苦悶するという金田師のお言葉の通り、「一緒にいる」というものです。

 当時の被災地ではお祭りのような支援が繰り返されていました。有名な芸能人が炊き出しをしたり、普段の生活でも食べられないような高級料理が振舞われたり。しかし、Café dé Monkが提供した「コーヒーを飲んだり、ケーキを食べたり」というのは私達が日常の生活の中で月に1回か数カ月に1回、楽しむ「普段の贅沢」だったのだと思います。

 震災で忘れかけていた普段のちょっとした楽しみを少し取り戻したようなそんなひと時だったように思います。



南三陸町細浦地区。和の中に入り話を聞く金田師






Posted by 高橋聡美 at 12:07
Bangkokにて [2011年08月17日(Wed)]
1週間バンコクで夏休みを過ごしました。

タイに在住されている方々やタイの観光省の方々が被災した子供たちをタイに招待したいということで、遺児や被災した子どもや学生たちを誘ってのタイ旅行でした。

被災地の方をお誘いしてタイに行くに当たっては、「旅行するにもカバンがない」、「パスポートが流された」、「パスポートを申請しにいくにも被災地から仙台まで足がない」などなど沢山の困難があり、この夏の旅はあきらめて次回に見送ったケースもありました。

特に親を亡くした子どもたちは、残された保護者が生活再建で一生懸命になっている時期でもあり、さらに夏休みはお盆ということで、マネジメントが非常に厳しい状況にありました。
また、家を流された学生でも、親御さんが「もうこれ以上誰も失いたくないから、そばから離れないでほしい」という希望もあり、実現しなかったケースもありました。
被災した方々の状況は支援したいと思う方々との思いと、時にギャップがあるもので、被災した方々の現状はいまだ厳しく、そして心の傷も他人が想像するより深いものです。

私自身、タイは初めて訪れる国でした。
1週間、実際滞在してみて、まずわかったことは「タイの人々が日本のことを心から気にかけてくれ、応援してくださっている」ということでした。

今回の旅は被災地の人たちを支援したいというタイに住んでいる多くの日本人の方々のボランティアによって企画されました。

水上マーケットに連れて行っていただいたり、バナナ園に招待してくださったり、タイ料理をごちそうしていただいたり、マッサージに招待してくださったり、本当に沢山の企画をしていただきました。
ある方は、歌でみんなを癒したいと、私たちの滞在ホテルで素敵な歌声を披露してくれました。
今日は、「放射能保護の効果がある漢方茶」を、ある日本人の方が届けに来てくれました。

本当に、見も知らない私たちにみなさんとても親切にそして心からの心配とお見舞いと、沢山のお心を頂戴しました。
ありがとうございました。

私たちは、一人じゃないということを感じました
そして海を越えた遠い国でも、日本のことを心配したり、私たち被災地の人を心から気にかけてくれている方々が本当にたくさんいるということも感じました。

私から皆さんに恩返しができることがあるとするならば、被災地の状況をみなさんにお伝えすること、逆にタイのみなさんがどれだけ日本のことを気にかけているかを日本の方々にお伝えすることだと思いました。

日本にいると「がんばろう日本」が時に虚しく聞こえることがあるのですが、このタイにいて「僕らにできることは何か?」を考え、募金してくださったり、支援物資を送ってくださったりしてくださる人がいることは励みになりました。

それから、バンコクの街の中も人々は活気に満ちていますが、田舎のほうで決して裕福ではない暮らしをしている方々の一生懸命に働き、一生懸命に生きるお姿を拝見して、勇気を頂きました。

人の営みは、食べる糧を得て、子どもを育てるというとても単純なものなのだと思います。
生きていけるだけの収入あるいは食べ物と家があれば人は生きていけるはずなのに、なぜあんなにも裕福な国:日本で自殺が多いのかと、疑問に思いました。
タイの人々は貧しいながらも生きるために生きています。

そして、その日々の生活のお金の中から日本へ募金を送ってくださっています。

ある町では90万円募金が集まったそうです。
物価や人々の年収を考えると一億円くらいにも相当すると現地の方はおっしゃっていました。

明らかに私たちは裕福な暮らしをしていますが、なにか決定的にタイの国のみなさんの生き方のほうが豊かなような感じがしました。

人を大切にする心でしょうか
自分と人を大事に思う心でしょうか
生きることに一生懸命になれることでしょうか

今、バンコクにいてその答えは見つかりません。
日本に帰ってその答えをゆっくりと見つけたいと思います。

タイは微笑みの国だと言います。
沢山のタイの方々の微笑みで311から走り続けた5か月が随分と癒されたことは間違いないです。
余震のない1週間も、「がんばれ」の文字のない街並みも、何にも代えがたく解放感でした。

企画をしてくださった入矢さん、お出迎えから通訳までしてくださったイズミくん、ドライバーのPaiboonさん、水上マーケットをご案内くださった佐々木さんご一家(まりさちゃん!)、Asian Herb Associationのスタッフの皆様、歌をご披露くださった盛田さん、タイ料理をごちそうくださったパーソナルコンサルティングの小田原さん、ワクワクタイランドの柳井先生、バムルンラード病院をご案内くださった後藤さん他スタッフの皆様、佐野さんをはじめボランティアの皆様、バナナ園にご招待くださったOTNTO.Coの真崎さん、地元農協の沢山の皆様、放射線防のお茶をくださった山崎さん、お届けくださったJCHANNEL24の松島さん、みなさま ありがとうございました!!
また、藤丸さんをはじめセンターポイントの皆様、滞在中、すべてのスタッフがすばらしいおもてなしをしてくださいました。涙がでるくらい毎日、毎日私たちに暖かい眼差しを皆様がくださいました。あと30分でこのホテルをチェックアウトかと思うと、センターポイントのトゥクトゥクも、ゆったりしたレストランも快適なお部屋もすべてが名残惜しいです。こころよりありがとうございました。

ขอบคุณ มาก ค่ะ (ありがとうございました)
Posted by 高橋聡美 at 23:13
「心に寄り添うコミュニティ」シンポジムのお知らせ [2011年08月05日(Fri)]
8月6日 仙台市内で「心に寄り添うコミュニティ」と題したシンポジウムが開催されます。
基調講演で震災後のメンタルヘルスについてお話をする予定です。

日時:8月6日(土)13:30〜開会
場所:仙台弁護士会館

13:40〜
第一部 基調講演
1.震災後のメンタルヘルス 〜いままでとこれから〜
講演者 高橋聡美(仙台青葉学院短期大学講師)

2.阪神・淡路から学ぶ人とのつながり
講演者 金田真須美(すたあと長田)

16:10〜17:30
第二部 パネルディスカッション
「支えを必要とする人たち 〜子ども、高齢者、労働者、被災遺族〜」
パネリスト(50音順)
粟田主一(東京都健康長寿医療センター研究所部長)
清水康之(NPO法人ライフリンク代表)
高橋聡美(仙台青葉学院短期大学講師)
土井浩之(仙台弁護士会)
コーディネーター
金田真須美(すたあと長田)


Posted by 高橋聡美 at 00:00
仙台空港 [2011年07月27日(Wed)]
震災後初めて飛行機に搭乗しました。

数日前、仙台空港は2階出発ロビーが復活し、定期便が少しずつもとに戻ってきました。

3月11日、空港の駐車場の車はすべて流されました。空港は1階が全て冠水しました。空港はその全て機能を失い、報道機関のヘリコプターでさえ1機を残し全て流失しました。

3月11日14時46分、2分以上の揺れに耐えながら、それでもなおこの地震が大震災である実感が湧かなかった私に、「この震災が未曾有の大震災である」と思い知らせたのは「仙台空港冠水」を知らせるカーラジオの速報でした。
それまではいくらカーラジオが「名取川が逆流しています」と言ってもそれが何を意味するのかわかりませんでしたし、「仙台港に津波10メートルの予報です」とアナウンサーが言った時でさえ、「嘘でしょう」と信じられませんでした。実際、その速報を伝えるアナウンサーもまた、「仙台港で10メートルですか?10メートルなんですね?」と半信半疑でした。

九州・四国出身の私たち夫婦にとり仙台空港は人生の一大事があるごとに私たち家族が利用した最も大事な場所の一つでした。

もちろん、SENDAI airportは仙台にとって東北にとってとても大事な意味を持つ場所でもあり、そこが「冠水」することはすなわち仙台という町の「落城」を私にイメージさせました。

自然の猛威という言葉さえも陳腐に聞こえる程の脅威に居合わせた人々はなすすべなく、ただただ冠水していく仙台空港の上へ上へと逃れるしかなかったと言います。

地震当日、空港に居合わせた人々は2階に集まり一晩を過ごしたそうです。
その日、空港に車を置き旅行に出かけていた友人たちは皆、愛車を失いました。命があったからまだよかったとはいうものの、大破した車を見るにつけ胸の引き裂かれる思いがしますし、背筋の凍る思いもします。

震災後、初めて搭乗した飛行機。
枯れた松林を遠目に見ながら滑走路を走り出しました。

仙台空港の惨状に仙台空港に関わる人々がどれだけ愕然としたでしょう。
空港管制塔さえも1階レーダー室は土砂と流木が押し寄せしばらく復旧のめどが立ちませんでした。
どれだけの人がこの滑走路をきれいにするために力を下さったでしょう。

飛行機が宙に浮き、仙台空港の全容が上空から見えた時、心から思いました。
「復興、おめでとう。たくさんの人たち、ありがとう」

それからさらに機体は上空へ上昇し、海岸線が眼下に広がりました。
この果てしない海岸線、南北500キロメートルにわたり沢山の命が流されていったことを思いました。
その数20000人超。

亡くなった人たちのことに思いを馳せていた時に、今日が弟の誕生日であったことを思い出しました。(彼は広島に住み、元気に暮らしています)

彼が私の弟としてこの世に生まれ、彼と一緒に過ごした幼いころのことを思いました。
私たち姉弟の思い出は故郷の海と共にありました。

飛行機の下に広がるこの海は沢山の人の命を奪ったけれど、沢山の命を育み、沢山の思い出がちりばめられた宝石箱なのだと思うと、悲しさとも切なさとも説明のつかない気持ちがぐっと私の胸の中に溢れました。



弟よ

姉は今、仙台の上空にいて、沢山の命の痕跡を眺め
涙を湛えながら君の誕生日を思う。

数えきれないほどの命がこの海に消えたけれど
42年前の今日、君がこの世に産声を上げ生まれてきたように
それでもなおここでもまた沢山の命が生を享ける。

子どもの頃に君と泳いだ東シナ海の海を恋しく思いながら
姉は太平洋の悲劇と向き合っている。






Posted by 高橋聡美 at 01:25
被災地のママたち [2011年07月24日(Sun)]
先日、仙台市若林区のある小学校の保護者の方々とお話をする機会がありました。
自らも地震当日、恐怖の体験をし今でもまだその時のことを思い出すと不安で仕方がないといいます。
 その一方で子どもたちは赤ちゃん返りをしたり、普段よりテンションが高かったり、グロテスクな話をしたり、少し暴力的になったりという変化が見られ、お母さん方は「どんな風に子どもと接していいのかわからない」という悩みも抱えていました。
 これらの変化はストレスにさらされた後は起こり得る正常な反応で、子ども達の不安の表れだと理解してください。しかし、見ている方は不安になります。これもまた当然のことだと思います。このような子ども達の反応は一過性のもので自然とおさまってきますので「異常」ととらえず、普段と同じように接してもらえれば大丈夫です。
 ただ、自分や他人を傷つける行為については止める必要があります。「傷つける行為」は体と心どちらも含まれます。自分や他人を傷つける行為は単なる「問題行動」あるいは「非行」ではなく、「不安の表現」の一つです。これらの行為を止めさせた場合、不安が他の形で表出される可能性もありますので、できるだけ子どもの話に耳を傾け、子どもたちが何を感じているのかありのままの感情を受け止めてあげるようにしてください。
子どもたちに不安があって当然です、泣きたい時があって当然です、怒りたい気持ちもまた彼らが抱いても当然です。ありとあらゆる感情が子ども達の今の気持ちなのです。
 
 お母さんたちもお母さんたちなりの不安があります。

あるお母さんは「子どもたちを支えないといけないのに自分がまだまだ不安で情けない」というようなことをおっしゃっていました。

お母さんたちの不安もまた当然で子どもたちの前で毅然とふるまう必要はありません。また、「ママも地震、怖いよ」と自身の感情を子どもに伝えることは悪いことではありません。むしろ自分自身の不安を自覚できるということはセルフケアにおいて大事なことです。

 また、保護者に中には「子どもが地震以来子どもが赤ちゃん返りをしてまとわりついてきて困る」という方もいらっしゃいます。
確かにべたべたされるのが苦手という方もいると思います。
子どもの赤ちゃん返りは一時的なもので時期に収まるもので、震災後4か月過ぎた現在で「さらに悪化している」というケースは今のところ私は聞いていません。

 我が家の娘たちもまた一人で寝られずに、震災後2か月は私と3人で同じベッドで寝ていました。3か月過ぎても彼女たちは一人で寝ることができず、自分たちのベッドでは寝ず、姉妹で手をつないで和室に布団を並べて寝ていました。夏休みになり、彼女たちはようやく一人で寝られるようになりました。

かくいう私は完璧な母親かというと決してそうではありません。
仕事が忙しく、申しわけないことに子どもたちにかまってあげられる時間が少ないのですが、完璧な母親などいないと割り切り、家事など手を抜けるところは抜いています。片付けの苦手なこともあり、先日、ついに我が家にお掃除ロボットもやってきました。

 しかしそんな私でも手を抜かない家事が一つだけあります。それは料理です。子ども達の健康を守る食べ物だけは・・・と自分でこれだけはちゃんとやろうと決めています。

 人それぞれ得意不得意があります。お母さん、お母さんで「これだけは!」ということを決めてあとは「できなくても仕方がない」と少し肩の力を抜くことも大事です。
「私は子どもと手芸をすることを大事にしよう」
「私は子どもと遊ぶ時間を大事にしたい」
「宿題は毎日みてあげよう」などなどお母さんそれぞれで大事にするものが違っていいのだと思います。

 それから、子どもたちが「ママ、あのね?」と口にした時は、子どもの気持ちを聞けるチャンスだと思って「何?」と聞いてあげてください。子どもの「あのね」をキャッチすることは子どもの気持ちを理解するための入り口です。
 
 我が家の愛娘たちは小学校6年生と4年生で思春期真っ盛りですが、そんな難しい年代でも彼女たちは、沢山の「あのね」を私にくれます。

 あと何年、彼女たちは私に「ママ、あのね」と自分たちの気持ちを話してくれるでしょう。
それは多分、そんなに長い間ではなく彼女たちが「あのね」と言ってくれる今は母として幸せな時期なのだと思います。

 この震災で小さなお子さんを亡くし、いまだ遺体が見つからない知人がこんなことを私に話してくれました。「自分が疲れている時に子どもがまとわりついて来て『かんべんしてよ・・・』と子どもが生きていた時は思っていたけど、今、あの子が私の目の前に現れてくれたなら、どんな疲れでも吹っ飛んでしまうだろう」

あともう1回だけでいい、わが子をこの腕に抱きしめたい。そんな願いも叶わないママたちがこの被災地には沢山います。

全てのママたちへ。
どうぞ、毎日沢山のハグを子ども達にあげてください。

日々の小さな幸せは多分、かけがえのない幸せで、毎日ママたちを困らせる子どもたちは、間違いなく私たちの天使なのです。







Posted by 高橋聡美 at 15:53
遺児支援に必要なこと〜総合支援〜 [2011年07月03日(Sun)]
震災における子どもの支援と言った時に、両親を亡くした孤児の支援はあっても片親を亡くした遺児の支援がすっぽりとアクションプランから抜け落ちていることが色んな震災会議で見受けられます。

また、現在、実際に行われている遺児支援は従来の母子家庭などに行われてきた支援しか活用できないという現状があります。
これでは、この震災に特有な遺児の抱える問題には対処できないと私は考えています。

遺児に必要な支援としては、メンタルケア・経済的支援・教育の支援・社会的支援があります。

<メンタルケア 〜グリーフケア〜>
我が国の遺児のグリーフケアはあしなが育英会などの民間団体によって行われてきました。USAなどでは500箇所の遺児のプログラムを有し、北欧でも教会を中心としたグリーフケアが系統だって行われていますが、わが国では数える程度しかなく、遺児の心のケアはいわばほとんど手つかずであったといっても過言ではありません。戦後最大数の遺児の数というこの事態に及んでは、遺児の心のケアは国や自治体がその責任において行うべきだと私は考えています。
しかし、自治体が遺児の心のケアを行うにあたっては何らかの法的枠組みが必要です。
復興基本法の「復興」の中に何が含まれるのか、その全文を読む限りでは明らかではありませんが、経済やインフラの復興だけでは社会は復興せず、人の心の復興あっての復興なのだと私は思います。
復興の名のもとで誰かが取り残されることのないように、遺族・遺児の支援もきちんと法律の枠の中で取り組んでいくことが必要ではないでしょうか。


<経済的支援>
現在、様々な一時金や給付金が遺児達に対して支払われていますが、遺児たちに必要なのは長期的な養育費と教育費です。特に、今回の震災では遺された親御さんが仕事を失っているケースが多くみられるため経済的支援は必須です。例えば、保護者に仕事を優先的に斡旋するというのも大事な支援であると思います。
併せて次に述べるの教育のサポートは遺児を抱える家庭への経済支援の中に必須だと思っています。

<教育のサポート>
親、特に父親が亡くなったことに伴い進学に支障が出るというのはわが国の遺児が抱える最大の問題の一つだと私は思っています。例えば、スウェーデンなどは教育費がただなので、親が亡くなっても遺児が進学をあきらめるということはまずありません。
わが国では日本学生機構やあしなが育英会などが奨学金を遺児たちに貸与し、進学をサポートしていますが、これも全ての遺児たちに与えられるものではなく、またその条件も限られています。また、多くの奨学金は将来返済に義務があり、結果的に遺児たちの負担となります。
全ての遺児たちが、自分達の進みたい道に進めるようにするには奨学金という制度ではなく、授業料の減免というシステムがよいと思います。
これは、本来は国をあげて行って欲しい支援の一つではありますが、スウェーデンが東京都よりも人口の少ない国であるとことを考えると、自治体レベルで取り組めることなのだと私は考えています。
親を失った子ども達が未来の希望まで失うことのない社会にできればと思います。

<社会的支援>
今回の震災では家を流されたり、保護者が仕事をなくして収入がないといった、「親を亡くした」ということに加えて遺児たちには非常に過酷な現状があります。遺児を抱える保護者達は行方不明者の失踪宣告、津波の後の土地の境界画定、未払いの賃金、公務災害・債務問題、生命保険などの不払い、税や保険料の減免・猶予・期限延長、などなど通常の生活の中でも対処しきれない問題を、避難所生活の中で抱えていらっしゃいます。この面倒な手続きは、1つの窓口で解決せず、ご遺族の方々は手続きに追われ、これだけで疲弊しているのが現状です。
これらのことを弁護士や司法書士といった専門家がサポートすることによって、保護者に余裕が生まれ、ひいては遺児たちのサポートにつながると私は考えています。
しかし、専門家に仕事を頼むにはお金が必要となります。
遺児家庭を含む被災者が、専門家により手続きがスムーズに済むようなサポート体制が必要だと思います。

<ソーシャルネットワーク>
これらの経済・メンタル・社会・教育の支援は単独で行われるものではなく連携してこそその力が発揮できます。例えばメンタルの相談の中で法律的な問題に遭遇したら弁護士や司法書士に繋ぐ、あるいは遺児たちが不登校になったら不登校に詳しいNPOにつなぐなどのソーシャルネットワークが必要でしょう。
この震災で多くの人が喪失体験をしましたが、誰ひとりとして「同じ喪失体験」をした人はいません。
画一的な支援を提供するのではなく、一人一人のケースを丁寧にケーススタディして個別の対応が必要でしょう。









Posted by 高橋聡美 at 01:52
忘れたくない記憶。311のこと。 [2011年07月03日(Sun)]
家を津波で流された学生さんの話です。

この学生さんは震災直後は時々泣くことはあっても意外とサバサバとしていて、とても落ち着いていました。
しかし、震災3カ月過ぎてから彼女は自身がいかに沢山の物を失ったのかということを実感するにつけ、色々と考え涙が出るようになったと言います。

「実感する時」。それはとても些細なことでした。

例えば、流された家のキッチン破片を見て、「ああ、このキッチンでお菓子を作るのが私は大好きだったな」と思うと悲しくなったり。
例えば、住んでいた町行きのバスを見て、「ああ、もう私には帰る家がないんだ」と涙がにじんだり。

彼女の家はオレンジ色の素敵な外壁で、写真を見るだけで「きっと、このおうちが大好きだったんだろうな」と思える佇まいでした。
その大好きなおうちは土台だけを残し、跡形もなく消えていたのでした。
被災数日後、数キロ離れた所で彼女は自宅の2階部分を見つけたそうです。
「先生、普通、津波で流された時計って、その時間で止まってるじゃないですか。でも、家の2階部分にあった柱時計は全然ダメージをうけていなくて、家は流されているのに時計だけはちゃんと動いていたんですよ。私の時間はあの時で止まってるのに・・・。時計だけは動いてるんですよ・・・」そう言って彼女は少し悲しそうな顔をしました。

被災地の様子もまた同じです。確実に時間が流れ、同じ仙台市内でも一部の地域は確実に復興し時間が流れ、一部の地域は今なお避難所生活で時間が止まったままで。

それから、彼女は書店で買ったと言う震災の写真集を私に見せてくれました。
水の引かない瓦礫の中をケージに入れた飼い猫を抱え、避難する彼女の姿がそこにはありました。
「あの時、家から猫を連れてこなかったら、私すごく後悔していたと思う」と、彼女は涙を流しました。

一つ一つ思いだすにつれ、ぞっとする出来事だと思いました。
もしも猫を連れて来ていなかったらという恐ろしさ。よくぞあの寒さと暗さの中、小学校の体育館で過ごしたなという恐ろしさ。水浸しの中、赤いマフラーを首に巻いて猫を連れて歩いた心細さ。

そんなことを思いながら「写真を見てあの時の事を思い出して辛くなったりはしないの?」と私は彼女に尋ねました。すると彼女はこんな言葉を口にしました。
「忘れたくないんですよね」
「忘れたくない?何を?」
「あの日のことを。3月11日のことを覚えていたいんです」

誰もが311のことなど悪夢の様で忘れたいと思っていると私は思っていただけに、彼女のその言葉はとても意外でした。

何度も彼女の言葉を反芻しました。
3月11日のことを忘れたくない。忘れたくない・・・。

「そうだね、そのことも含めてあなた自身だものね。その出来事なしであなたはないんだものね。」

そのグリーフ(喪失)と共に生きて行く覚悟を彼女はしたのだなと思いました。
その喪失の大きさを思うと、一緒にいる私が胸が張り裂けそうな気持ちでいるのに、彼女はなんと逞しいのだろうと、泣けてきました。
「あなたは強くなったね」

被災した人達のレジリエンスを信じて・・・と、私はいつも言っているのに、復興の名のもとに取り残されるのは私の方かもしれません。

人は私が思っているよりも逞しい。
そしてこの国はもっと住みやすい国になる余地がある。


震災前のご自宅。どれだけこの家が大好きだっただろうと思う



津波に流され数キロ先で発見された2階部分。
震災後も柱時計だけが時を刻んでいた





Posted by 高橋聡美 at 00:07